「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

2、夕顔 ⑦ 

2023年07月22日 08時47分07秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・五條の女は、
思いのほか美しくて、
素直な女だった。

「私は、
あなたが何ものか知らない。
あなたも私をご存じない。
しかし、そんなことは、
どうでもよいではありませんか。
あなたのことが心を占めて、
少しでも離れていることができない」

源氏がいうと、彼女は小さく、

「あたくしも」

という。

上品だが、
高貴な身分の姫君でもなさそうだ。

いつかの、雨夜の話に出た、
「下々の階級」の女に、
あんがい掘り出しものがあるというのは、
こういうことをいうのではないか、
と思ったりする。

世間に知れて噂されてもよい、
彼女を二條邸へ拉して据えておこうか、
と真剣に考える。

親友の頭の中将が話していた女は、
この人ではないかという思いは、
ますます濃くなっているが、
女が何も打ち明けないのは、
わけがあるのだろうと、
源氏もことさら探らない。

8月15日の夜、
月の光がさしこんで、
狭い下町の家の中をくまなく照らした。

夜明けが近いのか、
近隣の貧しい人たちが起きだすのも、
手に取るように聞こえる。

その日暮らしのしがない稼ぎの、
物音を立てはじめるのを、
夕顔は源氏に恥ずかしく思うようである。

しかし、そのさまも、
可憐でよかった。

源氏は遣戸を開けて、
夕顔と共に秋の夜明けの庭を見た。

「この近くに知っている家があるから、
そこへ行こう。そこなら静かだ」

「でも・・・そんな急に」

夕顔は思いあまったふうにいうが、
さからうというのではなく、
源氏が、

「私のいうままにしなさい」

というと、困ったふうにうなずく。

明るくなりきらぬうちに、
源氏は夕顔と一緒に車に乗った。

右近が近づいてきた。

源氏の心あたりの邸は、
住む人もないまま留守居だけが守っている。

門の内は、
ゆくほどに木立が深く物古りて、
気味悪いばかり。

「こわいですか?
隠れ家にはもってこいですよ」

源氏は西の対に車を寄せさせ、
夕顔を下ろした。

留守居役の男は、
突然のことで驚いて、
接待に奔走していた。

「しかるべきお供が居りませぬとは・・・
お邸へ連絡して呼びましょうか」

といったが、源氏は止めた。

「いや、わざわざ誰にもわからぬようにと、
ここへ来たのだ。秘密にしてくれ」

食事がととのえられたが、
食器も給仕人もそろわず、
そんな不自由さも源氏には、
かえって目新しく面白かった。

日が高くなって起き、
格子を手ずからあげた源氏は、
思った以上に荒れ果てている庭に驚いた。

右近はいまはもう、
留守居役の男のたたずまいから、
女あるじを連れ出した男が、
源氏だとわかった。

夕顔も悟ったようである。

「私のことは知られてしまった・・・
こんどはあなたのことが知りたい」

「そんな、
申し上げるほどの身分ではございません」

それにしても、
宮中でも左大臣家でも、
さぞ今ごろは、行方が知れぬと、
大さわぎしていられるであろうと、
源氏は思う。

今はそういう配慮も、
わずらわしくなった。

夕顔と二人、
古びた廃邸の、
物古りた木立の梢から、
暮れてゆく秋の空を見たり、
格子をおろした奥ふかい邸内で、
あかるく灯をつけて、
もの静かな二人の時間を過ごす、
この幸福は、何にもかえがたい。

宵のころ、源氏はまどろんだ。
と、その枕元に、
美女が夢ともうつつともなく立った。

「あなた、
どうしてわたくしをお疎みあそばすのですか。
こんなつまらぬ女をお愛しになって」

と夕顔の体に手をかけようとする。

はっと目覚めると、
あたりは灯が消えて、真っ暗。

源氏は太刀を引き抜いて、

「右近!」

と叫んだ。

「渡殿にいる宿直を呼び起こして、
灯を持ってこいといえ、右近」

源氏がいうと、
右近は恐怖で声をふるわせ、

「こんなに暗いのに、
どうして参れましょう。
おそろしくて・・・」

源氏は苦笑して手を叩いた。

その音が山彦のようにこだまするのも、
不気味である。

聞こえないのか誰も来ない。

夕顔はただもう、
おじ恐れてわななき、
汗もしとどで、なかば気を失っている。

「物おじなさる方でいらっしゃるので・・・」

右近も気づかわしげにいった。

源氏は右近を夕顔のそばへ招き、
自身、西の妻戸を押し開けると、
渡殿の灯も消えていて、
庭も邸内も真の闇である。

宿直の男はみな寝込んでしまっている。
若い男を呼び、

「紙燭をつけてまいれ。
随身に弦打ちして魔除けに、
声高に呼ばわれといえ。
こうひと気のない所で不用意に寝込む、
ということがあるものか。
惟光はどこだ」

「ご用がなさそうだから、
夜明けにお迎えに参りますといって、
帰りました」

夜はまだ、
そんなに更けていないのに、
このおどろおどろしい闇の心ぼそさよ。

もとの部屋へ帰って、
手探りで近づくと、
夕顔はうつぶして、
右近がそばで震えていた。

「どうした・・・
私がいれば大丈夫だよ」

とまず、右近を引き起こすと、

「もうこわくてたまりませんでした。
御方さまこそ、
どんなにこわがっていらっしゃることか」

「なぜこうも物おじするのか・・・」

と手さぐりに抱き上げると、
夕顔は息もしない。

はっとして源氏がゆすぶってみても、
夕顔はくずれるように源氏の腕の中に、
倒れかかってくる。

物の怪におびえて、
気を失ってしまったのか。

やっと灯がきた。

右近も動ける状態ではないので、
灯を近づけて夕顔の顔を見ようとしたとたん、

今さき、枕上に見た女がふっと現れ、
消え失せた。

「夕顔、どうした」

と声をかけた。

しかし彼女の体は冷えていて、
息は絶えていた。






          


(次回へ)

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