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河内領と穴山氏

2023年09月04日 23時43分04秒 | 歴史探訪

河内領と穴山氏

 

 簡単に河内地方の豪族の動きをみてみよう。前にも少し触れれたが、鎌倉時代には南部氏が南部にあって領有していたが、祖先の光行が奥州に移ってからは、その子千実長が波木井氏を名乗って河内一円の地頭職となり、権勢を誇った。その後も実長一族の統治が続くが、地頭の統治が続くが、地頭の一円領主化が完成するに従って次第に衰微し始め、室町時代入ると、甲斐一円の支配確立を目指す武田氏の抬頭と共にその一族である穴山氏が頭角を示しはじめる。この政権交替については、もちろん南部氏の一族をはじめ旧勢力の抵抗はあったろうが、穴山氏は大した争いもなくこの地方を支配下に収めることが出来たようである。というのも武田氏と穴山氏との婚姻関係によるもので、はじめは南部に、のち下山(身延町)に移り、特に信友、信君(梅雪)の二代は武田氏の後ろ盾を得て河内一円の領主として勢威をふるう。

 『寛政重修諸家譜』にみる穴山氏の系図は武田家十代信武の子義武な穴山の祖として四郎信濃守といい、北巨摩の穴山(韮崎市)に住んだことから穴山を姓にしたといわれている。その後満保、信介、信縣、信綱、信友、位君と続く

が、南部に移ってきたのは信介か、信懸の頃ではないかという。今、南部の内船地内に池沢屋敷と呼ばれる場所があって、ここが穴山氏の居館址とされている。ところで、穴山氏が河内領を支配していく上に面白いことは、波木井氏およびその一族が日運宗に帰依したのに対し、臨済宗寺院か造営して旧勢力をくじき、新しく自己の支配力が強大にしていったことである。ことに代表的なのが、信友の建立による南部の円蔵院と下山の南松院である、この両院には、今、穴山氏関係の遺品が多く残されている。

 信友は武田信虎の娘、すなわち、信玄の姉を室とした。信友の墓は円蔵院にあり、夫人(当時恵林寺にきていた策彦和尚から「理誠葵庵」の法号を贈られている)の墓は下山の南松院にある。

 信友の子信君が、のちの柳営斎不白である。梅雪は信玄の娘を妻に迎え、武田家の重臣の一人として下山に居し、河内領の統制のかたわら天正三年(一五七五)駿河江尻の城主となったが、同十年(一五八二)三月、武田家滅亡に際し(前に)、徳川方に降って本領を安堵した。そして、その年の六月、家康に従って泉州堺にあった時、「本能寺の変」にあい、急ぎ美濃路を経て国元に帰ろうとして、途中、山城国の宇治田原で土民の手によって殺されたことは、あまりにも有名である(異説もある)。天正十年八月二十一日のことである。法名は霊泉寺殿古道集公大居士といい、墓は駿河の霊泉寺(庵原郡薩陲村)にある。梅雪の夫人は、のち江戸に移り元和八年(一六二二)五月九日に没し、(墓所は埼玉県安達郡大牧の清泰寺にある)。梅雪の子勝千代は父の跡をうけて下山で、河内領を統治していたが、天正十五年(一五八七)病を得て十六歳で没した。これによって、穴山家は断絶となるわけである。

 


日蓮の隠棲地

2023年09月04日 19時48分24秒 | 歴史探訪

日蓮の隠棲地

 

目指す身延山久遠寺は、身延駅の西方約四キロの身延山の中腹にある。身延山とは、正しくは山梨県南巨摩郡にある標高一、一四八メートルの、富士川西岸に沿う身延山嶺の峯である。駅からは身延出行きのバスがあり、二十五分を要する。

 バスが終点で行きつく途中、一つの大きな門をくぐる。総門と呼ばれる門である、これは寛文元年(一六六五)三河国刈谷城主、三浦志摩守安次の母・寿応院殿妙相日覚大姉なる人が日蓮宗に深く帰依したことから、身延二十八代法主日尊がその志を汲んで建立したものである。二間と三間半の門で、表柱には

三浦家の定紋を現出し、「開会関」という三十六代目日潮の筆になる大額が褐けられてある。この門をくぐると寂光の浄土、つまり一切衆生を成仏に導くという意味だそうである。また、この総門のあるあたりは逢島(あいじま)と呼ばれ、文永十一年(一二七四)五月十七日、宗祖日蓮が鎌倉からこの地に着いた時、波木井実長がここで出迎え、対面したことから名づけられたという。今、総門のすぐ裏手に日蓮が腰かけたと伝える平らな自然石が、フ麗々しく石垣で囲まれている。この総門から三門までの一キロ半の町並みが、いわゆる門前町である。富士川の支流波木井川に沿って、道の両側には門前町特有の土産物店、旅館、食堂などが整然と軒を列ねている。シーズンともなると白衣の信者でごった返すが、普段は静かで、琴平や成田山に見られるような混雑やざわめき

はない。比較的落ち着いた、たたずまいである。

 

 さて、佐渡での流滴生活を終えた日蓮が、その余生を送るべく、信者波木井太郎実長の招聘によって身延に入山したのは五十三歳の夏である。

鎌倉から身延にはいった道筋は 

「五月十二日さかわ(小田原に近い酒匂)、

十三日たけのした(足柄山中の古宿竹の下)、

十四日くるまかへし (車返しは沼津)、

十五日ををみや(大宮)

