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三崎の四角竹の子千年の土龍(もぐら)畠に勘彌大入り 浅草寺の事実 燕石雑志

2024年07月24日 15時38分32秒 | 文学さんぽ

三崎の四角竹の子千年の土龍(もぐら)畠に勘彌大入り

浅草寺の事実 燕石雑志

 

例の人の癖なるべし。彼の角(けた)なる竹の子は、はじめ土を出るときに、細き樋を打ち伏せて被せて、かくこしらえたりとなん。いぬる丙寅(ひのえとら)のとし、漂鳥郡小豆澤(あしざわ)なる農夫何某が畠に生たりという、八ツ岐(また)の孟宗(もうそう)竹も、この類にやと大-ぼし。かくて清涼寺o抑迦如来は、天明五年の夏、また享和元年の夏、すべて回向院にておがまれ給ひ、善光寺の阿彌陀如来は、享和三年の夏、浅草寺にて拝まれ給ひしが、いづれも何れもはじめのたびにはおとり給えり。この餘かぞへかてたゝ書にしるさんも、「年代記」といふものめきたればさてやみつ。俄かに思ひ出せし如くみな参りけるは、明和の年間(ころ)、葛西金町(かなまち)剛なる椿田(はんだ)の稲荷、谷中なる笠森の船荷なりとぞ。予が物おぼえて天明の年間には、比門谷なる執金剛神

〔割註〕世俗はこれを二王といふ。」なるべし。

これらはなお、物の数ならず。甲子の年浅草なる太郎稲荷へ、参らぬ人もなかりき。いとめづらかに思ひしは、寛政十年の五月、品川の海へ鯨の流れよりたるなり。「海鰌録」(かいしゅうろく)というものも、この時に出る、大方は鯨志に似たり。鯨の形画きたる団扇など人々競いて弄びした。因みにこゝに又云うべし、大よそ高山を浅間と唱えるよしは、浅間は朝隅の義にて、「あさくま」の「く」を省くなり。伊勢なる朝熊山(あさまやま)も「熊」は仮字にて「隈」なり、また筑前国「木綿間(ゆふま)」山あり。これも「夕隈(ゆうくま)」の義なるべし。

説文に土山日阜。曲阜曰阿といへり。曲も阿も和訓「久末(くま)なり、また、「爾雅」に、凡そ山遠望則翠なり。近ければ之則漸微(ちよやくびなり)。故に翠微(すいび)と云えり。

これ山色(さんしょく)をもって、遠近を分ける證とすべし。されば明日に隈の愛でたきを浅間と名づけたるなり。この山の各々高山故に「隈」という。

小山には隅あることなし。これは未だ「雨談(うだん)」見ざらん人の為に云うのみ。

また安永のころ、げ主などは髪の中を剃りひろげて、髭を鼠の尾のようにし、眉さえ剃り細めて、額いかめしくぬきあげたりしも、しばしが程にて、今は髪の中を多くも剃らず、額など抜くも稀なるぞ目出度き。今こそあれ、後々に至れば必ず奇なりとすべし。人の嗜欲も、十五歳より初老に至るまで、十年ごとに一変する。故に聖人三度その戒めを異にして給うまるべし。まして常の産なきときは常の心なし。と孟子もいえり。一挙して教えなきものは、その誤りを改めるによしなし。侠客客などのあるひは佇む或はそびらへ、花繍(いれぼくろ)といふことをするも、老體てその子のその孫に手を引かれるときの事を思はば、さるまさなごと老いたる方をばいたくおとしめ、血気にまかして過ちを重ねもあるべし。また老いたる方をばいたくおとしめ、血気にまかして過ちをかさぬるもあるべし。また老いたるものもしかなり、若き方の程の事は知る人稀なれば、生まれながらsかしげなるおももちちし、わかきかたのよしあし数えへたてゝ、かしがましう責めののしるもあり。片腹痛たき業なりかし。只善きも悪しきもわがうへに有けりと思ひとりて教えんに、誰かはうけばりかしこまざらん。今の老人は昔、檜葉荼、柳荼、親和染などいう花手なる衣を着て、被緞子の帯を幅五寸ばかりなるをしたるもあるべし。されば今の若人は昔の若者よりまめなり。まことに五十年の程は、一睡の夢の如し。限り有る浮世の旅なれど、今に生れあえるものは、乗物にかかれ馬に乗せられて、老いの坂に登る心地せる。いと有り難き采配ならずや。三千世界の国ゝ、住むとしたならば、愛でたからぬはあらざらめど、大よそ天の蔽う限りこの大汀戸にますかたはあらじと申すさんも、猶かしこかるべし。


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