武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

081. マリアのビスケット -Biscoito-

2018-12-11 | 独言(ひとりごと)

 今、宮崎県では口蹄疫で大騒ぎの様子。
 数年前、僕たちが宮崎に滞在中にも口蹄疫で宮崎空港の入り口マットに消毒液が浸され、じゅくじゅくしていて、それを跨いで3階のギャラリーに通っていたのが思い出される。
 今回はその時どころではない。せっかく新たな宮崎名物になった<肉巻きおにぎり>もどこかへ吹っ飛んでしまったのではないだろうか。

 昨年は世界中で新型インフルエンザ。
 その前にもノロウイルスや鯉ヘルペス、豚コレラ、狂牛病などなどこのところ変なウイルス騒ぎが多い。お陰でポルトガルの我が家では牛肉はすっかり食べなくなったし、刺身や寿司など生魚を食べる回数がめっきり減った。パリに行っても生牡蠣は控える様になった。ウイルスだけではなく残留農薬問題、偽装表示などと食に関する心配は尽きない。

 数年前、カミュ全集を読破したのだが、その中に当然代表作「ペスト」も含まれていて、その小説の壮絶さに衝撃を受けたこともあってか、昨年の新型インフルエンザの時には、小説「ペスト」がオーバーラップして人一倍、用心深くなったのかも知れない。
 特に海外に住んでいると<自分の身は自分で守るしかない>という意識が強い。

 ウイルスが蔓延している半年間は一切外出をしなくても持ちこたえる食料などを備蓄することにした。これは常日頃必要不可欠なことの様にも思える。

 先ずは米。これは常に以前からある程度の買いだめはあった。勿論、水も5リッタータンクに15~6杯。それにスパゲッティ。インスタントラーメン。水道や電気、ガスなどが止まっても食べられる、クラッカーやビスケットも蓋付きの発泡スティロールにぎっしりと満杯。
 徐々に買い足したので、使う順番を間違えないようにマジックインクで日付を入れておいた。
 オイルサージンとツナの缶詰。それに桃の缶詰。これは体力が衰えた時、元気を回復するのに有効らしい。

 どうやら新型インフルエンザもカミュの「ペスト」程にはならなくて良かった。

 備蓄食料は順繰り少しずつ消化しなければならない。
 米は、やはりだいぶ味が落ちているが何とか食欲はあるのでそれをいま美味しく頂いている。5袋(2,5キロ)のスパゲッティの内、2袋のスパゲッティには穀虫が付いてしまった。虫を払い落として瓶に詰め替えたが、味に問題はない。
 大量のビスケットやクラッカーは少しずつ毎朝の朝食にしているのだがこれも味に問題はない。
 でもせっかくパンの美味しいセトゥーバルに住んでいるのだから、焼きたてのパンも食べたい。ビスケットとクラッカーの消費はほんの少しずつ徐々にである。

 思えばビスケットなどは久しぶりに食べている。
 僕が子供の頃、生まれ育った家から直線距離にして2~300メートルのところにビスケット工場があった。今川の漆堤まで歩いて川下に3ブロックほど行くとその角にビスケット工場があった。

 その前を通るとミルクと粉の混ざった甘い香りがいつも漂っていた。
 小学校からも課外授業として見学に行ったこともある。型に抜かれた生のビスケットがベルトコンベアを流れていくに従って美味しそうなビスケット色に焼かれていく。工場にはあまり人は居なくて全くのオートメーションの清潔な工場であった。

 中国人の経営で小学校の1学年上級生にその工場の1人娘が居た。美人で背がすらりと高くいかにも金持ちの娘らしくお上品な物腰で僕には近寄りがたい存在であった。
 その工場のあたりは僕の遊びのテリトリーでもあった。ある日、一人で今川沿いを歩いていると工場の入り口の前にその娘が一人で居て、ブドウの実に手をのばそうとしているところであった。工場の入り口にぶどう棚が作られていてちょうど美味しそうに色づいていた。僕がそこに通りかかったのだ。娘は僕を見て「このブドウ食べられるかしら」と僕にむかって言った。
 今まで話したこともない女子の上級生から話しかけられた僕は戸惑ってしまって、どう応えたのか。何かを言ったのか。何も言わなかったのか、忘れてしまったが、そんな思い出だけが鮮明に残っている。

 子供の頃、雷は全く怖くはなかった。
 父は「うちはビスケット工場の避雷針に守られてるから大丈夫や」と言っていたからだ。ビスケット工場には煉瓦造りの高い煙突が聳えていてそのてっぺんに避雷針があった。

 <てなもんや三度笠>の頃だったと思う。「あたり前田のクラッカー」が流行りだした頃、そのビスケット工場はクラッカー工場に変身した。クラッカーの少し欠けたアウトレット品などが近所の人は安く買えた。

 その後、日清のチキンラーメンが流行りだすとラーメン工場へと変った。同級生の母親たちが大勢パートタイム従業員として働きだした。やはり欠けたインスタント麺が安く買えた。

 そしていつの間にか工場は跡かたなく姿を消し、今は小さく分譲され住宅になっていて当時の面影はない。

 今、ポルトガルで食べているビスケットもクラッカーも当時のままの昔懐かしい味がする。

 ポルトガルの人たちはティラミスの材料として使うことも多いのだろう。32枚入りが4本入ったのが1パック。かなりの量である。一番安価で基本的な素朴な丸いビスケット。
 そういったビスケットにはメーカーが違っても何故か必ず<MARIA>と書かれている。MARIAと刻印された回りには歯車の様な模様が施されている。
 ポルトガルではマリア[MARIA]。そしてフランスではマリー[MARIE]。

 マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮殿で女官たちにビスケットを作らせたとか。

 その歯車の様な模様は何でもマリー・アントワネットのハプスブルク家の紋章だそうだ。フランス名、マリー・アントワネットのハプスブルク家での名前はマリア・アントーニアと言った。

 マリー・アントワネットの有名な言葉「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない!」"Qu'ils mangent de la brioche."

 いかにも貴族育ちの世間知らずで高慢な感じがしないでもない、がそうではない。
 食糧難の時代。当時パンにならない質の悪い小麦粉がたくさん採れた。それを何とか食料にするために卵やミルク、砂糖それに時にはドライ・フルーツなどを加えお菓子にしたと言う。それがブリオッシュなのだ。

 お菓子と訳されているがフランス語のブリオッシュ。それはビスケットではなく、ポルトガルのボーロ・デ・レイの様な物なのかも知れないが。

 マリア・アントーニアのビスケット。MUZは「美味しくない」と言うが、僕にとっては申し分のない味がする。

VIT

 

(この文は2010年6月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

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