十六日なんぶ(南部)、

十七日みのぶ

となっている。また日蓮の眺めた当時の身延山は、その『御遺文集』によると

「此の山の為体(ていたらく)日本国中には七道あり、七道の内に東海道十五箇国、其内に、甲州飯野、御牧、波木井の三箇郷の内、波木井と申す。比郷の内戊亥の方に入りて、二十余里の深山あり。北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山なり、板を附枚ついたてたるが如し。此外を回りて四つの河あり、北より南へ富士川、西より東へ早河、これは後なり、前に西より東へ波木井川の中に一つの滝あり、身延河と名付けたり」

とあって、地形的にもほぼ今と変りがない。また

「……宿々のいふせき、嶺に昇れば日月をいただき、谷へ下れば穴へ入るかと覚ゆ。河の水は矢を射るが如く早し、大石流れて人馬向ひ難し。船あやうくして底を水にひたせるが如し。男は山かつ、女は山母の如し。道は縄の如く細く、水は草の如くしげし」とも語っている。

 

日蓮は身延に着いた一カ月後の六月十七日庇護者実長が寄進した西谷の庵室にはいった。この日をもって身延山開創の日とされ、今、この珠は御草庵跡と呼ぱれて、最も神聖視されている。

日蓮はこの草庵にあって、日八々の読経、門下の教育や著述および自身滅罪

の隠棲生活を九ヵ年送ることになる。

その間弘安四年(一二八一)には十間四面の一宇を建て、これを身延山久遠寺と称したという。

 ところで、日蓮が余生を送るためとはいえ雲深き身延の山を選んだ理由は、なんだっただろう。一つには領主波木井実長より広大な山林を含む土地を寄進されたこともあるが、それ以上に日蓮自身が政治的才腕にたけていたことがあげられよう。宗門の隆盛をはかる場合、幽谷の深山と河川が必要条件であることはもちろんだが、かといって荘園や寺社号が確かな根を張っている先進地では好ましくない。当時の日蓮に帰依した檀越を地域的にみると、両総、安房、武蔵、相模、伊豆、駿河それに甲斐の国が散在していた程度だった。この中から中央の鎌倉から近く、しかも宣布の条件にかなり地域を探すとなるとむずかしい。

甲斐国の場合でも、国の中央はすでに甲斐源氏一族による統制が行きとどい

ており、四囲の山岳も天台、真言の寺院で占領されていて、筒単に入りこむ予地はなかった。そこへいくと、当時河内と呼ばれた身延の山岳地帯は、未開のわりには鎌倉にも近く天台、真言の大寺もなく、また波木井氏が幸にも日運信者という恰好の揚所だったから、実長の請を入れて身延入りを決意したのだと

思われる。

 波井実長は甲斐源氏の一族につながる河内頷の豪族である。新羅三郎の裔であるず加賀美遠光の子光行が波木井(南部町)にあって南部氏を名乗ったが、実行の子の実長、が波木井(身延町)に館して波木井氏を名乗り、富士川西域の波木井郷、飯野郷、南部郷など河内一円の地頭頭として権勢を振るっていたのである。光行は、すでに頼朝によって奥州移封となっていたから、河内領は事実上、実長の手に渡っていたのだった。

 今、総門へ行く途中の身延町梅平にある鏡円坊が、この放木井実長の居館跡で、実長の墓はこの坊の草所に祀られている。


史蹟めぐり 目蓮隠棲の地・身延の周辺

2023年09月04日 19時45分10秒 | 歴史探訪

史蹟めぐり 目蓮隠棲の地・身延の周辺

 

法華経宣布の根本道場身延山久遠寺を中心に

中世河内領の豪族穴山氏の遺跡を訪ねて

 

富士川の盛衰

 

 甲府市を中に挾んで、東と西から甲府盆地に流れ込んだ笛吹川と釜無川は、盆地の南端鰍沢付近で合流し、以下富士川と名称を変えて南下する。

流れは赤石山脈と天子山脈との間に狭い谷を作り、縫うように走りながら、やがて岩淵(静岡県)付近で駿河湾へ注ぎ込む。

慶長十二年(一六〇七)京都の豪商角倉了以が、幕命を受けて、この川の開削工事を興し、鰍沢から岩淵の七十二頃キロの水路を開いた話は、つとに有名である。

山国の甲斐にとって、この富士川の水運が開けことは画期的なことで、これにより舟は急流を上下し、人の交通はもとより物資の移入・移出路として、沿岸の各地におおいに賑わったものだが、今ではこの水運も時代の流れに押されて、すっかり寂れ果ててしまった。

 

たとえば、鰍沢をはじめ青柳(増穂町)、黒沢(市川大門町)など、かつてこの川によって隆盛を訪った町々の、落魂した現在の姿がそうである。これらの町は河岸(河港)として栄え、江戸ヘの午貢米輸送の基地として大いに羽振りをきかしたものである。

