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白州町白洲氏の祖先調査報告

2020年12月13日 07時12分54秒 | 白州町見て聞いて

白州町白洲氏の祖先調査報告
白須蔵人(白須村)消息 〔甲斐国志〕

白須(白洲)は一蓮寺過去帳に法名「老阿」長禄元年(1457)十二月廿八日「小河原合戦」の討死の内に見える。その他は名を全く記してないので挙げない。
太平記観応三年(1352)の条「甲斐諸将」の中に「白州上野守」あり。軍艦(甲陽軍艦)長篠の役に展厩信豊も馬乗はただ三騎、襲い掛かる敵を追い払い、追い払いながら退却したと伝わる。
『武田系図』に「甲斐守信長―信綱―時信-貞信(白須次郎)」とみえる。
「伝解」(甲陽軍艦伝解)に白須又市、青木主計、横手源七三騎あり、始めの返しに青木主計は討死するとある。自須平次は即ち(白須)又市の男(息子)。竹王信勝(武田勝頼の息子)の小姓なり。
「武家盛衰記」に壬午(天正10年、武田家滅亡)の後幕府に仕えたが、小姓衆と口論して御旗本を辞める。
稲葉蔵人道通に見出され、名を白須又兵衝とあらため、後に家老となる。

〔筆註〕白須又兵衛を召した稲葉 道通(いなば みちとお)

○ 生まれ、元亀元年(1570年)~歿 慶長12年12月12日(1608年1月29日))
○ 戦国時代の武将。江戸時代前期の伊勢岩手藩の第2代藩主。伊勢田丸藩の初代藩主。
○ 稲葉重通の四男。
○ 1593年、長兄の牧村利貞(牧村政倫の養子)が死去した後、その実子である牧村牛之助が幼少だったため、その後を継いで岩手藩主となり、2万300石を領する。
○ 1594年、伏見城工事で功績を挙げたことから、豊臣秀吉より5700石の加増と、豊臣姓を下賜された。このとき、叙任もされている。
○ 1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して、分部光嘉や富田信高らと共に九鬼嘉隆(西軍)と戦った。道通は嘉隆と仲が悪く、木材の海上運送税などについて争っていたのである。
○ 戦後、その功績により2万石を加増されて、伊勢田丸に移されて、その藩主となり4万5700石を領した。しかし、長兄・利貞の遺児である牛之助が15歳に成長しても家督を譲ろうとせず、実子の紀通に譲ろうとしたため、牛之助が不満を抱く。このため、道通は刺客を送って牛之助を殺害した。
○ しかしその事件から間もない1607年12月12日、伏見で死去し、後を子の紀通が継いだ。墓所:京都妙心寺の雑華院。享年38。
○ なお、稲葉氏は紀通の代に謀反の疑いをかけられて断絶した。
関が原の戦い時、勢州岩手に於いて「九鬼守隆の堤荘蔵」と戦って功あり。
同藩種田喜左衛門の二男金三郎を婿養子にして「白州十郎兵衛」という。食禄五百石を録する。
慶安中、稲葉紀通の家は断絶。白州の子孫は豊州臼杵藩にありという云々。後に白須十兵衝と云者あり。
〔筆註〕
臼杵藩(うすきはん) [ 日本大百科全書(小学館) ] 

豊後(ぶんご)国海部(あまべ)郡臼杵(うすき)(大分県臼杵市)に藩庁を置いた藩。藩主稲葉氏。外様(とざま)。
1593年(文禄2)豊後一国を支配した大友義統(よしむね)の除封後、福原直高(なおたか)(6万石)が臼杵に入ったが、
1597年(慶長2)直高は府内に移り、かわって太田一吉(かずよし)(3万5000石)が臼杵に入った。
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いが起こると、西軍に属した一吉は豊後岡の中川秀成(ひでなり)に攻め落とされ、このあと美濃(みの)(岐阜県)八幡城主稲葉貞通(さだみち)が同戦の戦功によって海部、大野、大分3郡に5万0060石余を与えられ臼杵に入った。
(このときに、白洲十兵衛も同行したと思われる)
稲葉貞通のあと典通(のりみち)、一通(かずみち)、信通(のぶみち)、景通(かげみち)、知通(ともみち)、恒通(つねみち)、董通(まさみち)、泰通(やすみち)、弘通(ひろみち)、雍通(てるみち)、尊通(たかみち)、幾通(ちかみち)、観通(あきみち)、久通(ひさみち)と15代続き、廃藩置県に至った。
正徳(しょうとく)(1711~16)ごろから藩財政が窮乏し始め、1811年(文化8)には大野郡三重郷から百姓一揆(いっき)が起こって領内に広がり、1830年(天保1)には借財が26万両に達した。このため翌年、家老村瀬庄兵衛(しょうべえ)を総元締として天保(てんぽう)の改革を実施、いちおうの成果をあげた。
1871年(明治4)7月廃藩、臼杵県となり、同年11月大分県に統合された。

