歴史文学さんぽ よんぽ

歴史文学 社会の動き 邪馬台国卑弥呼
文学作者 各種作家 戦国武将

源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著 五月五日は石くらべ

2024年07月25日 18時13分57秒 | 歴史さんぽ

源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著

 

五月五日は石くらべ

 

京は五条の橋の上で、ピイピイ笛を次いでいた牛若丸を、遠く陸奥の国へ伴っていったのは、「金売り吉次」ということになっている。

 いまの感覚でゆくと、<金売り>ときけば「売るほど金をもっている男」つまり、金融資本の大財閥のように、勘違いしたくなる。

 だが、これは吉次の名の現われる出典が、当時の関西出版。京の六道の辻にたむろしていた当時の文筆業者によって、京を中心に視点を当てたから<金売り>であって、陸奥の国からみれば、吉次は金仕入れ業、金の奴売りである。

 なぜかというと吉次は、人問の多い京からそれをもってゆき、東北からは引換えに金を需要ありそうな京へもってきていたからである。

 それに、ことさら金の文字を使ったのも、現代の人には可笑しいだろうが、これは当時まだ装飾用などに僅かしか使われなかった金という鉱物のPRだったのである。

<六道>は京へ入る六つの街道のことで、六地蔵の党とも呼ばわれ、税関のかたわら諸国の珍しい話も耳に入ってきたから、『義経記』をはじめ、今日伝わっている謡曲の原本は、みな、これらの徒によって執筆された。

 だが、書いていたばかりではなく、一条関白兼良の『尺素(せきそ)往来』などには、

 「六地藏之党、例のごとく印地を企て、喧嘩を招き侯は、洛中鼓騒に及ぶべしと、侍所より、警固のため人数を派出す」と出ているように、印地打ちつまり投石をして、当時の機動隊を出勤させるぐらいデモってもいた。つまり、『義経記」などといった物は、関を守っている彼らがゲバ活動をしてない時には、退屈しのぎに、「これこれ何んぞ珍しい話はないかや」と旅人から地方の話を聞き出し、それを現代でいえばニュース源にして、筆でかきとめ、「何んぞ面白い話があったら教えて下され、これから諸国へ参りますのに、話の種を何んぞ仕入れて行かんことには、人集めするのに困りまする」

 と、この時代の歩き巫女、鉦たたきといった唱門師の者が、銭を貰いに旅興行にゆく時には、この関所へよって、若干の銭を払って話を聞いていったり、書きとめたものを買っていたのが、その原形であるらしい。

 もちろん『義経記』などは、のちに謡曲となってゆくが、そうした説話によって銭貰いしていた者たちは、「でろれん祭文」「ちょぼくれ」[辻講釈の売講子(師)」[軽口」といった形態で千年後には、浪花節、講談、落語といったタレントに昇華したし、ニュース専門にかき集めて報道していた方は、これまた今では、

 「時事解説者」といった風にも変ってきている。

 

 しかし、これは十世紀前の源平時代の話。

 とても竿一本の原稿料では介してゆけないから、関所番をしていた。つまり洛北白河に、院地があって、そこの者が六道衆で、筆もとったが、当時の飛び道具の投石である礫うちもした。

 「印地を企てる」とか「院地うち」というのは投石のことだが、「印形を結ぶ」とか「院形をつける」とは後年の、忍術の形式にもなる。

 だからこれは余談だが、今でも三何の岡崎城へ行くと、三層の壁に、幼い家康が背負われ安倍川原で、石合戦を観戦してる街場面が掲げてあり、

 「いつの頃より始まりしや、謂われは知らざれど、年中行事の石合戦を御覧あって、人数すくなき方を指さし(彼方こそ勝ため)と仰せあり、やがて、その通りになる。神君いまだ幼少なりと雖も、その深慮にみな感嘆す」

