◇延宝 七年(1679)☆素堂38才 芭蕉、36才
*** 素堂の動向 ***
☆四月、『富士石』発句二入集。岸本調和編。
此ごろの龜を
二万の里唐津と申せ君が春 来雪
かな文や小野のお通の花薄 々
〈異〉そろべくや小野のお通が花薄(校本とくとくの句合)
*『富士石』俳諧撰集。岸本調和縞。
延宝七年四月、調和がかつて編集したまま未刊に終った『石亀集」の中から、時流に遅れた句を捨て、新たに他から選んだ句を加えて上梓した四季発句集。調和としては最初の撰集であるが、本書に句を寄せた作者は巻末に付載する句引が示すように三百六人の多数に及び、しかもそのうち有名に近い者が、調和あるいはその壷瓢軒の軒号の一字を名乗っている。当時、江戸俳壇で最も勢力のあったこの派の偉容を知ることができる。入集の知名作家に任ロ・霜沾・未得・未琢・言水・不ト・幽山・蝶々子・来雪(素堂)・露言等
『俳諧大辞典』〔荻野〕明治書院
☆五月上旬、『江戸蛇之酢』発句一入集。言水編。
西行は富士を詠けんが組蓬莱 言水
から井戸の御法待らんあま蛙 々
みよし野た天玉かくす八重桜 々
定家おかし四方の執心花おかづら 々
花ぞやどり乞食浪人幕づくし 々
御身拭浄土や北の越後布 々
唐人だこ分来る方や糸貨(クワ)物 々
ふじニて
山は扇汗は清見が関なれや 来雪(素堂)
〈異〉富士は扇汗は清見が関なれや(『俳枕』)
阿蘭陀も花に来にけり馬の鞍 桃青
万歳やあ富士の山彦明の春 青雲(甲斐・松木氏)
髪結と青豆うりと白露と 信徳
口切や今朝はつ花のかへり咲 風虎
分て今朝四方も秋也曾我の宿 露沾
出替や宿はととはゞ櫃一つ 一鐡
忠峯が目脂やあらふ花の瀧 幽山
▼芭蕉入集句
阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍 桃青
雨降ければ
草鞋尻折てかへらん山桜 桃青
わすれ草菜飯につまん年暮れ 桃青
*『江戸蛇之鮓』えどじゃのすし 紫藤軒言水編
延宝七年五月成。前年の『江戸新道』につゞく言水の第二撰集で、諸家の四季発句と言水独吟の百韻・歌仙各一巻を収めている。風調がなお談林風であることはいうまでもないが、松意一沢とは別な道を歩んだ言水らの足跡を示す集として、注意される。桃青・来雪(素堂)・杉風・信徳・幽山・調和などの句も見える。
題号は、百韻の立句「蛇のすしや下に馴たる沖の石」によっている。
○下里知足伝来書留 市中より東叡山の麓に家を移せし頃。
秋 市中より上野不忍の他のほとりに移り隠棲する。
☆桃青両吟発句脇二組 三吟三物一組。
・鮭の時宿は豆腐の両夜哉 素堂
茶に煙草にも蘭の移り香 芭蕉
・塔高し梢の秋の嵐より 素堂
そぞろ寒けき池の見わたし 夷宅
一羽二羽鳥はあれども声もなし 芭蕉
張抜の猫も知る也今朝の秋 芭蕉
・七つになる子文月の歌 素堂
▽素堂と名乗るのは翌年から、芭蕉は三四年後に、桃青から芭蕉へ。
☆九月、『玉手箱』発句一入集。蝶々子編。
・塔高し梢の秋の嵐より
『とくとくの句合』に
左 忍の岡のふもとへ家をうつしける頃
塔高し梢の秋のあらしより
左、梢の茂りたるうちは塔も見え隠れなるべきを、秋のすゑよりまばらに成て、嵐のうちより塔の生出たるありさまさながら、畫出せるがごとし。
・目には青葉山郭公はつ鰹 来雪
*『玉手箱』 俳諧撰集。花楽軒蝶々子編。
延宝七年九月刊。京、笹屋三良左衛門板。江戸の蝶々子が古今及び南国の四季発句を、各季ごとに一冊として上梓した集で、春の部一冊はなお伝本の所在を詳らかにしない。巻末に句引がある。延宝四年に出た同じ編者の『俳誹当世男』の序に、「前なる玉手箱の鏡を押たて誹諧当世男を作りなし」とあるから、本書は一応延宝四年以前に成立し、のちに増補したものと考えられる。
『俳諧大辞典』 明治書院〔荻野〕
▽素堂、『芭蕉門人真蹟集』(掲載写真より)
枯木冷灰物不月 遊魂化螺舞者風
夢中説夢伝千□ 真夢出醒詐試終
素堂主人 来雪
▽素堂、九月、『二葉集』付合四章入集。西治編。 未見。
