〔白州の民話・伝説〕馬八節(民謡) 大坊『白州町誌』一部加筆
オーヤレヨ~
田の草取りにたのまれて
行くもいや 行かぬも義理の間の悪さ
戦国の昔、武田家の家臣に黒田八右衛門という者が巨摩郡大坊村の組頭として赴任して、一年足らずでありましたが、当時村小町と呼ばれる美貌の「お定」と呼ばれた、吉右衛門の娘とねんごろになり、二人は恋の闇路をたどっていました。
しかし、八右衛門は別の任地に行かねばならず、身を切るような、悲しい別れをしました。お定は間もなく、一人の男の子を産み落し「馬八」と、命名しました。
その後、お定の情熱はさめやらず、日夜八右衛門に焦がれたが、所詮手は届かず、ついに狂い死してしまいました。
ひとりぼっちの「馬八」は、祖父に育てられ、十五才の時白須村の豪農徳右衛門の馬子として雇われ、一生懸命に立ち働いたので、たいそう可愛いがられました。馬八は馬と唄が大好きで、愛馬の手綱を引いては、米穀を韮崎まで運ぶのが、日課のようでした。
彼は持ち前の美声に物を言わせて、唄いながら街道を上り下りしました。沿道の人々は、馬八の唄を聞くのが、なにより楽しみのようでした。
「カラスの鳴かぬ日はあっても、馬八の唄声を聞きてえもんだ」
と、馬八の来ぬ日は寂しがったといいます。
馬八は母親に似て、美男子そして美声とあって、年頃の娘たちを湧き立たせ、思いを馳せる人たちが多勢いました。
そのうち横手村の名主庄右衛門の娘「お政」の情には、かた気の馬八も、ついほだされて、二人は相思相愛の伸となりました。
二十五才の春、かれは庄右衛門に夫妻にしてくれと頼んだが、頑として拒まれたので、二人は手を取り合って、尾白川の千ケ渕に身を投げてしまいました。
驚いた庄右衛門始め村人は、なきがらをねんごろに弔い、馬八在世中の唄に合わせて、踊りもつくり、追善供養をしました。これが今日唄われている、武川筋の郷土民謡であります。(村のあゆみ)
白州町指定文化財 無形民俗文化財 馬八節(『白州町誌』)
大坊保存会 昭和五六年指定
****「田の草節」から「馬八節」へ ****
平安時代末期~戦国時代、大武川筋一帯は、甲斐源氏の名馬の産地「甲斐駒」の牧の里であったといわれ、武田家の家臣、黒田八右衛門を父とし、大坊村(現白州町大坊)に生をうけた八兵衛は、大の馬好きで、成人して馬子となった。彼は聡明で美声の持主、侮日河原部村(現韮崎市韮崎町)まで産物を馬で運びながら「田の草節」を唄って通った。街道筋の人々は美声の馬子の唄を聞くのを楽しみに名物馬子となった。
いつしか「田の草節」は「七、五、五、七、四」の調べの詩型と独得のテンポとリズムに変っていった。誰いうとなく「馬八節」と呼び、道中唄となった。
それ以来白州町、武川村、韮崎市などで歌い継がれてきた。
昭和五十六年一月に大坊区民を中心として「馬八節保存会」を結成し、
同年八月には白州町文化財保護条例により民俗芸能に指定された。それを機会に「馬八節レコード発表会」も行なわれた。
オーヤレヨー 大川端で ハッコーラ
葦よ刈れば 葦やあなびく
よしきりや ないて
ハッコーラからまる
オーヤレヨー 馬八や馬鹿と ハッコーラ
おしやれども 馬八の唄聞く奴は
ハッコーラ なお馬鹿
オーヤレヨー 韮崎出ては ハッコーラ
日の七つ 白須へな 着いたが夜の
ハッコーラ 九つ
オーヤレヨー わたしの生まりゃ ハッコーラ
入り大坊 薮の湯へ 来たらお寄り
ハッコーラ くだされ
オーヤレヨー 新田大坊 ハッコーラ
江戸なれば さしやあたり 油屋前は
ハッコーラ 吉原
オーヤレヨー わたしのうまりゃ ハッコーラ
入り大坊 朝起きて かぐらの山を
ハッコーラ
民謡緊急調査報告『山梨の民謡』手塚洋一氏著
