むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

24、姥寝酒  ③

2021年11月08日 08時44分24秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・811号室は、あるじがいないのに灯がつき、
人々の出入りがあわただしい。

「息子はんや娘さんが811号室に、
代わりばんこに寝泊まりしてはります」

「普段は行き来しなくても、さすがに、こういう時は・・・」

上杉夫人は感じ入ってみせるが、
普段、寄りつきもしない連中ゆえ、
ハイエナのように残されるはずの資産目当てなのだろう、
と私は思った。

ケチなせいか、
ほとんど灯のつかなかった811号室には、
毎夜、あかりがともされ、
近くの「にぎわい寿司」の出前の空の寿司桶がドアの外に積まれ、
酒屋の「吉川商店」がビールやウィスキーを届けている。

狼婆の部屋に入り込んだ連中は、
マンションの住人と会っても素知らぬ顔であった。

管理人がこっそり、私と上杉夫人に言う。

「あこの、吉田はんの息子はんが聞かはりますのや。
この辺のお寺で、見習いの坊ンさんおらへんか、て。
インターンの坊ンさんでっしゃろか」

「お医者さんのインターン、というのは聞きますけど、
お坊さんのインターン、て?」

「はあ、お婆ちゃんが、亡くならはったら、葬式せんならん。
葬儀社はそれなりに高うつく、
お骨にして墓に入れたらええことやから、
インターンの小僧にちょっとお経あげてもろたら、
安うあがってええ、と」

「まあ、息子さんがそんなことをおっしゃいますの?」

管理人の言葉では、
吉田夫人の容態はここ数日が山場らしい。
昨夜は811号室、終夜音楽が鳴り、笑い声が絶えない。

狼婆の息子の言い分は、
平生の私自身の持論にものっとっており、
総論としては賛成であるが、
もし、ウチの息子がそう言ったとすれば、
私は死んでいても腹立つであろう。

あのスーパーでの狼婆の毒舌を思い出しても腹が立つ。
「お婆ん」とはなんだ!

腹が立つあまり、私は「お婆ん」というコトバに、
過剰反応するようになった。


~~~


・秋雨が降り続く日であった。
私は書道展を観にデパートへ行った帰り、
梅田から阪急電車に乗った。

八十才になった私は、
まだ足元もしっかりしているつもりでいるものの、
足取りは慎重に出来るだけ空いた普通電車を利用する。

その日は、目の前に仕立てられた急行電車が入ってきた。
後ろから、

「トロトロすんな、お婆ン!」

見るとニキビづらの中学生である。
声変わりの「お婆ン!」はいかにも憎々しくひびいた。

私はどうやってチメチメしてやろうかと、
席に坐って悪ガキを横目でうかがうと、
奴は席を求めて歩いている。
税金も払わぬヒヨコが電車で坐ろうなんてあつかましい。

間抜けづらに強欲そうな口元、
さぞ親も、奴そっくりのつらなのであろう。

足元を見ると、奴め、スニーカーの下に、
傘を入れるビニール袋を踏んでいる。

誰かが床に落としたのであろう。
その一端は、私の足元にある。

私は靴にふれるような仕草でうつむき、
ビニール袋の一端を強く引っぱった。

床がぬれているから、ビニールはすべる。
はずみ、というのは恐ろしい。

どでん、と悪ガキはぬれた床へ鼻先から倒れこんだ。
とたんに、向かいの席に一列に並んで座っていた、
女子高生たちが「きゃわっ!」「ぐぎゃーっ」
と笑い出して収拾つかぬ騒ぎになった。

同じような年ごろの女の子に笑われることは、
悪ガキにとって、死ぬほどの辛さであろう。

奴は、先の車両へ走りこもうとしたが、
あわてたものだから、つんのめって、また転倒。

もう、車内は女の子の笑いでいっぱいになる。
私は素知らぬ顔で、隣の中年婦人とうなずきあい、
「あぶないこと!」と言ったのであった。

「お婆ン」と呼ぶのは中学生ばかりではない。
いい年したお爺ンでもそう呼ぶのである。


~~~


・秋の長雨続き、私はスーパーへ買い物に出かけた。
私は往きはたいていゆっくり歩く。
帰りは車を呼んで荷物と一緒に帰る。

雨だからといって買い物を控えるようでは、
一人暮らしは出来ない。

私は、ローズ色のニットパンツ。
同色のシルクウールの上衣(ジャンフランコ・フェレ)のもの、
その上に薄手の白いレインコートを着た。

足元は、ワイン色のブーツ。
これは雨用の合成皮革。

それに同じワイン色のレインハット。
雨傘は賑やかなケンゾーの花柄のもの。

おそろいの花柄のバッグを肩から斜めにかけ、
頬にあたる雨は冷たいが、今は葉も落ちているが、両側は桜並木、
まさにそういう時、おしゃれ者の私をつかまえて、
向こうから来た、六十四、五のおっさんが、
「お婆ン、お婆ン!」と呼んだのである。






          


(次回へ)

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