 


白洲上野守

白須(「角川日本姓氏大辞典19山梨県」)

白須しらす白洲・白数とも書く。
巨摩郡郡白須之郷(北杜市白州町)発祥の族は清和源氏義光流武田氏族という。『武田系図』に「甲斐守信長―信綱―時信-貞信(白須次郎)」とみえる。
『太平記』によれば観応3年(1352)3月足利尊氏が武蔵府中で新田義貞と戦ったときに、武田信武以下甲斐の諸将が信武に従って尊氏方として参陣したが、そのうちの一人に白洲上野守がみえる。
『一蓮寺過去帳』に白洲蔵人がみえ、長禄元年(1457)12月武田一門と跡部氏が戦った小河原合戦で討死したとある。
○ 『甲斐国志』には、岩殿の円通寺(大月市)棟札に白洲信重、巨摩郡宮原村(甲府市)の鎌田八幡宮の天文五年(1532)の棟札に柁那中島(河東中島、昭和町)の住人白須神左衛門の名がみえる。

○ また、天正3年の長篠の戦では、武田信豊の配下に白須又市がおり、子供の平次は武田信勝の小姓であった。平次は『甲斐国志』所収の『武家盛衰記』によれば、武田氏滅亡後徳川家康の小姓として仕えたが、ほかの小姓衆と口論して家康のもとを離れて稲葉道通に仕えた。白須又兵衛となのり、のち豊後臼杵(うすき)藩稲葉家の家臣として続いた。

『寛政譜系譜』白須氏

『寛政譜系譜』には幕臣として白須十兵衛道政を祖とする、二家があり、白須貞信の後喬という。
道政系は1050石取りの旗本であった。天正起請文には廿人衆のうちに白須伝兵衛がみえる。
甲斐にはもう一つ別系の白須氏がある。
「下吉田村落史」所収の、「白須家系図」によれば清和源氏満仲流を称し、武田信玄の重臣馬場信房の子政信が都留郡下吉田村(富士吉田市)の新屋敷に居住して白須平太郎となのり大正一七年に死去、子には政豊(小太郎)・政春(小治郎)がおり、母は小林和泉守の娘であった。政春の子弥左衛門は下吉田村の名主を勤め、弟の白須小兵衛の子は渡辺家の祖となった。

『峡中家歴鑑』
に載る南都留郡瑞穂村吉田(冨士合田市)の白須孝一家の先祖は白須刑部少輔政義であるが、遠祖については、多田満仲五代の子孫という兵庫頭仲政が馬場を称し、孫の中宮少左衛門尉兼綱が白須郷に来住したのがはじめで、政義はその孫で白須に在住した馬場信房の次男で、分家しで、瑞穂村吉田に移り白須をなのったといい、武田晴信・勝頼に仕えたのち、徳川氏に従い小田原合戦で戦死したと伝える。県内、160戸、富十吉田市に多い.【割菱・丸に違い鷹の羽・亀甲の内輪遠い】

『甲斐国志』白須蔵人の項(読み下し)

 (略)ある説によると、武田滅亡後武川筋に白須某という者が居た。貧乏で刀も売り払いながらも何時も甲府中に出で、あちこちと身を寄せていた。ある時、その方の人々三四人、自須氏を誘い京師(京都)に遊びに出かけた。
相知る人が居て、白須氏を見て驚きて云いました。
「あなたは直ぐに甲斐国に帰りなさい。帰国後三十日を過ぎ必ず大きな幸いあります。近頃あなたのような富責の相を見たことがありません。若し違ったら、私が責任を取ります」といった。人々は誰も信用せずに大笑いをした。
しかし奇跡は起こり、白須某氏が国に帰って程なく江戸より召す人があって、使いを遣して白須氏を迎えた。白須氏と友人は旅仕度をして、江戸へ赴き某家に仕官できた。人々は京都であった出来事の確かなことに驚いたという。

 

白洲家について(文化事業案内−伊丹市) 一部加筆

白洲家は、遠く清和源氏の流れを汲み、山梨県北杜市白洲町白須が父祖の地とされている。このあたりは尾白川が運んできた土砂による扇状地で、花崗岩が風化した白砂による「洲」ができたことから「しらす」という名がついた。
鎌倉時代の歌集「玉葉集」に次のような歌がある。 

