「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「ナンギやけれど」 ⑦

2023年01月04日 09時38分52秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・私の知人の、そのまた知人の方ですが、
阪神大震災をテレビのニュースで知ったときに、
お得意さんがたくさん阪神間の西宮にいらしたかたでも、
あるんですけど、すぐ奥さまに、

<とにかくめしを炊いて、
子供の頭ぐらいの大きなおむすびを作ってくれ>って、

<どうなっているかわからないけれども、
すぐ持っていってあげる>。

その奥さまは、
何かにつけ一言あるかたなんだそうです。

ふだんご主人に<はい>と、
おっしゃったことがないそうなんですが(笑)、
そのときばかりは黙ってすぐ、
釡が一升炊きなので、それを三升炊いて、
大分大きなおにぎりを作られた。

四十二個できたそうです。

そしてそのご主人は、そのおにぎりをいっぱい、
もろぶた(底の浅い木の箱)に入れて、
自転車にくくりつけて、尼崎のおうちから、
ずっと西宮、芦屋と行かれたそうなんですが、
尼崎市と西宮市をへだてる武庫川を越えるが早いか、
すぐ被災した家、ぺっしゃんこの家々、
傾いたビル、そういうものが目に入ってきて、
その男の方は、年のころなら五十一、二の、
働き盛りの、鬼をもひしぐというようなかたなんですけど、
とにかく涙があふれて仕方がなかったと。

ここまで戦後五十年たって、
戦争のときにもう荒廃しきって、
隣の人が焼けてても、
向かいの人が死んでいてもどうしようもなかったから、
ただ茫然と虚脱したみたいに見ているだけだった日本人が、
かわいそうでかわいそうでという声を、
出せるようになった。

それだけ日本の国が豊かになって、
国力が出てきたのかもわかりませんけれど、
人の心が開明的になってきた、
開けて温かくなってきたせいだと思いました、
阪神大震災は怖いことでしたけれども、
そういうものを残してくれたのではないかと思います。

この助け合いということは、
別に関西だけのことではないと思いますけれども、
ひょっとすると、やっぱり関西地方の、
神戸とか大阪とか阪神間の、
そういうふうな地方の気風かもわかりません。

気候が温暖で人心がのんびりして風景が美しく、
富と教養の地盤がある土地なのです。

ゆとりがある地方なんですね。

もちろん東京だって、
もしそんなことがあれば、
助け合いの精神が発揮されるかもわかりませんけれど、
地震のあとで新聞を見ておりますと、
東京の新聞の論調とか、週刊誌なんかには、
神戸や阪神間の被害者を救おうと、縁者や友人が、
あんなに大きな荷物を持って、すぐ担いでやってくる、
何という肉親愛というか、友人愛というか、
そういうものが神戸は多いんだろうと。

もしこれが核家族化の進んだ東京だったら、
本人を助けてくれるのは飼い犬か飼い猫しかいないのではないか、
そういうふうな記事もございました。

これはほんとう言いますと、
ずっと前に谷崎潤一郎さんが書いていらっしゃいます。

「私の見た大阪及び大阪人」

という文章がございます。

ご承知のように、
谷崎先生は、大正十二年九月一日の関東大震災で、
箱根でそれを体験されました。

ちょうど奥さまとお嬢さまは先に横浜に帰っていらした。

その日、まさかそんな大きい地震があるとは思わなくて、
箱根の泊っていたホテルから乗合自動車に乗って、
というのは原文にございます。

乗合自動車に乗って、山をおりようとした。

ところが、そのときに何だか体が変なぐあいになった。
地震だとすぐ思われたそうです。

見ると、窓ガラスのフロントのところ、
道がみるみる裂けていく。

バスの後ろへ大石が落ちてくる。
ちょうど片方が崖で、乗っていた人が騒ぎ出しまして、

<とめろ、とめろ>と言いますが、運転手さんは、

<こんなところでとめられません>と、

決死の勇をふるって、そのまま運転して、
やっと少しばかりの空き地に車をとめた、
私は一命をとりとめた、というふうに書いておられます。

そして横浜へはとても入れないのでまず神戸へ行き、
神戸から船で横浜へ帰ろうと苦労して、
やっと、京都、大阪、神戸というふうに、
たどり着かれたんですが、
先生をびっくりさせたのは、大阪駅前と神戸駅前の、
大変な罹災民への接待ぶりだったそうです。

もう地元の人たちが黒山のごとく集まってきて、
そして汽車からおりたり船からおりたりする罹災者の人々に、
てんでに自分たちでこしらえた慰問袋を渡す、
駅前には、接待の湯茶がちゃんとそろっていて、
たくさんの人が集まってきて、

<疲れたでしょう、お茶でもどうぞ、
どうぞ坐ってください>と、

それこそ、煙と汗でまっ黒になった罹災者の人たちを、
そんなふうに接待したそうです。

なんて関西というところは、
人の情けの厚いところだろうと、
谷崎先生は感心なさいました。

ところが京都では駅前はし~んとして、
人っ子一人いなかったそうです。

七条ステーションとそのころは呼んでおりますけど、
そこには一人もいない。

大阪、神戸、京都の人の違いがよくわかったと、
谷崎さんは書いておられます。

つまり、京都人は、怖い怖いと、
いろいろなことにかかわり合いになってはいけない、
どんな人が来ているかわからないというので、
早くから町の人々は戸を閉めてじっと震えていた、
というのがございます。

そういうふうな助け合いの心といいますか、
言い方を変えれば、出しゃばりでございますけど、
そういうのが大阪、神戸の精神風土にはあって、
助け合いができたのかもわかりません。

でも、そういう助け合いの精神というのが、
一番これからの、先には一番必要な温かい心、
ではないかと思います。






          


(次回へ)


・別の本で読んだことですが、
京都人について、どんな人が来るかわからない、
と,他とかかわり合いを持ちたくない気持ちというのは、

千年の都だった京都は、
他国の人がいつも戦いを持ち込むのを経験していたので、
長いあいだに、自分の身は自分で守る、精神が身についた結果だと。

確かに、京都は歴史の金太郎飴でして、
どの時代を見ても、必ず出てきますし、
大きな戦乱の繰り返しの地でもありました。

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