歴史文学さんぽ よんぽ

歴史文学 社会の動き 邪馬台国卑弥呼
文学作者 各種作家 戦国武将

▼芭蕉の生まれと周辺    この項(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)

2023年09月02日 18時49分57秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

▼芭蕉の生まれと周辺

   この項(「松尾芭蕉」昭和36年刊・阿部喜三男氏著)

 素堂も芭蕉も江戸で活躍する以前の動向は定かではない。それは阿部氏の「松尾芭蕉」の展開で理解できる。

*生まれた年

芭蕉の生まれた年は、その没年の元禄七年(五十一歳説・1694)から逆算して、正保元年(1644)とされる。ただし、門人の筆頭其角は五十二歳とし(自筆年譜)、他に五十三歳とする説もあるが、同じく門人の路通(「芭蕉翁誕生記」)や許六(「風俗文選」)・土芳(「蕉翁全伝」)らが五十一歳とし、芭蕉自身が書いたものの中にもこれがよいと思われるものがあるので、享年は五十一歳と推定されるのである。

正保元年は寛永二十一年が十二月に改元された年であるから、寛永二十一年生まれとすべきだという説もあるが、生まれた月日については推測できる資料はない。

ちなみに、この年は第百十代後光明天皇、三代将軍徳川家光の時代であるが、俳壇では中心人物松永貞徳が七十四歳になっていて、その俳論書『天水抄』の稿を書きあげた年である。

 

*偉人伝説

芭蕉に限ったことではないが、偉人の伝記にはその賛仰・顕彰の気持から生ず余計な詮索や付会、伝説・異説がつきまとう。

たとえば、僧文暁編著『俳諧芭蕉談』『芭蕉翁反故文』(一名、花屋日記)『次郎兵衛物語』『凡兆日記』などは有名だが、虚構的作品。

*芭蕉伝記いろいろ

芭蕉伝書といわれる『芭蕉翁二十五条』・『桐一葉』『幻住庵俳諧有也無也関(うやむやのせき)』などの、俳論書あるいは作法書も信じられない。

『翁反故』は二百二十余通を含む「偽書簡集」。芭蕉の書簡で信用できるものは今のところ百五十通ほどであるが、あやしいものの数は、「翁反故」も含めて、その三倍強ほども管見に入っている。

発句についても頴原退蔵校註.山崎喜好増補『芭蕉旬集』(『日本古典全書』)で見ると、存疑句が五三九、誤伝句が二〇四句もある。その他、詠草・画賛・短冊の類にもあやしいものがおびただしくある。まったく油断はできないが、そうしたものの中にも考慮すべきものがないでもない。こうした資料をかきわけながら、なるべく正確な芭蕉伝を書きたいと思う。

 

*芭蕉の先祖・家系

芭蕉の先祖・家系については門人支考が享保三年(1719)刊『本朝文鑑』に載せた「芭蕉翁石碑ノ銘」序に「その先は桃地の党とかや」といつたが、同じく門人土芳稿『蕉翁全伝』には記載がない。土芳の門人で伊賀上野(三重県上野市)の藤堂采女(うねめ)家の家臣竹人が師の稿をうけて、宝暦十二年(1762)に書いた『芭蕉翁全伝』には、

「弥平兵衛宗清の裔孫にして、伊賀の国柘植の郷、日置・山川の一族松尾氏也。中頃の祖を桃司(ももじ)某郁証某といふ」

とし、松尾家系略図を載せる。そのころ同じく上野の藤堂新七郎家臣安屋冬李(とうり)が上柘植の富田杜音に送った『蕉翁略伝』にも同様に見え、杜音と交渉のあった蝶夢の『芭蕉翁絵詞伝』に至って、この説が詳説された。

 

*芭蕉の先祖

あずまかがみすなわち、芭蕉の先祖は『平家物語』『源平盛衰記』『東鑑』(吾妻鏡)などに見える平宗清で、その一族が柘植に住みつき、その子孫になるというのである。どこまで正確なのかはよく測定しかねるが、そのころ以後の芭蕉伝の諸書はこれを認め、宗清の子孫が柘植付近に住んでいることは今でも認められる。それで、芭、蕉が生まれた所は柘植だとする説も出たのである。

*故郷

拓殖は三重県上野市の東北方約十五キロ、芭蕉柘植誕生説は利一ちの『芭蕉翁伝』(「奥の細道菅菰抄」)、竹二坊の『芭蕉翁全伝』(寛政10年)等これを採るものが多いが、この説の弱点は芭蕉白身の書いたものの中にそれと明らかに認められるものが一向にないことである。

路通の『芭蕉翁行状記』(元禄8年)に「芭蕉老人本土は伊賀国上野にあり」と記し、竹人の『芭蕉翁全伝』は「上野の城東赤坂の街に生る」と記す。芭蕉の書いたものも故郷とするのはこの地であった。たとえば、「伊陽の山中」に帰るといい、

「ふるさとや膳の緒に泣く年の暮」(貞享4年)

とよんでいるのは赤坂町の兄の家で、ここに芭蕉の臍の緒も保存されていたのであろう。

家系説も拓殖誕生説も後年の付会だとする説もあるが、厳密に生まれたところを突き止めるためには、松尾家が赤坂町に住み着いた時期究明する必要がある。だが、それは今では明確にはなしがたく、芭蕉のよんでいる故郷の意味で、それは伊賀上野赤坂町と認めていかなければならない。

 

*芭蕉の父

芭蕉の父名についても異説があるが、与左衛門とするのがよい。土芳の『蕉翁全伝』に「上野赤坂住」とあるから、この人の時からそこに住んでいたと認められる。柘植の福地家系図には慶長のころ上野に移住したとある。慶長といえば、その十三年(1608)に藤堂高虎がその辺の領主となって、上野城およびその城下町を経営し始めたころであるから、そのころ柘植の農士松尾与左衛門が志を抱いて、そこに移住したことを考えても不自然でない。

その父は、貞享五年二月十八日に三十三回忌が催されているので、逆算して明暦二年(1655)同日、芭蕉十三歳の時に死んだと考えられているが、年齢はわからない。冬李の『蕉翁略伝』に「手蹟の師範」と伝えるが、それも確かにはわからず、どこに出仕したという伝えもない。

母は土芳の『蕉翁全伝』に、伊予宇和島、桃地氏女」とあり、竹人の『芭蕉翁全伝』に「伊予の産、いがの名名張に来りて其家に嫁し、二男四女を生す」とある。高虎は伊予から伊勢・伊賀に転封されて来たので、それにつれて伊予から移住して来た桃地(あるいは百地・百司)氏の娘であったろうと考えられている。

天和三年(1683)六月二十日、芭蕉四十歳の時に死んでいるが、年齢はわからない。前記支考の桃地、その他桃青・桃印・桃隣の桃をこの母の縁に考え寄せる説があり、名張より上野に近い友生(とものう)村喰代(おうしろ)の百地家かと考える説もある。

また、元禄七年(1694)九月二十三日付兄半左衛門宛芭蕉書簡に「はは様」とあるので、父与左衛門に権妻(妾)があったかとする説や、これを「ばば様」とよみ、祖母とする説もある。

兄は一人説がよい。この人が手蹟師範だったとの説もあるが、はじめ藤堂内匠家に、のち藤堂修理長定に仕え、上野における松尾家の菩提寺愛染院の過去帳によると、元豫十四年(1701)三月晦日に死んでいる。年齢はわからない。

右の内匠家は食録二千石、津に本城を置いた藤堂藩の伊賀付藩士で、上野城二の丸に邸宅があったが、天和二年(1682)十二月に修理家と交替して、津に移った。修理家は食録千五百石、長定は俳号を橋木と称し、芭蕉の門に遊んだ人である。半左衛門は農家から引続いて修理家に仕えたわけで、後述するが、身分は低いものであったらしい。

この兄に宛てた芭蕉の書簡に、依頼された援助をことわったり(貞享年間八日付書簡)年末の送金ができなかったと謝ったり、(元禄二年正月付書簡)正月の餅代としてもらった金を送ったたり、また去来宛書簡(元禄四年七月十二日付)にもその配慮が見えるので、芭蕉は時々この兄へ送金していたとが考えられる。

