北巨摩の歴史
角川地名辞典 19 山梨
逸見御牧 へみのみまき 逸見荘
この記載内容は一部誤りが見える
現北巨摩郡域にあった牧。速見とも書く。「蜻蛉日記」天徳2年(958)7月の記事とされる部分に藤原兼家の長歌として
「かひのくに へみのみまきに あるゝ馬をいかでか人は かけとめん とおもふものから」とある。
これは、「矢本抄」雑部に載る読人しらずの
「をがさはらへみのみまきにあるるむま(馬) もとればぞなつくなつけてぞとる」
を本歌とするもので、都までその名が知られていた。
また「堀河院百首」の藤原顯仲の一首に
「をがさはらへみのみまきのはなれごま いとどけしきぞ春はあれ行く」
などと詠まれるように小笠原と併記して歌われることが多く、両牧は近接していたものと思われる(×)。
柏前(かしわざき)牧の別名ともいわれるが(甲斐国志)、詳細は不明。建長五年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に小笠原と並んで逸見庄がみえるところから、馬相野から逸見御牧、さらに逸見庄と発展したとの推定がある(?)。
逸見庄
旧巨摩郡域の北部に比定される。先行地名として「和名抄」所載の巨麻郡速見郷、古歌にみえる逸見御牧があるが、相互の関係は不明。いずれにしても、その後身か近隣に成立したものとみられる。辺見とも記される。
建長五年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に、請所として小笠原とともに逸見庄がみえ、冷泉宮領内の注記がある。
冷泉宮は敦明親王の皇女儇子内親王で、祖父三条天皇の養女として大納言藤原信家に嫁している。
冷泉宮領はこのとき内親王が持参したものか。敦明親王が58歳で亡くなったのは永承六年(1051)であり、遅くも11世紀初頭には当庄は成立していたものと考えられる。冷泉宮の子麗子は関白藤原師実の妻となり、当庄は麗子を経て子師通、さらにその子忠実へと伝えられて、皇室領から摂関家領となった。
一方、大治5年(1130)常陸国で事件を起こし、甲斐に流罪になった源清光が逸見冠者を称しているから(尊卑文脈)、彼は当庄に拠ったものと思われる。
その子光長は逸見太郎を称し、逸見氏の始祖となる。だが武田信義との甲斐源氏の惣領争いに敗れたためか、文書・記録類にほとんど登場せず、わずかに知承知4年10月月13日の駿河に向かう甲斐源氏軍のなかに逸見冠者光長の名がみえるのみである(吾妻鏡)。
鎌倉政権下で逸見氏が地頭としての立場を保持していたかどうかは明らかではない。
建武4年(1337)3月7日の足利直義安堵下文写(諸家文書)によると、二階堂政頼が当庄内の上大八田村・下大八田村半分・夏焼村因狩倉(以上現長坂町)の地顕職を安堵されている。安堵の根拠は文保3(1319)正月6日の父行貞の書状などであるから少なくても鎌倉末期からは二階堂氏が当庄の一部の地頭職を保持していたことがわかる。
庄内の地名としては、
前記の上大八田村・下大八田村・夏焼村のほか、康永4年(1345)の円楽寺(現甲府市・中道町)蔵大般若経奥書(甲斐国志)にみえる「皆波郷」(現高根町箕輪)、応安2年(1369)4月26日付の現塩市野尻嶮之助氏蔽大般若経奥書にみえる塚田(現長坂町)、水和3年(1377)3月下澣の現山梨市永昌院蔵梵鐘銘の「鹿取郷」(現明野町神取)などがあるから、庄域は長坂町から高根町南部、さらに須玉川・塩川を渡って明野村西部にまで及んでいたことになる。
戦国期になると、「武田家日坏帳」に、永禄10年(1567)7月21日に逆修供養を行った「ヘミノ庄逸見殿」、元亀2年(1571)11月20日供養の「逸見庄大八田住人 堀内下総守」と「同庄、長坂郷住人 小林雅楽丞」などがみえるほか、その地域はさらに広がり、永禄1年5月吉日の熊野先達代官職補任状写(寺記)に藤井五郷(現韮崎市)、天正3年(1575)11月28八日の現韮崎市三之蔵諏訪神社棟札銘に小笠原郷三之蔵村(現同上)などがみえて、現韮崎市西部まで含むようになる。
