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信長甲州入り仕置 『甲陽軍鑑』品第五十八 春日惣次郎著(佐渡にて)

2023年09月07日 17時34分47秒 | 山梨県歴史文学林政新聞
信長甲州入り仕置 『甲陽軍鑑』品第五十八
春日惣次郎著(佐渡にて)
 
信長は甲府へ到着した。
かねて春から計略の廻文(回状)をまわされる。
武田の家の侍大将衆は皆御礼をいたせ、という主旨の御触れとなる。
その二月末、三月初めにかけての頃、でたらめな信長父子の書状をよこされた。それには甲州一国をそのままくれるとか、信濃半国をくれてやろうとか、あるいは駿河をくれるといった書状であって、それを信じこんだ勝頼公の御親類衆をはじめとする人々は、皆領内に引きこもっていた。
この触れを誠だと思って御礼に参上したところで、武田方の出頭人の跡部大炊助は諏訪で殺された。逍遥軒は府中(甲府)において殺される。
小山田兵衛、武田左衛門(信玄弟)、小山田ハ左衛門、小菅五郎兵衛は甲府善光寺で殺される。
 一条殿は甲州市川で家康の命令により殺される。
出頭人秋山内記は高遠で殺される。
長坂長閑父子は一条殿御館(甲府)で殺される。
仁科殿、小山田備中、渡辺金太夫(高天城主)この三人は高遠の城で、織田城介の旗本に攻められて、上下の者十八人で城を維持しつつ晴れの討死となる。
また小菅五郎兵衛は今まで山県三郎兵衛の軍内では大剛の者で、長篠戦の後の御旗本へ命じられて足軽大将をつとめたほどだから、仁科殿と高遠城へさし向けられたのに、卑劣な行動があって十日以前に勝頼公の御供をするというので高遠を出て甲州へ帰った。そこで小山田兵衛と一つになって逆心を企てたのだが、右のように善光寺において殺された。 
高坂源五郎は沼津から、御最後となった五日前に甲府に戻り、御供いたすと申し出たが、長坂長閑の考えで、城をあけて来たような者はどんなことをするかわからぬ、それに侍二十騎ばかり雑兵百四五十人くらいが参上してもしかたがないと寄せつけなかった。そこで伊沢(石和)からすぐ信州へ出た。
屋代(左衛門尉勝永)は若かったけれども駿河をよく脱出して勝頼公への音信の役をつとめたが、高坂源五郎と同様に御供を許されなかったから、これも信州へ出た。
高坂源五郎(信州松代海津城 居城)も川中島で殺された。
山県源四郎も殺された。駿河先方衆も勝頼公の御ためと一筋に尽した者は成敗される。
甲・信・駿河の侍大将はいずれも家老衆とともに大部分殺される。
 しかし信濃の真田・芦田(北佐久郡)、上野では小幡(上総介信貞)・和田(高崎)・内藤(群馬)そのほか上州衆は皆助けた。それは、滝川寄騎(与力。滝川一益)の配下につけて、三年の内に北条氏政・同子息氏直(母は信玄の娘)を討ちたやすこと、その時もしも手間がかかるようなら真田・小幡をはじめとする諸勢に北条家をまず攻めさせようとしたからであった。
 山上進及という剛の侍は、もともとは東上野衆に属していた。
それがずっと浪人して武者修業しつつ諸国を歩いていたところを信長に召しかかえられた。この者に一万貫を下されたのも、北条を滅亡させたあとを滝川一益に任せるための下ごしらえである。また、下総佐倉の千葉介国胤は、これも強剛の大将であった。
この国胤にあてた信長よりの書簡が無礼な又面だと怒って、信長が贈ってきた喝の尾髪を切って追い返した。さらに信長の使者の頭髪を切りとって送り返した。
武田四郎勝頼の運もつきて没落となったのにともない、北条氏政も頭をたれて信長の被官となるとも、この国胤は北条勢が滅んでも降ることはないのだ、という心意気を示したのだった。
信長に統治が替わって、勝頼公四カ国はその後、上野は滝川(左近将監一益)、
駿河は八年前に長篠合戦で勝利した時の約束でその通り家康へ、
甲州半国と信州諏訪を合わせて川尻与兵衛、甲州西郡(中巨摩・西八代)は今度の忠節にかんがみ穴山(梅雪)へ、そのほか以前からの根拠地だった下山(身延)をそえて下さる。信州川中島を森少蔵(長可・武蔵守)に、木曽はそのまま木曾義昌に、松本も今度の忠節ということで含める。それから信長公は萱屋九右衛門を呼んで曾禰下野という者はどこにいるか、再三にわたり当方に書状をよこして信長公の御被官になると申して、内々に忠節心をみせておったが。
信玄他界後十年このかたになるから奉公させよと命じられる。
菅屋九右衛門が、富士の高国寺(駿河駿東郡)という城におりますと報告すると、
その城に加えて川東南(富士川)の地をそえてこの曾禰にくれるということで、曾禰下野は富士川下流をすこし領有した。
このように、御譜代として以前から仕えたのに、それなりの処遇がなかったのは、長坂長閑・跡苔大炊助そのほかの出頭衆が私欲にはしり、賄賂におぼれて大事なことをかくしていこからだ。だから国は滅び、自身も処刑されるはめになったのだ。
信長公の威勢、同父子は明智の為に弑(しい)せられる
 
 信玄公御他界十年以来、謙信他界五年このかた織田信長に続く弓取りは、日本では勿論唐国を見渡しても稀なる名将といえるのに、さらに勝頼公を亡くし、その領国四カ国をそれぞれ分割してこの頃は飛騨の国も乎に入れ、旗下の北条氏政の駿河の領分を浜松の家康にくれ、これらの国併せて三十六ヵ国となった。前巳の年(天正九年)に伊賀を占拠した
から、信長の支配の国は全部で三十七カ国だけれども、勝頼公がすでに御切腹なさってしまったから、東は奥州までそれほど領有するのに支障はあるまい。安芸の毛利もやがて倒しなさるであろうとは、信長衆の間の当然の風聞であった。
とくに四国は信長三番目の子息三七殿(織田信孝)を派兵して四国退治の準備をしていた。(中略)
 信長は駿河筋を上り遠州浜松へたち寄り、家康の歓待を受けて目出度い帰陣となった。そこで家康は義理堅く考えて今川氏真にかねて約束してあったから駿河を進呈した。
氏真の軍勢がわずか三千ばかりであるのを信長は知って、家康に約束してあった通り駿河を渡したのだが、何の役にもたたぬ氏真にくれた駿河を取り返すべきだという信長の意向であったから、ふたたび駿河は家康の手に渡ったのだ。
したがって氏真公は流浪の身となり、結局は三州の作手(南設楽郡 山家三方の一)の
山家に身を寄せたが、西国一帯が鎮圧される頃には、今川氏真は成敗される運命にあった。
 
さて家康は穴山梅雪をつれて安土城へ御礼に参上した。
 
そこで信長は京都まで、家康・穴山両大将を案内して馳走のため猿楽の名人たちを集めて能を演じさせ、家康・穴山に御覧に入れて、それから堺へおもむかれた。都のあたりから河内・和泉・摂津・五畿内にかけて信長衆の各軍勢は目をみはるほど多く陣をしいていたのに、
六月二日の朝、明智十兵衛(光秀)という、信長の家中では弓矢巧者、俸禄も三番手の侍大将で、その勢八千の将が、都の本能寺という法華寺において信長を何の困難もなく殺した。
 このことを子息の城介殿が聞きなされて、妙覚寺に陣取っておられたのだが、ここでは堀もない平地であるからといって二条殿の御館へ逃けこまれた。信長の旗本衆も城介殿に合流して旗本侍は合わせて甲の緒をしめた正式の武士八百人あまり、雑兵一万人たったけれども、一戦も交える態勢ができずに二条御所へ立て籠もった。それを知って、明智はすぐに攻め込んで来て殺した。
一時の間に信長父子の軍を討ちとった攻めに、上下一万あまりの兵は屏堀をとび越え皆逃げて、城介殿は反撃する間もなく討たれることになった。三番目の子息三七殿(織田信孝)は四国への征伐も投げすて、伊勢の居城へ早々に逃避してこもり、天下はたちまちに乱れて信長の諸勢はただ驚きあきれ、諸侍間で互いに気をつかいながら、それぞれの勢が居城にこもってしまった。
家康・穴山は和泉の境から東をさして落ちのびたことだ。かつて高坂弾正存生の時に常に言っていたことだが、主君へ逆心するような者は三年と無難でいられない、との言のように、山城の宇治田原(京都)というところで雑人の手勢を廻されて穴山梅雪の首は討ち取られた。家康は無事に国へ帰られたのだった。
 
北条氏政父子は信長の死を聞いて、今や敵となっている滝川(一益)勢を攻めた。上野衆の小幡・内藤をはじめ勝頼家が助けられた先方衆が談合して応戦いたし、北条衆を全面
的に追い崩し討ちとる「そのあとへ小田原から氏直(氏政の長男)一家の総軍が三万人あまりで攻めこんだので、滝川は剛勇だったといっても、わずかに三千の軍勢で再度の戦いとなっては、それに上野先方衆へ恩に対する返礼だとして戦ったが、松田尾張(憲秀。北条家の老臣)の一軍にやられて、滝川軍は敗北して前橋へ退却した。(中略)
 こうして北条氏直は上野・信濃の領内へも手をのばし、五万ばかりの軍勢で信州川中島へ進行して、上杉景勝の軍三千ほどを追い払い、川中島一帯を長尾景勝から手に入れた。 
そのあと北条殿は甲州を攻め取ろうと乙事、葛窪(富士見町)に進出し甲府へと軍旗を向けた。甲州郡内へは北条右衛門佐が約八千の兵で侵入した。甲州の恵林寺方面へは北条安房守が七千ほどで進撃した。
 
