・まったく、よく問題の起きるマンションになってしまったものだ。
早春の早朝、救急車のサイレン、パトカーのサイレンが、
このマンションを包んだ。
私はまだベッドの中にいて、朝寝を楽しんでいるところ。
いったい、何ごとかしらん。
もしかして火事やったらえらいこっちゃ、
とフトンをはねのけた。
廊下へ出てみると、
上杉夫人がエレベーターで昇ってきたところ。
「まあ、どうでしょう、今度は刃物三昧ですわ。
とうとう流血沙汰が起きましたわ。
一生住めるところと思えばこそ、ここを選びましたのに・・・
一階の女の人らしいです。どうやら無理心中らしいって。
ほら、四十半ばのきれいで、キャリアウーマン風の人がいますでしょう」
マンション中がざわめいているようだった。
テレビ局がやってきて、ロビーを占領してしまった。
その頃になって、あらましのニュースが伝わってきた。
一階の部屋に住む四十五才の商社勤めの女性が、
愛人の二十七才の男性を包丁で刺し、自分も死のうとしたが、
どちらも命をとりとめる模様。
キャリアウーマンだかワーキングウーマンだか知らないが、
四十五にもなった女がするこっちゃないやないか、
と私は思う。
普通の人間が言うたらアカンことでも、
八十の人間になれば、もう言ってもよろしかろう。
(アホは死んだらええねん!)
もうどうしようもない、世の中、アホが多いのだ。
しかし、さすがに口には出さず、心の中で思っているだけ。
(ま、自分もアホだと思っているが)
もっとも、これも八十だから言えるのである。
八十はもはや、精神的治外法権だ。
それは、私一人、こっそり心の中に収めているつもりだった。
~~~
・午後、外出しようとして下りてみると、
まだロビーはごった返しており、
テレビのリポーターがしゃべっていた。
「・・・逃げる男を、追っていって刺した、
ひどい話じゃありませんか」
ロビーは好奇心のまま行動する中年女性でいっぱい。
私は外へ出られず、押し戻されてしまった。
どこからこんなに多くの中年婦人が集まったのであろう。
ロビー中、テレビ局のスタジオのような熱気。
それにしてもオジンは一人もいない。
マイクが中年婦人の一人に向けられる。
「やはり、年上の方が踏みとどまるべきですわ」
良妻賢母がパーマかけて、
メガネをかけたオバンが見解を述べる。
「何たって、女がいけません。
その男の子の親御さんの身になったら、どんなお気持ちかしら」
突然、私の顔にマイクが向けられる。
「お婆ちゃんにお聞きしてみましょう」
お婆ちゃんだって?
「チエに満ちたご意見、お聞きしたいんです」
「ちょっとユニークすぎるけど、いいですか?」
「は、むろんです」
「あたしゃ、アホは死んだらエエねん、とつくづく思いましたね」
言ってしまった。
心の中で収めようと思っていたコトバなのに。
「は?」
「アホは死んだらエエ、言うてるんです。
四十になる女がそこまでノボせることないやないの。
その男も悪い。きっとその男、厚かましいて、図々しいて、、
女にさんざん金を貢がせてたんと違いますか。
女はみつぐ子さんになってたんやと思うわね。
今日びの男は、好意や金はたっぷり受けて、
ほな、さいなら、で出て行くから、女はカッとしたんでしょう。
きちんと責任持って、死んでほしいです」
「いや、しかし、この前途有為の青年を」
「そんな、厚かましい若いもんが何が前途有為やねん。
ま、女のヒモか社会の寄生虫やないかしらん。
むしろ、女の方が前途有為やったかもしれへん」
「しかし、人命は地球より重く・・・」
そのあたりから、オバンのざわざわが高くなる。
「そうよ、そうよ、アホは死ねとは、過激分子の発言やわ」
私はせせら笑い、
「死ね、と言うたら、ミもフタもないけど、
死んだらエエねんには人類愛があるんですよ。
死んでほしくない、生きててほしい、
そういうめげたり、落ち込んだりしている人に、
どう言えば元気を出させられるか。
それを、恥ずかしくないの!とか、年上でしょ!とか、
けしからんわね!とか言うのはたやすい。
しかし、それではいよいよ落ち込みます。
そういうときは アホは死んだらエエねん、と突き放すと、
猛然と生きる力が湧くってもんですよ」
「でも、アホって差別語やありません?」オバンの一人が言う。
「とんでもない、バカが差別語ですよ。
バカは死ななきゃなおらない、というのと、アホは死んだらエエねん、
どっちが差別キツイ思います?」
やがてテレビ局も退散し、みな散った。
さらに私は考えた。
その二、「アホの面倒見てられへん」
何が人命は地球より重い、だ。
私くらいの年になれば「人間で地球は重い」と言いたい。
少し減ったほうがよい。だからこそ、アホは死んだらエエねん。
(次回へ)