なお慶長4年(1599)5云月9日の廊之坊諸国檀那帳(熊野那智大社文書)に「へんミ廿四郷」がみえる。本来庄域内であった地名がたまたま戦国期の史料に残ったのか、呼称の範囲が拡大して名称のみが付与されたのかは判然としない。
逸見は筋を示す広域名称として近世に残り、元禄15年(1702)の清泰寺梵鐘銘では片颪村(現白州町花水)までが庄内と記されていることなどから、後者である可能性は高い。
玉庄 たまのしょう
現韮崎市穂坂町三之頭の諏訪神社頭の天正3年(1575)11月28八日、棟札名に「巨麻郡里庄小笠原郷三蔵(さんのくらと)ある。
「甲斐国志」では多麻庄と書き、樫山・浅川(現高根町)、津金・穴平・若神子・小倉(こごえ)・東向・大蔵・藤田・大豆生田(まみようだ 現須玉町)の諸村が属したとするが、これらの地域は逸見庄や山小笠原庄の庄域と重複することになり、併存したとは認められない。単なる地域呼称として成立したものか。
北巨摩の歴史 楯無堰
茅が岳南西麓一帯を潅漑する用水路。
上野山(現韮崎市)や立石原の広い原野を濯漑して美田としたので立石堰とよんだのが転化して循無堰となった。現在は延長約17キロ、濯漑面積298ヘクタールに及ぶ。
「甲斐国志」に
「寛文六年江戸ノ大野村宗貞始テ開ク、故ニ宗貞渠トモ云フ、
然レドモ漏水多クシテ下流ノ田ニ漑ギ難ギ候、
其翌未申両年ニ有司今ノ渠道ヲ通ズト云、
発源ハ逸見筋小笠原ニ在リ塩川ノ水ヲ引ク」
とある。
この地域は古代の甲斐三官枚のうち最大の穂坂牧があった所で(?遺跡遺構が皆無)、火山裾野の干害地域で、住民は、濯漑用水はおろか飲料水にさえ不自由していた。
寛文(1661~73)の初め宇津谷村(現双葉町)に隠居していた江戸の浪大野村宗貞は堰の開削を願い出、許されて寛丈6年に着手した。
塩川の水を小笠原村(現明野町)岩根で堰止め、岩下・上野山(現韮崎市)、駒沢・宇津谷(現双葉町)まで通水した。裾野の地質は軽石質に富んだ火山灰で透水性が大きく、安山岩の巨塊が土中に横たわり、尾根や谷が多いので工事は困難であった。3年後には標高400メートルの線上を米沢・笠石・菖蒲沢・団子新居・大垈(現双葉町)を通り、谷は板堰で尾根は暗渠で流下し、竜地(現同士)まで完成した。堰の名は野村宗貞の功績を称えて宗貞堰ともよんだ。その後団子新居村の中村六郎右衛門が堰の規模を拡張した。この堰の開削により岩森村(現同上)は慶長古高帳の高98石余が文化(1804~18)初年には高378石余となり、宇津谷村でも慶長古高帳の高698石余が文化初年には1079石余となった(甲斐国志)。文化14年、塩川対岸の中条村で(韮崎市)で新堰3ヵ所を計画したため、用水不足になると反対している(「楯無堰議定書」宮久保区有文書)。訴えた10カ村組合の村々は三之蔵付・宮久保付・岩下村・上野山村(現韮崎市)、団子新居村・宇津谷村・岩森村・菖蒲沢村・大望村・竜地村であった。
大正元年(1912)から改修工事が行われ、同5年に完成した。循無腰は大望で大望堰と合流して竜地溜池に貯水し、下流の潅漑に利用している。
竜地溜池は文化3年溜池設置の許可を得て同年4月起工した。しかし大事業のため遅々として進まず、関係集落が農閑期に夫役を出して30年かけて天保3年(1832)完成した。
池畔にある「石尊大乗妙典」の石碑に「自享和三年癸亥大願成就至天保三年壬辰」とある。この貯水池の水は上流地域の田植前に放出して上流地域の植付けを終え、上流地域の植え付け中は溜池の水だけで下流に配水灌漑している。
現在、堰はコンクリート化され、竜地溜池も近代化されて流量も増し、双葉町の生命線となっている。野村宗貞は天和2年(1682)に没し、墓は宇津谷の法喜院にある。
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