江戸隅田川界隈 石川島
『江戸名所図会』に、
鎧島 佃島の北に並べり。今石川島と号く。
(俗にハ左衛門殿島ともいえり。
昔大猷公の御時、石川氏の先代、
この島を拝領するよりかく唱うるとなり。
寛政四年石川氏、永田町へ屋敷替えありしより、
炭置き場・人足寄場等になれり。)
旧名を森島と言う由、江戸の古図に見えたり。
とあり、鎧島と名付けたことについてはハ幡太郎義家が鎧を納めて八幡宮を勧請したからという説と、異国から献上した鎧が重くて誰も持てなかったが、石川氏の祖が片手で持って天賦公(徳川家光)の御前に披露したため、勧賞のあまりこの島を宅地として賜ったと大猷公いう説とを挙げている。
しかし石川八左衛門がこの島を拝領したについてあまねく伝わっている説は、寛永元年(1624)、宇都宮城主本多上野介正純が、将軍家光が日光参拝の帰途自城に立ち寄るのを機に、その寝所に釣天井を仕掛けて圧殺しようとしたが、事が露顕し、八左衛門は家光を駕籠に乗せ、ただ一人でこれを担いで夜とともに宇都宮を発ち、翌夕江戸城へ着いたが、門は既に閉ざされていたので、やむを得ず門を破って城内へ入り、家光の急を救った功によりこの島を拝領したという説である。
棒組のない忠臣は八左衛門
忠臣の古蹟は島の名に残り
八左衛門とは申さぬと渡し守
快き配所の月はハ左衛門
住吉の隣の国は四千石
一、二句目は、説話が広く知られていたことを示している。
三句目は、島の名は八左衛門殿島といい、呼び捨てにはせぬ。
四句目は、八左衛門は一説によると江戸城の城門を破ったという咎で、禄は四百石加増になったが、石川島へ流されたという。
五句目は、住古社のある佃島の隣はもと四千石の旗本石川八友衛門の屋敷跡。
『江戸名所図会』の引用文中に、
寛政四年(1792)の屋敷替えの後に人足寄場になったとあるが、天明の大飢饉による無宿者・浮浪人の激増は、江戸の人目に異常に影響を及ぼし、老中松平定信は適切な対策を求めて苦慮したが、火付盗賊改の長谷川平蔵宣以(のぶため)の建議により寛政三年、石川氏の隣地を埋め立て長谷川平蔵の管理の下、府内の無宿、乞食の徒、軽犯罪者をここに収容して手工業を授けた。
これが「人足寄場」と称されて幕末に及んだ。寄場には常に百数十人ほど収容され、川浚いなどの人足に出るほか、手に職のある者は大工、建具、指物、塗師などの仕事をさせ、手に職のない者は米とぎ、油絞り、炭団造り、藁細工などをさせた。毎日煙草銭十四文を与え、改悛の情が明らかになると道具と生業の元手五貫文ないし七貫文を持たせて釈放するという仕組みであった。
江戸隅田川界隈 佃島 つくだじま
江戸末期の切絵図では、佃島と石川島とは地続きであるが、明和(1764~71)ごろの切絵図では、それぞれ独立した島である。
『江戸砂子』所収の江戸図では、別々の島に描かれている。古くは、佃島を向島と呼び、鉄砲洲の船松町から渡しがあり向島の渡しと呼んでいた。
この地を佃島というようになったいきさつが『江戸砂子』に詳しく記されているが、これによると、
天正年間(1573~9)、浜松城主の家康が京へ上ったとき多田院(源氏の菩提所。明治以後多田神社)、住吉神社へ参詣しようとした析、神崎川に船がなく困惑していたとき、摂州西成郡佃村の漁夫が船で渡したのを賞して、以後伏見居城の折も膳部の魚を奉るよう命じた。大坂夏の陣、冬の陣の際には、食膳の漁猟などの外に軍事の密使として、怠りなく仕えた。家康は江戸城打入り後、漁夫三十四人を江戸へ呼び、慶長十八年(1613)に隅田川漁猟の免許を与えた。彼らは寛永年間(1624~43)には鉄砲洲の東の干潟百間四方の地を戴き、町造りをなし、正保元年(1644)二月、漁家を建て並べて、本国佃村の名を取って佃島と名付けた、という。その後、深川八幡宮前に空地三千坪を戴き、佃町と名付けた。深川佃町の起源である。
江戸の図に点を打ったる佃島
一声で余る佃の時鳥
佃島ととでまんまを食う所
一句目は、佃島は陸を離れた小さな島。二句目は小さい島で時鳥は一声鳴き終えぬうちに通り過ぎる。
三句目は島には畑がないので、飯のさいには野菜はなく、捕った魚だけ。
毎年十一月から三月まで、白魚を参るよう台命(将軍の命令)があり、佃島の漁師は期間中白魚漁に従事した。その方法は篝火を焚いて白魚を集め四つ手綱で捕るのであるが、篝火が川岸に延々と並ぶ遠景、篝火の火明かりが隅田の川面に移る夜景の美しさは印象的だったようだ。河竹黙阿弥の「三人吉三廓初買」(くるわのはつがい)の大川端庚申塚の場で、お嬢吉三が夜鷹のとせから百両の金を奪うところで、
