・廊下を人が走って行く。
私はドアを開けぬまま、のぞき窓に目をあてていた。
エレベーター付近に人が固まり、やかましい声、
それらがエレベーターと共に下りていった。
私はドアを開けた。
隣の上杉夫人が廊下に立っていた。
この人は定年退職したご主人と二人暮らし。
遠い身内より近くの他人、ということで、
上杉さんご夫婦とは親しくさせてもらっている。
夫人は私を見るなり、
「811号室の吉田さんが倒れられたそうですわ」
吉田さんは一人暮らしであるから、私も他人事とは思えない。
そこへ、管理人がエレベーターで昇ってきた。
廊下にいるのは私たち二人。
「どんな具合ですの」
「軽い脳溢血のようですなあ。
半身しびれたので、急いで連絡しはったらしおます」
「まあ、よかったこと。電話ができて」
「いやあ、もう、一人暮らしのお年寄りいうのが、
いちばん気ぃつかいます」
管理人は六十くらいのわりによく気のつく人である。
私はいつも、管理人室の前を通るとき、必ず声をかけ、
「行ってきます」などと挨拶し、元気な姿を見せることにしている。
「山本さんは、お一人暮らしでも、外出帰宅、
きちんと連絡してくれはるので助かります。
ところが、吉田さんはこっそり出かけはりますのや。
人とモノ言いとうない、ということで。
そんなんで、かいもく、様子が知れまへんねん」
「ははあ」
「さっき、お身内に連絡しましたけど、息子さん言いはるには」
「おや、息子さんがおありなんですか」
「へえ、息子さん三人、娘さんが一人、みな阪神間にいやはります」
「まあ、そんなにたくさん!」私は驚いた。
「それで、私が電話しましたら、
四軒とも『明日か明後日、行く』という返事。
冷淡、いや、のんびりした返事で・・・」
「ふうん」
私は吉田夫人のことを誰かにしゃべりたくてならなかった。
~~~
・彼女の姿は、何ともひどい身なり、
お金持ちの未亡人だといううわさだが、
くたびれたセーターに、しわだらけのスカート、
汚れたサンダル、いつも仏頂面で誰とも挨拶しない。
人それぞれの性向、と思いながら、
私は内心(けったいなおばはんや)と思っていた。
やたら、向かう人に敵愾心を持つところは、
まるで狼に育てられた狼少女がそのまま狼老婆になったよう。
私は、この狼老婆に、最近、ひどい目にあっている。
この辺で有名な高級スーパーへ行ったときのこと。
どうしたことか、レジにはたくさんの客が行列することに。
私も、かなり長いこと待っていた。
私のすぐ前を人が通り抜けたので、空いた。
その一瞬のスキに入りこんで来たのが、
あの狼老婆ではないか。
「ここ、行列してますのよ」
と、私は、狼老婆・吉田夫人の背に向かって言った。
狼老婆は知らん顔。
ざんばらの白髪まじりの毛がたれ、
六十代後半~七十代くらいの見栄もおしゃれも放てきした、
すさまじい恰好である。
私の背後に並んだ人々の間から、
狼老婆の侵入を許した私に対するブーイングがわき起こる。
私は再び注意を促した。彼女はジロリと私を見、
「何やねん!お婆ンのくせに、派手な格好で。
顔のシワと相談しなはれ。化粧する柄か、ふんっ!」
とぬかすではないか。ずっこけてしまった、私。
意地悪と無教養と悪マジが一緒になって相乗効果をもたらすと、
スカンクの最後っ屁のような、強烈なショックを与えるものだ。
しかし、私一人がその被害に遭ったわけではないらしく、
救急車で運ばれてから、マンション中、吉田夫人のウワサが飛び交った。
四階の三枝夫人、実家の寝たきり老母のために、
市のヘルパーさんをたのむ。
そのヘルパーさんは、吉田夫人がぎっくり腰で動けなくなったとき、
行ってえらい目にあった、というのである。
買い物に行けば、品とレシートをきっちりつき合わせ、
一円の端金まで調べ、料理したあとは、米、砂糖、メリケン粉、
のたぐいまで、容器に線で印をつけ、減った分を計り、
ヘルパーさんが帰るときは、持ち物に目を光らせる。
「もう、それはケチで頑固で憎ていなお婆さんなんで、
みんな手を焼いていたんですって。
このマンションの811号室の婆さんは、
『歩く酸性雨』なんて、アダナをつけられたそうですわよ」
三枝夫人は話す。
その「歩く酸性雨」はキトク状態というニュースが伝えられた。
(次回へ)