武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

159.  突然のジオシティーズ閉鎖という通達。

2018-12-01 | 独言(ひとりごと)

 

 いや、突然と言うこともない。半年間の猶予期間はある。

 それは2018年10月1日12:53のメールである。『Yahoo!ジオシティーズ サービス終了のご案内』というもので、2019年3月末日でジオシティーズが終了し、我が家で作っているホームページが見られなくなるのである。

 でも主要なところは既にブログに移っていて、ホームページには表紙、サムネイル画像目次、古い記事などが残されているだけで、それらをブログに移す作業に取り掛かっているところだ。

 大体が自分ではアナログ人間であると思っている。元来が機械に弱く、故障などは直すよりも壊してしまうのが落ちである。だから最初から触らない。

 触らないに越したことはない。パソコンも機械である。

 パソコンをようやく始めたのはポルトガルに来て10年経った頃であったと思う。

 ポルトガルに来る前でも友人の中にはパソコンなどをやっている人は複数いた。でも絵を描く仲間には居なかった。絵を描く人間は元々アナログ人間が多い様な気もする。グラフィックデザイナーの友人も多い。グラフィックデザイナーにとってパソコンは必需品であった筈なのだが、それでもパソコンを触ろうとしなかった友人も居た。

 ポルトガルに来てからも暫くはパソコンなどのことは考えも及ばなかった。

 宮崎に住んでいた頃から毎月、紙のプリントでミニコミ新聞の様なもの『山あいVOICE』というのを作っていた。手書きした紙をコピー屋さんに持って行って100枚ほどコピーしてもらうものであった。それは朝日新聞地方版でも紹介されたこともある。

 その続きでポルトガルに来てからも『ポルトガルのえんとつ』という名前で手書きしてコピーのプリントを作り始めた。友人知人に手紙の返事替わりに、生活の報告代わりに郵送していた。そのプリントが10年は続いたのだったと思う。

 10年くらい経った頃に知り合った隣町に住んでおられた日本人で絵を描かれる10歳ほど先輩の方からパソコンを勧められたのがきっかけだった。「面白いわよ、始めなさいよ」と、女性である。

 一気にパソコンでは自信がなかったので、先ずはワープロから始めた。ワープロも当時としては便利な機械に感じられた。いや、コピーでさえも便利な物だった。

 昔は鉄筆で方眼の蝋紙に書き、謄写版で印刷をしたものである。それも手書き文字である。自分の文章が活字になるなどとは夢にも考えられない時代であったのだ。

 パソコンを始めたのはポルトガルに来て10年目、2000年だったと思う。ノートパソコン『ウインドウズME』を一時帰国した日本で買って持ってきた。個展のための一時帰国で、僕は毎日、展覧会場に詰めなければならなかったが、その個展の期間中にMUZが宮崎市で1週間のパソコン教室に通った。

 ポルトガルに持って帰って、苦労の末インターネットに繋ぐことが出来た。僕はMUZが使うのを後ろから眺めていた。

 次の年の一時帰国で『ホームページビルダー』のソフトを買って来た。何も判らないまま、試行錯誤の末ホームページを立ち上げた。YAHOOジオシティーズに作った。そうしてそれまでは紙のプリントで作っていたミニコミ誌をホームページ上に掲載したのは更に1年後の2002年6月22日であった。最初の文章は2002年7月1日となっている。毎月1回1日掲載で帰国時以外にはずっと続けてきた。それは2012年9月までとなっているからホームページ上での掲載は10年間ということになる。

 この程、連番を打ってみて判ったことだが、ホームページ上に100もの文章を書いたことになる。その後、2012年10月号からはgooブログに移った。ホームページは重さなどの制限があるので、制限のないブログの方が良いのかな、と思ったまでである。写真は大きなサイズを掲載することが出来た。そしてサイトよりブログに移ってからの方が遥かにアクセスは多い。

 ブログに移ってからも6年が過ぎた、そして6年間に58の文章を書いた。合計、実に158個の文章である。その中には1万字を超える長文なども含まれている。旅日記などは挿入写真も多い。我ながらよく書いてきたものだと思う。