この芭蕉の送金はその妻子を兄の家にあずけていたからだと考える説があるが、そのことは(後述もするが)確められない。事情はよくわからないが、兄の家の経済が楽ではなかったことは考えなければなるまい。

愛染院の過去帳によると、半左衛門の妻は宝永二年(1705)に死んでいるが、元禄元年(1688)九月十日付卓袋宛芭蕉書簡に「姉者人」の死が見えるのを、半左衛門の妻のことと考え、過去帳に見える妻は後妻だろうとする説もある。

また、同過去帳に元藤十二年十月十七日没とある松尾又右衛門をも、芭蕉の兄とする説があるが、これは土芳の「蕉翁全伝』によると、半左衛門の子で、それが死んだので、末妹およしを半左衛門の養女としたと考えるのがよいであろう。妹は三人であるが、末妹は上記のごとく、兄の養女となり、一人は片野氏へ、一人は堀内氏へ嫁した。片野氏は家号を幹.彫屋といった伊賀上野、宮の前の商家。芭蕉の妹の夫は通称を新蔵・俳号を望翆といって、芭蕉の門人となり、俳譜をたしなんだ。宝永二年八月二十四日没、九品寺に葬る。同寺の過去帳によると、その妻(芭蕉の妹)は元禄九年に死んでいるらしい。堀内氏も家号を丸屋といった伊賀上野、本町の商家。もと伊予から移住して来た家というから、芭蕉の母方の知りあいであったか。同家の菩提寺西蓮寺の過去帳によると、芭蕉の妹は宝永二年に没したらしい。

 

**芭蕉の姉

土芳や竹人の記す姉は一人である。その姉は山岸重左衛門、俳号半残に嫁したとの説があるが、半残は芭蕉より年下なので、その父同重左衛門、俳号陽和の妻だったろうとの説が出た。また、山岸家は五千石の藤堂玄蕃家の臣で、陪臣ではあるが三百石前後の家であり、家柄から見て松尾家と格差がありすぎるとし、この婚姻関係を否定する説もある。

芭蕉との関係で半残は最も親しかった伊賀蕉門の一人と見受けられ、妻といっても、このころは正妻ならぬ妻も考えられるから、山岸家との姻戚関係も全然否定し去ることもできないように思うが、土芳はこの姉は早死したと記している。ほかに中尾氏に嫁したとの説もあるが、これも証左なく、この辺はどうもはっきりしていない。 なおまた、芭蕉の書簡中にはこの姉とは思えない別の姉の存在が考えられる点が出てくるので、それについて異母姉を考えたり、次に述べる寿貞の姉や桃印の母を推量したりする説がある。

 

**寿貞尼

問題の女性、寿貞のことは芭蕉の最晩年の元禄七年の文献上にあらわれてくる。すなわち、

(一)同年五月十六日付曾良宛芭蕉書簡中に、留守にしている深川の芭蕉庵について述べるところに、「寿貞も定而移り居可申」とあり、

(二)、閏五月二十一日付杉風宛中に、病人の寿貞が芭蕉庵中にいることが見え、

(三)六月三日付猪兵衛宛中にも寿貞のことを心配しているが、(四)六月八日付猪兵衛宛中には、寿貞が、まさ・おふう・理兵衛らを残して死んだことが見える。

(五)芭蕉はその七月に寿貞たまの死を悲しんで、「数ならぬ身とな思ひそ魂(たま)祭り」とよみ、

(六)十月の遺言状の中にも、奮の世話をしてくれた猪兵衛の感謝の言葉をのこしている。

そして、後年の文献(「小ばなし」)でではあるが、門人野坡の回顧談中に「寿貞は翁の若き時の妾にて、とくに尼になりしなり。其子次郎兵衛もつかひ被申し由」と見える。

次郎兵衛が寿貞の子であることは、其角の「芭蕉翁終焉記」の中にもすでに書かれているが、その次郎兵衛は元禄三年には江戸にいたと認められる(曾良芭蕉宛書簡)から、寿貞もそのころには江戸にいたらしい。ほぼ以上のような文献から、寿貞に関する諸説があらわれている。すなわち、

(一)芭蕉の故郷亡命説に結んで、藤堂家出仕時代に関係の生じた女性とする説。

(二)芭蕉の「閉関之説」から考えて、芭蕉の遊蕩時代に関係の生じた玄人女(遊女)とする説。

(三)次郎兵衛を芭蕉との間の子とする説。

(四)次郎兵衛のみならず、理兵衛・まさ・おふうも芭蕉との間の子とする説。

(五)理兵衛は寿貞の父、まさ・おふうは芭蕉と別れた後の夫との間の子とする説。

(六)猪兵衛を寿貞の姉の夫とする説。

(七)次郎兵衛も芭蕉との間の子ではないとする説。

(八)寿貞は後述する桃印の妻であったとする説。

(九)まさ、が桃印の妻、おふうが猪兵衛の妻であったとする説。

(十)寿貞はその子らと共に長く芭蕉の故郷の兄の家に同居していたとする説。

(十一)寿貞は元禄六年には再建の芭蕉庵に同居していたとする説。

(十二)右の芭蕉庵同居説を否定する説。

(十三)門人野坡談を信じ得ぬとし、芭蕉との妻妾的関係を認めない説。

その他、詳細に及んではここに書きつくせない。

 

**若き時の妾

故郷上野の念仏寺の過去帳、二日の条に「松誉寿貞中尾源左衛門」とあるのが指摘され、寿貞は元禄七年六月二日没、芭蕉在郷時代の女性と考える説がことに有名であるが、今日ではその説にも弱点があげられて来ている。すなわち、諸説紛々としていずれとも決しがたいが、上記の文献類から、寿貞は芭蕉との特別な関係があった女性とは認められよう。野坡談の「若き時の妾」というのは、同談の他の部分から類推しても、ほぼ信じてよさそうであり、芭蕉の在郷時代、あるいは江戸に下った初期のころには、正妻とまではしなかったであろうが、特に親しんだ女性が在存したことを考えても不自然ではない。

だが、その女性が家族的に関係を持ち続けたとまで考え得名根拠はなはだ弱い。おそらく、関係に中断があり、芭蕉が有名になり、生活も安定した晩年のころに再び芭蕉の周辺に近づくようになり、芭蕉にも特別な愛着があったし、寿貞も尼になり病身になっていたので、元禄七年の留守になる芭蕉庵にはこれを入れることも許したのであろうが、そのころの関係は、「若き時の妾」という以上ではなかったと思われる。

 

**次郎兵衛

それで、次郎兵衛が寿貞の子だったからといって、すぐに芭蕉の子でもあったと考えることも承認はしかねる。芭蕉は晩年の芭蕉庵生活では次郎兵衛を身近かに置き、これを使い、元禄七年の最後の旅にはこれを同伴し、途中この若者を気にして労わったさまは、その旅から猪兵衛や曾良へあてた書簡中によくうかがわれる。この辺から芭蕉の父としての姿を読みとろうとする説もある。しかし、次郎兵衛のことを記した門人らの記事中には、これについて敬称が全く用いられていない。次郎兵衛は芭蕉の臨柳身終の病床にも侍し、葬式にも参列しており、そのことを特に其角も記しており、かつ、遺言状等を江戸へとどける使者ともなっているが、支考は「芭蕉翁追善之日記」に「従者二郎兵衛……この者はみな月の頃母を失い、此度は主の別をして」と記している。それに、芭蕉没後の次郎兵衛の消息は消えてしまう。多くの門人が非常に敬慕した芭蕉の子であるならば、こうした状態はおかしい。次郎兵衛は芭蕉の子とは見なしがたい。まして、まさ.おふうや理兵衛もそうである。結局、芭蕉には妻子があったとは認めがたい。後述するように、かれが多くの人々から尊敬された理由の根本には、よく孤独.貧寒な生活を堅持したという点のあったことも考慮せずにはいられない。

 

**猶子、桃印

桃印については芭蕉自身が元禄六年四月二十九日付、荊口宛書簡中で「猶子」と書いており、同年三月二十日ころの許六宛申に、「旧里を出て十年余二十年に及び候て、老母に二度対面せず、五~六才にて父に別候て、其後は拙者介放にて三十三に成候」といい、三月十二日付公羽宛中にも「手前病人」として見え、肺結核で、その春に芭蕉庵内で死んだ事実が認められる。