浜松の徳川家康は信長衆に蜃われて尾州の清州(愛知県西春日居郡)まで出ていたが、信長より進呈された駿河をまだしっかりとは統治していないから進攻は無理だ、と信長衆に断わってから、早々に駿河に打って出てから、甲州へと進出した。川尻与兵衛は死に物狂いで家康の家老の一人を策謀により殺した。
甲州の百姓、町人はこれを聞いて川尻をせめ殺したが、川尻の首は山県源四郎の被官・三井弥一郎が討ちとった。その後、家康は甲府の一条殿御屋敷に居て札をたてて治め、甲州・
信濃・駿河衆をかかえて、恵林寺筋へは曾禰下野の鳥居彦右衛門に三宅惣右衛門という家老の面大将合わせて百三十騎、雑兵六百ばかりをさし向けられる。
家康は駿河・伊豆の国境にも軍勢を配し、あと三河にも軍を配備していたから、七千ほどで北条氏直に対し、甲州の新府中(韮崎)で対陣となった。そして鳥居彦右衛門は甲州の卑賤な侍は除いて総勢は敵より二千不足するものの、北条右衛門佐の八千の軍と黒駒にいた所で合戦となり、鳥居彦右衛門が勝って、北条八千あまりの兵のうち三千を討ちとる手柄となった。また恵林寺方面でも曾禰下野が北条衆を三千ばかり六七百の雑兵とともに討ち取ったから、北条氏直はかなわずに和睦を結び、駿河・甲州・信濃は家康に渡し、北条家は上野の領内を残らず領有すること、さらに家康の婿に氏直がなることで約束が成り、両方とも退いた。
それから家康は五カ国の主となられたから、武田殿衆、すなわち甲州・信濃・駿河三カ国の侍は、あらかた家康に仕える身となったのである。
 
家康は慈悲深い大将で、勝頼公御最期の所に寺を建てよ、と甲州先方衆に命じられたので、田野という所に勝頼公の御墓寺(景徳院)があるわけであるが、それは家康公のそういう大慈大悲のおかげである。小宮山内膳(立び器)が勝頼公に憎まれても、殉死をした由を聞かれて、内膳の弟である坊主(釈枯橋)をその寺の住職になされた。信玄公の菩提
寺はもともと恵林寺であるから、この寺にもそれと同様に寺領を、この田野寺にも田野の村々を含めるよう命じなされる。
 
信長は武田信玄に自分の居城である岐阜の間際まで焼かれた口惜しさから、墓所まで焼けというので、恵林寺の快川和尚・智勝国師をはじめ、高山和尚、大綱和尚、睦庵和尚そ
のほか、すぐれた出家を五十人ばかり焼殺しなさったのに、この家康は敵の為に寺を建てられたのだ。
 
北条殿が家康に負けて退いた時に、甲州や信濃の庶人は落書に次の歌を書きつけた。
 ″渡すべき海の朽木の橋おれて 浮名をながす千曲川かな
 (千曲川を渡って一度は侵攻した北条氏直も、朽ちた橋から落ちるように、悪評を流して退去したことだよ。)
 
 
高坂弾正が健在だったころ申された。
国持ち大将の力量の強弱というものは死後になってはじめてわかるものだ。謙信の弓矢の強い威光というのも、上杉景勝の最近五月の戦いに武勇となってあらわれている。能登国内に景勝がかかえる城がある。
甲州勝頼公が三月十一日に御切腹となってから、信長は越後の景勝を攻めたてた。柴田修理を大将にして前田又左衛門、佐々内蔵助、佐久間玄蕃、徳山五兵衛、柴田伊賀といったそうそうたる顔ぶれで、全部で四万五千の軍が加賀、越中、能登、越前と進撃しては景勝の城をとりまいていた。
景勝はこの年二十八歳で後陣であった。兵力は五千である。甲州勝頼公が切腹して、大国の北条家まで信用することなく、信長勢は一気に奥州にまでも手をのばしていた。京から離れている大身の国々までが策を失って力を落した感じでいたのに、景勝公は越後と佐渡のニヵ国だったのにすこしも憂色がみえなかった。いよいよとのような合戦になろうとも、その時来たると心に決めて、七日路ほどのところを後陣として出陣し、天神山(魚津市 東方)大岩寺野に陣を敷いて防戦した。(中略)
この頃拙者春日惣次郎は新保殿(越中の豪族)家中を頼って越中に出、こうした事情を信長側から見ていた。この間に、河中島から森勝蔵が活動を始め、昔高仮弾正が焼きうちし
て廻った越後へて帰った。その次の日に信長の死が伝わった。それよりすこし前に景勝がかかえている城を立ち退くにあたって佐々内蔵助の策略にあって全滅した城もあった。
 
とかく名門の家で武道が衰えるのは、その家が滅亡する前兆である
 
勝頼公も、明智十兵衛がこの二月より謀叛を企てる旨を伝えて聞いて居たのに、長坂長閑の判断で、謀略をたくらんで明智と一つに組み実行に移さなかったために、武田勝頼公の御滅亡となったのだ。
三月十一日より(本能寺の変)六月二日までは、四月・五月は小の月だったから、八十日目に信長父子は御切腹となったわけだ。
信長二番目の子息(織田信雄。北畠具教の養子)は伊勢の国司になり御本所と申したが、伊勢の半国、伊賀一国を所持していて御年は二十五歳だったけれとも、出陣して明智を亡ぼすところまではいかなかった。
信長・城介の父子を殺したのだから、安芸の毛利か、せめては四国の長宗我部が敵ならばともかく、この場合は深く考えて出陣すべきたったのだ。自分の家老の明智が、終姑内幕を知っていて、父信長と兄の城介とが殺されたのにかかわらず動く気配がなかった。
それは御本所ばかりでなく、弟の三七殿も、信長の弟上野介(織田信包)、源五(織田長益、剃髪して有楽)も、阿野津あるいは神戸といったところも伊勢一国の内にいながら、明智を討つ覚悟が各々方ともすこしもなかった。こうした中で羽柴筑前守(秀吉)という者が出てきて、主君の敵、明智を討って都を占拠したのだった。
 
天正十一年未(一五八三)には浜松の家康から小田原北条氏直へ御婚礼がとりおこなわれた。そういうことから川中島へ家康がみえる旨が、叶坊という山伏が使いとなって伝え
られた。大蔵大夫(信玄猿若衆)の子の藤十郎に家康が命じて、拙者にも出仕の要請があったが、病気のため参上しなかった。
 
信州侍大将、芦田・真田・保科甚四郎・小笠原掃部大夫・諏訪・下条・知久・松岡・屋代は、すでに前年から降って家康の被官になっていた。
信州へ派遣された家康譜代の大将は、大久保七郎右衛門・菅沼大膳・柴田七九郎であった。家康勢の配下とならない信州の岩尾・穴小屋・前山といった衆へは、甲州で家康についた侍衆をさしむけた。曾根下野・玉虫・津金衆・駒井一党・今福和泉・工藤一党・遠山右馬助といった甲州先方衆の面々であった。信州の地を舞台に、それら家康勢との間でたびたび戦いがあった。なかでも曾禰下野と横田甚五郎は大いに活躍した。横田は敗走する後勢の武者などを馬上からやっつけて、自分の親類筋の若手に討たせたりした。あるいは今福求之助という山県三郎兵衛家中のすぐれた若手に、討ちとった首をくれたりした。原美濃守の孫は、横田十郎兵衛子息に似た活動をしたと伝え聞く。曾禰下野は、山下部大夫という竹と鑓を合わせたという。高坂弾正衆は、同心被官ともにみな上杉景勝の御被官になったから、甲州・信濃の様子や家康の模様が川中島衆にも伝わってきたのでわかるのである。
 
家康、秀吉の取合い
 
天正十二(一五八四)年に、天下を掌握されておる羽柴筑前守と家康とが、尾州の小牧というところで合戦をした。
井伊兵部(直政)を赤鬼と上方の侍は言った。その時は家康勢を上杉景勝勢がおびやかしていたので、信州勢を一帯の配備につけておいた。北条殿と縁者たったけれども、北条氏政は裏切りかねないから、甲州に平岩七之介・鳥居彦右衛門・武川衆、長久保に牧右馬丞(牧野康成)、沼津に松平因幡守、光国寺に松平玄蕃、そのほか江尻、田中、掛川といった各所に留守の軍を配し家康は一万五千の軍勢で出陣した。
羽柴は安芸の毛利家、備前の宇喜多氏といった中国の各勢を結集して十八万の大軍といわれたが、かたくみても十五万の軍ではあったろう。家康軍と強引には対陣せずに土手を築いて陣をしいた。
家康方は十分の一の軍でありながら、柵の木を一本打ちこまず、何か備えをする気配さえなかった。そこで羽柴筑前守の陣場の土手際へ軍を進め、穴山衆の有泉大学助信閑(穴山梅雪の陣代)は上方衆を討ちとった。その年のうちに九度も筑前守を家康勢は破ったものだ。家康衆の酒井左衛門は前年の三月三日に尾州羽黒山で森勝蔵に勝っていたから、上方の軍勢丁三万に対し家康一万三千で対しても、何とか敵を痛めつけることができるとの算段であった。
 大軍を土手に築かせておいた事。小口、楽田の砦を撃破した事。そして大合戦に森勝蔵・池田父子(池田恒興と元助)を討ちとり、三好孫七郎(秀吉の甥)・堀久太郎を追い散
らして勝利した事。家康内の本多平八郎(忠勝)が千程度の軍でもって筑前守三万余の軍をひき出して平八郎が攻めかかり、そのおり筑前守はこの平八郎の攻勢をみて退却した事。
また、滝川(一益)を家康が攻めなされて、滝川は死をのがれようと自分の従弟の罪もない蟹江(海部郡)の城主・前田与十郎を切ってさし出した事。その節、駿河先方衆の朝比奈金兵衛という者が、滝川の甥の滝川長兵衛を生捕にした事。
家康勢は白子筋(鈴鹿市白子町)に進行した事。
その年家康は偽の和睦をむすび、浜松に入らせておいて出し抜き、筑前守が清州に出動している間に、九月に家康は三河・遠州勢八千をひきつれて夜を徹して出馬し、大久保次右衛門という武士を偵察に出し、足軽二十三人を騎馬で蹴散らしたことから羽柴筑前守は大いに敗北をこうむって、筑前の方から家康に手をのべて和睦となった事。
以上のような戦勝ぶりは信玄公、謙信公、信長公以来、家康公が日本一の弓矢の誉れ高い名大将であることを証するものである。
 
