むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

30、若菜(上) ⑦

2024年01月28日 08時28分27秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・源氏は、
紫の上の自分を信じきったさまに、
心を痛める。

すまない気がする。

(朱雀院との約束を話したら、
どんなに嘆くだろう。
たとえ姫宮を迎えたとしても、
自分のこの人に対する愛は、
つゆ変るはずもなく、
むしろこの人の方を、
いとしく思うだろう。
だが、
その本心をこの人がしっかりと、
見定めてくれるまでは、
いろいろ苦しんだり、
疑ったりするだろう)

源氏は思い悩む。

このごろの年月、
源氏と紫の上とのあいだは、
かたく結びついた仲なので、
なんの隠し事もなかった。

それだけに、
姫宮のことを黙っているのが、
源氏は心苦しく気が晴れない。

どうしても言いだせない・・・

ついに源氏はその夜は、
何も言わずに過ごしてしまった。

翌日は雪が降った。

源氏は紫の上と、
それを見ながら、
昔のこと、
これからのこと、
語り合う。

いつか話題は、
昨日の朱雀院に移っていった。

「院はすっかり弱ってしまわれて、
院は女三の宮のお身の上が、
心がかりのご様子で、
いろいろお話があり、
どうかよろしくと仰せられた。
私はご辞退できなかった。
お気の毒で・・・
このことを、世間の人は、
いろいろと噂にするだろうが、
私の本心からではない。
自分はこの年になって、
若い姫宮を迎えるとは、
気恥ずかしいし、
心も動かないから、
そのことをほのめかされても、
言い逃れてきたのです。
しかし直接お目にかかって、
院がねんごろにお頼みになると、
お断りできなかった。
母君を亡くされ、
父君は世を棄てられる、
頼りどころのない姫宮への、
おいつくしみを察すると、
きっぱりと拒めなかった。
院はやがて深い山へ、
お籠りになろうが、
そのころには、
姫宮をここへお迎えせねば、
ならない。
味気ない思いをされるだろうが、
私の立場を理解してほしい。
姫宮がこの邸へ来られても、
あなたへの気持ちは、
決して変わらない。
姫宮を大事にするのは、
院のお気持ちを尊重してのこと。
あなたを粗略にすることは、
決してない。
あなたは無論、
ほかの女人たちも、
心を平らかにして、
みな仲良く暮らしてほしい」

聡明な紫の上なら、
わかってもらえると思いながら、
源氏は心をこめて話した。

この話に、
どんな風を見せる出あろうと、
源氏は考えていたが、
紫の上は無心のさまで、

「おいたわしい院のお頼みですのね。
お断り出来なかったあなたのお気持ち、
ようくわかります」

とうなずく。

紫の上には、
日ごろ源氏は、
あのことこのこと、
自分の人生を語り続けているので、
源氏の人生と紫の上の人生は、
ぴったり重ね合されるようになり、
源氏の身のまわりの人間地図も、
紫の上のあたまには入っていた。

それゆえ、
源氏と院の二人きりの雰囲気、
院のおことばのあわれさも、
紫の上には想像できた。

「どうして宮さまを、
わたくしがうとましく、
思いましょう。
ここにわたくしが住んでいるのを、
宮さまが目ざわりに、
お思いさえなければ、
わたくしは、
気持ちよくここに居ります。
仲良くおつき合いして頂ければ、
どんなにいいでしょう。
わたくしも宮さまも、
早くに母と死に別れた身の上。
よそごとに思えません。
それに宮さまの母君は、
わたくしの父君のお妹で、
いらっしゃる。
宮さまとわたくしは従姉妹、
というわけです。
宮さまもそうお思いになって、
わたくしと仲良くして下されば、
嬉しいのです」

源氏は笑ったが、
真顔になっていった。

「そんな風に、
うちとけて仲良くして頂けると、
どんなに嬉しいだろう。
あなたにつまらぬ中傷や、
陰口をいう人があるかもしれぬが、
そんなことを、
耳に入れてはいけない。
世間の人の口というのは、
間違って伝えられやすい。
そんなことにならぬよう、
自分の胸一つにおさめて、
じっと成り行きを見て、
判断するのだ。
何ごともないのに、
早まって軽率な嫉妬を、
したりして人の物笑いに、
ならぬようにしておくれ・・・」

紫の上はうなずいた。

源氏の語っているのは、
真実であろう。

女三の宮を迎えても、
あなたへの愛は変らない、
というのは。

しかしそれは、
「男の真実」である。

「男の真実」と「女の真実」は、
少し質がちがう。

けれども源氏は、
紫の上なら、
その違いを乗り越えて、
わかってくれるだろうと、
たのんでいる。






          


(次回へ)

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