・源氏は早朝、
部屋の格子を上げさせ、
朝霧の流れる前栽をながめた。
枯れた千草の中に、
朝顔がそちこちの草にはいまつわって、
小さな花をつけている。
衰えた花を源氏は折らせて、
朝顔の宮に手紙をつけ、贈った。
「長い年月、
どんなにあなたをお慕いしていたことか。
あわれ、とだけでもお思い下さろうかと、
はかない望みをつないでおります」
もはや若い日の、
熱烈な恋文ではなかった。
それは、幾年月をくぐってきた、
同志に寄せるような、
落ち着いた大人の手紙であった。
それだけに、
朝顔の宮のお心も、
しみじみとぬれてゆく。
こんな手紙に返事をしないのも、
情け知らずの無骨なことだと、
宮はお思いしなった。
「花のさかりの移ろうた朝顔は、
まことにわたくしに似つかわしき、
おんたとえでございました。
夏は終わったのでございます」
源氏は、その手紙を、
手から離しがたく、
いつまでもながめている。
ことさらすぐれたというひとふしもないのに、
心ひかれる手紙であった。
朝顔の宮は昔から、
源氏に好意を持っていて下さったのは、
まちがいないと思われる。
むげに振り捨てもなさらず、
つねに距離を置いて応えていられた。
そうして年月は経ったのである。
源氏は折々の感懐を宮に打ち明け、
どれほど慰められたかしれない。
宮に対する気持ちは、
恋というより以上に、
年上の女人に対するあこがれや、
信頼、友情、連帯感、同志愛、
のようなものさえあった。
それらがつきまぜられて、
複雑な陰影を持つ恋ごころを育て、
やがて、宮と自分の残りの人生を、
もろともに重ねたい、
という男の欲望になっていった。
源氏はもうあとへはひけない。
熱心に手紙を送り続け、
あれこれ相談するのであった。
しかし宮は、
お若いころでさえ、
源氏に恋すまいと決心していられたものを、
まして今は色めかしいことのある年齢でも、
身分でもないと考えていられる。
世の声をはばかって、
四季おりおりの消息を交わすことさえ、
人々は軽率なことと噂するのではと、
いっそう控え目になさる。
なのに、二人の噂ははやくも、
世に散り初めていた。
世の人々は、
「前斎院に、
源氏の大臣が求婚なさっているそうな。
叔母君の女五の宮も、
このご縁談を喜んでいられるらしい。
ほんにそういえば、ご身分からいっても、
お続き柄からいっても、
お似合いのご縁である」
と噂していた。
紫の君は、それを人づてに聞いた。
いや、もはや紫の君と呼ぶべきではなく、
紫の上と称すべきであろう。
二條院の女あるじとして、
小さい姫君の母君として、
源氏の二なき妻として、
世に重んじられており、
そのかみの童女も、
今は堂々たる貴婦人なのだった。
紫の上は、
(もしそうだったら、
わたくしにお打ち明けになるはず)
と思った。
源氏とは、
何でも隠し隔てなく、
話し合う間柄だ、
という自信があるのだった。
しかし源氏の態度をよく見ていると、
いつになくそわそわして、
心も空に、何かに奪われているさまが、
よくわかった。
源氏は真面目に結婚を考えているらしい。
紫の上は傷ついた。
源氏が宮に心を移し、
愛したならば、
自分はどうしたらいいだろう。
今まで源氏に愛されてきて、
それに彼女は馴れていた。
今さらどうして、
ほかの女人の下につくことが出来よう。
(あの人は、
わたくしを全く見捨てるということは、
なさらないにしても、
幼い時から養い育て、
世話をしてきたということで、
軽くご覧になっているかもしれない。
そうして重んじ尊ばれる本妻は、
あの宮さまになってしまうのかもしれない)
明石の君については、
拗ねたり怨みごとをいったりして、
かわいくふくれたりしたが、
朝顔の宮のことは、
心底辛いと思っているので、
紫の上は、気ぶりにも見せなかった。
源氏も物思いにふけることが多くなり、
御所に泊る夜が重なった。
仕事といえば、
宮に手紙を書くことである。
(人の噂はほんとうなんだわ。
わたくしとの仲だもの、
それとなくぐらいは、
お打ち明け下さればいいのに)
紫の上は、源氏を疎ましく思った。
冬のはじめも、
藤壺入道の宮の諒闇で、
神事なども停止になって淋しかった。
源氏は女五の宮のもとへ、
お見舞いにゆく。
むろん、それは、
朝顔の宮を訪れるための口実である。
雪がちらついて艶な夕方であった。
さすがに紫の上に声をかけていく。
「女五の宮がご病気でいられるので、
お見舞いに行く」
紫の上は振り向きもせず、
知らぬふりをしている。
ただならぬ気配は源氏にもわかった。
「どうもご機嫌がわるいね。
私のどこがお気に召さない。
わざと御所で泊ったりして、
離れているのを、
あなたは邪推しているんじゃないか?」
紫の上は顔をそむけてしまう。
それを見捨てて出ていくのは、
源氏にも気にかかることではあるが。
紫の上は、
もしこのまま源氏と別れるようなことがあれば、
どんなに切ないだろう、
と思った。