特に鰍沢ここに、甲府陣屋支配下の諸村の年貢米のほか遠く信州諏訪領、松本領の米まで集まり、文化年間(一八〇一~一七)には番船一〇八隻を数えたといわれている。これら三河岸から積み出された年貢米は岩淵・蒲原・清水港を巡絡して、江戸浅草の蔵前へ回漕されたものだという。今、鰍澤の町を歩くと、その昔は仕出屋や各地の出先商店でさぞ活況を呈しただろうと思われる辻々も、その面影はとうになく、所々に土蔵造り問屋の廃屋が、むなしく残骸をさらしているだけである。

【筆註】現在は富士川町で「富士川水運史料館」が出来て、当時の様子を詳しく展示されている。

 

また、富士川の両岸は、その清流を利用して製紙業が賑わい、特に中心地だった市川大門町などに、江府の用をたして肌吉(はだよし)、奉書、糊入、檀紙などの御用紙を漉いたものだが、ここにもかっての隆盛の跡はなく、河岸と同じように、富士川の盛衰にその運命をゆだねている。いずれにしろ富士川の水運は、中央線の開通および甲府と富士とを結ぶ身延線の開通によって、大きく需要度を失い、往時の姿をかき消してしまったわけである。ただ、「信玄の隠し湯」(史実ではない)で知られる下部温泉だけが、時代を越えて今も湯治客で賑わっているのが、せめてもの慰めといえばいえよう。

【筆註】最近では高速道路の通過が一層過疎化を進めている。

 

しかし、こうした寂れゆく沿岸都邑を尻目に、ひとり歴史の威光を放っているのが、宗教の町・身延である。信者約二〇〇万、大本山四、本山三九、末寺三七〇〇を支配する日蓮宗総本山の身延山久遠寺をひかえているからである。

毎年全国から数十万人もの参詣人が杖を引き、身延線はあたかもそのための足の用を担っているようなものだ。

 

特に身延山の三大法会である「釈尊降誕会」(五月八日)、「宗祖御人山開闢会」(六月十三目より六日間)および「宗祖会式」(十月十一目から四日間)の時などは、身延の町はドット信者で膨れ上がれり、そのために、むしろ観光地といった感さえ呈する。これなどは富士川水運の衰微とに、いかにも対昭的か身延の隆盛ぶりであろう。


わがうちなる漱石(1) 森本哲郎著

2023年09月04日 15時16分37秒 | 文学さんぽ

わがうちなる漱石

 

森本哲郎著

 

 夏目漱石は近代の日本を代表する作家とされているが、まことにそのとおりだと思う。「近代」をとって、日本を代表する作家だといってもいいかもしれない。

 しかし、私がそう思うのは、それほど漱石は偉大な作家なのだ、ということではなく、それほど彼は日本的な作家なのだ、という意味においてである。漱石があの難解で哲学的な文体にかかわらず、いまなお大衆作家なみの読者を持っている秘密はそこにある。

ドン・キホーテは「奇想おどろくべきラ・マンチャの郷士」だが、作家セルバンテスは、たんにそのようなスペインの郷士(イダルゴ)を描いたのではない。ドン・キホーテを描くことによって人間を描いたのである。そして、人間を描きあげた作家こそが偉大な作家たというなら、漱石はけっして偉大な作家ではない。彼が描いたのは人間そのものではなく、あくまで日本人そのものだった。だから、漱石は、かくも高い日本での名声にかかわらず、世界でほとんど知られることがなかった。

 それはなにも漱石にかぎったことではない、日本の作家のほとんどが世界に知られることがないのは、なによりも日本語という言葉の制約のためだ、というかもしれない。たしかにそれはあろう。しかし、かりに言葉の制約がなかったとしても、別言すれば、漱石の小説が片っぱしから自在に外国語に翻訳されたとしても、漱石の文学はけっして高い評価を受けないであろうことはたしかである。

高い評価を受ける、受けないというより以前に、彼はまず理解され得ないであろうと私は思うのだ。

 たとえば『草枕』である。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。

意地を通せば窮屈だ

という冒頭の文章は、日本では中学生でも日本人のだれもがあたかも″真理″のごとく受けとっているフレーズだが、これをどのように巧みに外国語に翻訳してみても、いや、うまく翻訳すればするほど、外国人にとっては理解不可能の文章となるにちがいない。

なぜなら、たいていの外国人たちは、智に働かないからこそ角が立つ、と思っているからである。十人の人間が寄れば十の考え方がある、というのが欧米人の前提である。だから、そうした人間の集まりである社会を、なんとか角を立てずに運営してゆくためには、おたがいの理解をとりつけること、すなわち論理で説得し、知的に処理する以外にない、と彼らは考えている。

ところが、日本のこの作家は、知的にものごとを処理すると、遂に角が立つという。これは、いったいどういうことなのであろう、と思わずくびをひねるにちがいないのである。

 同様に、十人の人間が寄れば、十の感情があると欧米人は、いや、欧米人にかぎらず多くの異邦人は、そう思う。だから彼らにとっては、相手の感情に共感し、同情することはあっても、それといっしょに流されてしまうなどということは、とうてい考えられない語である。

 

 さらに、第三のフレーズ、意地を通せば窮屈だ、に至っては、まるでキツネにつままれたような気がするに相違ない。「意地」という日本語は「自分の思うことを通そうとする心」(『広辞苑』)であるから、「意志」といいかえてもよかろう。つまり、意地を通すということは、意志をつらぬくと同義である。意志をつらぬくことができたとき、欧米人はそれを「自由」と感じる。ところが、この作家は、なんと反対に「窮屈」に感じるというのだ!