猶子には養子・義子の意もあるが、ここは甥の意であろうか。すると、その父母のことも考えねばならないが、それは明らかでない。ともかく右の芭蕉の手記によると、桃印は寛文十年(芭蕉十八歳のとき)に生まれ、同五~六年に父と別れ、延宝二年ころ(二十年前)故郷を離れ、以後芭蕉が世話をした。別に元禄三年に江戸にいたことがわかるが(曾良宛芭蕉書簡)、その桃印が同六年春に芭蕉庵で死んでいるのである。

 

**猪兵衛・桃隣

某その他、芭蕉の縁辺で考えられる人に桃隣がある。

天野氏・通称を藤太夫といい、太白堂・呉竹軒、晩年は桃翁と号した。芭蕉と同郷人で、芭蕉より年長であるが、芭蕉の門に入り、俳人として活躍した。また、前出した猪兵衛は伊兵衛とも書き、その山城の加茂にあった実家を芭蕉もたずねているが(元禄七年閏五月二十一日付書簡)、「真澄の鏡」によると、芭蕉の甥であり、一時杉風方の番頭をつとめたが、のち高山ビジの世話で武士となり、松村真左衛門と名乗り、本郷春木町(文京区)に住んだという。『芭蕉翁真跡集』などを著わした桃鏡はこの人の子孫だという。なお、望翠。半残のことは既述したが、故郷で芭蕉を親しくかこんだ俳人たちの中には、土芳・雪芝・卓袋。意専らにも縁辺関係が考えられるという。

こうした点は上記のようにまだ不明なところが多いのであるが、芭蕉伝にとっては見過しえないことであるので、あえてこの序章に述べておくのである。(以下略)


中村幸雄氏 『甲斐の鳥たち』

2023年09月02日 16時15分53秒 | 中村幸雄の部屋

中村幸雄氏 『甲斐の鳥たち』

 

 この作品の表題にみられる甲斐とは、今日の山梨県のことである。かつて東海道が十五ヵ所に分けられていた時代にその一国として甲斐国と称せられた地方で、東に武蔵国と相模国、南に駿河国、西と北を信濃国に囲まれた山国である。

著者、中村幸雄氏は、この甲斐図示生んだ偉大なナチュラリストで、大正末期から昭和中期にかけて、わが国の野外鳥類学の進歩に不滅の足跡を残した。日本野鳥の会の創始者として名高い中西恒常氏は、昭和十七年一月号の「文芸春秋」誌上で「野鳥を追う達識」と題した寄稿の中に、中村幸雄氏を当時の野外鳥類研究の四天王の一人に数えた。他の三人は川口孫治郎氏(本全集第二十一巻『飛騨の鳥』の著者)と榎本佐樹氏(同第十六巻『野の鳥の思い出』の著者)と仁部富之助氏である。仁部氏の著作はこの全集に収録できなかったが、代表作『野の鳥の生態』(大作館書店復刻)がある。野外鳥類学の巨人中西氏が四天王と折り紙をつけただけあって、中西氏を含むこれら五人の当時の精力的なフィールドワークは今日でもそれをしのぐ後読者を見つけるのがむずかしい。この五人の傑出した人物には共通の特徴がいくつかある。とりあえず二つの特徴をあげるなら、

第一にこれらの人々は学閥から自由な立場で、大自然に師事し、自然という師の快から知識と哲学を生涯にわたって汲みとりつづけたこと。

第二にその得た成果を自由な様式で発表するとともに、社会活動を通じてその成果か二般に還元し、社会は又、その影響を大きく受けたことである。

 中村氏には鳥類および野生生物に関する報文、寄稿等が百編近くあるが、単行本としての成書はまとめる機会がなく晩年に至った。これは中村氏のフィールドワークと社会話動があまりにも多忙であったためと思われるが、中村が八十歳に近くなった昭和四十二年に叙勲記念祝賀会が聞かれたことがあった。その折、中村氏の業績を単行本化して後世に伝えようという話が有志の間でおこった。そして甲府市立北中学校の依田正直教諭が編集の労を引き受け、中村氏の談話をテープにとり、テープ記録の文章化作業を進め、ようやく一冊の本ができあがった。それがこの『甲斐の鳥たち』である。原著は三部から成り、そのうちの第一部と第二部がここに収録された。原著の第三部は中村氏をよく知る人びとによる中村氏の思い出の記と、中村氏の活動歴を編年体で記したもので、中村氏の国内と国外におけるフィールド調査歴と学会への貢献、寄稿執筆歴、放送、講演歴、皇室関係者への進講罷、表彰受章歴等が詳細に記されている。また巻順には中河吾堂氏の六頁におよぶ中村氏の紹介寄稿も収められている。したがって、中村幸雄氏のナチュラリストとしての全貌をくわしく知りたいという方には、図書館でこの作品の原著に当たることをすすめたい。

ここでは、以上の資料と、御子息で山梨大学教育学部生物学教室教授として活躍中の中村司博士から与えられた資料をもとに、中村幸雄氏のナチュラリストとしての活動歴の概要を紹介してみることにしたい。

 中村幸雄氏は何よりもまず自然とて坪化した本格派のナチュラリストであった。このことを雄弁に立証する出来事として司氏は父幸雄氏と晩年に山中湖畔へでかけた時の思い出を次のように語る。

晩年に病を得て体が不自由になった中村幸雄氏は、ある時、息子の司氏と前記の依田教諭といっしょに、山中湖畔の広場へ野鳥の観察にでかけた。鳥の生態写真をとるために同氏と依田氏はハイド(ブラインドともいい、人間が身を隠す囲いやテント式のもの)作りを始めた。幸雄氏は体が不自由だったので、ハイドができるまでの間、水場のそばに座っていた。するとマヒワが多数飛んできたので司氏たちは急いで物陰にかくれたが、鳥たちは幸雄氏のまわりを自由に飛び交い、水を飲んだり、水浴びをしたり、なかには幸雄氏の肩にとまるものさえあった。このことは依田氏も『甲斐の鳥たち』の原著で編集後記の中に記している。山野で人間が,木に化けて鳥や獣を身近に遊ばせることは必ずしも不可能なことではないが、これには最低二つの条仲が必要とされる。

一つは絶対不動であること。もう一つは鳥獣に対する敵意を心に抱かぬことで、中村幸雄氏には、その時、この二つの条件が完備したものと思われる。だが、じっさいに山野へでてこの二つの条件を実現して試してみるとわかることだが、この条件がそろったからといって鳥や獣がすぐ身近に寄ってくるものではない。むしろダメな場合のほうが多いものだが、自然にとけこむ一種の呼吸を全身で把握していると、不可能が可能になることがある。中村幸雄氏はその呼吸を体得していたものと思われるが、これはナチュラリストとしてよほど達人の域に達していないとむりなことだ。

中村氏がこの域に達するまでには若い時代から野に伏し山に寝る生活が長かったことが、作品『甲斐の鳥たち』や、中村氏を知る人たちの思い出品の中に多い。

中村氏の事実追求能力が高く評価された一例はブョポウソウと鳴く鳥がコノハズクであることを確認した事例である。

これは当時、国語の教科書にも中村氏の文章がのったほど有名なできごとで、わが国の野外鳥類学が千年の闇を破って目覚める画期的な出来事であった。それがどんな経緯で達成されたかが、この『甲斐の鳥たち』にくわしく記されている。又、地方のかくれたナチュラリストが、どのようにして鳥学界の脚光を浴びる活動家として雄飛するにいたったかが黒田長禮(ながみち)博士(本全集第十二巻『鳥獣魚』の著者)との出会いのところに述べられている。

 黒田博士との接触から農林省の鳥獣調査員となった中村氏は全国各地の県庁、営林局等の依嘱を受けて、北海道、伊豆七島、琉球諸島、九州、四国、アルプス地方などの僻地を調査し、さらにフィリピン、七レベス、サイパン、パラオ、テュヤン諸島、中国北部中部など海外にも調査の足をのばした。このうち海外調査についての体験が、この作品の第二部に述べられているが、調査行が戦時中にかかった時期もあり、中村氏の調査は文字通り命がけだった。また太平洋戦争終了後、中村氏はアメリカの占鎖軍司令部天然資源局の嘱託として鳥獣調査とカスミ網使用の実態調査などにたずさわった。

