むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

3、勘定旅行 ③

2022年11月02日 09時18分51秒 | 「浜辺先生町を行く」  田辺聖子作










・私の思い上りを打ち砕く要素の二つめは、
私には、女流作家の自我を必要とするような、
崇高、高邁なる仕事はあまりまわってこぬ、
ということも考えられる。

たとえば、この間、
私は温泉めぐりの取材をたのまれた。

私は温泉好きであるから、
二つ返事で引き受けた。

しかもどなたでもよい、
お二人でいらして下さい、というのだ。

ただ、旅の見聞記を私はあとで書くことになっている。
打ち合わせに東京からやってきた熊谷青年は、

「もし、何やったら、
僕も世話係として随行いたしますが、
しかし、せっかくのことではあり、
ご主人とお二人でいらしたら、いかがでしょう」

といってくれた。

行き先も大阪近郊で便利がいい。
近畿には温泉の湧くところが多い。

神戸市内に有馬温泉があるのは知られているが、
私の家から1キロ足らずのところにも、
天王谷温泉という温泉があり、
いうなら、神戸市兵庫区の自宅から下駄ばきで、
温泉に入れるのである。

これは本物の温泉で銭湯ではない。

尤も、取材を頼まれたのは、
神戸市の温泉ではない。南紀のほうである。

「じゃ、お二人でいらっしゃいますね?
僕は行かなくていいですね?」

と熊谷青年は念を押し、
そうすると私は、
何だか熊谷青年が行きたがっていたのを、
邪魔したような気がしてくる。

「いやいや、そういうことはないです。
たまにはご主人とお二人で旧婚旅行でもされたほうが、
明日への活力になります。ハッハハハ」

と熊谷青年はひやかした。

この頃の青年に、目上、年上といった人々に、
物怖じがないのは特徴である。

「ただですね、
この温泉の売り物の一つは、
風呂が宙に浮いてるんです」

「空中展望台というような温泉が、ありますね」

私は最上階の四方ガラス窓の温泉を想像した。

「いや、何といいますか、
足が地についていない温泉です。
つまりロープウェイというのがありますね」

「あります、あります」

「それに湯が入っているのです。
ケーブル風呂といいますか」

「お湯はどうやって入れるんでしょ」

「さあ、僕も行ったことがないので、
よく判らんのですが」

と熊谷青年は頭をかいた。

「そこを一つ、取材して頂いたら、と思います。
ケーブル風呂に漬かって
太平洋の日の出を見て頂いたらと思います」

「ふ~ん」

と私はいったが、
ロープウェイの中に湯を入れたら、
こぼれてしまいはせぬか、
ハダカで乗るとする、着いた地点へ下りたとき、
服はどうなるのであろう、
着地点はヌーディストのたまり場となっているのであろうか、
と疑問は雲のごとく湧き上がる。

そうして、そういう珍しい取材へ、
夫と同行できるのを喜んだ。

日が決まると熊谷青年から、
切符やパンフレットなど送ってくる。
夫の分と二枚ある。

今までは、取材に夫がついてくるときもあったが、
そういうときは、仕事のあるのは私であるから、
自然、夫はお付き武官風、
あるいはボディガード風になる。

それに戦中派男の夫として、
面白からぬことであるに違いない。

かつまた、私に来る手紙には、
「末筆ながらご主人によろしく」とあり、
共通の友人たちも、それで片づけることが多い。

夫は自分のことを「ミスター末筆」と呼び、
いい気はせぬようである。

しかし、こんどの旅行は、取材旅行といっても、
二人きりであるので、人に気がねせず、
夫を立ててやれるであろう。

夫を立てて大切にするかのごとく見せかけておくと、
自分が生きやすいからである。

何でも自分が目立って支配しよう、画策しよう、
とすると面白いかもしれないが、
疲れるであろう。

私は自分の三畳の仕事場で、
自我の定期券を出して仕事をしているときは、
いやでも応でも自分でしないといけないので、
あとの部分は、欲はないわけである。

当日は快晴であった。

土曜の午後から出かけて、
すでに四時すぎには、南紀の温泉に着いた。

駅には広告があった。

「驚異の宇宙風呂!世界初の快温泉!」

この驚異の宇宙風呂というのは、
そのホテルのうたい文句らしくて、
駅には私を出迎える旅館の人がいたが、
その手にもった旗にもそう染め抜いてあった。

その人は、ごま塩あたまのおじさんであったが、
法被を着ていた。

法被の襟にも、その文句が染めてある。
そうしておじさんは、胸元に、
「浜辺先生おむかい」と書いた紙を持って立っていたが、
法被の襟がそこへかぶさって、
ちょうど「驚異の浜辺先生」と読める。

私は「驚異の浜辺先生おむかい」
のおじさんの所へ行って挨拶した。






          


(次回へ)

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