この合戦で筑前守秀酉勢の中で討死した某侍大将は(池田勝家かという)、信長の乳母の子息である。武功も多くてとりたてられ、大身の地位に昇って信長の先陣をつとめた。
また堀久太郎、長谷川秀一といった地位の低い者を信長はとりたてた。それらの者は信長が他界したその年より同輩の羽柴筑前守を主に、まことに恩をうけられた信長の子息御本所(織田信雄)を敵にして攻めかかる。羽柴筑前の配下だけでなく、信長の弟の織田上野介(信包)までが、甥にあたる御本所を敵にして、被官筋に当る筑前守を中心にして謀られたことは、まったく武道にたずさわるものとしては卑劣なことだ。
甲州の穴山梅雪も、勝頼公に恨みがあって、天下を掌握した大身の信長へ寝返ったが、そのため殺された時は屍の上にまでむちうたれたという。その例よりも十数倍も理に合わないのは、同輩を主にみたてて恩をうけた主君の子息を倒したりすることだ。だいたいがこのあたり武道は節操がなく、上方武士は大合戦などには買首をしても、自分が贔屓を多くする者の方を手柄にしてしまうから、ますますでたらめになって味方討ちも平気でするといわれる。
ことに作州上月の城への支援の時も、敵が多かったから逃げ帰り、上月城を守っていた尼子一党(尼子勝久)の信長勢が毛別家に攻略されてしまったが、その程度でも手柄とされる。
そんなわけで、信長の幸運の勢いもあって上方では一合戦で城を十も二十も明け渡して退散し、反乱もなかった。しかも二代目に替わった武道の未熟な衰えた国を多く占拠して、大身になって行ったが、それはたとえば大風が吹いたような感じで一時的だった。運も尽きて信長が死になされてからは、武田四郎殿が長篠敗戦以来八年このかた、残った信長の子息らは弱気で戦闘は十分の一とてもしなかった。
信長は度々戦いに勝って、すこしくらいの事は不覚だったとは反省しなかった。そういう姿勢をまねるのは感心しない。ところが家康は、我が身に直接関係しない事態でも、信長が重大なことはどのようにしても助け、さらに信長と約束したことは筋をたてた。
この合戦をはじめ唐国にまでひびく家康の立派な武勇である。どのような家中にしても、末代までも滅亡せずに栄えるには、第一に武道はいうにおよばず、分別、慈悲をそなえ、寺社債を与え、善事をすることが肝要なのであるから、武田の譜代衆もすべて家康を大切に存じ上げるのである。すでに午の年の暮れには、家康は甲州・信濃をおさえ、翌末の年には駿・甲・信の三カ国の衆を扶持し、申の年(天正十二年)の春から大敵に向いなされ、三河・遠州衆のように、駿河・甲州・信濃の者たちは家康によく従順となった。これも天が許した大将家康というわけである。武道合戦の強さにかけては、信玄、謙信、それにこの家康である。以上。(中略)
 
この軍鑑、書き継いできた我らは春日惣次郎という者である。
川中島ではことごとく皆上杉景勝に仕えたけれども、我れらは甲州が滅亡へと傾いていく頃は越中(神保氏)へおもむいていたから、景勝御とりたての衆とは離れていたのだ。
そのあと流浪して佐渡の沢田という在郷においてこれを書き置く次第だ。
三十九歳の十二月より胸をわずらい、齢四十の三月中旬に死するなり。よって件のごとし。
 天正十三乙酉三月三日 高坂弾正甥(春日惣次郎)
 

江戸隅田川界隈 石川島

2023年09月07日 09時24分50秒 | 歴史さんぽ

江戸隅田川界隈 石川島

 

『江戸名所図会』に、

  鎧島 佃島の北に並べり。今石川島と号く。

(俗にハ左衛門殿島ともいえり。

昔大猷公の御時、石川氏の先代、

この島を拝領するよりかく唱うるとなり。

寛政四年石川氏、永田町へ屋敷替えありしより、

炭置き場・人足寄場等になれり。)

旧名を森島と言う由、江戸の古図に見えたり。

 

とあり、鎧島と名付けたことについてはハ幡太郎義家が鎧を納めて八幡宮を勧請したからという説と、異国から献上した鎧が重くて誰も持てなかったが、石川氏の祖が片手で持って天賦公(徳川家光)の御前に披露したため、勧賞のあまりこの島を宅地として賜ったと大猷公いう説とを挙げている。

しかし石川八左衛門がこの島を拝領したについてあまねく伝わっている説は、寛永元年(1624)、宇都宮城主本多上野介正純が、将軍家光が日光参拝の帰途自城に立ち寄るのを機に、その寝所に釣天井を仕掛けて圧殺しようとしたが、事が露顕し、八左衛門は家光を駕籠に乗せ、ただ一人でこれを担いで夜とともに宇都宮を発ち、翌夕江戸城へ着いたが、門は既に閉ざされていたので、やむを得ず門を破って城内へ入り、家光の急を救った功によりこの島を拝領したという説である。

  棒組のない忠臣は八左衛門

  忠臣の古蹟は島の名に残り

  八左衛門とは申さぬと渡し守

  快き配所の月はハ左衛門

  住吉の隣の国は四千石

一、二句目は、説話が広く知られていたことを示している。

三句目は、島の名は八左衛門殿島といい、呼び捨てにはせぬ。

四句目は、八左衛門は一説によると江戸城の城門を破ったという咎で、禄は四百石加増になったが、石川島へ流されたという。

五句目は、住古社のある佃島の隣はもと四千石の旗本石川八友衛門の屋敷跡。

 『江戸名所図会』の引用文中に、

寛政四年(1792)の屋敷替えの後に人足寄場になったとあるが、天明の大飢饉による無宿者・浮浪人の激増は、江戸の人目に異常に影響を及ぼし、老中松平定信は適切な対策を求めて苦慮したが、火付盗賊改の長谷川平蔵宣以(のぶため)の建議により寛政三年、石川氏の隣地を埋め立て長谷川平蔵の管理の下、府内の無宿、乞食の徒、軽犯罪者をここに収容して手工業を授けた。

これが「人足寄場」と称されて幕末に及んだ。寄場には常に百数十人ほど収容され、川浚いなどの人足に出るほか、手に職のある者は大工、建具、指物、塗師などの仕事をさせ、手に職のない者は米とぎ、油絞り、炭団造り、藁細工などをさせた。毎日煙草銭十四文を与え、改悛の情が明らかになると道具と生業の元手五貫文ないし七貫文を持たせて釈放するという仕組みであった。


江戸隅田川界隈 佃島 つくだじま

2023年09月07日 09時05分04秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

江戸隅田川界隈 佃島 つくだじま

 

江戸末期の切絵図では、佃島と石川島とは地続きであるが、明和(1764~71)ごろの切絵図では、それぞれ独立した島である。

『江戸砂子』所収の江戸図では、別々の島に描かれている。古くは、佃島を向島と呼び、鉄砲洲の船松町から渡しがあり向島の渡しと呼んでいた。

 この地を佃島というようになったいきさつが『江戸砂子』に詳しく記されているが、これによると、

天正年間(1573~9)、浜松城主の家康が京へ上ったとき多田院(源氏の菩提所。明治以後多田神社)、住吉神社へ参詣しようとした析、神崎川に船がなく困惑していたとき、摂州西成郡佃村の漁夫が船で渡したのを賞して、以後伏見居城の折も膳部の魚を奉るよう命じた。大坂夏の陣、冬の陣の際には、食膳の漁猟などの外に軍事の密使として、怠りなく仕えた。家康は江戸城打入り後、漁夫三十四人を江戸へ呼び、慶長十八年(1613)に隅田川漁猟の免許を与えた。彼らは寛永年間(1624~43)には鉄砲洲の東の干潟百間四方の地を戴き、町造りをなし、正保元年(1644)二月、漁家を建て並べて、本国佃村の名を取って佃島と名付けた、という。その後、深川八幡宮前に空地三千坪を戴き、佃町と名付けた。深川佃町の起源である。

  江戸の図に点を打ったる佃島

  一声で余る佃の時鳥

  佃島ととでまんまを食う所

 

一句目は、佃島は陸を離れた小さな島。二句目は小さい島で時鳥は一声鳴き終えぬうちに通り過ぎる。

三句目は島には畑がないので、飯のさいには野菜はなく、捕った魚だけ。

 

毎年十一月から三月まで、白魚を参るよう台命(将軍の命令)があり、佃島の漁師は期間中白魚漁に従事した。その方法は篝火を焚いて白魚を集め四つ手綱で捕るのであるが、篝火が川岸に延々と並ぶ遠景、篝火の火明かりが隅田の川面に移る夜景の美しさは印象的だったようだ。河竹黙阿弥の「三人吉三廓初買」(くるわのはつがい)の大川端庚申塚の場で、お嬢吉三が夜鷹のとせから百両の金を奪うところで、

  月も朧に白魚の 篇も霞む春の空 冷たい風もほろ酔いに 

心持よく浮か浮かと 浮かれ鳥のただ一羽 

塒(ねぐら)へ帰る川端で 棹の雫か濡れ千で粟 

思いがけなく手に入る百両 ほんに今夜は節分か

  西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落し 

豆沢山に一文の 銭と違って金包み 

こいつあ 春から縁起がいいわえ

 

