・いちびる、という語は古くからある。
ふざける、おどける、はしゃぐ、調子にのる、というような意。
「い」をとって「ちびる」というと、
鉛筆がちびる、などの意に「小便をもらす」などの意もある。
しかし、「いちびる」は「市を振る」からきた説がある。
大阪の魚市場、台の上に立った男が、「さあ、なんぼなんぼ」と叫び、
買い手は思い思いの値をいう。
魚河岸の活気にあふれた風景、
その身振り、やかましさを「市を振る」といい、
そこから騒いだりおどけたりすることを「いちびる」
というようになったらしい。
・おちょくる、という言葉もあるが、
語意は似ているものの「おちょくる」の方は、
揶揄する、嘲弄する、という意味で騒がしさはない。
いちびる、はけたたましい音響を伴う語。
いちびるは一人では成立しない。
相手あってのもので、それも相手が応じるとよけいからかう。
からかう、手だしする、ふざける、
いちびるを名詞にすると「いちびり」になる。
あの子はいちびりや、と言う風に使う。
大人が子供をいちびる時もある。
私は子供の頃、父の弟になる年若い叔父たちに、
よくいちびられた。
「こらっ!センベ(私のことをそう呼ぶ)、
口の中へ拳固入れてみい。入ったら飴やるわ」
私はげんこつを大口あけて入れようとする。
「入らへんよ」
「お前の口なら、入らんはずはない」というので、
涙が出るまで大口をあけて入れようとする。
母が見つけて「何してんですっ!バカな!」
と叱られても、まだいちびられているとは気づかない。
年が離れていないと、そういう関係が多い。
ウチの娘たちが小中学生のころ、風呂へ入っていると、
主人の末弟が「み~えた、みえた」と唄っていちびるのであった。
娘たちは真剣に怒って、親類つき合いを絶つといっていた。
いちびられているのがわからない、相手が真面目に受け取ると、
いちびり甲斐があるというもの。
私がこの言葉がいちばんピッタリすると思うのは、
ボクシングの場合、相手がダウン寸前でヨロヨロしている。
それを片方は
金バエのようにまわりを飛び回って、
軽いのをお見舞いして楽しんでいる。
女は到底、ああいう残酷な「いちびり」は見ていられない。
・「いちびる」に似た「ほたえる」というのもある。
これも、じゃれつく、ふざける、騒ぎ立てる、
というような意味であるが、「いちびる」は口先のからかい、
少々のユーモアも弄するのに対し「ほたえる」は、
肉体的動作を伴う。
この語源は不明だが、
私は「吠える」の意味を強めた言葉ではないか、
と思っている。
いちばん適切な例としてデモがある。
デモは後列の方では静かになり、黙々と歩き、
先頭は先鋭的である。
絶叫し、ジグザグ、広がって唄う。
声を合わせる、あれをしも「ほたえる」というのであろう。
また昔の僧兵、何かというと、屈強の大男の坊主ども、
衣の袖をまくり、大なぎなたを抱え、御輿を担いで花の都を練り歩き、
人々を威嚇する。
京の市民は声をひそめ、
「また僧兵がほたえとる」と言ったにちがいない。
「いちびる」よりはつけ上がって図々しく騒ぐという意味が強い。
つまり「ほたえる」は可愛げがない。
いちびる人を「いちびり」と名詞に出来るが、
ほたえる人を名詞にはしにくい。
いちびりは、人として憎めないところがあるから許される。
私は、げんこつを口に入れさせようとした叔父を憎んでいない。
ほたえる、はそれが常の習性になると、そういう人は許されない。
名詞が存在しないのは当然である。
「おちょくるといちびる、どう違いますか?」
私は知り合いの男性に聞いた。
「いちびるより、おちょくるは更に口頭で挑発する、
というところがあり、体は伴いませんなあ。
軽さの程度、動作の度合い」
おちょくる→いちびる→ほたえる、であるそうな。