この本、どなたか知りませんか?
数年前、一瞬ネット上で見つけたのですがあっという間に姿を消してしまった。
東栄町下田の長養院の先代が書いたもので、今では寺にも残っていないとか。
この寺の歴史を調べると戦国時代も別の角度からよくわかりそうな気がしていた。
そもそもこの下田地区の名前さえも、昔昔伊豆の下田からこの地にやってきた住職と
一緒にやってきた人々が住んだと言われる。
よって、この土地に代々住む人たちのうーんと大昔のご先祖の過去帳は伊豆の下田の
寺にある、と先代の住職からは聞いていた。先代は非常に熱心に調べている方で
自分が話を聞きにいった時には、いろいろなことを話してくれたが
しまった、記録をとっていなかった。
しかも今から30年近い昔で、まだ本も出されていなかったと思われる。
その後私も結婚したり出産子育てでバタバタしていたら、
おっさまが急死されたと随分たってから聞いた。
「もっとしっかり話を聞いときゃよかった」
と今さらながら思う。
ただ、当時話の中心は伊豆から移住してきたこと、曽我兄弟の墓が寺内にあること
などだったと思う。曽我兄弟については
「どっかで聞いたことあるけど、何だっけ?」(失礼)
程度にしか知識がなかったので、聞き流してしまった部分も多い。
戦国時代については別所城の伊藤氏が武田信玄の家来であったので云々としか
聞けなかった。しかし、伊藤氏が武田方であったということは
武田家の重臣、家臣がこの地を通って落ちのびていくこともできただろう。
しかも一説によれば光圀舜玉和尚は武田信玄の父信虎の兄弟?叔父?
であり、そのような和尚が伊豆からはるばる移ってくるとなれば
武田家からある程度の家人だったり、護衛だったり、家来だったりが一緒に
移ってきても不思議はない気がする。
なんだか無茶苦茶な考えかもしれんけど、今となっては聞きようもない。
現和尚はそういうことはあまり詳しくないようなので残念だ。
新城市にある「風は山河より」に登場する古刹とも深い関係があったようなので
そちらから調べれば何かわかるかもしれない。
もっとしっかり聞いときゃよかった。
本当に残念。
数年前、一瞬ネット上で見つけたのですがあっという間に姿を消してしまった。
東栄町下田の長養院の先代が書いたもので、今では寺にも残っていないとか。
この寺の歴史を調べると戦国時代も別の角度からよくわかりそうな気がしていた。
そもそもこの下田地区の名前さえも、昔昔伊豆の下田からこの地にやってきた住職と
一緒にやってきた人々が住んだと言われる。
よって、この土地に代々住む人たちのうーんと大昔のご先祖の過去帳は伊豆の下田の
寺にある、と先代の住職からは聞いていた。先代は非常に熱心に調べている方で
自分が話を聞きにいった時には、いろいろなことを話してくれたが
しまった、記録をとっていなかった。
しかも今から30年近い昔で、まだ本も出されていなかったと思われる。
その後私も結婚したり出産子育てでバタバタしていたら、
おっさまが急死されたと随分たってから聞いた。
「もっとしっかり話を聞いときゃよかった」
と今さらながら思う。
ただ、当時話の中心は伊豆から移住してきたこと、曽我兄弟の墓が寺内にあること
などだったと思う。曽我兄弟については
「どっかで聞いたことあるけど、何だっけ?」(失礼)
程度にしか知識がなかったので、聞き流してしまった部分も多い。
戦国時代については別所城の伊藤氏が武田信玄の家来であったので云々としか
聞けなかった。しかし、伊藤氏が武田方であったということは
武田家の重臣、家臣がこの地を通って落ちのびていくこともできただろう。
しかも一説によれば光圀舜玉和尚は武田信玄の父信虎の兄弟?叔父?
であり、そのような和尚が伊豆からはるばる移ってくるとなれば
武田家からある程度の家人だったり、護衛だったり、家来だったりが一緒に
移ってきても不思議はない気がする。
なんだか無茶苦茶な考えかもしれんけど、今となっては聞きようもない。
現和尚はそういうことはあまり詳しくないようなので残念だ。
新城市にある「風は山河より」に登場する古刹とも深い関係があったようなので
そちらから調べれば何かわかるかもしれない。
もっとしっかり聞いときゃよかった。
本当に残念。
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