という人口に膾炙(かいしゃ)した名調子の科白(せりふ)がある。白魚漁に関わるものとしてここで引用したが、実は、「大川端」というと普通は隅田川の下流の右岸一帯を指す。ここの大川端は、「三人吉三廓初買」の「序幕大川端庚申塚の場」の舞台指定に「総て両国橋北川岸の体(てい)」とあるので両国橋のところで引用するべきであろう。

  白魚の篝(かがり)ちょぽちょぼ沖に見え

  佃島女房は二十筋数え

前の句は白魚漁の毎火があちこちに点々として見えるという叙景句。「ちょぼ」は、賽(さい)の目のことで、賽の目の合計が二十一になるところから江戸っ子一流の洒落で白魚を数える時二十一匹ずつを一まとめにして「一ちょぼ」「二ちょぼ」といった。

篝火が点々としている意の「ちょぼちょぼ」に、この「ちょぼ」という語を掛けた。後の句は、女は細かいので一匹少なく二十匹で一ちょぼと数えた、という意。

ただし、後には二十匹で一ちょぼというようになった。

 

佃島には、住吉明神社がある。『江戸名所図会』に、

  佃島にあり。祭る神、摂州の住吉の御神に同じ。神主は平岡氏奉祀す。

正保年間摂州佃の漁民に、初めてこの地を賜りしよりここに移り住む。

本国の産土神なるゆえに分社してここにも住吉の宮居を建立せしとなり。とあるように、佃島は摂州西成郡佃村の漁夫三十余人が移住し、自費で築島工事を成し遂げ開拓し、正保三年(1846)に故国の摂州住の江の住吉明神を勧請した。

 また、『続江戸砂子』「四時遊観」の「藤」の項に、

  藤 佃島住吉社 神前に方六十余丈、棚枝葉道なり、

一向に空を閉して木の下聞の陰に茶店多く酒肴を貯(たくわ)う。

花は紫白、根は二本あり。摂州住吉も藤の名所なり。(中略)

この島は江都の地を離るること僅か一町がほどにして一つの離れ島なり。方百聞ありという。

島中みな漁を業として町といえどもまばらに鄙めき、干し網の下道細く、東南の岸は常に磯打つ彼の音、油井・興津の風情あり。

僅か一町を離れ十里の波路も越えたる思いに心寂しくおもしろし。

 

とあり、藤を中心に当時の佃島のたたずまいが手に取るように目の前に彷彿する。

  反り橋を架けたき場所へ渡し舟

  佃島松の代わりに藤を植え

 

前の句は、住吉の本社には名高い反り橋があるが、佃島には橋がないので、参詣する者は渡し舟に乗らなければならない。

後の句については、播州住吉の松は謡曲「高砂」や「我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松幾代経ぬらん」(古今集)

の古歌によっても知られており、更に住古蹟の唄

「神をいさめの高天原の ヤアサ四社の前なる アレ反り橋、

前に松原 ヤレ高燈篭 ソレ住吉様の岸の姫松 めでたさよ」

などによっても有名であったが、その松に匹敵するほど佃島の藤は江戸庶民から広く親しまれていた。

 


甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦 (『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)

2023年09月07日 08時40分27秒 | 山梨県歴史文学林政新聞
甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦
(『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
〔読み下し〕
其後勝頼公、信州より、遠州平山越を御出あり、三州うり谷と云ふ所へ、御着被一成、長篠奥平籠居たる城へ、取懸御せめなされ候に、家康後詰ならず、結局山県三郎兵衛に、おしつめられて、悉く塩を付られ候ゆへ、信長引出す。
其使は、家康譜代の旗本奉公人、小栗大六と申者也。二度の使に、二度ながら、信長出まじきとの御返事也。三度に、家康小栗大六に申付らるゝは、
「信長公と起請を書、互に見つき申べきと、申合侯ごとく江州箕作より、此方若狭陣、姉川方々へ、我等も加勢仕り候、此度信長公、御出なくば、勝頼公へ遠州をさし上我等は、三河一国にて罷有侯はば、誰今にも、四郎殿と無事申べく候。左候て、信長今一度長篠の後詰、無御座を付ては、申合候起請、そなたより、御破なされ候間、是非に及ばず、誓段を水に仕り、勝頼と一和して、先をいたし、尾州へうちて出、遠州の替地に、尾張を四郎殿より、申請べく候。さるに付て、四郎殿を、旗本にて、我等はたらき、出る程ならば、恐らくは、十日の間に、尾州は、此方へかたづき申べきと、存候へ共其儀しろく申事は無用、大形聞知り給ふやうに、矢都善七迄、申理(もうしわけ)侯へ」
と、家康小栗大六に被申越候。
又信長家老毛利河内、佐久間右衛門、加勢に参り候へども、三州長沢より、此方へ出る事ならず候。
さる程に、小栗大六、岐阜へ罷越、此趣をば、おしかくし、たゞ信長殿、御旗本を、出され候やうにと、申候へども、三度目の使ひに、出まじきとある儀也。
そこにて、家康使の右の奥意を、矢部善七に、粗(あらまし)申渡す故、信長出る也。又さすが大身の信長も、若き勝頼公を、ふかみ(重く見てと)、出かねられたるとは。其後熱田大明神へ参詣有て、なめかたの謀有。是にても諸人勇なし。
かくて長篠へ着て、軍の評定し給へ共諸人弥勇(いよいよいさま)ざれば、酒井左衛門尉に、夷くいの狂言を被仰付。此者聞ゆる名人なれば、甲を脱て高紐にかけ、誠に面白く舞済し、鼻をかみ引入時、諸軍一度に、どっと笑、此勢を以、明日の合戦談合有所に、右の左衛門尉かけ出、今夜九里の道を廻り、鳶ケ巣へ押懸、一戦を遂ば、明日の御一戦必勝也と申、信長公大に瞋(いかり)給ひ、今日本に、信長、家康出合、軍の詮議仕中へ、匹夫の身として、推参也と、散々悪口はき散して、小用有振にて立給ひ、物影へ酒井を招、天下一の謀也、今此辺の者共、一石の米を六斗は、武田方へ運ぶ折柄なれば、態こそ悪口したれ、金森五郎八を召連、早速打立候へとて、元の座席へかへらるゝ。此事共、合戦過て後、五十日の内に聞えたり。
 
〔訳、原本現代訳『甲陽軍艦』〕
甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦
(『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
 