(山梨ふるさと文庫 一九八七)
ここに山梨県教育委員会が昭和五八年に行った、民謡緊急調査報告『山梨の民謡』手塚洋一氏著(山梨ふるさと文庫 一九八七)に収録されている「馬八節」を紹介する。また類似の囃子を持つ「田の草取り」も合わせて紹介する。
八、馬八節
オーヤレヨ一 馬八や馬鹿と
ハコラ おしゃれども
馬八の 唄聞く奴は
ハコラ なお馬鹿
わしの生まれは 入り大坊
藪の湯へ
来たらお寄り 下され
雨降り空だ お急ぎあれ
韮崎へ
はよつけ諏訪の 馬方
田の草取りに 頼まれて
行くも行かぬも 義理の悪さよ
大川端で 葦よ刈れば
葦やなびく
葦切や鳴いてからまる
田の草取るは 暑けれど
秋作が
当たれば銀の かんざし
嫌がるとこへ 親がやる
やらばやれ
お命や川の 瀬に住む
五月がくれば 思い出す
お色子は
水かけ論で 討たれた
①入大坊……旧駒城村。現白州町大坊。
②薮の湯……鳳凰山の北麓、大武川畔の鉱泉。大坊の南にあたる。
③韮 崎……旧河原部村表韮崎市韮崎町。韮崎は峡北地方の物資の集散地と
して栄え、特に天保年間に舟山河岸が築かれて富士川舟運がこ
こまでのびると、米、塩、雑貨等の輸送の拠点となり、ここから
諏訪・佐久方面へ陸路運送された。
「馬八節」は、馬子の通称「馬八」によってはじめられたものといわれ、旧駒城村(現白州町と武川村の一部)が発祥の地といわれる馬子唄である。
馬八の出自については、次の様な伝説がある。
彼はこの地方の代官と豪農の娘との間に生まれたが、故あって父は故郷を 出奔し、母はそれを苦にして狂死してしまった。天涯の孤児となった彼は、成長して馬子となり、活計を立てた。
「馬八」は通称で、馬子の八なにがしの名をこの様に略して呼んだものという。天与の美声に恵まれた彼は、この地方の物資の集散地である韮崎宿との間を、馬を索いて往復しながら、唄によって無聊を慰めた。人々は誰いうとなく彼の唄を「馬八節」と呼ぶようになったという。そのうち、彼の美声に心ひかれた横手村の庄右衛門の娘お政と恋仲になったが、代官の手代助定のために邪魔をされ、愛馬「しののめ」は毒殺され、馬八も大武川畔で刺殺された上、死体は激流に流された。
これをはかなんだお政は、馬八の後を慕って自ら大武川に身を投じたという。
民謡研究家町田嘉章は、日本放送協会編『日本民謡大観』の中で、「馬八節」を紹介し、
「この唄は、最初馬子唄として登場した訳だが、広く国中地方へ進出するに従って『田の草取り唄』に転用されることになったらしく、この方面では『馬八節』として田の草取りの歌詞が多く採集される」
とし、
さらに
「この唄は甲斐独特の、 オーヤレヨー という諷い出しで出る七五五七四という詞型を持つ歌群の中の最も古い曲であるかも知れない」
といっている。
「田の草取り唄」を「馬八節」の発展とみるこの説は、その後の山梨の民謡紹介誌に踏襲され今日におよんでいるが、昭和五十六年、五十七年の二年にわたって行われた民謡緊急調査によれば、この考え方は検討を要する様である。
椎橋好がその著『甲斐民謡採集』(昭和十一年刊)の中で指摘しているとおり、「馬八節」は「追分調の馬子唄と異なって悠長な独特な調7丁を持っている」もので、国中一帯から河内にかけて広く伝承されている「田の草取り唄」「田植唄」「草刈唄」と呼ばれる唄との共通点が多く認められるものである。
しかし、両者の関係は、「馬八節」が「田の草取り唄」に発展したのではなく、事実はその逆で、古くから甲州で歌われていた労作唄を、馬八が、いわゆる「馬八節」に仕上げたのではないかと思われる。
この度の調査によれば、
一、「田の草取り唄」が国中・河内と広範囲に伝承れているのに対し、「馬八節」