うらとほきしらすの末のひとつ松 またかげもなくすめる月かな 
藤原為家

武田信玄以前の傍流に武田貞信という人物がおり、白洲と名乗ったのが白洲家の始まりと思われる。
のちに天橋立で有名な丹後の加悦町(京都府与謝郡加悦町)の城主におさまる。 
時代は下って江戸時代中期、子孫の白洲文蔵は尾張徳川家に仕え、軍学、書道に通じた。
後、浪人となって江戸へ赴く。
やがて三田藩江戸留守居役の推挙により、儒官として三田藩(九鬼家で戦国時代の九鬼水軍の末裔)に招聘される。

白洲次郎氏の祖父退蔵氏(箇条書きに訂正)

白洲次郎氏の祖父退蔵氏は幕末の文政12年(1829年)に三田藩内の薬師寺町に生まれる。
長じて藩校の「造士館」の教授に就任している。アメリカの黒船が浦賀沖に姿を現したとき、幕命により漁民に変装して黒船に近づいて情報収集を行っている。 
一方、当時の三田藩の財政状況は危機的状況で、負債総額約20万両に対して、藩の金庫にはわずか30両を余すのみだった。そんな中、祖父の白洲退蔵は藩財政の窮状を打開するべく、改革に着手。
全国的に有名な三田牛(神戸牛)も、この白洲退蔵が飼育を奨励しました。
明治元年(1868年)、白洲退蔵は大参事(家老職に相当)に就任し、新政府における三田藩の地位向上に努める。
やがて、慶応義塾創立者の福沢諭吉と深い関係をむすぶ。
のちに白洲退蔵は、三田藩の殖産興業化に成功を収め、三田米を使った醸造事業を興し「牡丹正宗」という銘柄を作り、この酒が高い評判をとったことで、三田米の価格も上がり、藩庫は大いにうるおったといわれています。
福沢諭吉の慶応義塾が財政的に立ち行かなくなったとき、これを支えたのが白洲退蔵や三田藩主の九鬼家であった。 
明治4年、廃藩置県により三田藩主の九鬼隆義は三田藩知事の任を解かれ、神戸市花隈四ノ宮通りに「宜春園(ぎしゅんえん)」と名付けた屋敷を購入し、父祖の地、三田を離れている。白洲退蔵も九鬼隆義の屋敷近くに居を構えた。
明治5年、元藩主の九鬼隆義を筆頭にして、三田旧藩主16名で神戸市栄町5丁目に「志摩三商会」という貿易会社を、福沢諭吉の助言もあって設立。白洲退蔵が社長として辣腕をふるうが、事業が軌道にのると経営から離れる。
やがて明治13年兵庫県初代県会議員となりました。前後するが、明治8年、白洲退蔵は自分の屋敷の一部を提供して、学校創立に協力。これが現在の神戸女学院である。白洲退蔵の長男が、白洲次郎の父、文平(ふみひら)であります。

祖父、白洲退蔵氏(1829―1891)

三田藩儒官白洲家に生まれる。
白洲退蔵 は1829年(文政十二年)七月十五日、三田に生まれている。
白洲家は代々藩の儒官であり、父の文五郎は当時、藩校造士館教授を務めていた。
退蔵は1845年(弘化二年)、藩から勤学料として年十両を与えられ、大坂の儒者篠崎小竹(1781―1851、寛政の三博士の一人である古賀精里の弟子。)について学ぶ。
後、江戸の古賀謹堂(1816―84、古賀精里の孫。幕府の外交に従事した。)について儒学を修めた。
三田に帰ってからは、父の後を継いで造士館教授に就任し、1860年(安政七年)、百三十石を与えられている。 
彼は1854年(安政元年)一月十五日、藩命を受け、浦賀沖に来航した黒船に庶民の姿に変装して近づき情報収集を行っている。
藩政に参画、九鬼隆義の偉さは、彼が藩主になった時、退蔵の人柄と学識に感銘を受け、自ら下座に降りて師の礼をとったことでも窺えるが、その一方で、退蔵その人も相当の人物であったことは容易に想像がつく。 
1863年(文久三年)、退蔵は隆義に懇請されて藩政に参画。最初は郡奉行として、財政再建・治水事業といった難問の解決に全力を投入した。 