◇勝頼公は信州から遠州平山越えに進み、三州のうりという所にお着きになって、長篠の奥平(九八郎貞昌)のこもる長篠の城を囲み、お攻めになった。
◆家康は、支援にかげつけようとしたがならず、結局は、山県三郎兵衝の軍に妨げられて、相ついで合戦に敗れたため、信長の軍をひきだした。その使者は家康譜代の旗本の奉行人小栗大六(重常)という者である。二度にわたる督促の使いにも、二度とも信長は応じないという御返事である。
そこで三度目には、家康は小栗大六に申しつけた。家康は信長公と誓約を交わし、互いに助け合うとお約束申したとおり、江州箕作の戦い以来、若狭・姉川等あちらこちらで加勢申し上げてきた。この度、信玄公の御来援がないならば、遠州を勝頼公に進呈し、我らは三河一国に甘んじることにより、只今にも勝頼四郎殿と和睦をいたします。この度、長篠城への御支援がないということについては、これまでの誓約は、そちらからお破りなされたわけでありますから、やむなくお約束は水に流し、勝頼と結んでその先鋒をつとめ、尾張へ討って出て、遠州の替地に尾張を攻めて勝頼殿から尾張をいただくことになります。そこで、四郎殿を総大将として、我らが戦うならば、おそらくは、あっという間に尾州の国はかたがつき、きっとこちらのものになろうかと存じます。
といった意味のことを、明らさまにいうことはないが、しかし信長公の耳にあらまし聞こえるように、矢部善七(康信)に向かって確かに伝えるようにと、家康は、小栗大六に申しつけた。
なお、信長の家老、毛利河内(秀頼)、佐久間右衛門(信盛)も援兵に出ていたけれども、三州の長沢からこちらには出ることができずにいた。そのうち、小栗大六は岐阜に到着し、いわれた主旨は伏せたまま、ただ信長公の御旗本勢の御出馬をお願いしたいと申し述べたが、三度目の使いにもやはり出る考えはないとのことである。
そこで家康への使いとして右の真意を矢部善七にあらまし申し渡したので、信長は出陣した。さすが大身の信長も、若い勝頼公が強気なので、出兼ねておられたのだったことは、合戦が終わって五十日のうちにうわさとなったことだ。
◇さて、その長篠において、武田の家老の馬場美濃、内藤修理、山県三郎兵衛、小山田兵衛尉、原隼人その他の老若すべての人々が、「御一戦なさることはこれ以上無用です」、といろいろお諌めしたけれども、御屋形様勝頼公と長坂長閑、跡部大炊助とは合戦を決行してよいと決められた。
御屋形この時三十歳で若かったので、それをもっともと思われ、明日の合戦はもはややめられぬと、武田累代の御旗と楯無しの鎧に御誓言なさった。その後はだれもが何も申し上げることもできず、三州長篠において、
天正三年(1575)乙亥五月二十一日に、勝頼公三十歳の大将として、
その兵力一万五千人、
敵は信長四十二歳、その子息城介殿(信忠)二十歳、その弟(織田信雄)十八歳、
家康三十四歳、その子息(松平信康)十七歳、
兵力は信長、家康の両軍合せて十万で決戦となった。
さて、上柵を二重に設けて、要害を三つかまえて待ちうけているところへ、勝頼公は一万二千の兵で攻めかかって攻防の一戦がなされたが、武田方が全面的に勝利した。
それは、馬場美濃守が、七百の兵で佐久間右衛門の率いる六千ばかりの軍を柵の中へ追いこみ、追い討ちに二、三騎を討ちとる。
滝川(一益)の兵三千ばかりを、内藤修理勢が千ほどの兵で柵の内へ追い込んでしまう。
家康の軍勢の六千ばかりを山県三郎兵衝が三千五百の兵で柵の中へ追いこむ。
けれども家康軍も強敵だから再び突進して来る。
山県勢は味方の左側の方へ廻り、敵が柵の木を仕立て無い右方へ進攻して背後から攻めかかる態勢をみせたのを、
家康勢も察して、大久保七郎右、衛門が蝶の羽の印の差物(鵡欄敵)をかざして、大久保次右衝門は釣鐘の指物で兄弟だと名乗りあげて、山県三郎兵衝衆の小菅五郎兵衛、広瀬江左衛門、三科伝右衛門の三人と声を発しながら追いつ追われつ九度の攻防が繰り返される。
九度目に三科も小菅も傷ついて退く。さらに山県三郎兵衛が鞍の前輪のはずれた所を、鉄砲で前から後へと打ちぬかれてそのまま討死したのを、山県の被官であった志村が、首を甲州へ持ち帰る。
そのあと甘利衆も一接戦あり、
原隼人衆も一戦あり、
跡部大炊助も一せり合い、
小山田衆も一せり合い、
小幡衆も一せり合い、
典厩衆も一せり合い、
望月衆も安中衆(安中左近)も、いずれの軍蟄も戦闘で皆柵際へ敵を追いつめて勝利した。
甲州武田勢の中央の軍と左翼の戦いは以上のようなものである。
さて右翼の方は、真田源太左衛門(信綱)、同兵部助(真田昌輝)、土屋右衝門尉(昌次)この三将で、馬場美濃衆と入れ替わり戦ったが、上方の軍勢は家康衆のようには柵の外へ出て来ないので、真田衆が攻めこんで柵を一重破って突進した、そのためあらかた討死してしまった。あるいは何とか重傷のまま引き下った者もいたが、
その中の真田源太左衛門兄弟はともに深手を負ったまま討死した。
次に土屋右衛門尉は、先月の信玄公の御葬儀では追腹(殉死)をはたそうとしたが高坂弾正に意見されて、このような合戦まで待てと言われたにつき今まで命ながらえてきた。今こそ討死するのだと言って、敵が柵の外に出て来ないので、自分から攻め込んで柵を破ろうとし、そこで土屋右衛門尉は三十一歳でそのまま討死となった。
馬場美濃守のひきいる七百の部隊も、あらかた負傷して退き、または討死して残るは八十余人。美濃守自身は軽傷も負っておらず、他の同心や被官たちに早く退けとすすめなされたが、さすが武勇の武田勢ゆえ、美濃守をさしおいて退こうとはしない。
穴山殿は戦闘を交えることもなく、退く。
一条右衛門大夫殿(信竜)が馬場美濃守の近くに馬を乗り寄せて一所にいるとき、一条配下の同心和田という者は、三十歳ほどであったが、合戦慣れのした利口な武者ゆえ馬場にむかって、下知をなされるようにという。馬場美濃守はにっこりと,笑ってそれを聞き、命令するとすれば退くよりほかはあるまい、と退却を始めた。しかし、御旗本隊が退くまでは、馬場隊も退かず、勝頼公の「大」の字の御小旗が、敵にうしろを見せたのを見とどけてから馬場美濃も退かれた。
そのあとは一条殿も他の軍も退きなされた。
だが馬場美濃守は、いったん退却しながらも長篠の橋場までくると少しもとへ引き返し、高い所にあがって、我れこそは馬場美濃という者なり、討ちとって手柄にせよとまことにみごとに名乗る。敵兵四、五人が鑓を取って突きかかるのに刀に手もかげず、この歳六十二歳で討死をとげる。
これは、勝頼公にこの合戦を思いとどまられるようにと意見したとき、この美濃守の意向をお聞き入れがなかったので、そこで長坂長閑、跡部大炊助にて、合戦をおすすめするおのおの方は遁れることがあろうとも、おとどめ申す馬場美濃はおおかた討死をとげるのだ、と述べた、そのことば通りであった。
ここで勝頼公につき従っていたのは、初鹿伝右衛門というこの年三十二歳の者、土屋惣蔵その年二十歳の二人が御供であった。土屋惣蔵は若いけれども剛強な根性があるから、兄の右衛門尉をたよりなく思って、かわりに二度かばって後退する。勝頼公は土屋惣蔵をふかくいたわっておられたから、二度とも御馬をとめて惣蔵を先にやりすごしながら立ち退きなされる。
その次に典厩の歩兵三十ほどと、馬乗三騎の将が後退したが、幌を着けていなかったから勝頼公は声をかけられた。金地金泥の幌に四郎勝頼と我らの名を書いて、信玄公の御時には先鋒をつとめたものだったが、今は我らが屋形の立場にいるから、その線を典厩に譲った。これを捨てなされば、譲るのは内輪のこと、勝頼が指物(標識)を落して逃げたといわれては、信玄の一代の名誉と御名をよごすことになる。とくに武田家、二十七代までのうちで勝頼一人が不孝をしたことになる。だからこの幌を捨てては退くわけにはいくまい、
と仰せられたので、初鹿伝右衛門は典厩の所へ乗り寄せこの由を伝えると、さすがは武田の武者、旺盛に戦って幌串をひろい、典厩の御供の青木尾張という者がこの幌衣をひろって首に巻いてもってきて伝右衛門に渡した。これを伝右衛門は請けとり勝頼公にお目にかけると、勝頼公はそれを御腰にはさんで立ち退かれた。伝右衛門はこの間、御使いに参上し、往復五六町働き廻ったが、そのうち勝頼公は御馬をとめられた。それは御馬がくたびれて動かなかったので、初鹿伝右衛門が御馬に声をかけて進めようとしたのだが、昔から今にいたるまで武勇の大将の敗け戦には、えてして馬も進まぬものなのだ。
そんなところへ笠井肥後守(河西満秀)という、信玄公の御代から旗本において指おりの剛強な武者が、どこかで勝頼公の御馬が動かなくなったと知って馬を速めて駆け付けてきて、馬からとび降り、この馬にえさを与えるからと言う。
勝頼公が言われるのに、そんなことをしていると、そなたは討死してしまうぞとの御言葉に、ものともせず、肥後守の命は義理よりも軽いことです。この命は主君への恩の為にさしあげます。我らの倅を以後取り立てていただければそれで満足、と言って屋形(勝頼公)を馬にお乗せする。自分は屋形の御馬の子綱をとって誘導いたし、それから元の戦場に一町ほどもどってから討死した。
さて信玄公が勝頼公へ御譲りし扱いを許しなされた、諏訪法性院上下大明神と前立に書かれた甲は、信玄公が御秘蔵になされていたから、諏訪法性の御甲、とこれを呼ぶ。この御甲を勝頼公も御秘蔵されておられたけれども、五月の頃とて暑いため、初鹿伝右衛門に持たせておられた。伝右衛門はあわただしく急ぎのあまり、この甲を捨ててしまおうというわけで捨てたのだ。けれども小山田弥助という武士が、あとからこれを見つけて、名高い御甲を捨てるのは何としてもといって持ち帰った。このように何も残さない心意気、義理深い剛強な心というのは、ひとえに信玄公の御威光が強くしみわたっているたまものである。 
御他界は天正元年酉の年だけれども、天正三年乙亥五月までの三年間は、ともかく強かったことは以上の通りである。これは勝頼公三十歳の御年のことで、三州長篠の合戦をいうのである。
甲州方は、侍大将、足軽大将、小身な兵まで、また剛強な武士とことごとく討死した敗北の合戦であった。
討死した将は、
馬場美濃守、
内藤修理、
山県三郎兵衛、
原隼人佐、
望月殿、
安中左近、
真田源太左衛門、
真田兵部助、
土屋右衛門尉、
足軽大将の横田十郎兵衛で、他はまた追って記したい。
城伊庵 (城景茂)は深沢(御殿場)へ、小幡又兵衛は足助(愛知県)へ出動していたから、この両人は足軽大将として残った。 
御飛脚がたてられてすぐに甲府へ呼びもどされた。
 
甲州勢がこの合戦で少勢だったのは、越後の謙信から前年(天正2年)の十二月に、一向衆長遠寺(長延寺住職)を経て勝頼公に御断りがあったのによる。それは、遠州・三州・美濃の三カ国を制圧しつつ来春、勝頼公は御上洛なされよ、謙信は越前から上洛をめざすから、というのであった。が、勝頼公が承諾した旨の御返事をなさらなかったから、輝虎が立腹されたのだった。
さらに東美濃、遠州の域東郡で、勝頼の先鋒が見事だと聞いて、謙信が信濃へ進攻しないのは勝頼公を恐れてのことだ、などと諸国から言われてはと考えて、信濃へ手をだすかもしれないと内々考慮しているとの報もあって、一万余の信州勢を高坂弾正に任せて越後のおさえこみに置きなされたからだった。だから勝頼公の総勢は、長篠へは一万五千で出陣なされたのである。
その中でも長篠の奥平貞能のおさえに二千の兵をさき、鳶巣山には、兵庫殿(武田信実)を大将にして、浪人衆、雑兵千人で、名和無理介、井伊弥四右衛門(飯尾助友)、五味与三兵衛(高重)の三人を頭にして差し向けておいた。この方は一人も残らず兵庫殿をはじめあらかた討死であった。このように一万五千のうち三千の兵を失って、信長、家康勢に向うのはただ一万二千ということになったのだった。
  

『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年 毎日新聞社 1975-9

2023年09月07日 08時28分26秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

太平洋戦争 空襲の夜の訪問者 林キミ子

『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9

    (当時・大阪市浪速区霞町在住)