の伝承は駒城村を中心に武川筋の一定範囲に限られていること。
二、特に、その北限が白州町の流川(釜無川の支流)を境に、南の荒田地区で
は「馬八節」を伝え、北の下教来石では「馬八節」と称しながら「田の草唄」
の曲節を歌っていること。
三、馬八なる人物は、前掲の伝説とは関係なく、江戸時代末頃実在した人であるといわれていること。
等のことが明らかであることから、前述のように考えた訳である。
この唄の発祥の地白州町の白州中学校では、採譜・振り付けを行い、生徒たちが伝承につとめている。
- 参考資料
民謡緊急調査報告書『山梨県の民謡』山梨県教育員会 昭和五八年
「馬八節」に類似する「馬八節」「田の草取り唄」
- 馬八節(その一)
通称・異称 田の草節
伝承地 北巨摩郡白州町下教来石
オーヤレヨ一馬八や馬鹿とコラおしゃれども
馬八の唄聞く奴は エーコラ まだ馬鹿だ
藤田の稲荷や田圃なか
下教の氏神様は宿のなか
表じゃ太鼓 裏じゃ三味
中の間じゃ 忠臣蔵の三段目
巡礼娘 国ほどこ
国や四国 生れは阿波の徳島よ
律気な女 初花は
勝五郎車に乗せて箱根山
〔文註〕昔から北巨摩、中巨摩地方の田方(稲作地帯)でうたわれた田の草取り唄が元唄である。嘉永年問(一八四八~一八五四)山高村の馬子馬八がうたってから道中唄となったという。
- 馬八節(その二)
伝承地 白州町荒田
コラオーヤレヨ 馬八や馬鹿だ コラ仰やれども
コラ馬八の唄聞く奴や コラなお馬鹿
田の草取りに頼まれて
行くも厭行かぬも 義理のまの悪さ
大川端で葦よ刈れは
葦あなびく 葦きりや 鳴いてからまさる
- 馬八節(その三)
伝承地 武川村柳沢
武川村山高
コリヤオーヤレヨー
私の生れや入大坊
薮の湯に来たら お寄り下され
アーゴツション アーゴツション
田の草取りに頼まれて
行くも嫌行かぬも 義理の悪さよ
馬八や馬鹿と おしゃれども
馬八の唄聞く奴は なお馬鹿だ
田の草取りは 暑けれど
秋作が当れば 銀のかんざし
私や縁なくて 出て行くが
姑さん又来る 嫁と仲よく
大川端で 葦よ刈れは
葦あなびく葦きりや 鳴いてからまる
オーヤレヨ一 馬八や馬鹿と
コリヤ おっしゃれども
馬八の唄きくやつは コリヤなお馬鹿
田の草取にたのまれて 行くもいや
行かぬも 間の悪さ
大川端で 葦よ刈れば
葦あなびく よし切りや 鳴いてからまる
韮崎の宿は 馬糞宿
雨降れは 馬糞の水で まゝを炊く
御嶽は三社杉の森
中条の新府様は 松の森
- 馬八節(その四)伝承地 峡北地方 韮崎
演伝
〔文註〕馬八という馬子によって唄い出されたという。元唄は田の草節である。馬八が馬を追いながらうたったので道中唄と変化した。おそらく弘化、嘉永の頃からと思われる。
- 馬八節(その五) 伝承地 中巨摩都白根町
- オーヤレヨ一馬八ア馬鹿だと
コラおしゃれども
馬八の唄きく奴は コラなお馬鹿
大川端で 葦オ刈れば
葦アなびくよしきりや鳴いて からまる
下高砂のお政女は かつがれて
役所となりて もめやす
- 「田の草取り唄」
- 甲府市相川町・中巨摩郡甲西町
オーヤレナー
田の草取りは オーヤレ 暑けれど
秋作あたれば オーヤレ 銀のかんざし
- 南巨摩郡増穂町
- ヤレヤレヨー
田の草取りに頼まれて
いくもいや
いかぬも義理の悪さよ
- 中巨摩郡櫛形町
ヤレヤレヨー
田の草取りに ドッコイ 頼まれて
いくもいや いかぬも義理の ドッコイ 悪さよ
いかぬも義理の ドッコイ 悪さよ
- 武川村山高
- オーヤレヨー
田の草取りに頼まれて
行もいや 行かぬも義理の悪さよ
ソリャマコト 行かぬも義理の悪さよ
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