 そこで、外国人は流石の『草枕』を読み始めるやいなや、これはまったくの誤訳、珍訳だときめつけることであろう。そうとしか考えられないのである。ということは、『草枕』は、日本の社会の性格を十分に知ったうえでなければ、とうてい理解しえない小説であるということである。知に働けば角が立ち、情に棹させば流され、意志をつらぬげば窮屈に感じられる、そのような日本の社会の特殊性を。

 だが、当の漱石は、これこそが日本の社会の特殊性だとは、かならずしも考えてはいなかったようである。なぜなら、彼はすぐつづけて「兎角に人の世は住みにくい」と書き、こうした性格は、兎角に人の世につきものだ、というふうに一般化しているからだ。そして「住みにくき世」や「住みにくき煩ひ」が、他国とはちがった、まことに日本的な性質のものだとすれば、そこから出発する芸街論も、しょせん日本以外には通用しないことになってしまう。

 私が漱石を、日本を代表するまことに日本的な作家だと思うのは、まず、こうした点なのである。

       ◇

 だが、誤解しないでいただきたい。

 私は、日本のこの作家が、日本的なるがゆえに世界に通用しないといっているのではない。セルバンテスはあくまでスペイン的な作家だった。おなじように、フローベルはフランス的であり、ドストエフスキーはまぎれもなくロシア的な作家だった。どんな作家でも、彼の母国の制約なしに作品を書き得るのではない。いや、いかなる人間といえども、彼の生きる社会、生きる時代を越えることはできないのである。

 にもかかわらず、彼らは彼らの社会を越え、時代を越えることができた。どのようにして? へ-ゲル流にいうならば、それぞれの「特殊」をつらぬくことによって、である。特殊なるものは、その特殊をきわめることによって、はじめて「普遍」に達することができるのだ。

 だが、漱石は、いや、漱石にかぎらず日本の近代作家たちの多くは、なんとかして日本という「特殊」から脱け出て、「普遍」へ至ろうと涙ぐましい努力をした。その結果、まことに皮肉なことに、そのこと自体が、遂に「日本」と

いう特殊な型を二重に演じることになってしまったのである。その典型的な作家が漱石だと私は思う。

つまり、彼は、特殊を描くことによって普遍に至るという文学の道筋を逆にたどり、「普遍」を描こうとすることで、反対に「特殊」へと落ちこんでしまったのだ。そして、このことは、漱石に代表される明治以降の日本文化そのものの姿なのだといってもよい。

 私はかつて、ある座談会の席で、あるヨーロッパ人から「世界でいちばん反日的な国はとこか知っているか」ときかれたことがある。私がくびをかしげていると、彼は自分で即答した。「それは日本さ」。席にいた人たちはいっせいに笑ったが、私は妙に笑えなかった。これこそ、端的に日本を言い当てているような気がしたからだ。「日本」という特殊を否定し、「西欧」という普遍をつねに志向している日本の姿を。いっせいに笑った人たちも、おそらく、そう思ったからこそ笑ったのであろう。

 私はそのとき、とっさに漱石を思い出した。『三四郎』に登場する″偉大な暗闇″とあだ名されているあの「広田先生」である。

三四郎は熊本から上京する汽車で広田先生と乗り合わせる。彼は水蜜桃をむやみに食べ、「散々食ひ散らした水蜜桃の核子(たね)やら皮や等を、一纏めに新聞紙に包んで、窓の外に拗(な)げ出し」たりする。西洋的な観点からすればおよそ不作法なことを平気でやりながら、汽車が浜松に着いたとき、ホームに四、五人の西洋人がいるのを見て、彼は「あゝ美し」と小声でつぶやき、そして、三四郎にこう言うのである。

「どう七西洋人は美しいですね……御互は憐れだなあ。こんな顔をして、こんなに弱ってゐては、いくら日露 戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いづれも顔相応の所だが……あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあつたもんなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢやない」

三四郎がびっくりして、「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護すると、「亡びるね」とこたえ、「囚(とら)はれちや駄目だ。いくら日本の為を思つたって贔屓の引倒しになる許(ばかり)だ」ときめつけるのだ。

だが、三四郎はこの言葉をきいて「真実に熊本を出た」様に思う。そして熊本にいたときの自分は「非常に卑怯であつた」と悟る。

広田先生は「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……頭の中の方が広いでせう」とも言った。

「頭の中」というのは、むろん、西洋の知識をしゃにむに取り入れた頭の中ということである。『三四郎』という小説は、このように三四郎という青年が熊本という「特殊」を否定し、広田先生なる人物が日本という「特殊」を同様に否認して、ひたすら西洋という「普遍」の世界へ歩もうとする道行きの物語にほかならない。

 

 小宮豊隆はこのくだりを「日露戦争が終って三年目、戦勝に酔っていい気になつてゐた日本人に対して、漱石が発した痛烈な警告である」と論じている。以来、多くの論者たちもそう受けとっているようだが、私にはそのようには思えない。「広田先生」の言葉をそのまま借用すれば、「囚(とら)われちや駄目だ。いくら漱石の為を思つたって贔屓の引倒しになる許だ」というような気がする。ここにあるのは「警告」などではなく、異なれる文化に対して、いつも日本人が抱いてきた「劣等感」以外の何ものでもない。かつては中国の文化に対して、そして明治からは西洋の文化に対して、日本人が常に苛まれつけてきた劣等感そのものである。