中村氏はこれらの調査行の中で鳥、獣、昆虫、植物などの新種を多数発見し、又、新分布地を確認するなど、その種類は四十種に近い。中村氏の調査結果は自分自身が自然とじかに接して得た一次情報であるため、事実としての不動の重みがあり、時代をこえて読者を魅了するものがある。

モズの早にえが貯試食であることを立証するエピソードや、モズがセミの鴫声をまねて寄ってきたセミを捕らえて食う例、キバシリが本の上からストンと落ちてくる話など、野外観察者でなければ記録し得ない珍しい事実が多く記録されている。

 中村氏のナチュラリストとしての活動の中に社会教育者として自然教育にたずさわった一面があるが、五百回以上におよぶ講演と二百敷十回に達するラジオやテレビ出演、天皇、皇后その他の皇族に対する進講十六回などは、いずれも自然保護や鳥類保護、森林保護にかかわるものが多く、又、中村氏は自身のフィールドでの体験を人々に語った。その話術の巧みさについては定評があり、この作品にも三人で講演にでかけて、中村氏の話のほうが面白いと、他の二人が降りてしまったので中村氏が三人分の講演をしたという話が書かれている。

 『甲斐の鳥たち』は開巻第一頁から研究用に鳥を射殺する話がでてきたり、食性研究用に鳥を殺す話が所々にあって、これは今日のナチュラリストにとって抵抗を覚える記述かもしれない。

たしかに、今日では鳥の食性研究手法も、できるだけ鳥を殺さないで調べる方向へむかっている。だが、中村氏が生きた時代は、研究用でなくても鳥など殺してあたり前という時代であったことを考えると、中村氏の研究者としての殺しへの節度はまことにりっぱなものであった。とくに『小鳥の裁判』のエピソードや、宮古島でサシバを殺す青年達を集めてさとす話、ムクドリがうるさいという人に害虫駆除に働くムクドリの話をして人々を説得した例など、鳥の生命尊皇への中村氏の自覚はまさにパイオュアの萌があった。

 中村幸雄氏は明治二十二年(一八八九年)二月十三日、山梨県の生まれで、数々の華々しい業績や活動歴にもかかわらず、生涯、地元では,『小鳥のおじさん』として人々に親まれ、晩年、脳軟化症で事実上社会活動ができなくなるまで、人々の求めに応じて各地へでかけて講演し、又、自然探求をつづけた。職歴としては、山梨県庁の山林課、社公教育課、観光企画室などを径て農林省鳥獣調査室、文部省資源科学研究所、山梨県林業試験場、北海道庁などの嘱託を歴任し、一時、大連民政署で巡査を勤めたこともあった。また、日本鳥類保護連盟参与、国立公園協会専門委員、日本生物同好会評議員、山梨県鳥獣審議會委員もつとめ、六十数年におよぶ各方面への貢献と活動に対してつぎに列挙する十の叙勲、表彰等を受けた。

昭和二十六年、国立公園協会より感謝状、

昭和二十九年、日本島学会より表形状と山梨県知事より県政功労者表彰、  および宮内庁より感謝状。

昭和三十年、日本放送協会より感謝状。

昭和三十一年、山梨県観光連盟より表彰。

昭和三十五年、厚生大臣表彰と山梨県文化功労賞。

昭和四十二年、勲五等双光旭日章。

昭和四十四年、永年の鳥類研究の功績に対して常陸宮より表彰。      

そしてこの年、『甲斐の島たち』が山梨日日新聞社より刊行され、このあと五年たって、昭和四十九年(一九七四年)二月五日に、満八十五歳まあと八日を残して永遠の地へ旅立った。

亡くなる寸前まで病床から窓外の野鳥の声に異常なほどの関心を示したという中村氏は、さいごまで真のナチュラリストとしての生涯を貢いた人といえよう。


炭釜に塗りこめられた 山の乙女 泉昌彦 『伝説と怪談』

2023年09月02日 14時59分18秒 | 地域歴史・泉昌彦の部屋

炭釜に塗りこめられた 山の乙女

 

泉昌彦 『伝説と怪談』

 一部加筆 白州町 山梨県山口素堂資料室

 

人影もない小金沢山の山腹は、真夏の太陽が、目もチカチカするほど照り映えていた。ムンムンとする草いきれが蜻蛉のようにゆらゆらと立ちのぼる草原では、いまふたりの男女が、人目のない自出のひとときを野獣のようにふるまっていた。目の下けるかの村落から降るような油蝉ミの鳴き声と、こども達のハシャグ声が、妙に異質な二つの世男を感じさせた。

 「痛っ、いや、いや、よしてえ」

 おしげは、ひどい痛みにたえかねて叫ぼうにも、唇をすわれているので声にならない。ことに山仕事できたえぬいている強力の藤太郎が、欲情にかられて力を振われてしまっては、かよわいおしげがこれをどうして跳ねかえせよう。というより、好きで好きで思いつめた藤太郎の要求であれば、どんなことになろうとも、という覚悟は、前もっておしげの潜在意識の中にあったのだろう。おしげの抵抗もそうながくは続かなかった。

 それこそ初めての体験で無我夢中で藤太郎の背中へ爪をたててもがいている問に、藤太郎はじっとこらえてきた獣欲を思うさまぶっつけた。どのくらいの時間がたったのだろうか? 二人の激しいかっとうに、しばらくナリをひそめていたクツワムシが、ヤレヤレといわんばかりにふたたび「ガチャ、ガチャ」と鳴きはじめると、したたる汗をぬぐう藤太郎のそばでは正体もなくみだらな姿のままで、おしげは肩をゆすって泣いていた。やっと思いがかなったといううれしさと同時に、きびしい両親の目を盗んでみだらなことをゆるしてしまったという悔恨からである。

 おしげがいくら山村に育ったおぼこ娘でも、歳も二十を一つこしていれば、ことのほかセックスのめざめに早い僻村の娘として、男女のいとなみについては、充分にしりつくしていた。男でも女でも、三人よればすぐ色恋のうわさか、露骨の渋談しか話題にするものがない山峡では、女こどもの存在も無視してのおとな遠の無知が、しぜんにセックスの道をおしえこみ、どこの娘も十四か五になれば、男に異常な関心をいだくようになったのだ。

 ことに、おしげの生まれ育った今の上野原町(南都留郡)の、旧西原村は、夜這いで名高い小菅村をへだてて、隣村の男女が交流したほど男女の性風俗が開放的であった。江戸時代の古い文献をたどってみよう。

 昔話の玉手箱「譚海」巻十に、「甲州の密会禁止なきこと」なる項には、甲州の国風として端午の節句より九月晦日まで夜陰に乗じた村々の男子が、ご領主さまのおゆるしとあって、娘はもちろん、人妻であろうと婆さであろうと、手当りしだいに関係していた点が、くわしくしるされている。同書は「信玄のゆるされたるよりはじまりたるとも言えり……」と、ある。

 

第二次大戦中、兵隊を消耗品同様に、肉弾戦につかい、その穴うめに産めよ、殖やせよと、国策にした点では、信玄もすでにおなじこころみをしていた。こどもはセックスを大幅に解放しないと産めないものだからだ。

 長篠の戦いで大方の主力を失しなった勝頼は、不足した兵力を農兵にもとめて戦力を立直したが、戦国時代は農民上りの足軽が主戦力であった。日本の近代戦だって直接武器をもって戦ったのは多くの農民である。感激に震えて・…・

 

さて、おぼこ娘のおしげにくらべ、藤太郎は三十四歳の独り者で、炭焼き、柏伐りなどをしてくらしていた。藤太郎はべつに女房をもたなくても不自由はしなかったのだ。いささか女をわがものにする男っぶりと、手練手管をもっていたからだ。さる老人が、若い頃、女のもとへ経忍んでったら、家族がそばにいたので、外へ抱き出したら、やっと女が目をさましたということもあった。ともかく昔にさかのぼるほど甲州の国風として、現代以上にセックスが自由というか、動物的だったといえる。このため痴情よりおこった猟奇事件は、各村に必ず数話はのこされている、

 

禁断の妊娠

 

