「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

2、夕顔 ⑧

2023年07月23日 12時42分56秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・源氏は動転して、
考える力も失った。

右近はなおのこと、
声を放って泣き、
女あるじの変わり果てた亡骸にすがりつく。

源氏も呆然とするばかりである。
気を取り直して、さきほどの侍を呼び、

「ここに物の怪に取りつかれた人がいるのだが、
惟光の邸へすぐ行って、
いそいで来いと伝えてくれ・・・
また阿闍梨(僧)が家にいるならそれも一緒に、
といってくれ」

といった。

風が荒々しく吹きだし、
松の梢の音もものすごい。

なぜこんな、心細い邸などに泊ったのかと、
返す返すもくやまれる。

右近は悲しみと恐ろしさで、
源氏によりそって、離れようともしない。

もしや右近もどうかなるのではないかと、
源氏は心細く彼女を抱え、
どうかすると、みしみしと背後から、
何物かが近づいてくるような幻聴をおぼえる。

惟光早く来い、
と心で念じながら、
源氏は夜の明けるのをまちかねた。

思えば、この人を盗むように愛したのも、
こんなところで死なせたのも、
みな自分の愛欲と煩悩のせいなのだ。

わが心からのせいで、
この人を死なせてしまった。

世に知られれば、
どんな非難や指弾を受けることであろうと、
源氏は千々に乱れた心で思う。

夜が明けて、やっと惟光は来た。

彼の顔をみると、
源氏は張りつめた心がゆるんで、
夕顔の死が現実に迫り、
不覚にも涙が出た。

「惟光・・・大変なことになった・・・」

惟光にしても、
とかくの分別もすぐに浮かばなかった。

ともかく源氏がこの邸をすぐ去ること、
夕顔の遺骸を人目に立たぬ山寺へあずけ、
ささやかに葬いをすることが先決でしょう、
といった。

「ちょうど知り合いの老いた尼が、
東山におりますゆえ、
そこへまず御方さまをお移しいたしましょう。
それにしても・・・突然のことで、
御方さまは、
おかげんでも悪くていらっしゃいましたか」

「いや、そんな様子はなかったようだが・・・」

源氏は魂がぬけた人のようにつぶやいた。

源氏は柱に顔を押し当て、
嗚咽をこらえていた。

「お気をたしかに。
二條邸へ早くご帰還あそばしませんと、
日が高くなりましては人目につきます」

惟光は気強くなぐさめ、
車には右近と夕顔を乗せ、
自分の乗馬は源氏にゆずって、
やっとおそろしいこの邸をあとにした。

源氏は邸へ帰ると、
寝込んでしまった。

(どちらからのお帰りかしら・・・
ご気分の悪そうな)

女房達がひそひそ噂をしているが、
源氏は食事もとらず、
なぜ、さっき、あの人と同じ車に乗って、
葬いにいってやらなかったかと悔やんだ。

かえらぬ悲しい後悔に、
身をさいなまれるばかりである。

頭の中将が、
御所からの使いでやってきた。

「昨日今日、お行方が知れず、
帝はご心配でいられました。
どうされたのだ」

という頭の中将に、

「穢れにふれたもので、
乳母の家に見舞いにいったところが、
折り悪く、そこの下人が亡くなった。
御所には神事が多いことで、
穢れにふれた身ゆえ、
つつしんでいたのだ。
それに風邪をひいたらしく、
どうも具合がはかばかしくなく、
困っていてね。
君からよろしく奏上してくれないか」

「ではそう申し上げておきます」

源氏は、いつもは楽しい友達との話も、
いまは避けたいほど、
気が滅入っていた。

ものをいえば、
夕顔のことで胸がふさがり、
悲しみがふきこぼれそうになるばかりである。

日が暮れて惟光がやって来た。

「葬式は坊さんにたのんでまいりました。
右近が悲しんで、あとを追おうとして、
谷へ飛び込みかけたのを、
やっとみんなで抱き止めました。
五條の家に知らせようとするので、
いましばらく様子を見てから、
と止めた次第でございます」

「惟光。
もう一度、葬いの前に、
あの人にあいたい。
顔をみたい」

十七日の月が出ている。

賀茂川の河原を渡るころは、
前駆の松明の火に、
葬送の地、鳥辺野が浮かぶ。

不気味な場所であるが、
源氏は悲しみにうちのめされて、
怖くも不気味ともおぼえなかった。

物さびしい板屋に、
惟光の知り合いの尼が住んでおり、
僧の念仏が聞こえる。

女の忍び泣く声がするのは、
右近であろうか。

入ってみると、
右近は、遺骸と屏風をへだてて、
泣き伏していた。






          


(次回へ)

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