月も朧に白魚の 篇も霞む春の空 冷たい風もほろ酔いに
心持よく浮か浮かと 浮かれ鳥のただ一羽
塒(ねぐら)へ帰る川端で 棹の雫か濡れ千で粟
思いがけなく手に入る百両 ほんに今夜は節分か
西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落し
豆沢山に一文の 銭と違って金包み
こいつあ 春から縁起がいいわえ
という人口に膾炙(かいしゃ)した名調子の科白(せりふ)がある。白魚漁に関わるものとしてここで引用したが、実は、「大川端」というと普通は隅田川の下流の右岸一帯を指す。ここの大川端は、「三人吉三廓初買」の「序幕大川端庚申塚の場」の舞台指定に「総て両国橋北川岸の体(てい)」とあるので両国橋のところで引用するべきであろう。
白魚の篝(かがり)ちょぽちょぼ沖に見え
佃島女房は二十筋数え
前の句は白魚漁の毎火があちこちに点々として見えるという叙景句。「ちょぼ」は、賽(さい)の目のことで、賽の目の合計が二十一になるところから江戸っ子一流の洒落で白魚を数える時二十一匹ずつを一まとめにして「一ちょぼ」「二ちょぼ」といった。
篝火が点々としている意の「ちょぼちょぼ」に、この「ちょぼ」という語を掛けた。後の句は、女は細かいので一匹少なく二十匹で一ちょぼと数えた、という意。
ただし、後には二十匹で一ちょぼというようになった。
佃島には、住吉明神社がある。『江戸名所図会』に、
佃島にあり。祭る神、摂州の住吉の御神に同じ。神主は平岡氏奉祀す。
正保年間摂州佃の漁民に、初めてこの地を賜りしよりここに移り住む。
本国の産土神なるゆえに分社してここにも住吉の宮居を建立せしとなり。とあるように、佃島は摂州西成郡佃村の漁夫三十余人が移住し、自費で築島工事を成し遂げ開拓し、正保三年(1846)に故国の摂州住の江の住吉明神を勧請した。
また、『続江戸砂子』「四時遊観」の「藤」の項に、
藤 佃島住吉社 神前に方六十余丈、棚枝葉道なり、
一向に空を閉して木の下聞の陰に茶店多く酒肴を貯(たくわ)う。
花は紫白、根は二本あり。摂州住吉も藤の名所なり。(中略)
この島は江都の地を離るること僅か一町がほどにして一つの離れ島なり。方百聞ありという。
島中みな漁を業として町といえどもまばらに鄙めき、干し網の下道細く、東南の岸は常に磯打つ彼の音、油井・興津の風情あり。
僅か一町を離れ十里の波路も越えたる思いに心寂しくおもしろし。
とあり、藤を中心に当時の佃島のたたずまいが手に取るように目の前に彷彿する。
反り橋を架けたき場所へ渡し舟
佃島松の代わりに藤を植え
前の句は、住吉の本社には名高い反り橋があるが、佃島には橋がないので、参詣する者は渡し舟に乗らなければならない。
後の句については、播州住吉の松は謡曲「高砂」や「我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松幾代経ぬらん」(古今集)
の古歌によっても知られており、更に住古蹟の唄
「神をいさめの高天原の ヤアサ四社の前なる アレ反り橋、
前に松原 ヤレ高燈篭 ソレ住吉様の岸の姫松 めでたさよ」
などによっても有名であったが、その松に匹敵するほど佃島の藤は江戸庶民から広く親しまれていた。
太平洋戦争 空襲の夜の訪問者 林キミ子
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9
(当時・大阪市浪速区霞町在住)
昭和二十年三月十三日の晩の大空襲で、永年築き上げた家財産を一瞬になくした。
主人は当時五十歳。長男が十九歳、次男が十五歳、女の子が三歳。血族結婚のため子供はみんな全盲の上、病弱であった。ほかに老母が、実家の弟が出征したので、あずかって同居していた。それと私の六人家族であった。
空襲の当夜、全員防空壕で蒸し焼きになる寸前、見知らぬ訪問者があり、命拾いするという不思議な目にあった。これは永久にとけないナゾである。
この日の空襲のIヵ月ほど前より、毎日B29に悩まされ、町内のものは男性は靴をはいたまま、女性はモンペをはいたまま、仮寝するありさまだった。毎日、毎夜の空襲警報でほとんどの人がつかれ果てていた。
そんなときの出来事であった。