 藤太郎と関係のできたおしげは、ひと  まわり以上も年かさの藤太郎が、この世で一番好きな男となってしまった。藤太郎はおしげと忍びあいをかさねている間にも、転々他の女ともまじわるという生来のスケコマシという奴だ。

 「おまえこの頃やけに腹がでっ張って来たが、よもや藤太郎とできたんじゃあるめいの」

 おしげの両親は、おしげの身ごもったことをさとると、まず第一に、藤太郎の名を上げて問いつめた。

 「ねえ父っちゃん、かあちゃん、おら藤太郎と夫婦約束をしただあ、いっしょにしてくんろ」

 「なにをこく、あんな炭焼きの渡り者にでえじの娘を嫁にやれるものか、婿にしたって一と月もたたんうちに泣きをみるわいI

 おしげの両親は、三十四でまだ独身というだけでも若い娘の婿にしようなぞということは毛ほどもゆるしがたいことだった。まして女たらしとして評判のわるい男だ。おそろしい見幕でおしげのたのみをハネつけたあと、さんざんに毒づいて意見した。

 「わあ…わあ…」と、泣きわめくおしげにほとほと手をやいた両親は、いったいおしげの身ごもっているろくでなしのがきをどうしまつしたらよいのか、そこへ突きあたると、又ぞろ愚痴が口をついて決まった責めことばでおしげ

を叱りつけた。

  

秋風が立って殺しのたくらみ

 

 「からだにはもう五つ月の子供が育ってるだからよ」

 「あに、腹の中のガキが五つ月だと、おらのガキとはかぎるまい。あんでそんなに目立たないうちにおろしてしま わなかっただ」

  おしげは、やさしいはずの藤太郎の豹変ぶりにおどろきながらも藤太郎への恋情をたちきれず、いちづに夫婦になろうと迫った。

 これはおしげがうぶで純情いちずの娘だったからにほかならない。あまりしつこく夫賜になってくれと言いよられると、すでに秋風のたちそめた藤太郎はなるべくおしげからにげ出すかんべんをして日に日に遠ざかっていった。

 「こんやこそ、二つに一つ返事をしてくろ」

 夜中におしげにつかまった藤太郎は、万事窮すで、なんとかおしげからのがれる工夫はないものかとしあんをめぐらせた。

 「そうだ。おらはあす山奥の炭釜へ、炭やきに入ってしまうぞ。当分は炭やきで里へは下れねえ。どうだ、おらの炭やき小屋へいっしょにいって相談すべえ」

 藤太郎はこのときおしげを山奥の炭釜へとじこめてしまつしてしまえば絶対にわかるまいと、悪智恵をしぼってさりげなくおしげをいつわった。元々ひとを疑がうことをしらない純朴のおしげは、藤太郎の腹がよめずにのこのこと藤太郎の尻にくっついて炭釜へ同行した。小菅から上野原へ自動車林道のあいた現在ですら、めったに人影をみることのない西原の奥のことだ。二人がつれだっ石灰釜へ向かった姿はついに誰の目にもふれなかった。

 「おい、おしげ、てめえこんなかで死ぬんだ」

 ひどい冷血漢があったものだ。奥山の炭釜へつくや、藤太郎はもはやどんな無理無休なふるまいにおよんでも、あやつり人形のように言うなりにするおしげを裸にしてさんざんもてあそんだすえ、後手に縛りおしげを炭釜の中へ押

しこめた。すでに火が入って、下の方が赤くなっている炭釜に押しこめられたおしげは、これが日夜あたまからはなれないほど恋いしたったいとしい藤太郎とはどうしても言えなかった。

 「ゆ、ゆるして、殺すことだけはかんべんして」

 おしげははやくも炭釜の中に立ちこめているけむりと熱気にむ昔ながら、半狂乱になって外へ出ようともがいたが、目をすごませた藤太郎は、

 「やかましいやい、てめえのいうように夫婦になってやりたくたって、がんこでわからずやのてめえの両親のゆるしがでねえじゃあねえか、それなのにてめえはおれといっしょになれなれとしつこくつきまとやあがって、こうでもしてしまつをつけてやるんだ」

 「……た、たすけてえー、藤太郎さん、ひどいわ、ひどいわ。うっ、う、う」

 もうもうと煙と一酸化炭素のたちこめている炭釜は六、七百度という高温である。

 この中へ押で押しこめられて入口へ大きな木の根っこや石をつまれてはひとたまりもない。

 まもなくむしげは、充分うらみつらみもいわないうちに、「ひー、ひー」という断末魔の悲鳴をさいごに煙と熱気の中で意識を失しなった。

 「ちえっ、渡り者杣伐りにはでいじの娘はやれんの、歳が三十四にもなってちゃあ、うちのでいじの娘はやれんのとごたくをならべやがったって、てめえの娘は殺されるまでこのおれに惚れぬいているじゃあねえか、ばかやろーめ」

 おしげの両親が、娘の意志をみとめて、一応藤太郎との結婚をみとめてやったら、あるいはこのような殺しまでくわだてなかったともいえる。けっきょく頑迷に結婚に反対しながら、なんら二人をいっしょにして生活できるような方法を考えてやらなかった点で、追いつめられたせまい山村におこった惨劇といえよう。

 

のぞいていた前掛の端

 

ともかく藤太郎の思慮は甘く、炭竃に籠めておけばわかるまいと考えた。

 昔から、奥秩父多摩では、ゆくえを絶った人のはなしは多い。前記藤太郎もそのつもりで西原で素知らぬ顔をよそおっていた。しかし、二日、三日と経つうちに、意外に村内がさわがしくなってきた。

 「おめえさまは、うちのおしげを知らねえけ」

 「おらがしるもんか、炭焼にいっていたから、おしげんの居なくなったことも、さっき聞いたばかりよ」

 「そうけ、おめえが知らぬはずはねえと言って来たがおかしい」

 おしげの妹おきみは、姉とちがって気のつよいところがあったので、はじめから藤太郎を疑ってかかったが証拠がない。

 「そうだ、炭焼といったな」、おきみはこの時に不吉の予感におそわれ、藤太郎の家をでるとその足で、小金沢の奥にある藤太郎の炭釜へむかった。

烟をたよりに炭釜にたどりついたおきみは、

 「おしげ姉さん、おしげ姉さん」 と黄色い声を張りあげてよんだ。もちろん返事があろうはずがない、とそのとき、おきみは、炭釜の下から、ちょっぴ

りのぞいた赤いものを発見した。端をつかんでひっぱりだすとさきの方はこげているが、たしかにおしげが日頃身につけている前掛けであった。

 おきみは、気丈にもそこにあった丸太をにぎりしめると、土で塗りこめてある炭釜の入口をたたきこわした。「あっ、おしげ姉さん」おきみは、もうほとんど白い灰のかたまりになっているのがおしげだと知って、くらくらっとめまいが起って倒れそうになった。気をとりなおしたおきみはマリをころがすように村へかけもどると、とっつきから、「おしげ姉さんが炭釜で死んでいるぞ」

とさわぎながら家へかけこんだ。

 藤太郎の逮捕でおしげの一件はかたづいても、第二、第三の痴情による猟奇事件はあとからあとからおこった。平和の山問におこったこの特殊のころしは、いまもなお語りつがれている。

 

多かった堕台事件

 

黙旧の堕胎事件は非常におおく、明治二年半には産婆が妊婦の腹を圧迫しもんで堕胎させ、薬物による堕胎などは、別に禁令の布告を出している。罪も重かった。

 現在は、刑罰法二一二条に、はっきりと、相当の理由なくしての堕胎を行うと罪になる。と罪になる。判例をみると、婚約者に、結婚するかしないか確かな意志を間かずに堕胎しても罪になる。昔はホオヅキを子宮にさしこんだとか、高いところから飛びおりたとか、もっとも多いのが、水銀をのんだ。

 一回に二十グラムくらいの水銀をのむと、急性中毒により胎児が下ったのだ。山間部におこった堕胎のありさまをきくと、ゾッと鳥肌立つむざんなやり方である。

 せっぱつまって高いところからとびおりる自損行為によって、胎盤離脱をおこなって流産したのだ。つよい酢をのんでおろす。子宮のあたりをふみつける。

またはつよくもんで胎盤を離脱する。こうしたことから親子もろとも死ぬ例も非常に多かった。

 女のもつ惨酷のつよさ、セックスから逃れようのない業のふかさを感じ、いよいよ人間の煩悩のあさましさにうんざりする。

 