『二葉集』 俳諧付合集。来山跋。西鶴『物種集』続編。俳諧の付合一千組、宗因、西鶴を多数収録する。
『物種集』ものだねしゅう 俳諧付句集。井原西鶴編。自序。
題答には『俳諧物種集新付合』とある。
延宝六年(1678)九月、大坂、生野屋板。但し松寿軒西鶴と署名した序には「延宝六年午霜月朔日」とある。自序によれば、当今の俳諧は人まねの古風か新しすぎて、よい当流の付合はまれなので、五年あまり小耳にはさんだ一座の付句を五百組あつめたとある。「是をみるに、また言の葉はつきせぬ物種也」というのが書名の所以で
ある。宗因の付合四十七組、西鶴のものが三十八組、その他、玖也・遠州・益翁・保友・如見・素玄・元順・一礼・悦春・幾音・木因・西国・由平・任口・江雲・可久・兼学・賀子らの名が見える。天理図喜館蔵の表紙見返しに「大坂申中俳諧月次日」が掲げられている。
『俳諧大辞典』明治書院
▽▼芭蕉発句 素堂脇句
はりぬきの猫もしる也今朝の秋 芭蕉
七つ成子文月の歌 素堂
【註】この発句を録した尾張鳴海の下郷家(知足家)伝来の書留には、三組の付合が一紙同筆で書かれている。(筆者不明)
「はりぬきの」句には、「七つに成子文月の哥」という素堂の脇が付けられ、外に素堂・芭蕉の発句・脇、素堂・夷宅・芭蕉の三物が見える。第一の付合の素堂の発句の前書に「市中より東叡山の麓に家を移せし比」とあるが、素堂の上野移居は彼が延宝七年晩秋春に長崎から帰って間もなくの頃といわれる。当面の付合には何れも素堂が顔を出しており、三組発句は秋季なので延宝七年秋の作と推定してよかろう。(『芭蕉発句全講』阿部雅美氏著)
**** 芭蕉の動向 ****
望月千春編『かり舞台』に「松尾宗房入道」と見え、すでに剃髪していた。西村未達編『俳諧関相撲』に、三都の点者十八の中の一人としてあげられている。
▼春 岸本調和編「富士石」刊行。これに、芭蕉が万句興行を催して立机披露したことを祝す、俳友相楽等躬(須賀川)の発句が入集している。
「富士石」より。
桃青万句に 三吉野や世上の花を目八分 等躬
○等躬は、芭蕉の師北村季吟と同じ貞門の石田末得を師とする須賀川の俳人。
*** 芭蕉年譜 櫻井武次郎氏著 *** 芭蕉宗匠に
延宝七年(一六七九)己未 江戸在住
〇三月、千春撰『かり舞台』(伝本不明)に「松尾宗房入道」とみえ、すでに剃髪していた。
〇未達『俳諧関相撲』(天和二刊)に、三年前批点を得たという芭蕉、三部一八人の宗匠の中に入る。
○大坂の公木、一月二一日、東下に発つ。
○信徳、春、江戸から帰京。
〇三千風、三月五、六日に仙台梅睡魔で三千句独吟矢数俳誇を興行(『仙台大夫数』)。
○鳴海の知足、有馬入湯の帰途七月一〇日に大坂の西鶴を訪ね、一三日に京に出る。
○高政の『俳諧中庸姿』(九月刊)をめぐり 上方俳壇に新旧入り乱れての論戦が起こり、翌年に続く。
○素堂、この年不忍池畔に退隠か。
○仙台の一水が大坂へ出、元禄年間まで住む。
○令徳、この年没か(九十一才)。
----周辺の動き----
▽高政『誹諧中庸姿』 ▽随流『誹諧破邪顕正』
▽維舟『誹諧熊坂』 ○宗臣『詞林金玉集』
▽維舟『名取河』 ▽辰寿『道頓堀花みち』
▽旨恕『わたし船』 ▽益友『一日独吟千句』
▽一礼他『ぬれ烏』 ▽西鶴『梅松千句』 ○西治『二葉集』 ▽三千風『仙台大夫数』 ▽西国『見花数寄』
○才丸『坂東太郎』 ○言水『江戸蛇之酢』
○調和『富士石』 ▽心友『伊勢宮笥』 ○蝶々子『玉手箱』
▽書親『喚続集』 ▽任ロ『百番発句合』 ▽未詳『付合小鏡』
----芭蕉発句----
ささげたり二月中旬初茄子
張抜きの猫も知る也今朝の秋 (知足書留)
霜を踏んでちんば引くまで送りけり(茶の草子)
霜を着て衣片敷く捨子哉 (坂東太郎)
盃や山路の菊とこれを干す (坂東太郎)
今朝の雪根深を園の枝折哉 (坂東太郎)
櫓声波を打って腸氷る夜や涙 (発句集)
延宝 七年(一六七九)『俳文学大辞典』角川書店
三月、三千風、仙台で大矢数(『仙台大矢数』)興行。奥羽俳壇席捲の端緒。
