韮崎市歴史上の人物 小野金六
『韮崎市誌』下巻 文芸・芸術所収<山寺仁太郎氏著> 一部加筆
幼名金六郎。嘉永五(一八五二)年八月一八日韮崎町に生まれる。父、小野弥左衛門富郷(通称伝吉)、母、藤井町保坂源兵衛の娘「うら」。小野家は屋号を富屋と称し、酒造業・呉服商を営む豪商で、併せて名主職をつとめる名家であった。長兄は弥左衛門(千萬吉、彼は三男であった。若くして聡明、寺子屋にて漢籍を学び、また甲府の坂本一鳳の門に学んだ。青年時代、若衆名主に推された。一五歳の時、番頭に連れられて、江戸見物に上ったが、この時の見聞が後年、大実業人となる刺戟となった。
家業に精励し、諏訪地方の蚕業を見て、自家に桑園を開き、蚕室を設け、製糸工業を興し、韮崎の後年の製糸業の草分けとなった。また甲州に不足する塩の移入に努力するなどの、発想もあった。
上京
明治六(一八七三)年、志を立てて上京、東京において幾多の辛酸を嘗めたが、その間、栗原信近、渋沢栄一・安田善次郎等の知友を得た。
明治一三(一八八〇)年栗原信近に請われて、第十国立銀行東京支店の支配人として明治二九(一八九六)年まで在職することもあった。勃興期日本資本主義時代の実業人として多くの会社、事業の創立に関与し、自ら、社長・会長となることが多かったが、彼の事業は大別すると、機械製造・鉄道事業・石油・石炭・電力等の基幹産業・製紙・銀行・食品・観光開発に及んだ。基幹産業において、日本鉱油会社を創立し、初期の石油採掘精製に先鞭を附けたことは注目されねばならぬ。九州炭鉱汽船、加納鉱山等にも関係したが、ペルーのカラワクラー銀山に着目したことは、その成否は別として、彼が、国際的視野を持っていたことを実証できよう。炭鉱の開発から当時日本海軍の必需燃料であった煉炭製造のために日本煉炭株式会社の経営に努力した。電力関係においては、桂川電力、東京電燈に関与し、北巨摩においては、小武川電力を創立した。製紙事業においては、富士製紙株式会社を創立、銀行関係においては、第十国立銀行の他、九十三銀行副頭取、東京割引銀行頭取を歴任した。
鉄道事業
しかし、彼が最も力を入れたのは、甲信鉄道の計画から始まった鉄道事業であって、両毛鉄道会社の設立・台湾縦貫鉄道計画、朝鮮の京釜鉄道、小倉鉄道等に関係し、特に、東京市電の前身、東京市街鉄道株式会社の創立は、東京の交通網形成上、極めて意義の高いものであった。
富士身延鉄道
中でも、甲府と静岡を連結しょうとして企図された富士身延鉄道は、彼の最大の事業であって、明治四五(一九三)年、富士身延鉄道会社を創立し自ら社長となった。
富士山麓の振興
また、鉄道事業に関連して、富士山麓の産業・観光開発に早くより注目、この事業は堀内良平の継承するところとなった。
食品事業
さらに食品関係で、東洋製罐抹式会社を大正六(一九一七)年創立して社長となった。彼は、甲州財閥形成の中心人物の一人として、甲州系各種企業の指導者であったと見られる。
文化活動と信仰
反面、後輩の育成に努め、和歌・狂歌を嗜む風流なところがあり、日蓮宗に帰依することも厚かった。
故郷へ
韮崎として忘れがたいことは、大正一四(一九二五)年四月完成して、当時県下一といわれた韮崎小学校講堂を寄附したことである。三万余円の額であったという。
また、彼の遺志をついで嗣子耕一が、県立韮崎中学校敷地を寄附した。
逝去
大正十二(一九二三)年三月十一日没。七二歳。法名「帰正院殿諦観錦麓日通大居士」。従五位勲五等雙光旭日章・頌徳碑は若宮八幡宮にある(資料編「金石文」参照)。
有隣会編集の伝記「小野金六」は昭和三年刊、白瀧幾之助岱揮毫の肖像画は、今も韮崎小学校講堂に掲げられている。<山寺仁太郎氏著>
北杜市偉人伝 大芝惣吉 高根町
『北巨摩郡勢一班』一部訂正・加筆
大柴翁は明治元年9月熱見村村山西ノ割(現高根町)に、大柴治貫の長男として生まれる。
翁は文官として身を起し地方長官正四位勤三等に昇進した。実に君を以て本県の囁矢とする。
天資英敏にして、夙に明治二十三年(1890)、和仏法律学校を卒業。代言人試験に合格。明治法律学校に入り法律を学び、弱冠(20才)にして弁護士試験に及第し甲府に出て業を開く。居ること数年、明治二十七年(1894)弘前区裁判所判事に任官。以後司法官として各地に歴任した。後に方向を転じて行政官となり以後、佐賀県事務官・警察部長、富山県事務官・警察部長、福島県警察部長、同内務部長などを務める。富山県警察部長より福島県内務部長となり、大正二年(1913)には群馬県知事に昇進したが、大正三年(1914)大隈内閣出現と共に罷められ、大正四年(1915)三月、第十二回衆議院議員総選挙で福島県郡部区に立憲政友会から出馬し当選。衆議院議員を一期務めた。大正六年(1917)年十二月、佐賀県知事に発令された。以後、大正八年群馬県知事(第18代:1913~1914 ・第21代:1919~1922))、大正十二年(1922)宮崎県第十七代知事(1922-1923)等の知事に任用せれる。翁は原敬の知遇を受け、政友会の色彩が鮮明で、常に政海の波涛と共に浮沈せざるを得なかった。
大正十四年(1925)十月七一日、郷里に帰り、閉居中俄かに病を得て逝去した。享年五十有五。
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