炭釜に塗りこめられた 山の乙女 泉昌彦 『伝説と怪談』

2023年09月02日 11時57分48秒 | 文学さんぽ

炭釜に塗りこめられた 山の乙女

 

泉昌彦 『伝説と怪談』

 一部加筆 白州町 山梨県山口素堂資料室

 

人影もない小金沢山の山腹は、真夏の太陽が、目もチカチカするほど照り映えていた。ムンムンとする草いきれが蜻蛉のようにゆらゆらと立ちのぼる草原では、いまふたりの男女が、人目のない自出のひとときを野獣のようにふるまっていた。目の下けるかの村落から降るような油蝉ミの鳴き声と、こども達のハシャグ声が、妙に異質な二つの世男を感じさせた。

 「痛っ、いや、いや、よしてえ」

 おしげは、ひどい痛みにたえかねて叫ぼうにも、唇をすわれているので声にならない。ことに山仕事できたえぬいている強力の藤太郎が、欲情にかられて力を振われてしまっては、かよわいおしげがこれをどうして跳ねかえせよう。というより、好きで好きで思いつめた藤太郎の要求であれば、どんなことになろうとも、という覚悟は、前もっておしげの潜在意識の中にあったのだろう。おしげの抵抗もそうながくは続かなかった。

 それこそ初めての体験で無我夢中で藤太郎の背中へ爪をたててもがいている問に、藤太郎はじっとこらえてきた獣欲を思うさまぶっつけた。どのくらいの時間がたったのだろうか? 二人の激しいかっとうに、しばらくナリをひそめていたクツワムシが、ヤレヤレといわんばかりにふたたび「ガチャ、ガチャ」と鳴きはじめると、したたる汗をぬぐう藤太郎のそばでは正体もなくみだらな姿のままで、おしげは肩をゆすって泣いていた。やっと思いがかなったといううれしさと同時に、きびしい両親の目を盗んでみだらなことをゆるしてしまったという悔恨からである。

 おしげがいくら山村に育ったおぼこ娘でも、歳も二十を一つこしていれば、ことのほかセックスのめざめに早い僻村の娘として、男女のいとなみについては、充分にしりつくしていた。男でも女でも、三人よればすぐ色恋のうわさか、露骨の渋談しか話題にするものがない山峡では、女こどもの存在も無視してのおとな遠の無知が、しぜんにセックスの道をおしえこみ、どこの娘も十四か五になれば、男に異常な関心をいだくようになったのだ。

 ことに、おしげの生まれ育った今の上野原町(南都留郡)の、旧西原村は、夜這いで名高い小菅村をへだてて、隣村の男女が交流したほど男女の性風俗が開放的であった。江戸時代の古い文献をたどってみよう。

 昔話の玉手箱「譚海」巻十に、「甲州の密会禁止なきこと」なる項には、甲州の国風として端午の節句より九月晦日まで夜陰に乗じた村々の男子が、ご領主さまのおゆるしとあって、娘はもちろん、人妻であろうと婆さであろうと、手当りしだいに関係していた点が、くわしくしるされている。同書は「信玄のゆるされたるよりはじまりたるとも言えり……」と、ある。

 

第二次大戦中、兵隊を消耗品同様に、肉弾戦につかい、その穴うめに産めよ、殖やせよと、国策にした点では、信玄もすでにおなじこころみをしていた。こどもはセックスを大幅に解放しないと産めないものだからだ。

 長篠の戦いで大方の主力を失しなった勝頼は、不足した兵力を農兵にもとめて戦力を立直したが、戦国時代は農民上りの足軽が主戦力であった。日本の近代戦だって直接武器をもって戦ったのは多くの農民である。感激に震えて・…・

 

さて、おぼこ娘のおしげにくらべ、藤太郎は三十四歳の独り者で、炭焼き、柏伐りなどをしてくらしていた。藤太郎はべつに女房をもたなくても不自由はしなかったのだ。いささか女をわがものにする男っぶりと、手練手管をもっていたからだ。さる老人が、若い頃、女のもとへ経忍んでったら、家族がそばにいたので、外へ抱き出したら、やっと女が目をさましたということもあった。ともかく昔にさかのぼるほど甲州の国風として、現代以上にセックスが自由というか、動物的だったといえる。このため痴情よりおこった猟奇事件は、各村に必ず数話はのこされている、

 

禁断の妊娠

 

 藤太郎と関係のできたおしげは、ひと  まわり以上も年かさの藤太郎が、この世で一番好きな男となってしまった。藤太郎はおしげと忍びあいをかさねている間にも、転々他の女ともまじわるという生来のスケコマシという奴だ。

 「おまえこの頃やけに腹がでっ張って来たが、よもや藤太郎とできたんじゃあるめいの」

 おしげの両親は、おしげの身ごもったことをさとると、まず第一に、藤太郎の名を上げて問いつめた。

 「ねえ父っちゃん、かあちゃん、おら藤太郎と夫婦約束をしただあ、いっしょにしてくんろ」

 「なにをこく、あんな炭焼きの渡り者にでえじの娘を嫁にやれるものか、婿にしたって一と月もたたんうちに泣きをみるわいI

 おしげの両親は、三十四でまだ独身というだけでも若い娘の婿にしようなぞということは毛ほどもゆるしがたいことだった。まして女たらしとして評判のわるい男だ。おそろしい見幕でおしげのたのみをハネつけたあと、さんざんに毒づいて意見した。

 「わあ…わあ…」と、泣きわめくおしげにほとほと手をやいた両親は、いったいおしげの身ごもっているろくでなしのがきをどうしまつしたらよいのか、そこへ突きあたると、又ぞろ愚痴が口をついて決まった責めことばでおしげ

を叱りつけた。

  

秋風が立って殺しのたくらみ

 

 「からだにはもう五つ月の子供が育ってるだからよ」

 「あに、腹の中のガキが五つ月だと、おらのガキとはかぎるまい。あんでそんなに目立たないうちにおろしてしま わなかっただ」

  おしげは、やさしいはずの藤太郎の豹変ぶりにおどろきながらも藤太郎への恋情をたちきれず、いちづに夫婦になろうと迫った。

 これはおしげがうぶで純情いちずの娘だったからにほかならない。あまりしつこく夫賜になってくれと言いよられると、すでに秋風のたちそめた藤太郎はなるべくおしげからにげ出すかんべんをして日に日に遠ざかっていった。

 「こんやこそ、二つに一つ返事をしてくろ」

 夜中におしげにつかまった藤太郎は、万事窮すで、なんとかおしげからのがれる工夫はないものかとしあんをめぐらせた。

 「そうだ。おらはあす山奥の炭釜へ、炭やきに入ってしまうぞ。当分は炭やきで里へは下れねえ。どうだ、おらの炭やき小屋へいっしょにいって相談すべえ」

 藤太郎はこのときおしげを山奥の炭釜へとじこめてしまつしてしまえば絶対にわかるまいと、悪智恵をしぼってさりげなくおしげをいつわった。元々ひとを疑がうことをしらない純朴のおしげは、藤太郎の腹がよめずにのこのこと藤太郎の尻にくっついて炭釜へ同行した。小菅から上野原へ自動車林道のあいた現在ですら、めったに人影をみることのない西原の奥のことだ。二人がつれだっ石灰釜へ向かった姿はついに誰の目にもふれなかった。

 「おい、おしげ、てめえこんなかで死ぬんだ」

 ひどい冷血漢があったものだ。奥山の炭釜へつくや、藤太郎はもはやどんな無理無休なふるまいにおよんでも、あやつり人形のように言うなりにするおしげを裸にしてさんざんもてあそんだすえ、後手に縛りおしげを炭釜の中へ押しこめた。すでに火が入って、下の方が赤くなっている炭釜に押しこめられたおしげは、これが日夜あたまからはなれないほど恋いしたったいとしい藤太郎とはどうしても言えなかった。