劣等感を克服する道は一つしかない。劣等感にさいまれる自分を、自分で軽蔑することだ。軽蔑することによって、劣等感を優越感に逆転させることである。だから三四郎は故郷の熊本を軽蔑することでその劣等感から逃れようとし、広田先生は日本を軽蔑することで劣等感を克服しようとする。三四郎は国元から届いた母親の手紙を見て

「何だか古ぼけた昔から届いた様な気がした。母には済まないが、こんなものを読んでゐる暇はないと迄考へた」。

それにもかかわらず、三四郎は繰り返して、二ヘんも読む。彼は母親の住む田舎を軽蔑することによって、かろうじて東京から受けつつある劣等感から脱け出ようとするのである。

       ◇

劣等感と優越感の奇妙な、いや、奇妙ではなく当然のというべきであろう、そのような複合心理こそが漱石の作品の骨子であり、それはとりもなおさず日本人の骨子でもあった。だから漱石の小説の主人公は、きまって二人である。すなわち、「劣等感」と「優越感」だ。その二人が、きわめてはっきりと描かれている作品のひとつは『野分』であろう。

『野分』の主人公は「白井道也」 という文学者のように構成されているが、この小説のじっさいの主人公は、「高柳周作」「中野輝一」という二人の青年である。いうまでもなく、前者は劣等感の、後者は優越感の。

高柳君はロ数をきかぬ、人交りをせぬ、厭世家の皮肉屋と云はれた男である。中野君は高揚な、円満な、趣味に富んだ秀才である。比両人が卒然と交を訂してから、傍目にも不審と思はれる位昵懇な間柄となった。

しかし、二人が不審と思われるほど昵懇になったということすこしも不審なことではない。劣等感は、つねに心の奥底で優越感と手を結んでいるのだから。サディズムとマゾヒズムのように。そして、漱石はこういう二人を描き分けるときに、すばらしい描写力を発揮する。たとえば中野君という優越感が、高柳君という劣等感をむりやりに引っぱって音楽会へ連れてゆく場面などはそのいい例である。

 「おい、帽子を取らなくちや、いけないよ」と、中野君が高柳君の″無知″にびっくりして注意すると、高柳君はあわてて帽子をとり、「三四人の眼が自分の頭の上に注がれて居だのを発見した時、矢っ張り包囲攻撃だなと思う」。中野君はハイカラな外套を着、それを器用に脱いで、裏を表に畳み、椅子にかげる。「下は仕立て卸しのフロックに、近頃流行る白いスリップが胴衣の胸間に沿ふて細い筋を奇麗にあらはしている」。だが、高柳君のほうは、「わが穿く袴は小倉である。羽織は染めが剥げて、濁った色の上に垢が容赦なく日光を反射する。……音楽会と自分とは到底両立するものではない。わが友と自分とは?……両立しない」と思う。ソナタ……。ベートーベン……アダジオ……みんな自分とは無縁だ。無縁の彼は、曲が始まり、満場が化石したかのように静まりかえると、窓の外の空に舞う鳶をぼんやりながめている以外にない。

 拍手がさかんにおこると、彼はハツと我に返り、「異種類の勤物のなかに一人ぼっちで居った」ことに気づく。曲がまた始まる。高柳君はふたたび自由になって、音楽堂を広い寺のようにぼんやり空想し、心をひとり遊ばせる。三たび拍手がおこる。「無人の境に居った一人ぼっちが急に、霰(あられ)の如き拍手のなかに包囲された一人ぼっちになる」。

 漱石は上野の音楽堂で聞かれた音楽会を描いているのではない。音楽堂を舞台にとって、「野蛮な日本」と、「ハイカラな西洋」を描いているのである。西洋文化のなかにもがいている日本の姿を。

 だが、ここにくりひろげられるのは西洋文化そのものではなかった。なんとも奇妙な疑似西洋、あの″鹿鳴館″だった。休憩後の演奏の曲目は、なんと、「四葉のうまごやし」なのである…クローバーは「うまごやし(肥やし)」にはちがいないのであるが。

 よせばいいのに、高柳君は中野君に招かれて彼の結婚披露の園遊会にやってくる。劣等感は優越感に、いつも抗しがたく吸い寄せられるのである。そして、思い思いに西洋人ぶっている人波のなかで、こんなささやかを耳にして、はっとする。

  「妙だよ。実に」と一人が云ふ。

  「珍だね。全く田舎者なんだよ」と一人が云ふ。……

高柳君は自分の事を云ふのかと思った。すると色胴衣(チョッキ)が、

「本当にさ。園遊会に燕尾服を着てくるなんて……洋行しないだつて其位な事はわかりさうなものだ」と相鎚を打つてゐる。……

 