 と、とぼけた説明が貼ってあるが、家康こそ、この部族のエリートだし、風采で院地者は一目黙然だから、プロの方が、人数に関係なく、勝味のある事は誰でも判る筈である。

 さて、この院地打ちの発端は、義経にあるとされている。それは、『義経記』にも、土佐房が堀川を襲撃の時、

「白河のいんじ五十人を案内となし……」

 と出ているが、その後、彼の死が伝わると、判官贔屓の者が、口惜しがって肛をたて、

「おのれ、憎っくきはいんじの者共……」

という事になって白河口へ押しよせ、石を投げこんだから、それに応戦するため院地の者達も投げつけあって石合戦が始まったと謂うのである。

 そもそも、院地というのは

「やまとの国は、女ならでは夜もあけぬ国」

といわれるように、

「邪馬台国の卑弥呼女王陛下」

のごとく、或いは天照大神のごとく、女神を崇び、女帝を立てていた原住民族を、大陸からの男作女卑の人種が、次第に侵略してきた事がら始まる。

 八世紀の頃になると、紀ノコサミ将軍の五万の兵を、秋田のアクマロ夫人の指揮する和製ベトコンの女兵が、ゲリラ戦によって捕捉全滅させるごとく双方とも激化した。そしてその当時はまだ首を獲る風習がなかったから、人体に露出した部分を切断してこれに換えた・

 そこで箱根の山をこえ進撃してくる女軍に、戦慄した進駐政権の男どもは、山背の国の嶮、長岡京へ都を移し、海外に救援をもとめた。

 当時まだアメリカはなかった。そこで延暦十年(791 一月十八日。朝鮮の百済王俊哲が国連軍司令官として、唐やシャムロ(現在のベトナムから秦国)の聯合軍をひきい進駐したが、イソドネシアの女共産党員がしたみたいに、体の部分切断されるのを恐れ、彼らは、巡察に当っては露出を警戒し布で防護した。

 よって、この軍用布は「禅」と呼ばれ、和製漢字の第一号である。

 そして、この進駐軍はシャムロ人が多かったらしく、今でも北海道のアイヌ族は、内地人は「シャムロ」と呼んでいる。なお、この時、彼らが食用に持ちこんできた軍用鳥が、後年、闘鶏用に飼われている軍鶏(シャモ)である。当時の彼らの根拠地が、今の川内なので、同地では現在でも「シヤモのかけあい」つまり闘鶏が盛んである。尚、紙幣の藤原鎌足や聖徳太子がもっているのが「シャク」で、これに文字をかきこんだので「杓文字」といわれ、戦地では飯盛りに使ったからこれが今の[シャモジ」の語源という話もある。

 またその大小から後年の[爵位」は発祥する。

 

 さて、進駐軍の武力によって原住民の巾の尖鋭分子を柿兇、国内二千有余の山間僻地の捕虜収容所へ送りこんだものの、また反乱されて、陽物を切り取られては難儀するから、占領政権は、和製ベトコン人民に対して、初めは食料衣服を提供した。これは、「延喜式」の中に詳細に記録が残っている。後は、年貢課役免除をもって、懐柔策をとった。

 だから、比較的生活の楽な彼らは、蛋白質の補給に、隔港川外壕に鯉などを飼った。

 だから五月五日になると、嫉んでいる外来系の者は、長柄、薙刀、竹槍をもって襲撃したが、女たちに礫(つぶて)打ちで撃退された。そこで対抗上、外来系に考案されたのが、笹の葉や苧殻(おがら)をまきつけ、ぶんぶん振回して放りこむ擲(てき)弾である。これを「千巻き石」とよぶのである。

 さて、院地を襲って勝ったとなると、戦利品として、壕の鯉を捕えて、竹竿につきたて、自分の家の前に立て「鯉のぼり」といった。そして「勝負の祝い」に酒もりをした。

 応安二年(1369)の『後愚昧記(ぐくまいき)』にも、

「雑人ら晩頭(ゆうがた)に及び、一条大路に出て、合戦をなす。これを伊宇地(いえじ)と称す」

 と足利時代になると、北白川口の今出川か一条あたりで市街戦までやったらしい。

 『源平盛衰記』の二二に、

 「京童(わらべ)の向い礫、河原印地のようなり」

 と出ている光景は、後白河法皇の勅になる「年中行事絵巻』の五月五日の条に、百余人の石合戦の有様が画かれているが、当日が雨だと、

 「凧の手の礫のように打ち散らす、雨こそ今目の、そら印地なれ 左衛門督藤原義景」

 といった具合に失望するファンも多かったようで、これは『古今夷曲集』の中にある。

「信長公も若い頃は、五月五日の院地打ちを毎年なされたり」

 と「雨窓閑話』にも記録されている程である。

 義経の死後、信長、家康の頃までは、五月五日は背くらべではなく、石投げくらべで江戸期に入っても、山谷や、浪花の釜ケ綺では、時たま石合戦があったようである。

 勝負の文字が「尚武」になり、粽(ちまき)が餅、鰹は吹き流しと変わっても、まだあいかわらず権力ヘ反抗する徒の子孫が、夏になると夕涼みに、今でも礫うちの印地をやるから、山谷あたりはマンモス交番などが、出来ているのである。