 「ゆ、ゆるして、殺すことだけはかんべんして」

 おしげははやくも炭釜の中に立ちこめているけむりと熱気にむ昔ながら、半狂乱になって外へ出ようともがいたが、目をすごませた藤太郎は、

 「やかましいやい、てめえのいうように夫婦になってやりたくたって、がんこでわからずやのてめえの両親のゆるしがでねえじゃあねえか、それなのにてめえはおれといっしょになれなれとしつこくつきまとやあがって、こうでもしてしまつをつけてやるんだ」

 「……た、たすけてえー、藤太郎さん、ひどいわ、ひどいわ。うっ、う、う」

 もうもうと煙と一酸化炭素のたちこめている炭釜は六、七百度という高温である。

 この中へ押で押しこめられて入口へ大きな木の根っこや石をつまれてはひとたまりもない。

 まもなくむしげは、充分うらみつらみもいわないうちに、「ひー、ひー」という断末魔の悲鳴をさいごに煙と熱気の中で意識を失しなった。

 「ちえっ、渡り者杣伐りにはでいじの娘はやれんの、歳が三十四にもなってちゃあ、うちのでいじの娘はやれんのとごたくをならべやがったって、てめえの娘は殺されるまでこのおれに惚れぬいているじゃあねえか、ばかやろーめ」

 おしげの両親が、娘の意志をみとめて、一応藤太郎との結婚をみとめてやったら、あるいはこのような殺しまでくわだてなかったともいえる。けっきょく頑迷に結婚に反対しながら、なんら二人をいっしょにして生活できるような方法を考えてやらなかった点で、追いつめられたせまい山村におこった惨劇といえよう。

 

のぞいていた前掛の端

 

ともかく藤太郎の思慮は甘く、炭竃に籠めておけばわかるまいと考えた。

 昔から、奥秩父多摩では、ゆくえを絶った人のはなしは多い。前記藤太郎もそのつもりで西原で素知らぬ顔をよそおっていた。しかし、二日、三日と経つうちに、意外に村内がさわがしくなってきた。

 「おめえさまは、うちのおしげを知らねえけ」

 「おらがしるもんか、炭焼にいっていたから、おしげんの居なくなったことも、さっき聞いたばかりよ」

 「そうけ、おめえが知らぬはずはねえと言って来たがおかしい」

 おしげの妹おきみは、姉とちがって気のつよいところがあったので、はじめから藤太郎を疑ってかかったが証拠がない。

 「そうだ、炭焼といったな」、おきみはこの時に不吉の予感におそわれ、藤太郎の家をでるとその足で、小金沢の奥にある藤太郎の炭釜へむかった。

烟をたよりに炭釜にたどりついたおきみは、

 「おしげ姉さん、おしげ姉さん」 と黄色い声を張りあげてよんだ。もちろん返事があろうはずがない、とそのとき、おきみは、炭釜の下から、ちょっぴりのぞいた赤いものを発見した。端をつかんでひっぱりだすとさきの方はこげているが、たしかにおしげが日頃身につけている前掛けであった。

 おきみは、気丈にもそこにあった丸太をにぎりしめると、土で塗りこめてある炭釜の入口をたたきこわした。「あっ、おしげ姉さん」おきみは、もうほとんど白い灰のかたまりになっているのがおしげだと知って、くらくらっとめまいが起って倒れそうになった。気をとりなおしたおきみはマリをころがすように村へかけもどると、とっつきから、「おしげ姉さんが炭釜で死んでいるぞ」

とさわぎながら家へかけこんだ。

 藤太郎の逮捕でおしげの一件はかたづいても、第二、第三の痴情による猟奇事件はあとからあとからおこった。平和の山問におこったこの特殊のころしは、いまもなお語りつがれている。

 

多かった堕台事件

 

黙旧の堕胎事件は非常におおく、明治二年半には産婆が妊婦の腹を圧迫しもんで堕胎させ、薬物による堕胎などは、別に禁令の布告を出している。罪も重かった。

 現在は、刑罰法二一二条に、はっきりと、相当の理由なくしての堕胎を行うと罪になる。と罪になる。判例をみると、婚約者に、結婚するかしないか確かな意志を間かずに堕胎しても罪になる。昔はホオヅキを子宮にさしこんだとか、高いところから飛びおりたとか、もっとも多いのが、水銀をのんだ。

 一回に二十グラムくらいの水銀をのむと、急性中毒により胎児が下ったのだ。山間部におこった堕胎のありさまをきくと、ゾッと鳥肌立つむざんなやり方である。

 せっぱつまって高いところからとびおりる自損行為によって、胎盤離脱をおこなって流産したのだ。つよい酢をのんでおろす。子宮のあたりをふみつける。

またはつよくもんで胎盤を離脱する。こうしたことから親子もろとも死ぬ例も非常に多かった。

 女のもつ惨酷のつよさ、セックスから逃れようのない業のふかさを感じ、いよいよ人間の煩悩のあさましさにうんざりする。

 


三菱美唄炭鉱 三菱美唄への強制連行者数

2023年09月02日 08時57分28秒 | 戦争の記録

三菱美唄炭鉱
① 美唄への連行前史を示す額

三菱美唄炭鉱は美唄駅から美唄川をさかのぼった地点にあった。

 三菱美唄は三菱鉱業が北海道炭礦汽船・三井に対抗して北海道開発の拠点とした炭鉱である。この炭鉱を三菱が買収したのは一九一五年のことであり、一九一七年には二坑、三坑を開発した。朝鮮人はこの炭鉱の開発がすすむ一七年に雇用されている。一〇年後には朝鮮人数が七〇〇人を超えた。朝鮮人が増加する中で、二七年には桜ケ岡の直轄寄宿所で舎監の更迭を求めて、五一人が連判してストライキを起こした(「美唄鉱業所山史稿本」『戦時外国人強制連行関係史料集』Ⅲ朝鮮人2上一〇九頁)。

 この年の十一月には、ガス爆発事故がおきて三九人が死亡したが、そのうち朝鮮人は六人だった。この事故で死亡した朝鮮人が採用されたのは二七年の七月から九月のことだった。死亡者の年齢は二五歳から三五歳にかけてであり、経歴を見ると、土木、港湾、炭鉱などで働いた後に美唄に来ている。たとえば、趙正淑は三菱鯰田・小樽の荷役、金元学は三菱方城・新入、呉俊乾は朝鮮での農業・夕張炭鉱を経て美唄に来ている(「竪坑瓦斯爆発事件」『戦時外国人強制連行関係資料集』Ⅲ朝鮮人2上 二三七頁)。

 市街地であった我路のファミリー公園には一九七七年六月に建てられた炭山の碑がある。公園近くの三菱美唄記念館には鉱業所名の石板、大正期の地図、友子免状、美唄炭鉱地域の模型などが展示されている。展示品の中に、一九二三年五月一日に神社に納められた額がある。額には寄贈者の名前が記されているが、そこに日本人とともに、許億・李濟愚・李徳梧・李福祚・朴●漢・鄭徳化といった名前が記されている。三菱美唄には一九一〇年代末から朝鮮人が働いているが、この額は当時朝鮮人がこの地域で働いていたことを示すものである。