ここにもまた優越感と劣等感がいるのである。 漱石の小説におけるこのような″二人の主人公″は、さまざまに形を変える。基本的な構図は「西洋」と「日本」であるが、それは同時に「都会人」と「田舎者」であり、「金持ち」と「貧乏人」でもある。また、あるときには、それが「知識人」と「無学な人間」に形を変える。「西洋」と「金持ち」とは往々にして重なるが、遂に、「貧乏人」と「西洋」が一致することもあり、その場合は「知識人」と「貧乏」と「西洋」が、奇妙な三位一体を成すのである。『野分』は、「金持ち」である中野君がハイカラな都公的な「西洋」であり、「貧乏」な高柳君が田舎者の「日本」である。そして、高柳君の劣等感を、白井進也という「貧乏」だが、「知性」 においては中野君よりもずっと進んだ「西洋」が補償するという形をとっている。

「学問をして金をとる工夫を考へるのは北極へ行って虎狩をする様なものである」といって。「拘泥するな」といって。

 だが、漱石の小説は、じつは拘泥の文学なのであり、解脱を求めての作品なのである。


たくましき鎌倉女性たち 対談 日本女性史 源平鎌倉編 白洲正子(評論家)vs馬場あき子(歌人)

2023年09月04日 12時00分24秒 | 歴史さんぽ

たくましき鎌倉女性たち

 

男装の麗人白拍子、尼将軍政子、

阿仏尼など男に伍して意志を貫き精力的に生きた女性たち

 

対談 日本女性史 源平鎌倉編

白洲正子(評論家)vs馬場あき子(歌人)

 

『歴史と旅』特集幕末維新の女性史

昭和50年 新年特集号 記載

 

 一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

古く『万葉集』には「遊行女婦」という語がみえるように、平安時代にも水辺の遊女や一所不住の傀儡師などの遊芸人が施芸をもって生活をしていた。

だが、平家時代から源平争乱期にかけては、代わって白拍子が活躍するようになる。

源義経の愛妾静御前、平清盛の寵を得た祇王、その祇王の推挙によって清盛に愛された仏御前、彼女たちは、男装して舞を舞う芸一筋の白拍子であった。しかし、動乱の世は、彼女たちにさまざまな運命の変転をもたらした。

 

 白洲 祇園女御は、白河法皇が祇園の近くの井戸端で水汲んでいたのを拾い上げて妾にした女性です。そういう身分を度外視した大胆なことは、院政だから出来たことで、自由だったんですわ。円山公園には祇園女御の墓というのがあります。

 

 

馬場 そうですね。素姓の分からない人間が、す-っと歴史の舞台の中心に上ってくる背景というのは、ちょうど時代の変わり目で、天皇宗が院政時代をひらき、摂関家を押さえて政治権力に新しい時代を打ち開いていこうとした時だからですね。しかし、祇園女御のような女性が登場するというのは、権力有るものがその身分的自戒や、制度によって保たれている権威以上に、自らの人間的欲求に目覚めたということであったとしても、愛された女人もろとも、決して人間が解放されたということではないですね。

 ただ、こういうことはいえると思います。祇園女御という人物が世の注目を浴びつつ存在できたということは、たとえば『源氏物語』の「蛸壷」の更衣の悲劇が、身分の制度のきびしさを背景として生まれていた時代に比べたとき、はや、すでにまるで違った時代がはじまっていたということです。

 世を掟てるきまりや倫理が、いつのまにか緩みに緩んで、公私の別がなくなり、貴族は世を維持していたきまりを自ら無視しはじめたということでしょうか。だから、祇園女御のような人物も一人だけ取り出して考えるよりも、たとえばこの頃でしょう、白拍子などが職業的に成立しはじめるのも。そして、こ

の白拍子女たちの精彩にみちた活動を考えてみますと、この時代の女人の新鮮な自立精神というのも魅力的で、院政期から鎌倉初期にかけて、貴族は代々の

院をはじめとして、この新時代を感じさせる白拍子に、かなり魅かれているという感じですね。

 それでは、白拍子とは一体何なのかというと、それこそ遡れば『遊女記』や『傀儡記』まではいかなければならないけれど……。

 

 白洲 静御前や、その母磯禅師、それから平清盛の妾であった厳島内侍という巫女も、やはり舞姫で白拍子のようなものです。白拍子は巫女の系統をひいていますからね。烏帽子に白い水干(狩衣の一種)を着て、男装をして今様を歌い、舞も舞った。あの時代には非常に魅力的な女性だったのでしょう。でも、わけのわからないところから出てきた人たちですね。祇王・祇女の姉妹も、清盛に大変愛されていましたが、仏御前が現われたために、迫われてしまう哀れな白拍子です。前にわたくし、彼女らが生まれたという祇王村というところに行ったことがあります。近江の鏡山から北へ入った野洲川の河口の広い田圃の中にあり、とても景色のきれいなところです。そこにも嵯峨と同じように祇王寺というお寺があって、そこで祇王さんゆかりのもの何か残っていますか、と土地の人に訊ねたの。ジーパンをはいた若者でしたが、祇王が堤を作ったとか、濯漑用水をどうしたとかよく知っていました。土地ではまるで神様みたいに思っているのね。その村全体がそうで、一種の祇王信仰のようなものが残っているのに驚きました。

 その村に伝わる伝説ですと、祇王のお父さんは北面の武士で、保元の乱で戦死したことになっているんです。でも、わたくしはもっと身分が低かったと思っています。たとえ武士の娘であっても落ちぶれて、いわゆる河原に住んでいたような人たちですね。それは仏御前も同じですよ。わたくしは仏御前ゆかり