 サイトからブログに転載するにあたって、形式が違うのでそのままコピーとはならない。ひととおりは読んでゆく必要がある。これには膨大な時間がかかる。旅日記などはその当時が思い出されてしみじみ良かったな。などと感慨に耽りながら読み進むことになる。

 そう言った意味ではちょうどよい機会を与えられたものだな、などと思う。

 勿論、文章以外にも油彩のページ、画歴のページ、展覧会(個展)のスナップ写真のページなど取り留めもなく広がっている。

 MUZは別にホームページを立ち上げ同じだけのエッセイのページ、それ以外に『ポルトガルの野の花』『コレクション』『セトゥーバル探検』『ポルトガルのキノコ』『ポルトガルの鉄道駅』と膨大に広がっている。

 例えば『ポルトガルの野の花』だけを取ってみても800ページを超えていて1ページに10枚ずつの写真を挿入しているので、単純に計算しても8000枚の写真が掲載されている。

 Yahoo!ジオシティーズに作ったサイトは

2002年6月22日『武本比登志ポルトガルの仕ゴト場』

2003年12月18日『武本睦子ポルトガルのえんとつ』

2004年1月08日『NACK』

2004年8月1日『武本比登志ポルトガルの画帖』

2010年8月15日『ポルトガルの野の花』これは『ポルトガルのえんとつ』の中に作っていたものを独立させたサイトであった。

 この間、膨大なページを作ってきたことになる。

 そして順次ブログに移って行って、野の花などは既に100%ブログに移っている。

 ブログは掲載したのがどんどん奥へ奥へ仕舞われて行って再び見ることが難しくなってくる。それでサムネイル目次のページをホームページに残し、そこからリンクで繋ぐようにしていた。そのサムネイル目次がなくなるのは惜しい。

 そのサムネイル目次をブログに作られないものかと試行錯誤を重ねている。元々、ブログには自然に目次なるものが備わっている。だから必要はないのかも知れないが、自分自身の便宜上ということもある。

 取り敢えずは『エッセイ』の目次。これは文字だけなので簡単であるが、サイトに掲載した100もの文章を移動するのはやはり大変な作業である。毎日ひとつを転載するとしても3か月以上がかかってしまう。

 来年の帰国は2月19日だからぎりぎりだ。戻って来るのは5月15日。その時にはジオシティーズは終わってしまっていて、サイトは見られない。

 それまでには『ポルトガルの野の花』のサムネイル目次は作ってしまいたいと思っている。約800ページ分のサムネイル目次である。

 パソコンも今、主として使っている『ウインドウズ10』で4台目である。それにスマホが加わる。最初の『ウインドウズME』も写真の補正などで毎日の様に未だに使っている。

 インターネットも時代とともに変化をみせている。企業ではなく、個人でのホームページの時代は終わったのかも知れない。ブログよりも既にフェイスブックなどを利用している人の方が多いのだろうか?ブログの時代がいつまで続くのか判らないが、僕にとっては今のやり方が気に入っている。

 数年前からブログに1日1景『ポルトガル淡彩スケッチ』を始めて2018年11月30日現在、1640景。下手くそながら楽しんでいる。そしてこの文章が159話目ということになる。VIT

 

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070. 我が心のシンケンスダム -Zinkensdamm-

2018-12-01 | 独言(ひとりごと)

 先日、一度に4人もの日本人学者がノーベル賞を受賞した。
 日本人にとってこれほど嬉しいニュースはないし、久々の明るいニュースに心躍らされた。
 その内のお二人、小林博士と益川博士のコンビはそのユニークな言動にニュースになることもひときわ多かったし、又、下村博士の蛍光くらげの話も面白かった。

 僕にとってはストックホルムでの授賞式など、懐かしい風景がたびたびテレビ映像に登場したのを楽しんでいた。

 僕たちが海外で最初に住んだ町はストックホルム。
 そのTセントラレン(中心駅)からトンネルバーナ(地下鉄)で南西に4つ目の、シンケンスダム(ZIKENSDAMM)という駅。駅から歩いて僅か2~3分。
 ノレェン家という大きなお屋敷。主たる部屋には家主である、ノレェン夫人と若夫婦が住み、2階の広間は時々パーティ会場として貸して、その他の有り余る部屋を間貸ししていた。