四月、『富士石』刊(序)、江戸における調和門の隆盛を示す。
九月、高政『誹話中庸姿』刊か。この書をめぐつて以後新旧入り
乱れて大論争起こる。
書『伊勢宮司』『江戸蛇之鮓』『延宝千句』『芋くそ頭巾』
『大坂一日独吟千句』『仮舞台』『河内鑑名所記』『句箱』
『見花数寄』『西鶴五百韻』『詞林金玉集』『杉のむら立』
『玉手箱』『太郎五百韻』『談林風百韻二巻』『塵取』
『道頓堀花みち』『飛梅千句』『ぬれ烏』『俳諧熊坂』
『誹諧破邪顕正』『梅酒十歌仙』『箱柳七百韻』『坂東太郎』『百番誹諧発句合』『尾陽鳴海俳諧喚続集』『風鳶禅師語路句』『二葉集』『陸奥塩竃一見記』『雪之下草歌仙』『夢助』
『両吟一日千句』『わたし船』
** 池西言水(ごんすい)の発句 **
法花寺につむや南無妙ほうれん草 (続大和順礼)
浅茅生の碪(きぬた)に躍る狐哉 (京日記)
百舌鳴て朝露かはく木槿(むくげ)かな(京日記)
比叡高く吹かへさる暴風(のわき)哉(前後園)
凩の果はありけり海の音 (都 曲)
はづかしと送り火捨ぬ女がほ (大 湊)
来ぬ人よ炉中に煙る椎のから (一字題)
鯉はねて水静也郭公 (初心もと柏)
鳩眠る冬木ながらや桔槹(はねつるべ)(初心もと柏)
児消ぬ奥ほさゞん花山崩壁 (初心もと柏)
** 小西来山の発句 **
春風や堤ごしなる牛の声 (生駒笠)
幾秋かなぐさめかねつ母ひとり (生駒堂)
秋風や男所帯に鳴衛 (犬居士)
白魚やさながら動く水の魂 (きさらぎ)
身を抱ば又いきどしき夜寒哉 (かれこれ集)
春の夢気の違はぬが恨めしい (古選)
行水も日まぜになりぬ虫の声 (古選)
お奉行の名さへ覚へずとしくれぬ (真蹟)
*** 小西来山 ***『近世略人伝』
来山は小西氏、十万堂といふ。俳諧師にて、浪華は南、今宮村に幽栖す。為リ人曠達不拘、ひとへに酒を好む。ある夜、酔いてあやしきさま にて道を行けるを、邏卒みとがめて捉へ獄にこめけれども、自ヲ名所をいはず。二三日を経て帰らざれば、門人等こゝかしこたづねもとめて、官も訴えしにより、故なく出されたり。さて人々、いかに苦しかりけん、とどぶらへば、いな自炊の煩らひなくてのどかなりし、といへり。又あるとしの大つごもりに、門人よ りあすの雑煮の具を調じて贈りたれば、此比は酒をのみ呑みて食に乏し。是よきものなりとて、やがて煮て喰て、「我春は宵にしまふてのけにけり」と口号たり。妻もなかりし旨は、女人形の記といふ文章にてしらる。其中、湯を呑ぬは心うけれど、さかしげにもの喰ぬはよしといひ、また舅はいづこの土工ぞや、あらうつゝなのいもせ物語や、と筆をとゞめて、「折ことも高ねのはなやみた斗」といへるもをかし。すべて文章は上手にて、数篇書きあつめたるを、昔ある人より得たるが、ほどなく貸うしなひて惜くおぼゆ。発句どもは人口に膾炙するが多き中、箏の絵賛を、禿筆してかけるを見しと人のかたれるに、その物を育んとて其物を損ふ、と詞書して、「竹の子を竹にせんとて竹の垣」といへるなど、行状にくらべておもへば、老荘者にして、俳諧に息する人にはあらざりけらし。さればこそ、其辞世も、来山はうまれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし。といへりとなん。
**延宝七年(一六七九)(この項『俳文学大辞典』角川書店)
**素堂(三十八才)肥前唐津で迎春。暮春のころ江戸帰着(とくくの句合・誹枕他)。この年致任し上野不忍池畔に退隠。
**嵐雪(二十六才)十一月二十七日土方河内守雄次致仕し(徳川実紀)再び浪人か。
**其角(十九才)『坂東太郎』(才暦撰、師走下旬序)「其角」として発句三入集。
**高政、西鶴の大矢数を暗に難ず。
**西鶴『物種集』、幽山『江戸八百韻』。
**不卜『江戸広小路』、『俳諧或問』刊》
**高政『中庸姿』を、随流『破邪顕正』が難じ、翌年にかけて貞門・談林入り乱れての大論戦、泥試合となる。
**惟中『近来風体抄』、*三千風『仙台大矢数』、
**才丸『坂東太郎』刊)