 明治維新後の退蔵

1868年(明治元年)には大参事(従来の家老職に相当)となり、戊辰戦争勃発を機に三田へ戻っていた川本幸民を師として藩士に洋学を学ばせ、一方で、福沢諭吉が三田藩のブレーンであったことから、九鬼隆義の意向もあり彼の啓蒙書 を大量に購入。郷学で学ぶ若者達に頒布するといったこともしている。
1869年(明治二年)の廃藩置県に際しては、武士の帯刀 を止めさせるべく、隆義を通じて廃刀令の採用を政府に上申 したりもしている。この種の上申を行うことが当時にあって命懸けであったことは、退蔵がこのために京都で命を狙われたことでも判るであろう。 
廃藩置県後、退蔵は新政府から民部省への出仕を打診されるが、この時は福沢諭吉の教えに従って官吏の道を選ばず、九鬼隆義・小寺泰次郎らと神戸で志摩三商会を起こしている。
1880年(明治十三年)には兵庫県会初代議員となっている。 
1882年(明治十五年)八月には、九鬼隆義と福沢諭吉の推薦もあって、横浜正金銀行(後、東京銀行と改称。現在の東京三菱銀行。)の官選取締役副頭取。
明治十六年一月には頭取になっている。
その後も大蔵御用掛に抜擢されたり岐阜県大書記官に就任したりする。
明治二十三年、突然職を辞した。公務の傍ら旧主九鬼隆義の家宰 も勤めており、こちらが忙しくなったためである。 
1891年(明治二十四年)一月二十四日に九鬼隆義は他界するが、退蔵はその間寝食を忘れて看病したという。
看病疲れからか退蔵自身も体調を崩し、同明治二十四年九月一日に発病。二週間にも満たないわずかな闘病生活の後、隆義の後を追うようにして同月十三日死去している。享年六十三歳。儒学者に相応 しく、主君隆義公への忠義を貫いた一生であった。 
白洲文平氏(白洲退蔵の子、次郎氏の父)
白洲退蔵の子文平は、多くの伝説を残す豪傑(変人?)だった。
彼は明治学院の前身である東京築地英語学校を出た後、ハーバード大学とドイツのボン大学に留学。留学中、終生の友人となる池田成彬 (1867―1950、後の三井合名常務理事、日銀総裁、大蔵大臣。)と出会っている。
帰国後三井銀行に入行し、後に鐘紡に移った。しかし結局、サラリーマンは性に合わなかったようだ。上役の奥さんが何かの拍子に文平に対し、『お前さん方は…』と言ったのに腹を立て、『家老の息子にお前さんとは何事か!』と憤然退社を決意。
独立して貿易会社白洲商店を始めた。会社は一時、綿貿易で大成功する。(当時、綿貿易は我が国に大きな利潤をもたらしていた。
白洲商店では当時、『二十世紀の商人白洲文平』と大きく書かれた番傘を使用していた。また文平自身、『白洲将軍』と渾名されていたという。 
建築道楽で家に大工を住まわせ、次から次へと家を建てた。阪神間には『白洲屋敷』なるものが多く残っているそうだ。そして最後に建てたのが伊丹の大邸宅で、四万坪もある敷地には、美術館(コロー、モネ、マティス、ピカソなどがあった。)あり、牡丹畑ありという贅の限りを尽くしたものであった。 
破産の憂き目に遭う。1828年、大恐慌の一年前のことである。 
破産した文平はその後、阿蘇山麓に細長い四階建ての家を建てて移り住んだ。寝室のベッドの下には用意のいいことに棺桶 が収納されていた。文平はこの家で息を引き取ったが、彼の死は掃除のために近所の農家のおばさんが来るまで誰も気づかなかったという。生前、戒名も葬式も不要だと言い残していたという白洲文平らしい死に方だった。 

白洲次郎氏略歴(1902―1985)