 我々が最初住んだのはその1階部分の1部屋。他にもギリシャ人の夫婦やフランス語教室の先生をしていた独身のフランス人女性などが間借りしていた。トイレ、シャワー、洗濯場、台所は共同。バスタブはなかった。
 部屋の窓からはメラレン湖が真下に広がり真正面の対岸にはあの市庁舎、ノーベル賞の晩餐会が行われるスタッド・ヒューセット(市庁舎)があった。

 部屋の窓のすぐ前は公園になっていて家族連れ、犬連れで散歩に来たり、夏には水着になって芝生に寝転んだりといった市民憩いの場所。澄み切った空気、匂い、音その全てが日本のものとは僕には違ってみえた。
 お屋敷の丁度向いに地域のシンケンスダム教会の鐘楼が聳え、日曜日には鐘の音が鳴り響いた。鐘の音を聴きながら「ああ、ヨーロッパに住んでいるのだ」などと感慨に耽ったものだ。

 仕事が休みの日その公園からスケッチもした。
 ある日、そのスケッチ数枚を市庁舎の庭木に押しピンで留めてみた。その1枚がすぐに売れた。
 買ってくれたのはスウェーデン人の上品な感じの婦人だった。団体観光旅行でどこか地方からストックホルムに出て来たグループの一人だった様で、団体行動の途中だったからか大急ぎで買ってくれた。
 僕は何だか恥かしくなって他のスケッチの押しピンを外し、逃げるようにして市庁舎を後にしたのを憶えている。恐らく僕の生涯で最初に買って頂いた絵がそれだ。

 初めに住んだのは1階だったが、次にストックホルムに戻ってきた時、大家さんがそれまで住んでいた3階の屋根裏部屋を僕たちに提供してくれた。たぶん赤ん坊が生れてその屋根裏部屋では狭くなったためだろう。そこには小さいながら台所とトイレ、シャワーも付いていた。斜めに付いた二重窓からも正面に市庁舎が見えた。寝ながらにして月や星が見えたし、冬には雪が被った。まるで映画か童話にでも出てくる様な、僕にとっては夢の様な屋根裏部屋だった。春にはお屋敷の前庭のサクランボの木にびっしりと実がなった。

 トンネルバーナに乗れば4個目の駅だが、マリア・トリエ(マリア広場)、スルッセン(連結場)、ガムラ・スタン(旧市街)と町並みを楽しみながら歩けばTセントラレンまでもそれほど遠くはなく歩ける距離だ。
 Tセントラレンからドロットニング・ガータン(王妃通り)を少し上ればコンサート・ホールはすぐ傍だ。
 ドロットニング・ガータンにはストックホルム大学に通っていた時の教授・ロセェン先生のアパートがあった。何でも昔の著名な作家の住まいだったそうで階下は図書館になっていた。とにかく由緒のある家で500号くらいの大きな歴史画的な油彩が居間の壁に張られ、やたら部屋数が多かったのを覚えている。

 コンサート・ホールはノーベル賞の授賞式が行われるところとして有名だが、コンサート・ホール前広場にはいつも果物などの露店市が出ていたし、その隣のエスカレーターを下ると公設市場になっていて、僕たちも時々鯖などを買いに出かけていた。
 近所のスーパー・コンスン(KONSUM)では魚といえば、ニシンかウナギの燻製か瓶詰め酢漬けのシル(イワシの一種か)くらいしかなかったからだ。

 僕たちもコンサート・ホールにはたびたび出かけた。
 授賞式ではなくてコンサートを見にだ。そこでマイルス・デイヴィスやデューク・エリントンも見たし、ジュリエット・グレコも見た。演目は忘れたがクラシック・バレーを見たこともあった。

 コンサート・ホールのすぐ裏手にあったロシア料理店で皿洗いのアルバイトをしていたこともある。
 以前に働いていた、百貨店エンコ(NK)前にあったリラ・ショペンハムン(小コペンハーゲン)という名前のレストランと比べれば100分の一暇な店で、大学のノートを開いてウエイトレスからスウェーデン語の判らないところなど教わったりもしていた。コックはトナカイ料理やロシア風じゃがいもの焼き方など僕に教えてくれた。

