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・五條の女は、
思いのほか美しくて、
素直な女だった。
「私は、
あなたが何ものか知らない。
あなたも私をご存じない。
しかし、そんなことは、
どうでもよいではありませんか。
あなたのことが心を占めて、
少しでも離れていることができない」
源氏がいうと、彼女は小さく、
「あたくしも」
という。
上品だが、
高貴な身分の姫君でもなさそうだ。
いつかの、雨夜の話に出た、
「下々の階級」の女に、
あんがい掘り出しものがあるというのは、
こういうことをいうのではないか、
と思ったりする。
世間に知れて噂されてもよい、
彼女を二條邸へ拉して据えておこうか、
と真剣に考える。
親友の頭の中将が話していた女は、
この人ではないかという思いは、
ますます濃くなっているが、
女が何も打ち明けないのは、
わけがあるのだろうと、
源氏もことさら探らない。
8月15日の夜、
月の光がさしこんで、
狭い下町の家の中をくまなく照らした。
夜明けが近いのか、
近隣の貧しい人たちが起きだすのも、
手に取るように聞こえる。
その日暮らしのしがない稼ぎの、
物音を立てはじめるのを、
夕顔は源氏に恥ずかしく思うようである。
しかし、そのさまも、
可憐でよかった。
源氏は遣戸を開けて、
夕顔と共に秋の夜明けの庭を見た。
「この近くに知っている家があるから、
そこへ行こう。そこなら静かだ」
「でも・・・そんな急に」
夕顔は思いあまったふうにいうが、
さからうというのではなく、
源氏が、
「私のいうままにしなさい」
というと、困ったふうにうなずく。
明るくなりきらぬうちに、
源氏は夕顔と一緒に車に乗った。
右近が近づいてきた。
源氏の心あたりの邸は、
住む人もないまま留守居だけが守っている。
門の内は、
ゆくほどに木立が深く物古りて、
気味悪いばかり。
「こわいですか?
隠れ家にはもってこいですよ」
源氏は西の対に車を寄せさせ、
夕顔を下ろした。
留守居役の男は、
突然のことで驚いて、
接待に奔走していた。
「しかるべきお供が居りませぬとは・・・
お邸へ連絡して呼びましょうか」
といったが、源氏は止めた。
「いや、わざわざ誰にもわからぬようにと、
ここへ来たのだ。秘密にしてくれ」
食事がととのえられたが、
食器も給仕人もそろわず、
そんな不自由さも源氏には、
かえって目新しく面白かった。
日が高くなって起き、
格子を手ずからあげた源氏は、
思った以上に荒れ果てている庭に驚いた。
右近はいまはもう、
留守居役の男のたたずまいから、
女あるじを連れ出した男が、
源氏だとわかった。
夕顔も悟ったようである。
「私のことは知られてしまった・・・
こんどはあなたのことが知りたい」
「そんな、
申し上げるほどの身分ではございません」
それにしても、
宮中でも左大臣家でも、
さぞ今ごろは、行方が知れぬと、
大さわぎしていられるであろうと、
源氏は思う。
今はそういう配慮も、
わずらわしくなった。
夕顔と二人、
古びた廃邸の、
物古りた木立の梢から、
暮れてゆく秋の空を見たり、
格子をおろした奥ふかい邸内で、
あかるく灯をつけて、
もの静かな二人の時間を過ごす、
この幸福は、何にもかえがたい。
宵のころ、源氏はまどろんだ。
と、その枕元に、
美女が夢ともうつつともなく立った。
「あなた、
どうしてわたくしをお疎みあそばすのですか。
こんなつまらぬ女をお愛しになって」
と夕顔の体に手をかけようとする。
はっと目覚めると、
あたりは灯が消えて、真っ暗。
源氏は太刀を引き抜いて、
「右近!」
と叫んだ。
「渡殿にいる宿直を呼び起こして、
灯を持ってこいといえ、右近」
源氏がいうと、
右近は恐怖で声をふるわせ、
「こんなに暗いのに、
どうして参れましょう。
おそろしくて・・・」
源氏は苦笑して手を叩いた。
その音が山彦のようにこだまするのも、
不気味である。
聞こえないのか誰も来ない。
夕顔はただもう、
おじ恐れてわななき、
汗もしとどで、なかば気を失っている。
「物おじなさる方でいらっしゃるので・・・」
右近も気づかわしげにいった。
源氏は右近を夕顔のそばへ招き、
自身、西の妻戸を押し開けると、
渡殿の灯も消えていて、
庭も邸内も真の闇である。
宿直の男はみな寝込んでしまっている。
若い男を呼び、
「紙燭をつけてまいれ。
随身に弦打ちして魔除けに、
声高に呼ばわれといえ。
こうひと気のない所で不用意に寝込む、
ということがあるものか。
惟光はどこだ」
「ご用がなさそうだから、
夜明けにお迎えに参りますといって、
帰りました」
夜はまだ、
そんなに更けていないのに、
このおどろおどろしい闇の心ぼそさよ。
もとの部屋へ帰って、
手探りで近づくと、
夕顔はうつぶして、
右近がそばで震えていた。
「どうした・・・
私がいれば大丈夫だよ」
とまず、右近を引き起こすと、
「もうこわくてたまりませんでした。
御方さまこそ、
どんなにこわがっていらっしゃることか」
「なぜこうも物おじするのか・・・」
と手さぐりに抱き上げると、
夕顔は息もしない。
はっとして源氏がゆすぶってみても、
夕顔はくずれるように源氏の腕の中に、
倒れかかってくる。
物の怪におびえて、
気を失ってしまったのか。
やっと灯がきた。
右近も動ける状態ではないので、
灯を近づけて夕顔の顔を見ようとしたとたん、
今さき、枕上に見た女がふっと現れ、
消え失せた。
「夕顔、どうした」
と声をかけた。
しかし彼女の体は冷えていて、
息は絶えていた。
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