早くどこかへ疎開せねばと思いながらも、盲人や病弱の子供を連れ知らぬ土地へ行きたくなかったので、一日延ばしにしていたのがいけなかった。空襲の一週間前、ようやく疎開の決心をしたがおそかった。町内共同用に造った防空壕に警報のたびに入っていたが、みんな不自由なものが多いため、手間取った。町内規で相談の上、自宅の中の間の下に、防空壕を掘って入ることとなった。当日の夜十一時頃であったか、空襲警報で消燈して各自防空頭巾をかぷり、私は来の子がまだ歩けないので背負って壕に入った。しばらくしてパチパチと音がしだした。機関銃の音であった。無経験のため何の音かわからなかったが、とにかく「出てはいけない、かがめ」と子供たちを押えつけるようにして、自分もかがんでいた。そのうちそうぞうしくなった。
三十分もたったころ、門口に人の来た声がする。後で思えば、そのとき聞こえるはずはない。真ん中の部屋の床下深く防空壕が掘ってあって、みんなかがんでいるので、そこから出て一間半の幅半間のコンクリートの庭を通って門口に出るようになっているので、聞こえるわけがないけれども、そのときは確かに聞こえた。主人が出て行ってドアをあけると、火気でまわりが火の海になっていることがわかった。早く引き返えして家族を助け出さねばならぬ。その他人に問答している場合でない。その人は物をあずけにきたという。しかも見知らぬ人だ。あずからないといったが、無理に置いていった。
お米であったろうか。ドシンと置いた。そんなもの見ている暇はない。引き返えして家族を引っぱり出して、表へ出た。 何を持ち出す間もなかった。天王寺公園に向かう道々にお茶のかんの長いようなものが燃えながらたくさんころがっている。焼夷弾である。それを踏みこえ踏みこえ公園まで行き、大木の下にみんなを座らせた。私は長男をさがしに引き返えさねばならぬ。長男は鍼灸学校を卒業して三年目になり、近所ヘハリの治療に出張していた。それを助けねばならぬ。一同は止めた。「こうなってはやむを得ぬ。一人を犠牲にして二人が助かることを考えねばならぬ。いま火の中へ引き返えせば三人とも死ぬ」とけんめいに止めたが、私は死んでもよいと振りきって火の中へ引き返えした。
雨が降ってきた。大火は雨を呼ぶと、昔から聞いていた。その雨の中家族を失った人々が、名を呼んで歩く。自分もその中の一人である。途中、知人にも出会った。たくさんのトランクを体につけて動けなくなって泣いている人。けがをして歩けなくなった人がいっぱいいたが、自分の家族をさがすので回生懸命である。そのときの家族の名を呼んで歩く悲しい声は三十年後のいまでも耳からはなれない。朝まで長男をさがして歩いた。夜が明けて見つかった。電車通りの氷会社のコンクリートが焼け残っていた。そこへ誰かに連れてきてもらったという。うれしかった。家族全員が助かった、と安心して我家へ走った。すでに焼野原であった。何も残っていない。ガラス障子のガラスが飴のようにこ階になっていた。
そのまんなかに永年飼っていた猫がしょんぼりすわっていた。「お前も助かったか、よかった」といったけれど、連れて行かれない。家族の一員として可愛いかったお前だったが、私らは明日から家もない、食物もない、お金もない。お前は一人ぼっち、私ら六人が明日からどうして行くか目途もついていない。ここで別れねばならぬ。「なんとか生き延びてくれよ」と涙ながらに合掌してサョナラした。びしょぬれになって自分らを待ちわびている家族のもとへ、一刻も早くと公園に向った。あくる日、一片ずつのパンが配られた。大空襲で一時に多くの被災者が出たので、市としても食糧がまわりかねるのだろう。
地方に身寄りのある人は証明書を出すから、戦災列車にのってほしいというので、いったん志した別府に行くことにした。「主人は芸職、長男は鍼灸、私は人形職だし、温泉地なれば何とかならないかと、別府行きの汽車の証明を一週間毎日並んで立ち、やっともらい受け、大阪駅で二日間並んで最終の戦災列車に乗りこんだ。満員で座れず一晩中立ちずくめで別府に向ったが、ちょうどその日に大分に爆弾が落ちて行かれない。仕方なく主人の郷里の山口県に引き返し、永住、今日に至った。
主人は戦後の過労で、昭和三十五年に死亡、せっかく助かった末子も戦後一年目に栄養失調で死亡した。でもあのときあの人が物をあずけにこなかったら、周囲が火の海になっていることに気づかず、全員無残の焼死しているところだった。それにしてもあの人は何であったろうか。心当りといえば、主人が昔から慈善家といわれるほどたくさんの難儀な人を助けたことがある。仏教でいえばそのお陰ともいえるが、その人のことを忘れぬため、毎年一回感謝の日とし、ことしで二十八回になる。私は当日の空襲による死者の冥福を祈り、生涯つづけるつもりである。
