むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

18、朝顔 ②

2023年11月13日 09時00分00秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・源氏は早朝、
部屋の格子を上げさせ、
朝霧の流れる前栽をながめた。

枯れた千草の中に、
朝顔がそちこちの草にはいまつわって、
小さな花をつけている。

衰えた花を源氏は折らせて、
朝顔の宮に手紙をつけ、贈った。

「長い年月、
どんなにあなたをお慕いしていたことか。
あわれ、とだけでもお思い下さろうかと、
はかない望みをつないでおります」

もはや若い日の、
熱烈な恋文ではなかった。

それは、幾年月をくぐってきた、
同志に寄せるような、
落ち着いた大人の手紙であった。

それだけに、
朝顔の宮のお心も、
しみじみとぬれてゆく。

こんな手紙に返事をしないのも、
情け知らずの無骨なことだと、
宮はお思いしなった。

「花のさかりの移ろうた朝顔は、
まことにわたくしに似つかわしき、
おんたとえでございました。
夏は終わったのでございます」

源氏は、その手紙を、
手から離しがたく、
いつまでもながめている。

ことさらすぐれたというひとふしもないのに、
心ひかれる手紙であった。

朝顔の宮は昔から、
源氏に好意を持っていて下さったのは、
まちがいないと思われる。

むげに振り捨てもなさらず、
つねに距離を置いて応えていられた。

そうして年月は経ったのである。

源氏は折々の感懐を宮に打ち明け、
どれほど慰められたかしれない。

宮に対する気持ちは、
恋というより以上に、
年上の女人に対するあこがれや、
信頼、友情、連帯感、同志愛、
のようなものさえあった。

それらがつきまぜられて、
複雑な陰影を持つ恋ごころを育て、
やがて、宮と自分の残りの人生を、
もろともに重ねたい、
という男の欲望になっていった。

源氏はもうあとへはひけない。

熱心に手紙を送り続け、
あれこれ相談するのであった。

しかし宮は、
お若いころでさえ、
源氏に恋すまいと決心していられたものを、
まして今は色めかしいことのある年齢でも、
身分でもないと考えていられる。

世の声をはばかって、
四季おりおりの消息を交わすことさえ、
人々は軽率なことと噂するのではと、
いっそう控え目になさる。

なのに、二人の噂ははやくも、
世に散り初めていた。

世の人々は、

「前斎院に、
源氏の大臣が求婚なさっているそうな。
叔母君の女五の宮も、
このご縁談を喜んでいられるらしい。
ほんにそういえば、ご身分からいっても、
お続き柄からいっても、
お似合いのご縁である」

と噂していた。

紫の君は、それを人づてに聞いた。

いや、もはや紫の君と呼ぶべきではなく、
紫の上と称すべきであろう。

二條院の女あるじとして、
小さい姫君の母君として、
源氏の二なき妻として、
世に重んじられており、
そのかみの童女も、
今は堂々たる貴婦人なのだった。

紫の上は、

(もしそうだったら、
わたくしにお打ち明けになるはず)

と思った。

源氏とは、
何でも隠し隔てなく、
話し合う間柄だ、
という自信があるのだった。

しかし源氏の態度をよく見ていると、
いつになくそわそわして、
心も空に、何かに奪われているさまが、
よくわかった。

源氏は真面目に結婚を考えているらしい。
紫の上は傷ついた。

源氏が宮に心を移し、
愛したならば、
自分はどうしたらいいだろう。

今まで源氏に愛されてきて、
それに彼女は馴れていた。

今さらどうして、
ほかの女人の下につくことが出来よう。

(あの人は、
わたくしを全く見捨てるということは、
なさらないにしても、
幼い時から養い育て、
世話をしてきたということで、
軽くご覧になっているかもしれない。
そうして重んじ尊ばれる本妻は、
あの宮さまになってしまうのかもしれない)

明石の君については、
拗ねたり怨みごとをいったりして、
かわいくふくれたりしたが、
朝顔の宮のことは、
心底辛いと思っているので、
紫の上は、気ぶりにも見せなかった。

源氏も物思いにふけることが多くなり、
御所に泊る夜が重なった。

仕事といえば、
宮に手紙を書くことである。

(人の噂はほんとうなんだわ。
わたくしとの仲だもの、
それとなくぐらいは、
お打ち明け下さればいいのに)

紫の上は、源氏を疎ましく思った。

冬のはじめも、
藤壺入道の宮の諒闇で、
神事なども停止になって淋しかった。

源氏は女五の宮のもとへ、
お見舞いにゆく。

むろん、それは、
朝顔の宮を訪れるための口実である。

雪がちらついて艶な夕方であった。

さすがに紫の上に声をかけていく。

「女五の宮がご病気でいられるので、
お見舞いに行く」

紫の上は振り向きもせず、
知らぬふりをしている。

ただならぬ気配は源氏にもわかった。

「どうもご機嫌がわるいね。
私のどこがお気に召さない。
わざと御所で泊ったりして、
離れているのを、
あなたは邪推しているんじゃないか?」

紫の上は顔をそむけてしまう。

それを見捨てて出ていくのは、
源氏にも気にかかることではあるが。

紫の上は、
もしこのまま源氏と別れるようなことがあれば、
どんなに切ないだろう、
と思った。





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