我が町を知る 浅草寺の事実 燕石雑志
飯田町の東南の処より、小川町のかたへ架かる橋を、俎板(まな)橋といふよし、「江戸砂子」に記せし誤りをうけて、こゝにあるものさへしかえて唱ふる事になりつ。
まことの板橋といふは、九段坂の下なる十字街頭(よつつじ)を町の方へ行く大淀のわたせし石橋をいうなり。
【割注】
本所松井町にも同名の橋あり。今俎板橋と唱えるは、本名「新橋(あたらしばし)」にて、昔よりこれを俎板橋と唱えることは絶えてなし。「真菰が淵」といふは、彼の「新橋」の南の岸をこのように云えど、今はこのわたりの人すら唱へ忘れて、その名を知るもの稀なり。また町の南北の盡処堀留(はてほりとめ)といふ處より、小川町のかたへかけられたる石橋を、「蛼橋(こおろぎばし)といふめれど、その名をしらざる者はなかり。今「もちの木坂」と唱ふるは、舊名「萬年坂」なるよし古老いへり。寛永中の抱地図を按ずるに、町家は今九段坂と唱ふる処にありけり。こゝらの町屋を後に築地へ移されて、元飯田町、築地飯田町とわかれる。九段の坂上は寛永のころ「飯田口」と唱へたり。この飯田口のほとりなる町家なれば、やがて飯田町といふなり。
慶長の年間飯田何某ここを開発せしと、土俗の口碑に傳える。真実か否かしらず。まことによしある事なるべければ、分けてこゝにて活業(なりわい)する程の徒(ともがら)は、露ばかりも仇に思い奉るべからす。よろづに慎みて舞馬(ぶけ)の災などあらせじと、朝々夜々(あさあさよなよな)に念すべき事なるべし、かく僅に方四五町の処なのに、土俗の誤伝は多い。偶々古老をしらんと思ふものも、「奇書・珍籍」の得がた書に因みて、大かたは鹿漏(そろう)にして、やゝ十に二三を知るに足れり。当時の印行の地図なども、明暦前後のもの極めて得がたし。延宝四年の印本、「江戸總鹿子」に載りたる菓子所載せたる菓子処の部に、飯田町に虎屋、柳沼、壷屋あり。このうち柳屋と唱ふる菓子店は今はなし。生薬舗には柳家といふもあれど、その跡はあらず。
彼の壷屋の暖簾は、延宝の年間駒吉祥寺にて、副司を勤めたりける高甫和尚の筆するところなり。
平仮名にて横につぼやと書けり。件の高甫和尚は、飯田町中坂なる松屋権右衛門といふ染物屋の先祖。今の権左衛門より五代前なる権左衛門の叔父なりけり。この所緣によりて、同町にてしかも近隣なれば、壺屋の暖簾は松屋より頼み聞こえて、高甫和尚に書したるが、今にその形もって染めるよし、彼の松権の老店なる白養隠居言えり。また高甫和尚に書かしたるが、今にその形を以て染めるよし、彼の松権の老補なる白養院居は云えり、また高甫和尚の「八百屋お七」の主席の師匠なりという謬傳を受けて、このような説を為すにこそ。予の事を白養老人に問ひしに、さるよしは聞も及ばすと答えたりき。
囚にいふ、服部子遷嘗て唐山(もろこし)の飯顆山を飯田町にあてたり。詩作の上にはしかるべし。雅文たりとも地名を私に改めん事は古實に適わず。童家心得るべし。
李白が誌に、飯顆山前逢杜甫云々の七絶あり。人のしる所なれば載せず。
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