「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

18、朝顔 ③

2023年11月14日 09時20分14秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・女五の宮の御前に参上して、
いつものようにお話申し上げると、
宮はとりとめもなく昔話を長々とされる。

源氏は眠くなってきた。

宮もあくびを洩らされて、
間もなく、いびきを立てられた。

源氏はいい機会とばかり、
立とうとすると、
年寄りらしい咳ばらいをして、
近づく人影がある。

「お忘れでございますか。
この邸におりますことを、
ご存じとばかり思っておりましたのに・・・」

と名乗るものを見れば、
おどろいたことに源典侍(げんのないし)である。

そういえば、
この人は尼になって、
女五の宮のお弟子として、
仏道修行をしているとは聞いていたが、
今まで生きているとは思わなかった。

源氏は、
思いがけなくて呆れてしまった。

「おお、これは。
故桐壺院ご在世のことは、
みな昔話となって、
思いだすことさえ心細いものを、
なつかしい方にお目にかかったものです。
お祖母さま、おいつくしみ下さい」

源氏がいうと、
源典侍は今も変わらず、
色っぽい品を作って、
歯の抜けたすぼんだ口つきの声で、

「もうだめでございます。
わたくしもこんなに年をとってしまって」

と甘えてしなだれかかってくる様子に、
源氏の方が恥ずかしくなった。

しかしまた、
典侍の長生きも思えば感無量である。

あのころ、
後宮に帝の寵愛を競い合っていられた、
花の女御、更衣がたも亡くなられ、
あるいは行方もしれず零落された方もある。

そして、
すべての点ですぐれていらした、
藤壺の宮のおん齢の短さ。

それにくらべ、
お年かさで、お心ざまも頼りなく、
いらっしゃる女五の宮や、
いかがわしい艶聞で半生を彩ってきた源典侍が、
長生きして、心安らかに仏道にいそしんだり、
している。

世の中のことは定めないものだ、
源氏はしんみりさせられた。

典侍は、源氏の思わしげな態度を、
いまも自分に気があるのかと、
若やぐようであった。

「おぼえていらっしゃいます?
あの宵のこと、
ほら、中将さまと一緒の。
たわむれながら抱いて下さいましたね」

源氏はうとましくて、

「何を忘れましょう、
あの世までもですよ。
そのうち、ゆっくりと」

と、早々に立ち去った。

朝顔の宮の住まれる西面の間では、
御格子を下ろしていたが、
源氏の訪問を厭うように見えては、
という心遣いで、一間・二間は、
おろさずあった。

月がさし出て、
薄く積もった庭の雪に映え、
みやびやかなおもむき。

今宵は真面目に姫宮に話す。

「せめてひと言、
私を愛せない、と人づてではなく、
ご自身でお聞かせくださいましたら、
私はあきらめます」

熱心に言い寄るが、
姫宮は黙されたままお声を聞かされない。

源氏は、恨めしいお心よ、
とため息をもらす。

朝顔の宮は、
冷たくあしらわれるというのではなく、
人づてのお返事はおっとりとなさるので、
源氏はよけい、気が揉めて苦しい。

本気に怨みごとをいって去るのも、
青年ならともかく、
中年としてはふさわしくなかった。

源氏は気持ちを取り直して、

「世間の物笑いになりそうな、
私のこの姿、お洩らしなさいますな」

と取り次ぎ女房の宣旨にささやいた。

女房たちは、

「まあ、勿体ないことです。
なぜ姫宮はこうもつれなく、
おもてなしになるのでしょう」

「大臣は軽々しく、
無体なまねはなさらないと思われますのに、
せめて、お声くらいはお聞かせ申し上げれば、
ようございますのに」

などと言い合っていた。

姫宮は、

(あの方の魅力も、価値も、
わたくしはようく知っている)

と思っていられた。

(でも、誰も彼もが、
あの方になびくように、
あの方のものになると思われるのは、
いやなのだ。
わたくしはあの方を愛している。
ほんとうに愛している。
それだけに・・・)

その気持ちを源氏に知られることを、
姫宮はおそれていられた。

(わたくしの愛が、
あの方と結婚することによって、
現世の通俗な情愛にまみれてしまうのには、
堪えられない。
せっかく、清らかに守ってきた、
あの方への強い愛を、
夫や妻という、
現実の愛に堕としてしまいたくない)

姫宮は、清らかな瞳を、
燈火に向けて考えこまれた。

(わたくしは、
地上の愛を越えて、
あの方を愛しぬこう。
これからも、へだてを置いて。
この愛を傷つけないよう、
おつきあいをしてゆこう。
いまさら、
わたくしたちの間に、
肉の愛は必要ではない。
霊的な愛でむくわれるのだわ・・・)

姫宮は、斎院として、
神に仕える身となられていたので、
仏道の勤めは遠ざかっていられた。

それで、残る人生は、
仏へ捧げたいとお思いになっている。

しかし姫宮は思慮深い方なので、
尼になってというのでもなく、
さりとて、源氏との交際を、
いっぺん打ち切るというのでもなく、
ただ、世間の取沙汰のまとにならぬよう、
細心の注意を払っていられた。

しかし、頼るご兄弟とてなく、
日々にさびれていくお邸に、
女房たちはみな、
姫宮と源氏の結婚を切望していた。






          


(次回へ)

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