の地にも行ったの。

 

 馬場 加賀ですか。

 

白洲 ええ。加賀の小松から白山の方へ入ったこんもりした山あいの村で、仏の愿といっています。祇王さんと違って仏御前はとても可哀そうです。尼になってふる里へ帰っていくのですが、そうすると村の女たちに大変嫌われて、苛め殺されてしまうんです。

 

馬場 すごい伝説が残っているんですね。

 

白洲 けれども殺したあとで仏御前のことがいろいろとわかってきて、村人は気の毒になってその供養塔を建てるんですね。源平時代の大変きれいな五輪の塔が、今も林の中に残っています。勿論、本ものかどうかはわかりませんけれど、邸跡までわかっていて、観光地ではないだけに信じないわけにはいかな

くなる。

 

馬場 何で憎まれるんですか。

 

白洲 やきもちではないかと思うんです。というのも、そこには白山信仰が強く、巫女のような身分の低い階級の人たちが、都の栄華を見、成り上ったというんで、普通の村の農家の女たちは、とても蔑んだのではないかと思うの。やきもちと蔑みで、それでひどい目にあうんです。とにかくその土地にはそう

いう話が残っているんです。

 

 馬場 面白い話ですね。

 

 白洲 白山の麗であり、村の鎮守の社として白山神社の末社がある。わたくしの想像では、仏御前はそういうところの巫女からだんだんのし上がって、清盛の寵をうける。それで叔父さんが京都の白川あたりに住んでいるところへ先ず訪ねて行くんですが、白川というところが、やはり遊女の出るような場所で

すからね。このころになると、とても自由になって、淀川の河口など、遊女は方々にいますね。

 

 馬場 港にはむかしからずっと遊女がいますね。

 

 白洲 源義朝の行くところにも遊女はいますね。

 

 馬場 美濃の遊女は傀儡師系の遊女なんです。

 

 白洲 熊野(やゆ)だってそうでしょう。遠江池田の宿の長だから勢力があり、お母さんが権力を持っていたらしいですね。この時分になりますと、かなり組織されてくるんです。それと、西行法師が江口の渡しで雨にあって、遊女の家に雨宿りしようとして、断わられたので、

  世の中をいとふまでこそ難からめ 仮りの宿りを惜しむ君かな

 という歌を詠むと、遊女が連座に返歌する。

 

  世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に 心とむなと思ふばかりぞ

 そういう話が『選集抄』でしたかに、のっています。

 それから書写山の性空上人も、室ノ津の遊女が今様を歌っている姿に、普賢菩薩を感得するという説話もあって、その両方をアレンジしてお能の「江口」とか、歌舞伎の「時雨西行」に脚色されるんですね。彼女たちは即興で歌も詠むんです。だから無学ではできない。相当見識があり才能があった。即興で詠

った、後世に残っていく、『梁塵秘抄』なんかそれが多いようですね。それを見るとわかるのは、今様の歌は非常に宗教的です。白拍子は神社から出ているのが多いから、やはり巫女のような性格があったと思うの。

 

 馬場 白拍子というのは、これは能に詳しい白洲さんがよく御存知のことですけど、素拍子なのですよね。いまの雨だれ拍子、四分の二ですか、それで歌った。

 白拍子の背景というのは、『遊女記』や 『傀儡記』をみると、耕す土地も持たない、かなり貧しい人たちが、川の流域を中心に生活を立てている。耕さないで税金を納めないで暮らしていくためには、人間を相手に暮らすしかなくって、男は狩猟して、女は身体をひさいでいたというのが遊女、傀儡女なので

すけれど、院政の時代には遊女、傀儡師の特色がある程度わかってきて、傀儡師系の人たちの方が芸熱心だったという人もいます。

院政期に歌の上手さをもってかなりクローズアップされてくる。

 

 白洲 傀儡師のほうは旅をしますね。早くいえば、旅廻りの人形使いなのだけど、その人形が元は神様なんです。やはり歌を詠って人形を舞わせた。

 

 馬場 当時のいろいろな説話をみると、貴族が詠んだ歌なんかもよく勉強していて、宴会に召されるとそれを詠ったりする。

 

 白洲 替え歌を詠ったりね。

 

 馬場 静御前の「吉野出陣の白雪」も「しづやしづ」も、静の歌ではなくて、本歌は『古今集』の壬生忠岑の歌と『伊勢物語』の歌ですからね。ほんのちょっと直すとあれになる。つまり、この場で何を詠うかという臨機応変の才をもっていて、選ぶ能力がある。それから、滝川政次郎さんがいわれるには、男

装したのは男の商売に対応するためということですよ。つまり男色の全盛時代でしょう。

女が男装することによって生まれる妖しい一つの雰同気が喜ばれたので、その舞も・男舞といったんですね。言葉としては今も能に残っています。

 

 白洲 今でいえば、宝塚の鳳蘭とかいう男役で人気がある人がいますが、あの感じに似ていますね。しかも白拍子の場合、身分は大変低いところから出ている。低いというより神社の巫女や傀儡師みたいに、普通の人とは全々違う世界の住人でしょう。

 