三菱美唄への強制連行者数

恐慌になると朝鮮人は大量に解雇されたが、戦争の拡大にともなう労働力不足によって大量に連行されるようになった。このころ、職場では産業報国が叫ばれ、労使協調から一君万民へと戦時統制が強まり、軍隊的労務管理がすすめられていった。
一九三九年の一〇月二〇日、三菱美唄への連行者の第一派三一八人が慶尚北道義城・達城などから連行され一心寮に収容された。この連行から一〇日後の三〇日には一五〇人が契約違反に抗議して入坑を拒否している。十一月六日に一一二人が連行されるが、十一日には連行者への傷害行為に対し抗議している。三菱系の雄別炭鉱への連行に際し、三菱は三菱マークのはいった戦闘帽を着用させている。美唄への連行の際も同様であったとみられる。翌年の一月には落盤で死亡した仲間の慰霊や同僚の釈放・待遇改善を求めてサボタージュやストライキをおこなっている。連行されてもこのような抵抗をつぎつぎとおこしていった。
三菱美唄への連行者数を諸史料からみてみると、一九三九年十二月末の現在員数は六五九人、四〇年三月末の現在員数は一一二一人(山史)、四一年三月までに慶北達城・永川・安東・義城から一五〇〇人を連行し、その後、安東・醴泉・青松、慶南晋州から連行した(「半島労務者勤労状況に関する調査報告」)。四二年六月までには二一五〇人が連行された(現在員数は一三六六人、協和会史料による)。一九四三年には一年で九二七人を連行、四四年一月から八月までには約八五〇人を連行している(石炭統制会史料)。連行者数の不明の月での連行者数を、連行状況から約一三〇〇人と推定すると、連行者総数は約五二〇〇人となる。
美唄には鉄道工業、黒田、原田、石崎、菅原、団、地崎、川西といった多くの下請けの組があり、そこにも多くの朝鮮人が連行されていたから、それらの人々を加えると三菱美唄への連行者総数は六〇〇〇人を超えたとみられる。
 三菱美唄の場合、坑内の請負労働者の率が他の炭鉱よりも高く、一九四五年七月の数字をみると坑内五八一九人中七九八人が請負である(北海地方商工局「北海道各炭礦別労働者調」)。
連行された人々は一心寮、常盤寮、自啓寮、旭日寮などに収容され、家族持ちは清水台、常盤台、旭台、桂台などに居住した。下請の組の飯場も各所にあったが、多くがタコ部屋と呼ばれていたところである。そこは拘禁性が強く、暴力的な労務管理がおこなわれていた収容所であった。
連行されてきた朝鮮人は戦時下の労働奴隷であった。とりわけ請負の組に配置された人々への虐待と拘束性は強かった。
一九四四年七月末、三菱美唄(含む日東美唄・下請組)の労働者は約一万人、そのうち三菱が直轄していた朝鮮人は約三〇〇〇人、下請けを入れれば朝鮮人は三五〇〇人ほどとみられる。この数は北炭夕張の朝鮮人約七〇〇〇人に次ぐものであり、北炭空知(含む赤間)と並ぶ数である。
三菱美唄への連行については、丁在元、金相国、金全永(黒田組)、李基淑(黒田組)崔千守(原田組)の証言がある。
三菱美唄では一九四四年に一八九万トンの石炭を産出したが、労働現場ではここでみてきたようにたくさんの連行朝鮮人がいたのである。
解放後、三菱美唄の朝鮮人は一〇月一日から十一月一九日にかけて、五次にわたって約三千人が集団帰国している。

三菱美唄での死亡者数

三菱美唄での朝鮮人死亡者はどれくらいになるのだろうか。
三菱美唄炭鉱関連での一九三九年から四五年の朝鮮人死亡者(子どもをのぞく)の数を「美唄関係朝鮮人死亡者名簿」(『戦時外国人強制連行関係資料集』Ⅲ朝鮮人2上)や「美唄朝鮮人関係死亡者調査書」から作成したところ、二七〇人を超えた。連行期の三菱美唄の死者は他の炭鉱と比べて多い。
三菱美唄では一九四一年三月通洞坑でガス爆発事故(一七七人死亡、内朝鮮人は三二人)、一九四四年五月には北部第一斜坑でガス爆発事故(一〇七人死亡、内朝鮮人は七〇人以上か)というように大きな事故が二回おきている。また下請けの組での危険な現場での労働や虐待も多い。四一年三月の事故の際、三菱は朝鮮人寮や通洞坑口の警戒を強めた。事故の二日後には坑道をコンクリートで閉鎖したため、五三人(内朝鮮人は一四人)の遺体は今も地中にある。四四年五月の事故は石炭増産運動の中でおき、報道されることもなかった。
死亡者名簿から朝鮮人が連行されてきた郡がわかる。三菱美唄には慶北の義城・達城・慶山・安東・永川・醴泉・迎日・善山・聞慶などから連行されている。三菱へと戦時中に編入された日東美唄へは慶北尚州から連行されている。
下請けの組へと連行された朝鮮人の出身郡は、黒田組は京畿道・江原道・黄海道など各地、鉄道工業は京畿道楊州・冨川ほか、団組はソウル、地崎組は陜川などである。
札幌の東本願寺別院で発見された朝鮮人の合葬遺骨にはこの三菱美唄の下請けの組である鉄道工業や黒田組に連行され放置された遺骨が含まれていた。死亡して放置され、すでに六〇年が経過している。二〇〇四年五月、鉄道工業によって連行されて死亡した具然喆氏の遺族が捜し出された。遺族によれば、具氏は結婚してすぐに連行され、現在まで行方不明のままであったという。
なお大円寺には過去帳が残されているという(北海道新聞二〇〇一年八月一〇日付)。常光寺では過去帳に朝鮮人強制連行真相調査団の調査で朝鮮人名が確認された(一九七四年報告書)。
三菱美唄記念館から楓橋をわたると奥に大きな「弔魂碑」(一九二九年三月)があり、近くに小さな慰霊碑(一九七七年六月)がある。弔魂碑には三菱鉱業取締役会長が「殉職諸氏ノ英霊ノ為」「冥福ヲ祈念」して建てたことが記されている。小さな慰霊碑は閉山後の一九七七年に三菱美唄で殉職や病気で亡くなった人々の冥福を祈り、故郷を偲んで建てたと記されている。
しかしここには死亡者の名前やその死亡者の数を知るものはなく、三菱美唄に連行された朝鮮人や中国人のことは記されていない。

美唄駅と炭鉱を結んでいた鉄道の廃線駅(東明五条)に四一一〇型の機関車(一九一九年発注・三菱神戸造船製)が残されている。戦時下この鉄道は石炭を運び出すとともに、労働奴隷としての連行朝鮮人を運送する路でもあった。
朝鮮人家族も住んでいた清水台の社宅跡地は敷地の段を残して草に埋まっている。コンクリートの橋はひび割れ、欄干が崩れている箇所もある。
美唄炭鉱の施設が集中していた一の沢の跡地は炭鉱メモリアル森林公園となり、竪坑の捲揚櫓二機(一九二三年)、原炭ポケット・炭鉱開閉所(一九二五年)の建物が残されている。一九七二年の閉山にともない、ほとんどの炭鉱施設が破壊された。市街地だった我路には廃屋が並ぶ。そこに社会党の衆議院議員だった岡田春夫の生家(一九一三年頃)が保存されていた。かれの成長と活動はこの地域の炭鉱労働者の精神によって闇の奥底から支えられていたのだろう。
 労働者が入坑し、資材やズリを搬出し、入気・排気がおこなわれていた竪坑の捲揚櫓二機はあざやかな赤色に塗装され、公園は整備されていた。近くには閉ざされた坑口が残っている。それらは墓標のようである。ここで労働を強いられ、坑内に埋められたままの死者たちは、示されてはいない労働者の歴史と戦時下の連行と強制労働の史実を語り継いでいくことを求めているように思われた。
 すでに連行期の朝鮮人使者については明らかになっているので、ここでは連行前期の三菱美唄での朝鮮人死者の名を示して追悼のための資料としたい。

三井美唄の朝鮮人寮跡

三井美唄炭鉱へと連行された朝鮮人は約四〇〇〇人とみられる。三井は全羅南道から連行してきた。死亡者名簿から、連行者の出身地を見ると、谷城、宝城、求礼、長興、羅州、和順、海南、康津、済州島、莞島、霊巌、務安などであり、慶南の密陽、河東などからも連行している。連行期の子どもをのぞく朝鮮人の死亡者数は約一四〇人である。
三井美唄炭鉱跡地には当時の建物が残されている。朝鮮人寮として使われていた建物の一部は改築され、幼稚園として使用されている。三井のマークをつけたこの建物は一九三三年ころのものであり、南美唄町下五条三丁目にある。
 ほかにも三井美唄炭鉱事務所の建物や一九二八年頃に建てられた炭住が転用されて残っている。山神の近くに三井美唄炭鉱跡の碑(一九六四年美唄市建立)があり、一九二八年から六三年にいたる三五年の炭鉱の歴史の概略が記されている。旧炭鉱厚生館の建物の近くに慰霊の碑があり(一九七八年建立)、閉山十五周年行事として、生命を捧げた人々を慰霊する旨が記されている。
三井美唄には朝鮮人・中国人・連合軍捕虜が連行されていた。日本人の労働者のみならず、この中からも多くの死者がでた。その歴史を記した碑はここにもない。