 昭和二十年三月十三日の晩の大空襲で、永年築き上げた家財産を一瞬になくした。
主人は当時五十歳。長男が十九歳、次男が十五歳、女の子が三歳。血族結婚のため子供はみんな全盲の上、病弱であった。ほかに老母が、実家の弟が出征したので、あずかって同居していた。それと私の六人家族であった。
 空襲の当夜、全員防空壕で蒸し焼きになる寸前、見知らぬ訪問者があり、命拾いするという不思議な目にあった。これは永久にとけないナゾである。
この日の空襲のIヵ月ほど前より、毎日B29に悩まされ、町内のものは男性は靴をはいたまま、女性はモンペをはいたまま、仮寝するありさまだった。毎日、毎夜の空襲警報でほとんどの人がつかれ果てていた。
そんなときの出来事であった。
 早くどこかへ疎開せねばと思いながらも、盲人や病弱の子供を連れ知らぬ土地へ行きたくなかったので、一日延ばしにしていたのがいけなかった。空襲の一週間前、ようやく疎開の決心をしたがおそかった。町内共同用に造った防空壕に警報のたびに入っていたが、みんな不自由なものが多いため、手間取った。町内規で相談の上、自宅の中の間の下に、防空壕を掘って入ることとなった。当日の夜十一時頃であったか、空襲警報で消燈して各自防空頭巾をかぷり、私は来の子がまだ歩けないので背負って壕に入った。しばらくしてパチパチと音がしだした。機関銃の音であった。無経験のため何の音かわからなかったが、とにかく「出てはいけない、かがめ」と子供たちを押えつけるようにして、自分もかがんでいた。そのうちそうぞうしくなった。
 三十分もたったころ、門口に人の来た声がする。後で思えば、そのとき聞こえるはずはない。真ん中の部屋の床下深く防空壕が掘ってあって、みんなかがんでいるので、そこから出て一間半の幅半間のコンクリートの庭を通って門口に出るようになっているので、聞こえるわけがないけれども、そのときは確かに聞こえた。主人が出て行ってドアをあけると、火気でまわりが火の海になっていることがわかった。早く引き返えして家族を助け出さねばならぬ。その他人に問答している場合でない。その人は物をあずけにきたという。しかも見知らぬ人だ。あずからないといったが、無理に置いていった。
お米であったろうか。ドシンと置いた。そんなもの見ている暇はない。引き返えして家族を引っぱり出して、表へ出た。 何を持ち出す間もなかった。天王寺公園に向かう道々にお茶のかんの長いようなものが燃えながらたくさんころがっている。焼夷弾である。それを踏みこえ踏みこえ公園まで行き、大木の下にみんなを座らせた。私は長男をさがしに引き返えさねばならぬ。長男は鍼灸学校を卒業して三年目になり、近所ヘハリの治療に出張していた。それを助けねばならぬ。一同は止めた。「こうなってはやむを得ぬ。一人を犠牲にして二人が助かることを考えねばならぬ。いま火の中へ引き返えせば三人とも死ぬ」とけんめいに止めたが、私は死んでもよいと振りきって火の中へ引き返えした。
 雨が降ってきた。大火は雨を呼ぶと、昔から聞いていた。その雨の中家族を失った人々が、名を呼んで歩く。自分もその中の一人である。途中、知人にも出会った。たくさんのトランクを体につけて動けなくなって泣いている人。けがをして歩けなくなった人がいっぱいいたが、自分の家族をさがすので回生懸命である。そのときの家族の名を呼んで歩く悲しい声は三十年後のいまでも耳からはなれない。朝まで長男をさがして歩いた。夜が明けて見つかった。電車通りの氷会社のコンクリートが焼け残っていた。そこへ誰かに連れてきてもらったという。うれしかった。家族全員が助かった、と安心して我家へ走った。すでに焼野原であった。何も残っていない。ガラス障子のガラスが飴のようにこ階になっていた。
 そのまんなかに永年飼っていた猫がしょんぼりすわっていた。「お前も助かったか、よかった」といったけれど、連れて行かれない。家族の一員として可愛いかったお前だったが、私らは明日から家もない、食物もない、お金もない。お前は一人ぼっち、私ら六人が明日からどうして行くか目途もついていない。ここで別れねばならぬ。「なんとか生き延びてくれよ」と涙ながらに合掌してサョナラした。びしょぬれになって自分らを待ちわびている家族のもとへ、一刻も早くと公園に向った。あくる日、一片ずつのパンが配られた。大空襲で一時に多くの被災者が出たので、市としても食糧がまわりかねるのだろう。
 地方に身寄りのある人は証明書を出すから、戦災列車にのってほしいというので、いったん志した別府に行くことにした。「主人は芸職、長男は鍼灸、私は人形職だし、温泉地なれば何とかならないかと、別府行きの汽車の証明を一週間毎日並んで立ち、やっともらい受け、大阪駅で二日間並んで最終の戦災列車に乗りこんだ。満員で座れず一晩中立ちずくめで別府に向ったが、ちょうどその日に大分に爆弾が落ちて行かれない。仕方なく主人の郷里の山口県に引き返し、永住、今日に至った。
 主人は戦後の過労で、昭和三十五年に死亡、せっかく助かった末子も戦後一年目に栄養失調で死亡した。でもあのときあの人が物をあずけにこなかったら、周囲が火の海になっていることに気づかず、全員無残の焼死しているところだった。それにしてもあの人は何であったろうか。心当りといえば、主人が昔から慈善家といわれるほどたくさんの難儀な人を助けたことがある。仏教でいえばそのお陰ともいえるが、その人のことを忘れぬため、毎年一回感謝の日とし、ことしで二十八回になる。私は当日の空襲による死者の冥福を祈り、生涯つづけるつもりである。

太平洋戦争 疎開の前夜 樫尾菊枝

『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9

(当時・前橋市栄町在住)
 一生忘れることの出来ない二十年八月五日のことです。
私は十九歳でした。 私達一家は、前橋の中央街に住んでいましたが、強制疎開の命を受けて、やむなく父の実家(栃木県小俣町)へ引揚げることになり、引越荷物を整理していよいよ明日にトラックが来てくれることになっていました。家には当時リュウマチで十六年間寝たきりの姉(二十三歳)がいたので、引越すまでのあいだ身体だけ、もと家にいた番頭さんの荘ちゃんの家に置いてもらいました。引越荷物は同じ隣組内の銀行の倉庫の軒下に置いてもらうことが出来ました。
 明日のお別れに、母が何も無いながら、心ばかりのご馳走を作ってくれて、皆で楽しく食事をしました。土用の蒸し暑さの中を少し寝たかと思った矢先、警報で目が覚めたのです。縁側から空を見ると、赤い風船のような光るものがフワフワと落ちて来るのです。さあ大変だ。もう空襲です。とうとう来る時が来たのだ。荘ちゃんは真先に、おばさんに荘太郎君(四歳)をおんぶして避難させる。父母も下の弟(十三歳)に、おばさんについて早く避難するようにいう。家の前の道を真直ぐに左へ行くと田んぽなので、皆逃げて行くのだ。遠くでパチパチ、ドカンドカンと音がして、どんどんやられているのがわかる。いよいよ追って来た感じビ。母は寝ている姉をおぶって逃げるつもりで、
いつも帯を用意していたが、父は、 「それでは二人とも駄目だ。自分が見ているから先に逃げろ」と母にいいました。母は良ちゃん(姉)といっしょに居ると必死にいいましたが、父は早く早くと私達三人にいいました。母も決心をして、上の弟と私と三人で家を出ました。
やっと田んぼの近くに来た時、バリバリと機銃掃射の音で思わず地面に伏せました。足ががタガタ震えて立てなくなって、弟が引張ってくれました。皆が無言でぞろぞろついて行きます。川べりに来たとき、またまたヒューンと音
がしたかと思うと、バリバリと機銃掃射です。そのとき、脇の人がバタバタと倒れました。瞬間、心臓が止まるかと思いました。
 夜なのに照明弾のために真昼のような明るさです。弟が田んぼに出ては上からまる見えだから、桑畑がよいというので、そちらへ行こうとしたとき、後から父が追いつきました。父は、もうそこまで火が追って来てどうしようもないので、「ちょっと見て来るからな、必ずすぐ戻って来るからな」と姉にいって、家を出たそうです。荘ちゃんも「旦那、もう駄目だ」といってどこかへ行ったそうです。私達は何もいいませんでした。父も一大決心をして家を出たのだ、仕方がないのだと思いました。何度か伏せながら大人の背丈ほどある桑畑に出て、やっと腰をおろしました。
 どのくらい経ったでしょうか。弟が街の方を見に行きました。すっかり焼けてしまって暑くて近寄れないけれど、隣組だった旅館が焼け落ちるのを、遠くから見て来たというのです。銀行の倉庫もやられたそうです。もちろん家の荷物も全部焼けてしまったのです。街の真中は焼夷弾で、廻りは爆弾でやられたようです。
父と弟はすぐ荘ちゃんの家に戻って行きました。母と私は後からゆっくりと行きました。姉さんはどうしたかと、心配のあまり二人とも黙って歩きました。でもどうでしょう。荘ちゃんの家の一角は焼け残っているではありませんか。ああよかった。父のホッとした顔がそこにありました。姉はただただお経を唱えていたそうです。
 喜んだのも束の間、荘ちゃんが「よし子も荘太郎もやられたらしい」ととび込んで来ました。一緒に逃げた近所の人のうち、小さい坊やが一人だけ掃って来て、皆死んじゃったよというのです。男の人達がとんで行きました。間もなく戸板で、おばさんと荘太郎君が運ばれて未ました。爆風にやられたらしく、おんぶして伏せたので、おばさんの顔は傷ついていないけれど防空頭巾から上がないのです。荘太郎君はもっとひどくて、目の上あたりからパックリないのです、ざくろのようになってしまっています。あまりのむごたらしさに思わず帽子をかぶせてあげました。皆泣きました。荘ちゃんは、「早く逃げさせてとんだことをした。荘太郎許してくれ……」と男泣きに泣きました。「ばかな話だ、逃げた者が死に、家が焼け残るなんて」と、声にならずに呻くようにただただ怒りをぶつけるばかりです。
 昨夜の楽しかったことがうそのようです。あまりにも変わり果てた姿に呆然とするばかりです。ふと、下の弟のことを思いました。おばさんと一緒だったらやられてしまったのかも知れないと……。
上の弟が見に行きましたが、あたりは皆死んでいて、弟らしい姿もないそうです。ずいぶん時間が経ってから、その弟がひょろひょろとして帰って来ました。その顔は真青でした。こうして荘ちゃんは、一瞬にして一人ぽっちになってしまい、私達は家財全部を焼いてしまったのです。