太平洋戦争 疎開の前夜 樫尾菊枝
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9
(当時・前橋市栄町在住)
一生忘れることの出来ない二十年八月五日のことです。
私は十九歳でした。 私達一家は、前橋の中央街に住んでいましたが、強制疎開の命を受けて、やむなく父の実家(栃木県小俣町)へ引揚げることになり、引越荷物を整理していよいよ明日にトラックが来てくれることになっていました。家には当時リュウマチで十六年間寝たきりの姉(二十三歳)がいたので、引越すまでのあいだ身体だけ、もと家にいた番頭さんの荘ちゃんの家に置いてもらいました。引越荷物は同じ隣組内の銀行の倉庫の軒下に置いてもらうことが出来ました。
明日のお別れに、母が何も無いながら、心ばかりのご馳走を作ってくれて、皆で楽しく食事をしました。土用の蒸し暑さの中を少し寝たかと思った矢先、警報で目が覚めたのです。縁側から空を見ると、赤い風船のような光るものがフワフワと落ちて来るのです。さあ大変だ。もう空襲です。とうとう来る時が来たのだ。荘ちゃんは真先に、おばさんに荘太郎君(四歳)をおんぶして避難させる。父母も下の弟(十三歳)に、おばさんについて早く避難するようにいう。家の前の道を真直ぐに左へ行くと田んぽなので、皆逃げて行くのだ。遠くでパチパチ、ドカンドカンと音がして、どんどんやられているのがわかる。いよいよ追って来た感じビ。母は寝ている姉をおぶって逃げるつもりで、
いつも帯を用意していたが、父は、 「それでは二人とも駄目だ。自分が見ているから先に逃げろ」と母にいいました。母は良ちゃん(姉)といっしょに居ると必死にいいましたが、父は早く早くと私達三人にいいました。母も決心をして、上の弟と私と三人で家を出ました。
やっと田んぼの近くに来た時、バリバリと機銃掃射の音で思わず地面に伏せました。足ががタガタ震えて立てなくなって、弟が引張ってくれました。皆が無言でぞろぞろついて行きます。川べりに来たとき、またまたヒューンと音
がしたかと思うと、バリバリと機銃掃射です。そのとき、脇の人がバタバタと倒れました。瞬間、心臓が止まるかと思いました。
夜なのに照明弾のために真昼のような明るさです。弟が田んぼに出ては上からまる見えだから、桑畑がよいというので、そちらへ行こうとしたとき、後から父が追いつきました。父は、もうそこまで火が追って来てどうしようもないので、「ちょっと見て来るからな、必ずすぐ戻って来るからな」と姉にいって、家を出たそうです。荘ちゃんも「旦那、もう駄目だ」といってどこかへ行ったそうです。私達は何もいいませんでした。父も一大決心をして家を出たのだ、仕方がないのだと思いました。何度か伏せながら大人の背丈ほどある桑畑に出て、やっと腰をおろしました。
どのくらい経ったでしょうか。弟が街の方を見に行きました。すっかり焼けてしまって暑くて近寄れないけれど、隣組だった旅館が焼け落ちるのを、遠くから見て来たというのです。銀行の倉庫もやられたそうです。もちろん家の荷物も全部焼けてしまったのです。街の真中は焼夷弾で、廻りは爆弾でやられたようです。
父と弟はすぐ荘ちゃんの家に戻って行きました。母と私は後からゆっくりと行きました。姉さんはどうしたかと、心配のあまり二人とも黙って歩きました。でもどうでしょう。荘ちゃんの家の一角は焼け残っているではありませんか。ああよかった。父のホッとした顔がそこにありました。姉はただただお経を唱えていたそうです。
喜んだのも束の間、荘ちゃんが「よし子も荘太郎もやられたらしい」ととび込んで来ました。一緒に逃げた近所の人のうち、小さい坊やが一人だけ掃って来て、皆死んじゃったよというのです。男の人達がとんで行きました。間もなく戸板で、おばさんと荘太郎君が運ばれて未ました。爆風にやられたらしく、おんぶして伏せたので、おばさんの顔は傷ついていないけれど防空頭巾から上がないのです。荘太郎君はもっとひどくて、目の上あたりからパックリないのです、ざくろのようになってしまっています。あまりのむごたらしさに思わず帽子をかぶせてあげました。皆泣きました。荘ちゃんは、「早く逃げさせてとんだことをした。荘太郎許してくれ……」と男泣きに泣きました。「ばかな話だ、逃げた者が死に、家が焼け残るなんて」と、声にならずに呻くようにただただ怒りをぶつけるばかりです。
昨夜の楽しかったことがうそのようです。あまりにも変わり果てた姿に呆然とするばかりです。ふと、下の弟のことを思いました。おばさんと一緒だったらやられてしまったのかも知れないと……。
