江戸隅田川界隈 永代橋以南
西本願寺
築地(中央区築地三丁目)にあるため、築地本願寺ともいい、浅草にある東本願寺を東門跡というのに対して西門跡ともいう。『江戸名所図会』に、
俗に築地の門跡と呼べり。T同派にして京都西六条よりの輪番所なり。塔頭〔大寺の境内にある末寺〕五十七寺あり。
初め横山町二丁目の南側裏通りにありしものを、明暦大火の後にこの地に移さる。准如上人を当寺の開祖とす。本尊阿弥陀如来は、聖徳太子の彫像にして、泉州堺の信証院より移す。毎年七月七日立花会、十一月二十八日開山忌にて、七昼夜の法会修行あり。これを報恩講という。また俗間御講と称す。
とある。明暦三年(一六五七)の大火後、下賜された八丁堀の入り海の湿地帯を、佃島の漁民の信者たちが中心になり奉仕して埋め立て、一万二千七百二十二坪の広大な敷地を得て、万治元年(一六五八)五月、本堂が創建された。湿地帯を埋め立てて築いた地であるため築地と称された。
十一月の報恩講に、佃島の漁民が全島を挙げて仕事を休み、参詣したのはこの縁によるという。
冒頭の『江戸名所図会』の引用文の末にあるように、報恩講の七日間の法要には、早朝から参詣の道俗で雑踏した。中には参詣の名を借りて、伜の嫁を探しに行く父親もあれば、娘を見合いに連れて行く母親もあり、御講の間の本願寺は結婚媒介所の親を呈したという。
築地からついてきて聞くいい娘
ご奇特によくお参りと仲人言い
東西に関取のある宗旨なり
一、二句目は、報恩講の期間の実状を詠んだ句。
三句目は江戸の浅草・築地の両門跡を相撲の東西の両大関に見立てた句。
今は七十歳なれば、
少しの不養生〔ここでは贅沢の意〕もくるしからしと、
初めて上下共に飛騨紬に着替え、
芝肴もそれぞれに食い覚え、
築地の門跡に日参して、
下向に、木挽町の芝居を見物、(下略)
銀さえあれば何事もなることぞかし。(『日本永代蔵』巻三)