太平洋戦争 プールに浮かぶ死体 加藤義雄

『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9

(当時・東京都深川区深川在住)
 
空襲警報の発令とほとんど同時にB29が来襲した。そしてその最初の一弾は、西平野警察署(現・深川警察署)裏の公衆浴場に投下された。みるみるうちに火の手はあがり、またたく間に火は付近の材木問屋街に燃え移り、折からの強風にあおられ夜空を赤く染めた。
 私(当時・中学五年生十七歳)の知る限りでは、昭和二十年三月九日夜の東京下町大空襲は、このようにして始まった。風は清澄公園から木場の方に向って吹いていた。私はそのとき、その火災の対岸にあたる海辺橋近くの自宅にいた。母は不在で家には小学生の妹と弟しかいなかった。夜空を見上げると、次から次と来襲するB29は、探照燈に照らし出されながら、雨あられのごとく焼夷弾を投下している。火災は四方八方で発生しはしめた。近所の人たちはすでに明治小学校へ避難を開始している。私たちも急いで学校に逃げることにした。ちょうどそのとき母が帰宅したので、持てるだけの荷物を持って家を出た。 
途中、私は父の位牌を取りに家に戻った。家を出ようとすると、もう火は身近に追っていた。強風は吹きまくり焼トタン、瓦は飛び、外は火の粉の海であった。意を決し私は布団をかぶり外に出た。頭にガチガチ物がぶつかるのを強く感じ、一瞬たじろいだが、一陣の強風が吹き去ったそのすきを狙い、死物狂で電車通りに向ってとび出した。学校のほうはすでに火の海と化していた。そこでやむなく清澄公園に逃げることにし、海辺橋の方向へかけ出した。橋の上には消防車が数台置いてあり、エンジンが止りかけて風下の川を見ると筏の上を火が流れるように走っていて、川の両岸を結んでいる。あたりは人の泣き叫ぶ声、ごうごうという火勢と風が猛り狂っている。大急ぎで橋を渡り、警察署前に立ち並ぶコンクリートの建物のところに走った。そこには、すでに避難して来ている人が多数集まっていた。その中に混って呆然自失の状態で、真赤に焼けている木場の方向と母や妹、弟の逃げた明治小学校の方をただひたすら見守った。
 まだB29の来襲はつづいている。日本の戦闘機がB29に接近して撃ち込む焼夷弾を、流れ星のように飽くことなく眺めた。撃墜されることのないB9一は、異様な怪物に見えた。前方の火の手はぐんぐんと風下の方向に進んでいく。建物の焼け落ちた跡にはガス管からの青白い炎が燃えていた。B29の姿がようやく空から消えはしめたころ、非常な疲れと睡気が襲ってきた。ぞくぞく寒さも感ぜられた。でも母や妹、弟のことを考えると気が気ではなかった。
 夜が明けてくるにつれて余燈のくすぶっている状態が、だんだん視界に入って来た。一刻も早く学校に行ってみたいと思い、海辺橋を渡った。一面の焼野原に愕然とした。川に浮かぶ筏の水面に出ている部分は、平らに焼けこげ、えぐられている。電車通りの両側の街路樹は焼け朽ちており、電柱も黒く焼け細り棒のようになって、煙を出して燃えつづけている。わが家は跡かたもなく焼け落ちていた。その向こうに学校が見えるが、焼け跡の土が熱くてとても近道はとれない。
大通りから校舎正面に近づくと、校庭にはたくさんの焼死体が無惨に横たわり、プールの中にもたくさんの死体が浮かび、講堂入口の扉の前には、中に入れずに折り重なって、死んでいる人が山になっていた。思わず私は目をつぶり手を合わせた。
母や妹、弟の無事を祈りながら急いで校舎の中に入り、夢中で探し廻った。やっとのことで探し出し無事な姿を見て、
思わず親子して泣いた。だが、そこに落ち着く間もなく、こんどは焼け残った校舎が、ふたたび爆撃されるという噂が広まり、みんなおびえた、母はこれからすぐに芝金杉の母の兄の家に行くといい、休む暇もなくなけなしの荷物を持って学校を出た。私は妹と弟の手をしっかりと握り、地獄絵のような光景の中を電車通りの真中を歩いて、門前仲町を通り月島に行き、やっと勝間橋を渡った、そして築地を通って銀座四丁目まで来た。
 そのときまで私は東京全部が焼けたのだと思っていた。ところが隅田川を渡ったこちらは、まるで何もなかったように、人々は普段とかわらぬ様子で出歩いている。そしてじろじろと私達を見つめている。急に焼け出された自分達が惨めに思えてきた。いや、それ以上にいままで私たちが通って来たところで無惨な死に方をしていた多くの人達の死がいたましく思えてきた。私だってもう少しで死ぬところだったと思うと、なんだか急に体から力が抜ける思いがした。が、疲れきって歩いている母や妹、弟の姿を見ると、はっとして、尾張町交差点を左に曲がって新橋方向に進んだ。
 しばらくすると、突然、救屠所と書いたところから女の人が数人出て来て、私達の目のふちを脱脂綿で何回も拭ってくれた。目が楽にあけられるようになり、元気づいた。この親切には全く感激した。私達は何度も礼をいってそこを後にし、目指す母の兄の家に向って歩きつづけた。これが戦争というものなのだ、ということを自分自身にいいきかせながら。

太平洋戦争 死なばもろとも 早川稿一
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9

(当時・横浜市西区老松町在住)
 
横浜の空襲は、東京よりはるかに後だった。最初の蒲田の空襲のときは、B29は横浜を通過して蒲田を襲った。夜、突如としてけたたましく空襲警報が鳴り渡り、人々は我先にと防空壕にもぐり込んだ。じっと身をすませてはるか遠方で鳴りひびく高射砲の音を間いていた。長い長い一時間だった。解除と同時に私は飛び出して、這るかに東京の空を眺めた。夕焼のように赤く染っている生々しい空を見た。それから横浜でも学校疎開がはじまり、わが家でも五年と三年の子供を箱根に疎開させることにした。
 空襲もこのころから熾烈になり、次々に東京の各地がやられ焦土となっていった。私は東京へ通勤するのが怖かった。「今日は空襲がありませんように」と心に念じて、毎日家を出た。忙しかったので帰宅はいつも夜八時か九時になったがなぜか列車が蒲田を過ぎ六郷川の鉄橋を渡り終ると、ホットした安心感と同時に疲れをおぼえて、うとうとと居眠りをすることもあった。
 昭和二十年五月二十九日の朝八時ごろだったと思う。
朝食をすませ洋服を着て会社へ出勤しようとした瞬間、突然空襲警報が鳴り渡った。私は早速ラジオのスイッチを入れた。「浜松の上空をB29の大編隊が東へ向って通過した。東京、横浜方面へ向うものと思われる」という声が流れた。私はすぐに家の外に飛び出した。わが家は高射砲陣地のすぐ下の小高い岡の上にあった。飛行機のやってくる方角を眺めてビックリした。はっきりと大きな飛行機の編隊をこの肉眼で鮮かにとらえたからであった。「来たぞ来たぞ。もうそこに見える、すぐ避難しろ」と妻に叫んだ。妻は二歳の子を背負い、壕に入らずおしめの包みだけをもち、布団を被って近くの公園へ走った。と間髪を入れずバラバラと火の雨が、あたり一面に降って来た。私は座布団で庭に無数に落ちている火玉を無我夢中でたたき消していたが、ふと廻りを見ると隣家からもその隣りの家からも、赤い炎、黒い煙が上っていた。私はとっさにこれはいかん、逃げ場がなくなるぞと夢中で細い唯一つの路を駆け出した。途中の家々からも火が、煙が吹き出していた。公園で子供を背負って私を待っていた妻を見「ああ助かった」と思った。
 その夜は火災をまぬがれた公園の親類の家で一夜を明かしたが、下町から火に追われ命からがら逃げて来た人々で、小さな家は一杯になった。翌朝さっそくわが家の視察に出掛けたが、わが家はもとより付近一帯は見るかげもなく焦土と変っていた。たくさんの書画蔵書がそれとわかる白い灰の一かたまりとなって残っていた。私は両手でその灰を掬い上げたかなしかった。逃げ場を失いドブ川にもぐって助かった人々に会った。防空壕で亡くなった、いつも快活だった近所の娘のことも聞いた、高射砲陣地も火災の黒煙のためになすこともなく焼かれて、無惨な廃墟のすがたをさらしていた。
 横浜の中心街ももちろん焦土と化し、しばらく後のことだが、進駐軍の軽飛行機の滑走路が、かつての繁華な中心街の真中に、ながながと出来たほど、もとの姿の名残は何一つもとどめず、きれいに焼野原となってしまった。
 戦局はその後、速度を加えて悪化し、終局近しを思わせた。私は妻と計らい、死なばもろともと疎開先より子供を連れもどした。焼原となった横浜にはもう空襲の不安は消え、欠乏の味気ない生活だったが、子供らと一緒にいる安心感が何よりの救いであり、楽しかった。やがて八月十五日を迎え戦いは終った。