上の弟が見に行きましたが、あたりは皆死んでいて、弟らしい姿もないそうです。ずいぶん時間が経ってから、その弟がひょろひょろとして帰って来ました。その顔は真青でした。こうして荘ちゃんは、一瞬にして一人ぽっちになってしまい、私達は家財全部を焼いてしまったのです。
太平洋戦争 プールに浮かぶ死体 加藤義雄
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9
(当時・東京都深川区深川在住)
空襲警報の発令とほとんど同時にB29が来襲した。そしてその最初の一弾は、西平野警察署(現・深川警察署)裏の公衆浴場に投下された。みるみるうちに火の手はあがり、またたく間に火は付近の材木問屋街に燃え移り、折からの強風にあおられ夜空を赤く染めた。
私(当時・中学五年生十七歳)の知る限りでは、昭和二十年三月九日夜の東京下町大空襲は、このようにして始まった。風は清澄公園から木場の方に向って吹いていた。私はそのとき、その火災の対岸にあたる海辺橋近くの自宅にいた。母は不在で家には小学生の妹と弟しかいなかった。夜空を見上げると、次から次と来襲するB29は、探照燈に照らし出されながら、雨あられのごとく焼夷弾を投下している。火災は四方八方で発生しはしめた。近所の人たちはすでに明治小学校へ避難を開始している。私たちも急いで学校に逃げることにした。ちょうどそのとき母が帰宅したので、持てるだけの荷物を持って家を出た。
途中、私は父の位牌を取りに家に戻った。家を出ようとすると、もう火は身近に追っていた。強風は吹きまくり焼トタン、瓦は飛び、外は火の粉の海であった。意を決し私は布団をかぶり外に出た。頭にガチガチ物がぶつかるのを強く感じ、一瞬たじろいだが、一陣の強風が吹き去ったそのすきを狙い、死物狂で電車通りに向ってとび出した。学校のほうはすでに火の海と化していた。そこでやむなく清澄公園に逃げることにし、海辺橋の方向へかけ出した。橋の上には消防車が数台置いてあり、エンジンが止りかけて風下の川を見ると筏の上を火が流れるように走っていて、川の両岸を結んでいる。あたりは人の泣き叫ぶ声、ごうごうという火勢と風が猛り狂っている。大急ぎで橋を渡り、警察署前に立ち並ぶコンクリートの建物のところに走った。そこには、すでに避難して来ている人が多数集まっていた。その中に混って呆然自失の状態で、真赤に焼けている木場の方向と母や妹、弟の逃げた明治小学校の方をただひたすら見守った。
まだB29の来襲はつづいている。日本の戦闘機がB29に接近して撃ち込む焼夷弾を、流れ星のように飽くことなく眺めた。撃墜されることのないB9一は、異様な怪物に見えた。前方の火の手はぐんぐんと風下の方向に進んでいく。建物の焼け落ちた跡にはガス管からの青白い炎が燃えていた。B29の姿がようやく空から消えはしめたころ、非常な疲れと睡気が襲ってきた。ぞくぞく寒さも感ぜられた。でも母や妹、弟のことを考えると気が気ではなかった。
夜が明けてくるにつれて余燈のくすぶっている状態が、だんだん視界に入って来た。一刻も早く学校に行ってみたいと思い、海辺橋を渡った。一面の焼野原に愕然とした。川に浮かぶ筏の水面に出ている部分は、平らに焼けこげ、えぐられている。電車通りの両側の街路樹は焼け朽ちており、電柱も黒く焼け細り棒のようになって、煙を出して燃えつづけている。わが家は跡かたもなく焼け落ちていた。その向こうに学校が見えるが、焼け跡の土が熱くてとても近道はとれない。
大通りから校舎正面に近づくと、校庭にはたくさんの焼死体が無惨に横たわり、プールの中にもたくさんの死体が浮かび、講堂入口の扉の前には、中に入れずに折り重なって、死んでいる人が山になっていた。思わず私は目をつぶり手を合わせた。
母や妹、弟の無事を祈りながら急いで校舎の中に入り、夢中で探し廻った。やっとのことで探し出し無事な姿を見て、
思わず親子して泣いた。だが、そこに落ち着く間もなく、こんどは焼け残った校舎が、ふたたび爆撃されるという噂が広まり、みんなおびえた、母はこれからすぐに芝金杉の母の兄の家に行くといい、休む暇もなくなけなしの荷物を持って学校を出た。私は妹と弟の手をしっかりと握り、地獄絵のような光景の中を電車通りの真中を歩いて、門前仲町を通り月島に行き、やっと勝間橋を渡った、そして築地を通って銀座四丁目まで来た。