文平の次男で、吉田茂(1878―1967)の懐刀としてサンフランシスコ日米講和条約締結の影の立役者となったのが、1902年(明治三十五年)三田に生まれた白洲次郎である。白洲退蔵の家系は、孫である白洲次郎に至って花開いた。
神戸一中時代の次郎の同級生である今日出海(作家・初代文化庁長官)は『野人・白洲次郎』というエッセイの中で親しみを込め、白洲の特徴として(背が高い・訥弁 (少々どもったらしい)・乱暴者・短気)の四点を挙げている。 
1902年(明治35年)
2月17日、現在の兵庫県芦屋市にて誕生。
1914年(大正3年) 
神戸一中入学。
白洲次郎は神戸一中を卒業した形跡がなく、退学して海外に行った可能性が高い。
1919年(大正8年) 
この頃、イギリスに渡航。
1924年(大正13年)
ケンブリッジ大学入学(翌1925年卒)。
ケンブリッジで次郎は終生の友と出会う。それは七世ストラトフォード伯爵である。
1928年(昭和3年) 
父、白洲商店倒産。この頃、帰国。
十年間の留学生活にピリオドを打って、次郎は1928年(昭和三年)に帰国した。
1929年(昭和4年) 
ジャパン・アドバタイザー入社。
11月19日、正子と結婚。この頃、吉田茂と知り合う。
帰国直後に樺山正子と出会い、翌昭和四年に結婚している。
次郎は正子と結ばれたことで、吉田茂との運命の出会いを果たした。 
1931年(昭和6年)
2月5日、長男春正誕生。セール・フレイザー商会入社、取締役となる。
この頃から頻繁に渡欧。
1937年(昭和12年)
日本食糧工業(後の日本水産)取締役就任。やがて取締役外地部長となる。この頃、近衛文麿と知り合う。
1938年(昭和13年) 
1月3日、次男兼正誕生。
1940年(昭和15年)
6月3日、長女桂子誕生。
1942年(昭和17年) 
この頃、日本水産を退職し帝国水産理事就任。この頃、南多摩群鶴川村(現在の町田市)にて農家を購入。
1943年(昭和18年)
この頃、鶴川村へ転居(=武相荘)。
会社勤めは太平洋戦争勃発の一年前にやめ、町田市鶴川に居を構えた。そして、専業農家になろうとするかのように、一生懸命農業に打ち込む毎日を送っている。
1945年(昭和20年)
終戦連絡事務局参与に就任。
1946年(昭和21年) 
2月、日本国憲法制定作業に参加。
3月1日、終戦連絡事務局次長に就任、高等官一等となる。
12月、経済安定本部次長に就任。この頃、読売争議に介入。
1947年(昭和22年) 
終戦連絡事務局次長を退任。
1948年(昭和23年) 
12月、貿易庁長官に就任。
1949年(昭和24年) 
5月24日、貿易庁長官退任。
翌25日、通商産業省設立。この頃、日本製鐵広畑製鉄所の外資売却問題騒動。
1950年(昭和25年) 
4月25日、吉田茂首相の特使として訪米。この頃、アメリカ大使就任の話が出るが頓挫。
この頃、旧日本軍播磨造兵廠払い下げ問題。
この頃、日本輸出入銀行設立に奔走。
1951年(昭和26年)
5月1日、東北電力会長就任。9月8日、サンフランシスコ講和条約調印に立ち会う。この頃、「日本のラスプーチン」など白洲バッシング多数。
1952年(昭和27年)
軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任。
11月19日、外務省顧問に就任。吉田首相の特使として欧米視察。
1953年(昭和28年)
2月、吉田首相の特使としてヨーロッパ視察。吉田の命を受けてチャーチルに面会しようとしたが果たせず。
1955年(昭和30年) 
旧日本軍四日市燃料廠払い下げ問題。
1959年(昭和34年) 
4月10日、東北電力会長退任。
1966年(昭和41年) 
東京赤坂に転居。
1982年(昭和57年) 
2月、軽井沢ゴルフ倶楽部常任理事に就任。
1985年(昭和60年)
11月28日、死去。

白洲次郎と正子は、退蔵の墓がある心月院の白洲家墓地に二人仲良く並んで眠っている。白洲家の墓はおよそ百坪の墓域に、整然とL字形に墓碑が並んでいる。元は兵庫県下の各地に分散していたものを、次郎の母親が探し出して一つにまとめ改葬したものである。 
次郎と正子の墓碑は一風変わっている。昔の板碑を象った五輪塔の形をし、次郎の墓碑には不動明王が、正子のそれには十一面観音が彫られている。これは正子のデザインによるものだ。正子の十一面観音は自著で題材にしたことがあるからであるが、次郎の墓碑が不動明王であるのは白洲次郎その人に似ているからだそうだ。泉下の白洲次郎はきっと苦笑しているに違いない。

郷社 白須若宮八幡神社
所在地 白須字南坊田一五九八番地(道の駅はくしゅう北)
祭神 仁徳天皇 神功皇后・応仁天皇
由 緒
社記に因り光厳院、北朝の御宇に(1331~33)勧請したとあるけれども創立の年代は明らかではない。「甲斐国誌志」黒印三石三斗、社地一千坪除地、神主屋敷四畝二十歩。武田氏世々尊敬浅からず、永禄年中(1558~1569)馬場美濃守信房「宮原」より今の地に遷し、白須刑部少輔政義、神主石田菅蔵と心を合わせ修造する。 
と載せてある。馬場氏・白須氏等の寄進であるともいわれる。

 


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