太平洋戦争 投げた白シャツ 鎌田定幸
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9


(当時・伊丹市稲野御願塚在住)
 敗戦の年、私たち一家は、兵庫県の伊丹市に居住していた。私は、国民学校の上級生だった。
 八月のある日のことである。朝から焼けつくような真夏の太陽がぎらぎら照りつけて、カバンを肩にかけただけで、じっとり汗ばむくらいの、うだるような暑さであった。二時間目の授業中であったか、警報のサイレンがひびくと、平素の訓練のせいもあって、寸時に方面別のグループが校庭に揃い、先生に引率されて校門を出た。駈け足で田圃道まで来ると、真正面から七、八機の小型戦闘機がヒューンとプロペラの音をさせて、あっという間もなく下降してきたかとみるや、いきなりババババーンと、一斉射撃をしてきたした。わあっ-と叫んで、私たちはクモの子を散らしたように、右と左に畦と畦の間にかがみこんな。私は顔がかくれるように防空ズキンを深くおろし、両手で耳と目をおおい、身体を田の上にぴたりと伏せた。恐怖感に耳を押えている親指の先に力が入り、ふるえているのがわかった。
いつか先生から聞かされてはいただろうか。私は恐る恐る指のすき間から覗いて見た。こわさにじッとしていられなかったのか、同級生が野菜畑を逃げまわっている。と、その一人の背に、パッと光りが走った瞬間、半袖の白カッターシャツに点々と血がにとんだ。私はギャッと悲鳴をあげたまま、バッタリ倒れた。 地上すれすれに飛んでいたグラマンは射撃するだけしたら、さっとその機体をひるがえして姿を消した。咽喉の奥がカラカラにかわき、胸の動悸が激しく高鳴って、私はその場から動くことが出来なかった。
 どれくらい時が過ぎただろうか。「皆はどうしたろうか」と起ち上がろうとしたとき、また七、八機のグラマンが逞かかなたから接近して来るのが見えた。私は着ていた白シャツを脱ぐなり、畑の土をかためて包みこんだ。グラマンがビューンと低下して来た間一髪、私は精一杯の力で土手に向けてシャツを投げた。機銃がそのシャツをめがけて火を吹いた。そしてさっとグラマンは舞い上がった。私はそのまま気が遠くなった。
 気がついた時、学校の保健室にいた。担任の先生も母親も来ていた。聞けばクラスメート三人が撃たれて死んだという。私は絶句し、急に悲しみが込みあげてきて泣いた。先生は私のシャツを見せてくれた。それは二、三個所焼け焦げて穴があき、ぽろ布になっていた。私が土をくるんで投げたシャツが、生命拾いになったことがわかった。それから一週間して八月十五日、日本は戦争に負けたのである。
 いま、とても信じられないあの夏の暑い日のいまわしい出来事を思うにつけ、平和の有難さを大切にし、このことを私の二人の子供達に話し伝えてゆきたいと思うのである。
艦載機といって、日本の近海まで大型航空母艦に積み込んで来たグラマンとかロツキードとかの名の小型戦闘機があり、短時間に機銃掃射をしてふたたびさっと舞い戻るということを。しかし今、手の届きそうな目前に初めて見たその光景は、どう説明したらいいのか。

太平洋戦争 青白い閃光 原爆投下
『一億人の昭和史』4 空襲・敗戦・引揚げ 昭和20年
毎日新聞社 1975-9

 

8月6日午前8時6分 広島に青白い閃光が走った 
B29が落とした5トンの原子爆弾I個で 広島は一瞬のうちに粉々に飛び散った。放射能は人も建物も焼き、爆心地では壁に影しか残らない高熱であった。奈良を除き空襲の損害を受けていない最大の都市・広島は34万の人口のうち7万8千名が死亡、負傷・行方不明は5万一千名にのぼった。原爆は戦争を終結させ世界の歴史を変えたが被爆
者に悲惨な原爆症が残され その後5年間に24万人以上が死亡死者はなお後を絶たない。
20年9月3日英国の記者バーチェットは「広島における大惨状」を打電 。ノー・モア・ヒロシマ″は世界の平和運動の合い言葉となった。
広島駅も無残な外形が残った。6日朝8時半までに23列車が広島市に到着広島へやって来て被爆した人も多い。

爆弾の閃光の投影で作裂瞬間の形が そのまま焼き付けられた所も多い 人間の影さえあった ガスタンクに残ったハンドルの影
米陸軍調査団が来日20年9月目日大野陸軍病院で都築博士が被爆患者の説明6日後この病院は台風で156人と調査資料を失った
顔中の火傷に声をあげて泣く力もない子ら生き残った被爆者には ケロイド 貧血白血病などの原爆症と死への恐怖が残された

太平洋戦争 玉音放送から一週間

ドキメント 原文保


 「感激不止」柳田国男 
「感慨無量」三戸小学校宿直日誌
「ふと、戦争終了ということに対して 明るくなる顔のあったことを見のがせなかった。これは自分の心の反映であろうか」
吉沢久子「悲しさと嬉しさ 嬉しさと悲しさ このごっちやになった感情」
高橋愛子「庶民のさまざまの感慨をよそに 東京と厚木の間では 
一触即発の危機をはらみながら日本の……最も長い一週間……を迎えようとしていた……」

8月15日 玉音放送は終った。
 
天皇も出席して、午前11時から皇居の防空壕で聞かれていた枢密院本公議は、放送中休憩していたが、12特10分再開した、外相・東郷茂徳が戦争終結に関する報告をし、枢密院顧問官四人との間で質疑応答があった。
元日銀総裁の顧問官・深片英五は、四人の発言を、愚痴か、さもなくば憤慨に過ぎないと思いながら聞いていた.病いをおして出席、発言の用意のなかった深井だが、一言いわざるを得ぬ思いで、最後に立った。
 「……御聖断は申すもかしこきことながら、これに関与せらるる総理大臣、
外務大臣らの御勇断を喜ぶ」

 海軍302空司令・小園安名大佐は、放送が終ると同時に、通信長を呼び、この朝。『略号文』にさせておいた『声明』を「作戦緊急で発信せよ」と命じた。それから洗濯したてのシャツに第三種の開襟軍衣を着ると、総員集合している中央広場の号令台上に立った。
 
 「諸君、日本政府はボツダム宣言を受諾した.このことにより、日本の軍隊は解体したものと認める。
これからは、各自の自由意志によって、国土を防衛する新しい国民的自衛戦争に移ったわけである、
諸君が私と行動をともにするもしないも、諸君の自由である。
私と志を同じくして、あくまでも戦うというものはとどまれ。
しからざる者は、自由に隊や離れて帰郷せよ.
私は必勝を信じてあくまでも戦うつもりである」
と大声で訓示した。
 玉音放送をすませた情報局総裁下村宏は、内幸町の放送公館を出ると、車を皇居前広場へと走らせた。車を降りて二重僑へと歩を運んだが、その眼にうつったのは「そこにもここにも嗚咽哭泣の声が広場にくまなく聞えている」という光景だった。その真っただなかに立った下村は、三十三年前の明治45年7月、明治天皇危篤の報を聞いた日の光景を思い浮かべていた、広場の砂利石をひろい上げ、
  玉砂刊の一つを手にし押しいただき
     胸におさめ涙して立ちつ
 歌一首をよむと、首相官邸へと急いだ,

  「次ニ来ルベキ停戦命令、或イハ武装解除命令ハ天皇の滅シ奉ル大逆無道ノ命令ナリ。
…必勝ノ信念ヲ失イ、斯ル大逆ノ命令ヲ発スル中央当局及ビ上級司令部ハ、
既ニ吾人ト対スル命令権ヲ喪失セルモノト認ム。
依ッテ自今如何ナ几命令ト雖モ、一切之ヲ拒スルコトヲ声明ス。
日本ハ神国ナリ、絶対不敗ナリ……」

 小園の『声明』は、玉音放送終了の五分後に、公国の海軍部隊で受信された。連合艦隊はすでに潰滅していた.軍艦のない司令長官・小沢治三郎中将は、日吉の総隊司令部でこの電報を見て驚き、怒り、直ちに全海車に向け「翻訳禁止」の命令を打電させた。
 午後2時、厚木の戦闘指揮所の吹流し塔に菊水の旗が掲げられた。これを旗印としたにし『七生報国』の楠木正成は、小園が尊敬する武将だった。
 厚木基地から飛び立った零銭は、三千メ-トルの上空から首相官邸めがけて急降下飛行をくり返していた。
空襲で半分焼け、本館だけ残った官邸では、午後2時半から閣議が聞かれた。陸相・阿南惟幾の席だけ空席になっていた。
まず情報局総政・下村が玉音放送終了についての報告を行ない、つづいて首相・鈴木貫太郎が発言した。
二・二六事件で奇蹟的に死を免れた七十九歳の老首相は、8月9、14両日の御前公議で、意見対立立し、二度まで天皇の裁断かゝわずらわせたことに対し、恐懼に堪えぬと述べ、
 「それで辞表を捧呈することといたしました、
終戦となるからは、内閣も切りかえねばならないが、そのけじめが考えられない
……どうしても、この際よりほかには、
今後の終戦の始末をつけるべきケジメがないと思います。ご了承下さい」

といった。それから姿勢を改めると、
「さて、誠に悲しむべきことは、阿南陸相の自決せられしことである」
と述べ、前夜来の陸相とのやりとりを報告した。この仙、午前4時過ぎ、陸相・阿南は、
   大君の深き恵みにあひし身は
     いい残すべき片言もなし
の辞世を残し、臨時陸相官邸で割腹自決したのだった。
 いったん閣議を休憩して公室に引き上げる鈴木の後を追い、下村は、
「この上の覚悟無用」と書いた紙片を、首相の執務机の上にさし出した。