そのときまで私は東京全部が焼けたのだと思っていた。ところが隅田川を渡ったこちらは、まるで何もなかったように、人々は普段とかわらぬ様子で出歩いている。そしてじろじろと私達を見つめている。急に焼け出された自分達が惨めに思えてきた。いや、それ以上にいままで私たちが通って来たところで無惨な死に方をしていた多くの人達の死がいたましく思えてきた。私だってもう少しで死ぬところだったと思うと、なんだか急に体から力が抜ける思いがした。が、疲れきって歩いている母や妹、弟の姿を見ると、はっとして、尾張町交差点を左に曲がって新橋方向に進んだ。
しばらくすると、突然、救屠所と書いたところから女の人が数人出て来て、私達の目のふちを脱脂綿で何回も拭ってくれた。目が楽にあけられるようになり、元気づいた。この親切には全く感激した。私達は何度も礼をいってそこを後にし、目指す母の兄の家に向って歩きつづけた。これが戦争というものなのだ、ということを自分自身にいいきかせながら。
太平洋戦争 死なばもろとも 早川稿一
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9
(当時・横浜市西区老松町在住)
横浜の空襲は、東京よりはるかに後だった。最初の蒲田の空襲のときは、B29は横浜を通過して蒲田を襲った。夜、突如としてけたたましく空襲警報が鳴り渡り、人々は我先にと防空壕にもぐり込んだ。じっと身をすませてはるか遠方で鳴りひびく高射砲の音を間いていた。長い長い一時間だった。解除と同時に私は飛び出して、這るかに東京の空を眺めた。夕焼のように赤く染っている生々しい空を見た。それから横浜でも学校疎開がはじまり、わが家でも五年と三年の子供を箱根に疎開させることにした。
空襲もこのころから熾烈になり、次々に東京の各地がやられ焦土となっていった。私は東京へ通勤するのが怖かった。「今日は空襲がありませんように」と心に念じて、毎日家を出た。忙しかったので帰宅はいつも夜八時か九時になったがなぜか列車が蒲田を過ぎ六郷川の鉄橋を渡り終ると、ホットした安心感と同時に疲れをおぼえて、うとうとと居眠りをすることもあった。
昭和二十年五月二十九日の朝八時ごろだったと思う。
朝食をすませ洋服を着て会社へ出勤しようとした瞬間、突然空襲警報が鳴り渡った。私は早速ラジオのスイッチを入れた。「浜松の上空をB29の大編隊が東へ向って通過した。東京、横浜方面へ向うものと思われる」という声が流れた。私はすぐに家の外に飛び出した。わが家は高射砲陣地のすぐ下の小高い岡の上にあった。飛行機のやってくる方角を眺めてビックリした。はっきりと大きな飛行機の編隊をこの肉眼で鮮かにとらえたからであった。「来たぞ来たぞ。もうそこに見える、すぐ避難しろ」と妻に叫んだ。妻は二歳の子を背負い、壕に入らずおしめの包みだけをもち、布団を被って近くの公園へ走った。と間髪を入れずバラバラと火の雨が、あたり一面に降って来た。私は座布団で庭に無数に落ちている火玉を無我夢中でたたき消していたが、ふと廻りを見ると隣家からもその隣りの家からも、赤い炎、黒い煙が上っていた。私はとっさにこれはいかん、逃げ場がなくなるぞと夢中で細い唯一つの路を駆け出した。途中の家々からも火が、煙が吹き出していた。公園で子供を背負って私を待っていた妻を見「ああ助かった」と思った。
その夜は火災をまぬがれた公園の親類の家で一夜を明かしたが、下町から火に追われ命からがら逃げて来た人々で、小さな家は一杯になった。翌朝さっそくわが家の視察に出掛けたが、わが家はもとより付近一帯は見るかげもなく焦土と変っていた。たくさんの書画蔵書がそれとわかる白い灰の一かたまりとなって残っていた。私は両手でその灰を掬い上げたかなしかった。逃げ場を失いドブ川にもぐって助かった人々に会った。防空壕で亡くなった、いつも快活だった近所の娘のことも聞いた、高射砲陣地も火災の黒煙のためになすこともなく焼かれて、無惨な廃墟のすがたをさらしていた。
横浜の中心街ももちろん焦土と化し、しばらく後のことだが、進駐軍の軽飛行機の滑走路が、かつての繁華な中心街の真中に、ながながと出来たほど、もとの姿の名残は何一つもとどめず、きれいに焼野原となってしまった。
戦局はその後、速度を加えて悪化し、終局近しを思わせた。私は妻と計らい、死なばもろともと疎開先より子供を連れもどした。焼原となった横浜にはもう空襲の不安は消え、欠乏の味気ない生活だったが、子供らと一緒にいる安心感が何よりの救いであり、楽しかった。やがて八月十五日を迎え戦いは終った。
太平洋戦争 投げた白シャツ 鎌田定幸
