むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

24、姥寝酒  ②

2021年11月07日 13時08分30秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・廊下を人が走って行く。
私はドアを開けぬまま、のぞき窓に目をあてていた。

エレベーター付近に人が固まり、やかましい声、
それらがエレベーターと共に下りていった。

私はドアを開けた。
隣の上杉夫人が廊下に立っていた。
この人は定年退職したご主人と二人暮らし。

遠い身内より近くの他人、ということで、
上杉さんご夫婦とは親しくさせてもらっている。

夫人は私を見るなり、

「811号室の吉田さんが倒れられたそうですわ」

吉田さんは一人暮らしであるから、私も他人事とは思えない。
そこへ、管理人がエレベーターで昇ってきた。
廊下にいるのは私たち二人。

「どんな具合ですの」

「軽い脳溢血のようですなあ。
半身しびれたので、急いで連絡しはったらしおます」

「まあ、よかったこと。電話ができて」

「いやあ、もう、一人暮らしのお年寄りいうのが、
いちばん気ぃつかいます」

管理人は六十くらいのわりによく気のつく人である。

私はいつも、管理人室の前を通るとき、必ず声をかけ、
「行ってきます」などと挨拶し、元気な姿を見せることにしている。

「山本さんは、お一人暮らしでも、外出帰宅、
きちんと連絡してくれはるので助かります。
ところが、吉田さんはこっそり出かけはりますのや。
人とモノ言いとうない、ということで。
そんなんで、かいもく、様子が知れまへんねん」

「ははあ」

「さっき、お身内に連絡しましたけど、息子さん言いはるには」

「おや、息子さんがおありなんですか」

「へえ、息子さん三人、娘さんが一人、みな阪神間にいやはります」

「まあ、そんなにたくさん!」私は驚いた。

「それで、私が電話しましたら、
四軒とも『明日か明後日、行く』という返事。
冷淡、いや、のんびりした返事で・・・」

「ふうん」

私は吉田夫人のことを誰かにしゃべりたくてならなかった。


~~~


・彼女の姿は、何ともひどい身なり、
お金持ちの未亡人だといううわさだが、
くたびれたセーターに、しわだらけのスカート、
汚れたサンダル、いつも仏頂面で誰とも挨拶しない。

人それぞれの性向、と思いながら、
私は内心(けったいなおばはんや)と思っていた。

やたら、向かう人に敵愾心を持つところは、
まるで狼に育てられた狼少女がそのまま狼老婆になったよう。

私は、この狼老婆に、最近、ひどい目にあっている。

この辺で有名な高級スーパーへ行ったときのこと。
どうしたことか、レジにはたくさんの客が行列することに。

私も、かなり長いこと待っていた。
私のすぐ前を人が通り抜けたので、空いた。

その一瞬のスキに入りこんで来たのが、
あの狼老婆ではないか。

「ここ、行列してますのよ」

と、私は、狼老婆・吉田夫人の背に向かって言った。
狼老婆は知らん顔。

ざんばらの白髪まじりの毛がたれ、
六十代後半~七十代くらいの見栄もおしゃれも放てきした、
すさまじい恰好である。

私の背後に並んだ人々の間から、
狼老婆の侵入を許した私に対するブーイングがわき起こる。

私は再び注意を促した。彼女はジロリと私を見、

「何やねん!お婆ンのくせに、派手な格好で。
顔のシワと相談しなはれ。化粧する柄か、ふんっ!」

とぬかすではないか。ずっこけてしまった、私。

意地悪と無教養と悪マジが一緒になって相乗効果をもたらすと、
スカンクの最後っ屁のような、強烈なショックを与えるものだ。

しかし、私一人がその被害に遭ったわけではないらしく、
救急車で運ばれてから、マンション中、吉田夫人のウワサが飛び交った。

四階の三枝夫人、実家の寝たきり老母のために、
市のヘルパーさんをたのむ。

そのヘルパーさんは、吉田夫人がぎっくり腰で動けなくなったとき、
行ってえらい目にあった、というのである。

買い物に行けば、品とレシートをきっちりつき合わせ、
一円の端金まで調べ、料理したあとは、米、砂糖、メリケン粉、
のたぐいまで、容器に線で印をつけ、減った分を計り、
ヘルパーさんが帰るときは、持ち物に目を光らせる。

「もう、それはケチで頑固で憎ていなお婆さんなんで、
みんな手を焼いていたんですって。
このマンションの811号室の婆さんは、
『歩く酸性雨』なんて、アダナをつけられたそうですわよ」

三枝夫人は話す。

その「歩く酸性雨」はキトク状態というニュースが伝えられた。






          


(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 24、姥寝酒  ① | トップ | 24、姥寝酒  ③ »
最新の画像もっと見る

「姥ざかり」田辺聖子作」カテゴリの最新記事