「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

30、若菜(上) ㉒

2024年02月12日 08時34分23秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・源氏は女三の宮の部屋へ、
来ていたのだが、
仕切りのふすまを開けて、
ふいに娘の明石の女御の部屋へ、
入ってきた。

若宮に会いに来たのだが、
紫の上が連れて出たというので、
源氏が几帳を引きやると、
明石の上の膝元に、
入道からの手紙や文箱があった。

「若い恋人からの、
長々しい恋歌のような感じ、
ではないか」

「ご冗談ばかり・・・」

と明石の上は微笑したが、
おのずと憂い多い、
物あわれな影が立ち添う。

源氏が不審そうな様子なので、
明石の上は包み隠さず、
山へ入って跡を消した、
父入道のことを話した。

「そうだったのか・・・
それではこの手紙が、
遺言になったのか。
尼君はどんなにお悲しみだろう。
親子の仲よりも、
夫婦の契りはまた別だから」

源氏はまぶたを熱くした。

気のやさしい彼は、
年老いた人の気持ちを思いやる、
想像力がある。

源氏は入道の手紙を、
読みすすむうちに、
不思議な厳粛な気分に打たれた。

こんな夢のお告げがあって、
入道は自分と娘の結婚を、
強引に押し進めたのか。

流浪中の明石の上との契りを、
われながら後ろめたく、
悔いもまじって不安だったが、
それもこれも、
大きな神意によるものだった。

更にいえば、
須磨明石へのさすらいの旅も、
ちい姫をもうけるがための、
神の摂理であったのかもしれぬ。

入道はそのために、
一人娘を気位たかく育てた。

そして運命の開けるのを、
じっと待っていた。

そこへ大いなるものの、
御手にみちびかれ、
都の貴い血筋の源氏が、
さすらってきた。

入道は神仏の啓示をそこに見た。

はじめて源氏は、
大きな宇宙の力を見た気がした。

しかしそれにしても、
入道の心のなんとすがすがしい、
いさぎよいことであろう。

夢に賭けた願は果たされた、
と知って行方もしれず、
身を隠すとは。

この世にとどまって、
世俗の栄華をむさぼろうとしない、
その清い信念に、
源氏は深い尊敬を抱く。

「あなたもこれで、
お生まれになったときの、
事情をおわかりになったでしょう」

源氏は女御に申し上げた。

「はい・・・」

女御は深い思いをこめて、
うなずかれる。

「それにつけても、
紫の上の愛情を、
おろそかに思ってはいけません。
実の親子兄弟夫婦の仲の、
むつまじさより、
赤の他人の、
ほんの少しの情けや、
好意あるひと言のほうが、
はるかに貴重なことなのです。
他人が他人に示す愛や好意は、
これは大変なもので、
並み一通りのものではないのです。
わかりますか?
あなたに実の母親がお付きして、
お世話するようになってからも、
紫の上は初めの愛情に変わらず、
あなたを深く愛している。
そのへんのところを、
ようく考えなさい」

源氏は入道の手紙で、
人の運命の不思議さ、
人に愛され、
神仏にたすけられ、
生かされている人間の不思議さを、
若い女御に知って欲しいと思う。

生さぬ仲の紫の上と、
女御の君は、
実の母娘以上の愛情で、
しっかりと結ばれているのだが、
そのあいだに立つ父親として、
紫の上の善意を印象付けたい。

女御の君も、
人の子の母となられた。

今こそ、はじめて、
人間の愛の何たるかを、
お知りになるであろう。

血のつながらぬ人間同士の間に、
通う愛を悟られるであろう。






          


(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 30、若菜(上) ㉑ | トップ | 30、若菜(上) ㉓ »
最新の画像もっと見る

「新源氏物語」田辺聖子訳」カテゴリの最新記事