武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

094. 舞台美術 -Butaibijyutu-

2018-12-28 | 独言(ひとりごと)

 大阪芸術大学は僕たちの学年が入ってようやく1回生から4回生まで揃った開校4年目の新しい学校であった。
 僕が2回生の時だったと思う。授業や課題作ばかりではつまらない。絵を描くためにこの大学に入ったのだから、と仲間3人と僕の4人で大学事務所に掛け合った。「絵を描きたいから教室を一つ、専用で使わせてください。」

 できたばかりの大学だから当時はバラックの建物があちこちに点在し、そんな中に真新しい鉄筋のモダンな建物が混在していると言ったキャンパスで、仮設造りのバラックの教室には空き室があった様にも思う。
 あわよくばそのバラックの空き教室を使わせて貰いたい。と思って駄目元で交渉に臨んだのだ。

 回答は早い段階で来た。僕たちの要求が受け入れられたのだ。しかも思ってもいなかった、真新しい鉄筋の建物の一教室であった。バラックではない。本当はバラックの方が良かったのかも知れない。思いっきり汚すことができる。でも真新しい教室を使わせてくれるという大学側の好意に大いに感謝した。

 メンバーは1学年上の先輩、確か寺田さんと言ったと記憶している。それと僕と同学年の野口孝、野木井裕の4人。寺田さんは壁一面の大きな絵を描き始めた。野口も早速始めた。僕もベニヤ板1枚半(180x135cm120号程)のパネルをせっせと作り、次々に描きはじめた。野木井はいつもだかスタートは遅い。

 僕の当時のモティーフは工場やコンビナートなどのパイプやジョイントの部分などを画面いっぱいに抽象的に描いていくものであった。色はローズグレーと濃いグレーを基調にしたもので、そんな絵が瞬く間に10枚以上は出来上がっていった。出来上がったといってもどこに出品する宛てもなかった。もくもくと描く行為そのものが楽しかった。

 寺田さんは別として、野木井は浪速高校時代には美術部の1年後輩、野口は2年後輩。まさに浪高美術部のアトリエをそのまま大学に持ち込んだ雰囲気で楽しかったのだ。

 寺田さんは僕たち浪高美術部を知っていた。私学美術展も観ていた。絵を始めたきっかけは僕たちの浪高の1年先輩、六車隆一さんの私学展の絵を観て感化されたのだと言っていた。
 両人とも群像をモティーフにしていたが、勿論寺田さんの絵と六車さんの絵はかなり違っていた。六車さんの絵は明るく力強いが寺田さんの絵は暗く、ゴヤの絵を彷彿とさせる凄みがあった。
 六車さんも同じ大学の1期生だったが、残念ながらその時は既に卒業していた。

 ある日、僕のところに小演劇を演る。というグループから話があった。それは「パネルを貸して欲しい。」と言うものだった。もうすぐ大学の学園祭が始まろうとしている時期で、教室を使って演劇をするのに舞台と舞台裏(楽屋)を仕切るのにパネルを使わせて欲しい。とのことだった。僕がパネルをたくさん持っていると言うのを誰かから聞きつけて来たのだ。僕は描き終わった絵にそれほど執着はない。「どうぞ使ってください。」と言ってあるだけのパネルを全部持っていってもらった。勿論終われば帰ってくるパネルである。 

 演劇の当日僕も鑑賞に出かけた。驚いたことに僕の絵が舞台一杯に並べられていた。仕切りのパネルとして使うつもりが、その絵をそのまま舞台背景として使うことになったのだろう。当日まで僕には知らされていなかったので驚いたのだ。或いは当日になって急遽そうしたのかも知れない。パネルを繋ぎ合わせて楽屋と舞台の仕切りとして使っていることには違いがないが、絵を前面に出していたのだ。一箇所90センチほどの隙間を空け、そこに黒いカーテンをかけ、そこが舞台裏との通路としていた。その黒が、又、アクセントとして締まって効果的だった。 

 小演劇は共産主義的な内容であった。配役は男女4~5人で工場労働者が自分達の問題点を話し合っていくというものであったが、その当時は学園紛争が流行り始めていた時代で、大学にも民生系の集団が幾つかあった様に思う。最も左よりの内容にかかわらず、自分で言うのもおこがましいが舞台背景のお陰で、社会主義的な内容にも拘らず洒落た演劇が出来上がっていたと思う。それに色彩を制限して描いていたせいで、演劇の邪魔にもなっていなくて効果は抜群だった。
 演劇が終わって、配役の紹介などがあり、最後に舞台美術の紹介があった。「舞台美術を担当したのは、そこの客席に居られる武本さんです。」と僕の方を指差して紹介された。

 僕は展覧会に出品しようと描いた訳でもないし、もちろん舞台美術に使ってもらおうと描いた訳でもない。パネルとしてお貸ししただけだけれども、何かこの演劇にぴったりで嬉しかった。それに思わぬところで発表の場が与えられたことになった。
 出来れば写真にでも撮っておきたかったのだが、その当時は勿論デジカメなどはないし、カメラもモノクロが主流で室内での写真が難しい時代でもあった。残念ながらその演劇の写真もパネルの絵も記録は1枚も残っていない。

 僕はその後、音楽プロダクションのアルバイトが忙しくなったのと海外行きの計画が具体化されるに従って大学へは行かなくなった。そのパネルは持ち帰ることなく、そっくり大学に残したままになったが、恐らく燃やされたか、叩き壊されたか、いずれにしろ処分されたのだろう。

 実は最近、その頃の作品のイメージを僕は、絵にしている様に思う。モティーフは工場やコンビナートのパイプではなく、ポルトガルの時代を経た折り重なる町並みである。
 いろいろ紆余曲折はあるものの、長年に亘って、僕が追い求めている、僕の絵の方向性がそのあたりにあるのではないだろうかなどと考えながら制作にあたっている。
VIT

(この文は2011年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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