柳田(国男)おじさんの思い出
『定本 柳田国男集』月報23 昭和38年11月
飯島小平氏著
一部加筆 白州 山口素堂資料室
明治の四十四年というと今目から既に五十年以上昔のことである。
その頃柳田國男氏(同氏夫妻のことを私は(柳田のおじさん、おばさんと云いつづけて来た。)は貴族院書記官長の職に居り、わたしの父も外務省の参事官だったので、既に交友関係があった。その上茅ヶ崎の柳田家の別荘と私の家の別荘(明治の四十四年に建った)が偶然隣り同志で、両家の子俵達がお互いに五人姉弟でしかもほぼ同じ年齢だったので、一二年経たぬ中に親しくつきあうようになった。殊に夏休みに茅ヶ崎へ来ると、両家の子俵たちは毎日のように連れ立って海に行く。曇りや雨の日はどちらかの家に赴いて遊ぶ。夜もお月見だといっては浜にゆき、月光にゆらめいている冷々とした海水に足をぬらしては騒ぎまわる。
子供時代の誰にも憶えがあることだが、八月も廿日を過ぎて残り少なくなった休みがひどく大切に思えて来る。隣り同志の親しみも増してゆく。夏のお別れに箱根まで出かけ、夜ともなると、親まで連れ出して、ろうそく片手に松虫取りに幾晩か過した、大正の中頃の日本の夢のようなよい時代の夏の想い出はつきない。
こうして幾夏を経て大正の末年になると、両家の子供達も大分成長して来た。わたし自身も早稲田に入り文学を学ぶ志をきめていた。当時わが家では生母につづいて、継母まで病死してしまったので、私達兄妹は主婦を失って、一番年上の私が主婦代りという妙な役割を演じていた。
そのために、何か判らない相談ごとでもあると、自然隣りの柳田のおばさんのところへ甘えては教えを受けにゆく。ついでに勝手な文学の話の相手にもなって貰い、二時間も三時間も過ごしてしまうことが度々だった。母のいないわたしを憐れと思って貰ったのだろうか、よくも我慢して青白い文学青年の相手になって下さったものだと今も惑謝している。そうした時、たまたま國男氏も一緒のときは、
「今は何を読んでいるの?」
「こんどぼくの本をかしてあげよう。」
などとよくいわれた。或る目のこと母のいないわが家のことを孝夫人が告げると國男氏は、
「そうか。それは気の毒だね。君のところは主婦が亡くて困るだろうが、こちらは主婦が多過ぎて困る。」と苦笑いして云われたのを覚えている。
当時柳田家では老夫婦が未だ健在だった。
その時分氏に会ったときはいつもフランス綴じの洋書を読んで居られた。未だ民俗学という日本語がなかったのだろう、孝夫人に
「おじさんのやっておいでの学問はなんというのですか。」
と訊ねたら
「フォークローというのだそうです。」
という答だった。
又他の日に國男氏自身から
「僕のやっているのは文学と歴史の境目のところなのだ。」
という解説があった。
私が氏に関して一番敬服したのは、その一刻もおろそかにしない研究熊度だった。柳田家の最初の成城の家が新築されたのは昭和二年の夏の終りだった。國男氏が夫人に向って、
「ぐずぐずしていては勉強が出来ない。ぼくだけ独り先へ引っ越すよ。」
といわれているのを傍できいて私は一寸びっくりした。その言葉通り、氏は家族達より五、六ヵ月早く引っ越しされたようである。
頭脳が素晴しくよく、その上人並み外れた記億力の持主だった氏のことについては世間周知のことだが、その勉強ぶりも超人的であったようだ。官界、新聞と全く別な社会にあって相当な地位について、傍ら目本民俗学の確立に先駆的な役割を果たすためには異常な研究心に燃えていたにちがいない。特に、砧村(成城)へ引越しされた頃は氏の研究の頂点の時代だっただろうか。
國男氏はよき夫人にめぐまれ、子供たちも文字通りよき配偶者を得て立派に成人したのだから大変恵まれた一生と云えようが、唯一つの不幸は次女の干枝子さんが若くして世を去ったことである。千枝子さんは弟妹の中で國男氏の文学的な才能を一番受け継いだ才女だった。
逝くなる二、三年前に、
「わたし小説を書き出したんだけれど。」
と筆者のところへ原稿を持参して来た。早速その原稿を早稲田文学へ載せて貰うと、その中の一篇が芥川賞の候袖作品に推薦きれた。ペンネームだったので世間では殆んど知らなかったろうが、彼女が今生きていたら一流の閨秀作家になっていたろうと借しまれる。彼女の死は両親にとっても後半生の一番大きな悲しみであったようだ。
わたしが氏から一度だけ大変叱られたことがある。
終戦が昭和二十年の八月であったから、その年の五、六月の晩春の一日だった。久々振りで氏夫妻に会った。戦災のことなど話しているうちに、わたしが、
「早く戦争を終えてしまわねばいけないと思いますね。敗けたことが判っているのにぐずぐずしていては犠牲を多くするだけで無意味です。」
と述べると、氏はやや色をなして
「そんなことを云うから早稲田の若い者はよろしくない。」
と私をしかった。
終戦後になって間もなく再び柳田家に赴くと、考夫人が、
「おじさんもあの時はあなたの考えはわかっていらしたのよ。でもあの場合はそう云わなければならなかったのだと思います。」
と語られた。終戦を早くしろなどと戦時中平気で云うわたしの不注意を戒める気持があったにちがいない。だが、氏にも明治の中年に育った人々の持つ特有なナショナリズムが燃えていたという印象も否定できない気がする。
大東亜戦争が始まる数カ月前、秋の或る目、柳田家を訪れたわたしは、三国同盟を今やめればこの戦争は一応しないで済むのじゃないですかと陳べると、氏は
「戦争は余りよくないが、戦争というものが全然悪いとも云えない。戦争を三角形に例えてみよう。三角形のBCを底辺だとする。戦争の開姶の時がBとし、終戦の時をCとするならば、庭辺BCだけの距雛は戦った国は進歩するものだ」
と説かれたことがある。その時は氏の考ええ方を理解出来なかったが、今日になってみると戦争の大きな犠牲を浙立外とするならば、庭辺BCだけの進歩があるという説はうなずけないことはない。
最後に柳田のおじさんにお会いしたのは悪くなられる一ヵ月位前のことだった。おばさんから前以て注意があったのだが、あれほどの記億のよい人が話の間に同じことを幾度もききかえされるのが悲しかった。
だが茅ヶ崎のことを大変なつかしがって話されたので、休暇にでもなったら車でお迎えに来ますと申したら、「行ってみよう。」と約されてお別れした。だがその約束を果たさぬうちに訃報が来てしまった。
(早大演劇博物館長)
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