 馬場 しかし、白拍子・傀儡師・遊女たちはいずれも誇り高く志も潔かった。なぜかというと、その「芸」一つをもって世間に価値を問うという場に生きていたからで、後白河院の『梁塵毬抄口伝集』などみましても、ものすごい修業ぶりが出ています。

 何しろパトロンの後白河院自身でさえ、声を割ること三度、咽喉がはれて湯水も通らない有様に堪えて、七、八十日から百日、はては千日歌い通すという稽古ぶりですから、それに認められるためにはたいへんな修業がいったんでしょう。ある新人女性は眠気を妨げるために腿毛を抜いたりして稽古に励んだと

あります。

 こういうことを背景として、祇王や仏や静が出てきているということですね。彼女たちは身分は違うけれども、芸を持ってトップクラスの男とつき合っていた。いくら相手が位を持っていようが、お金があろうが、自分は芸を持っているという誇りがあったんです。

 

白洲 それは能の世界だけではなく、江戸の吉原にまで続いています。

 

 馬場 そうですね、仏御前なんかも清盛の邸に出かけてゆくとき「遊び者のならひ、何か苦しがるべき、推参してみん」という放胆な発言をしていますが、そうした芸一本を楯にした解放的な人間性があったわけです。

またもう一つ、そういう大胆さが養われた精神的基盤といいますか、生活的底辺といいますか、そういうものを彼女らはもっていたのですね。たとえば、『傀儡記』なんかみると、一人の芸人の芸をみている群衆の素姓をかい

たところがあります。Aという芸人を支持しているBという男にはこれこれの背景と動員力があるとか、また、Cという男は何にかかわってどこに顔が利くとか、いちいち掲げて総合してみれば、世間に門戸を張って威張っている貴族よりも実質的には一人のすぐれた芸人が持っている背景の力の方がずっと広く、深く、恐ろしいほどのものなんです。だからこそ「何か苦しがるべき」となるんですね。

 

 白洲 それから室町時代になるけれど、同朋衆ね。庭作る人とか、芸人とか、とにかく日本の芸術は、底辺の広いそういう下層階級から生まれて来るものが多い。

 

 馬場 そういう集団が支援して、そのバックアップによって白拍子がいる。底辺を握っているんだから、中世になると諜報機関の何かさえ肢たせるわけです。

 

 白洲 そうそう。わたくしは世阿弥もそうで、一種のスパイだったと思う、忍者も繋がっているんです。だからとてもそこまで書けないわけです。あれは惜しいことですよね。わたくしなんか本当は大変尊敬しているんですけれどね。

 

 馬場 祇王は毎月百石百八のお給料をもらっていますね。どのくらいの財産だったのでしょう。月見な祇王はその給料を割いて故郷の人たちのために土木工事を起こしたりしている。役役の力への見返りをきちんと分けているんですね。もしかしたら、仏御前はそれをやらなかったから殺されてしまったんでは

ないかしら(笑)。

 

 白洲 仏御前はそういうことは少しもやってはいない(笑)。

 

 馬場 ただ『平家物語』の書き方で非常に面白いのは、祇王と仏御前が話している言葉で共通の言葉があるの。それは

「祇王御前の思い給はん心のうち、恥づかしうさぶらふべし」、

片方は「仏御前の思い給はん……」この白拍子世界での一つの仁義として、恥ずかしいことをしてはならないという倫理観があった。それは芸人としての相手を尊重するということになると思いますが、そうした芸人魂において、すごく誇り高い人だった。相手の立場を尊重するということは、人間性の問題にも還元できますけれど、それ以上にここでは芸だと思う。芸人として相手の立場を尊市しない者は、芸人としての自分の立場も尊

重されない。そういう芸人の仁義というものが表面に出てきはじめた時代だったらしい。

 

 白洲 だから仏御前だって、別に祇王を蹴とばして清盛の寵愛を得ようとは思っていなかったわけですよ。ただそこらにいて可愛いがってもらえればいいと思って行ったのが……。

 

 馬場 自分が寵愛を奪ったので恥ずかしいんですね。

 

 白洲 居たたまれなくなる。

 

 馬場 静御前もやはり恥に生きた女じゃないかしら。それが鶴岡八幡宮の舞にも出てくるわけです。ああいう場合に、すべて自分の立場を放棄して頼朝バンザイをやったら、まさに白拍子の恥になるわけですね。

 

 白洲 後世に伝えられると居たたまれない気がしたのでしょう。

 

 馬場 何を詠ったかということがね(笑)。

 

白洲 静御前は白拍子の子ですからよけいそういう教育が行き届いていたと思うの。

 

 馬場 だから『吾妻鏡』に残されたその場面は、政子と静御前の一騎討ちという感じですね。政子は大きいところを示して包容力のある寛容な立場をとったんですよね。静御前が義経の行方を憂い、そのあとを慕う和歌を上げて舞を舞ったのは頼朝に対する不遜の行為ではなく、真摯な女の情であって、同情し

賞むべきであっても咎めるべきではないと、政子はいって、数々の引出物をとらせますけれど、同時に、自分が昔、石橋山の頼朝敗走の情報に接したときの、今の静以上の志を切々と述べて頼朝を感動させている。情において、女は共通のものを持っているということ、あれはなかなかうまい政治的発言ですね。頼朝に対してもちゃんと売り込みが出来ている(笑)。