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9
(当時・伊丹市稲野御願塚在住)
敗戦の年、私たち一家は、兵庫県の伊丹市に居住していた。私は、国民学校の上級生だった。
八月のある日のことである。朝から焼けつくような真夏の太陽がぎらぎら照りつけて、カバンを肩にかけただけで、じっとり汗ばむくらいの、うだるような暑さであった。二時間目の授業中であったか、警報のサイレンがひびくと、平素の訓練のせいもあって、寸時に方面別のグループが校庭に揃い、先生に引率されて校門を出た。駈け足で田圃道まで来ると、真正面から七、八機の小型戦闘機がヒューンとプロペラの音をさせて、あっという間もなく下降してきたかとみるや、いきなりババババーンと、一斉射撃をしてきたした。わあっ-と叫んで、私たちはクモの子を散らしたように、右と左に畦と畦の間にかがみこんな。私は顔がかくれるように防空ズキンを深くおろし、両手で耳と目をおおい、身体を田の上にぴたりと伏せた。恐怖感に耳を押えている親指の先に力が入り、ふるえているのがわかった。
いつか先生から聞かされてはいただろうか。私は恐る恐る指のすき間から覗いて見た。こわさにじッとしていられなかったのか、同級生が野菜畑を逃げまわっている。と、その一人の背に、パッと光りが走った瞬間、半袖の白カッターシャツに点々と血がにとんだ。私はギャッと悲鳴をあげたまま、バッタリ倒れた。 地上すれすれに飛んでいたグラマンは射撃するだけしたら、さっとその機体をひるがえして姿を消した。咽喉の奥がカラカラにかわき、胸の動悸が激しく高鳴って、私はその場から動くことが出来なかった。
どれくらい時が過ぎただろうか。「皆はどうしたろうか」と起ち上がろうとしたとき、また七、八機のグラマンが逞かかなたから接近して来るのが見えた。私は着ていた白シャツを脱ぐなり、畑の土をかためて包みこんだ。グラマンがビューンと低下して来た間一髪、私は精一杯の力で土手に向けてシャツを投げた。機銃がそのシャツをめがけて火を吹いた。そしてさっとグラマンは舞い上がった。私はそのまま気が遠くなった。
気がついた時、学校の保健室にいた。担任の先生も母親も来ていた。聞けばクラスメート三人が撃たれて死んだという。私は絶句し、急に悲しみが込みあげてきて泣いた。先生は私のシャツを見せてくれた。それは二、三個所焼け焦げて穴があき、ぽろ布になっていた。私が土をくるんで投げたシャツが、生命拾いになったことがわかった。それから一週間して八月十五日、日本は戦争に負けたのである。
いま、とても信じられないあの夏の暑い日のいまわしい出来事を思うにつけ、平和の有難さを大切にし、このことを私の二人の子供達に話し伝えてゆきたいと思うのである。
艦載機といって、日本の近海まで大型航空母艦に積み込んで来たグラマンとかロツキードとかの名の小型戦闘機があり、短時間に機銃掃射をしてふたたびさっと舞い戻るということを。しかし今、手の届きそうな目前に初めて見たその光景は、どう説明したらいいのか。
太平洋戦争 青白い閃光 原爆投下
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9
8月6日午前8時6分 広島に青白い閃光が走った
B29が落とした5トンの原子爆弾I個で 広島は一瞬のうちに粉々に飛び散った。放射能は人も建物も焼き、爆心地では壁に影しか残らない高熱であった。奈良を除き空襲の損害を受けていない最大の都市・広島は34万の人口のうち7万8千名が死亡、負傷・行方不明は5万一千名にのぼった。原爆は戦争を終結させ世界の歴史を変えたが被爆
者に悲惨な原爆症が残され その後5年間に24万人以上が死亡死者はなお後を絶たない。
20年9月3日英国の記者バーチェットは「広島における大惨状」を打電 。ノー・モア・ヒロシマ″は世界の平和運動の合い言葉となった。
広島駅も無残な外形が残った。6日朝8時半までに23列車が広島市に到着広島へやって来て被爆した人も多い。
爆弾の閃光の投影で作裂瞬間の形が そのまま焼き付けられた所も多い 人間の影さえあった ガスタンクに残ったハンドルの影
米陸軍調査団が来日20年9月目日大野陸軍病院で都築博士が被爆患者の説明6日後この病院は台風で156人と調査資料を失った
顔中の火傷に声をあげて泣く力もない子ら生き残った被爆者には ケロイド 貧血白血病などの原爆症と死への恐怖が残された
太平洋戦争 玉音放送から一週間