 そう言えばリラ・ショペンハムンでは僕もコックをしていたが、スウェーデン人のコックは1人も居なくて他のコックも全員が外国人だった。
 シェフがギリシャ人のコンスタンティン、副シェフはポーランド人の亡命者。平コックもユーゴ人やオーストリア人そしてポルトガル人のルイス。お客が一時にたて込んで猛烈に忙しくなるとコックたちと言えどパニック状態に陥る。そんな時、手が早くがぜん能力を発揮したのがルイスと僕だった。

 そのレストランのメニューに「牛フィレのマデイラ・ソース和え」というのがあった。
 ソースを仕込む時、伝票を書いてカウンターからその分量のワインを貰うのだが、経営者側はマデイラ・ワインは高価なので安いワインで済ませようとする。
 そうするとルイスは店中に響き渡る大声を張り上げて「これはマデイラではな~い!」などと言い張っていた。
 「ルイスは今どこで何をしているのだろう。」などと時たまふっと思ったりする。アゼイタオンの露店市を歩いていても「あれはもしかしたらルイスでは?」などと思うことがある。似ている顔つき体型はセトゥーバルにはよく居るのだ。

 ノーベル賞の晩餐会ではセトゥーバルの「モシュカテル・セトゥーバル」が供されるとのことだ。モシュカテル・セトゥーバルはアゼイタオンで作られている。
 王妃の隣に益川博士が座られたが、モシュカテルを味あわれたのだろうか。
 ノーベル賞を授与されたグスタフ国王が国王に即位した時、僕はちょうどリラ・ショペンハムンのキッチンでコックをしていた。キッチンのテレビにその様子が中継されていたのをマネージャーのアンダション氏が見てうれし涙を潤ませていた。アンダション氏にしてみれば、グスタフ国王が生れた時からずっと見てきたに違いない。アンダション氏もお元気だろうか?
 あの頃はまだ独身で即位されたのだが、グスタフ国王も随分お歳を召されたものだ。

 市庁舎を更に下った警察本部と港に近いところにあった「シントラ」というバーでアルバイトをしていたこともあった。
 若い荒くれの船員たちが大勢たむろする店で僕はお客が飲み終わったビア・ジョッキを片付けて洗うだけの夜中の仕事。
 その頃は知らなかったのだがシントラはポルトガルの地名だ。バイロンはかつてシントラのことを地上の楽園「エデンの園」と讃えた。
 ストックホルムのシントラでは腕に刺青のある、まるでポパイとブルートの様に、荒くれの客同士で殴り合いが絶えなかったし、それを取り巻く若く美しい女性たちも酔ってテーブルに乗りストリップを始めたりと…。
 その殴り合いやストリップを止めに入るのも僕の仕事?だった。
 今から思うと、僕の人生の中で後にも先にも考えられない別世界の空気が漂っていた。
 ある意味で「エデンの園」であったのかも知れない。

 僕は1度しか行ったことがなかったが、ガムラ・スタンに「ボバデラ」という名のディスコがあった。日本人のたまり場で通称「お寺」と親しまれていた。
 そのお寺で知り合ったスウェーデン人女性とその後結婚して、2人の子供をもうけ、子供も成人し、今も尚ストックホルムに住んでいる日本人の友人がいる。
 僕が東京表参道で個展をした時、たまたま彼も帰国中で個展会場を訪ねてくれ旧交を温めた。その彼が彼女と出会ったボバデラもポルトガルの地名だ。

 その頃には、僕が将来ポルトガルに暮らすなどとは夢にも思わなかったことなのだ。
 今、セトゥーバルの下町、アヌンシアーダ教会の鐘の音を遠くに聞きながら、懐かしいシンケンスダム教会の鐘の音がオーバーラップして僕の心に響き渡る。
 あれから30数年、毎週日曜日には休むことなく鳴り続けているのだろうか。
VIT


(この文は2009年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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