ドキメント 原文保
「感激不止」柳田国男
「感慨無量」三戸小学校宿直日誌
「ふと、戦争終了ということに対して 明るくなる顔のあったことを見のがせなかった。これは自分の心の反映であろうか」
吉沢久子「悲しさと嬉しさ 嬉しさと悲しさ このごっちやになった感情」
高橋愛子「庶民のさまざまの感慨をよそに 東京と厚木の間では
一触即発の危機をはらみながら日本の……最も長い一週間……を迎えようとしていた……」
8月15日 玉音放送は終った。
天皇も出席して、午前11時から皇居の防空壕で聞かれていた枢密院本公議は、放送中休憩していたが、12特10分再開した、外相・東郷茂徳が戦争終結に関する報告をし、枢密院顧問官四人との間で質疑応答があった。
元日銀総裁の顧問官・深片英五は、四人の発言を、愚痴か、さもなくば憤慨に過ぎないと思いながら聞いていた.病いをおして出席、発言の用意のなかった深井だが、一言いわざるを得ぬ思いで、最後に立った。
「……御聖断は申すもかしこきことながら、これに関与せらるる総理大臣、
外務大臣らの御勇断を喜ぶ」
海軍302空司令・小園安名大佐は、放送が終ると同時に、通信長を呼び、この朝。『略号文』にさせておいた『声明』を「作戦緊急で発信せよ」と命じた。それから洗濯したてのシャツに第三種の開襟軍衣を着ると、総員集合している中央広場の号令台上に立った。
「諸君、日本政府はボツダム宣言を受諾した.このことにより、日本の軍隊は解体したものと認める。
これからは、各自の自由意志によって、国土を防衛する新しい国民的自衛戦争に移ったわけである、
諸君が私と行動をともにするもしないも、諸君の自由である。
私と志を同じくして、あくまでも戦うというものはとどまれ。
しからざる者は、自由に隊や離れて帰郷せよ.
私は必勝を信じてあくまでも戦うつもりである」
と大声で訓示した。
玉音放送をすませた情報局総裁下村宏は、内幸町の放送公館を出ると、車を皇居前広場へと走らせた。車を降りて二重僑へと歩を運んだが、その眼にうつったのは「そこにもここにも嗚咽哭泣の声が広場にくまなく聞えている」という光景だった。その真っただなかに立った下村は、三十三年前の明治45年7月、明治天皇危篤の報を聞いた日の光景を思い浮かべていた、広場の砂利石をひろい上げ、
玉砂刊の一つを手にし押しいただき
胸におさめ涙して立ちつ
歌一首をよむと、首相官邸へと急いだ,
「次ニ来ルベキ停戦命令、或イハ武装解除命令ハ天皇の滅シ奉ル大逆無道ノ命令ナリ。
…必勝ノ信念ヲ失イ、斯ル大逆ノ命令ヲ発スル中央当局及ビ上級司令部ハ、
既ニ吾人ト対スル命令権ヲ喪失セルモノト認ム。
依ッテ自今如何ナ几命令ト雖モ、一切之ヲ拒スルコトヲ声明ス。
日本ハ神国ナリ、絶対不敗ナリ……」
小園の『声明』は、玉音放送終了の五分後に、公国の海軍部隊で受信された。連合艦隊はすでに潰滅していた.軍艦のない司令長官・小沢治三郎中将は、日吉の総隊司令部でこの電報を見て驚き、怒り、直ちに全海車に向け「翻訳禁止」の命令を打電させた。
午後2時、厚木の戦闘指揮所の吹流し塔に菊水の旗が掲げられた。これを旗印としたにし『七生報国』の楠木正成は、小園が尊敬する武将だった。
厚木基地から飛び立った零銭は、三千メ-トルの上空から首相官邸めがけて急降下飛行をくり返していた。
空襲で半分焼け、本館だけ残った官邸では、午後2時半から閣議が聞かれた。陸相・阿南惟幾の席だけ空席になっていた。
まず情報局総政・下村が玉音放送終了についての報告を行ない、つづいて首相・鈴木貫太郎が発言した。
二・二六事件で奇蹟的に死を免れた七十九歳の老首相は、8月9、14両日の御前公議で、意見対立立し、二度まで天皇の裁断かゝわずらわせたことに対し、恐懼に堪えぬと述べ、
「それで辞表を捧呈することといたしました、
終戦となるからは、内閣も切りかえねばならないが、そのけじめが考えられない
……どうしても、この際よりほかには、
今後の終戦の始末をつけるべきケジメがないと思います。ご了承下さい」
といった。それから姿勢を改めると、
「さて、誠に悲しむべきことは、阿南陸相の自決せられしことである」
と述べ、前夜来の陸相とのやりとりを報告した。この仙、午前4時過ぎ、陸相・阿南は、
大君の深き恵みにあひし身は
いい残すべき片言もなし
の辞世を残し、臨時陸相官邸で割腹自決したのだった。
いったん閣議を休憩して公室に引き上げる鈴木の後を追い、下村は、
「この上の覚悟無用」と書いた紙片を、首相の執務机の上にさし出した。