 なぜ五月五日と、昔から決まっているかというと、この日が、各国別にたてられている国府営の大祭の当日だからである。この五月五日という日は、京より国々へ派遣されていた国司が「天神地祇」の神々を勧請して朝から、「江美州静謐(えびすせいひつ)」を祈願したから、当日一目限り、エビスの末裔である院地に対し、外水系やそれに奴隷化させられた庶民が、石投げにゆくのを、四声が黙認したのである。

つまり院地で頑張っている連中は「ノータックス」で「ノー勤労奉仕」なのに、外来系や、それに隷属したものには、年貢とか課役があったので、その「うっぷんはらし」をさせたものらしい。云い換えれば祖先が陽物を切られ、性転換させられた復讐か黙許した事になる。

ところが昨今の世相では、手術代を払ってまで、男から女へと切断を希望する者も多いから、今日では尾張の一宮などでは国府宮の「喧嘩祭」として、その名残を、とどめているにすぎない。

 

 さて捕虜収容所を京では院地、東海は院内、他は、別所、山(散)所というが、捕虜として捉まって女将と一紙に男衆として山中へ追われた彼らは、仕事が見つからないから耕作地確保の為に穴を掘った。

 地中からまず鉄をみつけた。そこで赤松の炭で刀を鍛えた。

 美濃の関、鎌倉の雪の下、備的もみな別所である。刀の他に、鉄と革で鎧も生産された。

 甘味をとるため山蜂を追っているうちに、蜂の習性をまねたのか、その辺は解らないが、一妻多夫になった。なにしろ男は単数では連続使用がむりだから、複数のハンサムだけが側近になり、残りは働き好の<奴>になった。そして、今日でもこの後裔は「男衆」などと男をよんで総長するような習性がある。

 さて、そこで当時の里人は、彼ら別所者を「はち、や」とよんで、八弥、好景、鉢景の字を当てた。

 彼らが、山から上げる合図の煙を「煙火」といい、彼らの決起を「蜂起」とよんで怖れた。

 そのうち、山中や河床で彼らは黄色い光る物を見つけた。金である。といってもまだ装飾品など流行する以前なので、金をカネにするのに苦労した。そこで既に里へ進出している同族の者が、その金の売れ口を見つけてやるため、六道衆なども、著作の中で、今でいうCMしたものらしい。

 なにしろ、義経が吉次に伴われて平泉へ行った時より、たった二十一年前の仁平三年(一一五三)の『台記』の七月十門日の条に、

 「陸奥国、五ケ荘の年貢につき、久安七年、廐(うまや)の舎人、長勝延貞を使となし、奥州へ下向せしめ先年、奥州高倉座の年貢を増やすべき由、禅閤(ぜんこう 関白藤原忠通)より基衡(もとひら)に、金五十両よりも、布千役馬三匹に換えるようと仰せられるも、基衡(もとひら)肯(がえん)ぜず」という記載さえある。

 つまり関白が「藤原氏の名のりも与えていることだし、高倉庄の分も入れて、土産の金より、布地干反と馬三匹といったように値打ちがあって、もっと役に立つ物を上納しろ」と使を出したのに対して、秀術の父の基衡は「黄金なら掘れば出てくるが布や馬は、そうはゆかん、此方が欲しいぐらいだ」と拒絶しているのである。

 さて附記するなら、この時代の一領というのは、まだ後世の秀古時代から始まった一両の単価ではなく、別所族の製革術と冶金術によって出来上る軍用鎧一領分の等価のことである。

 

悲しき金と尊い銀

 

 なにしろ余歯も金指輪も、まして金時計もなかった時代だった。売行きのよくない「憐れな金」を背負った藤原鉱業会社商品開発課の吉次は、

 「へえ、金は、どうだっしゃろ]

と汗を拭きつつ、刀の鎧鼠、目ぬき屋といった、京のアクセサリー店を、セールスしていたのだ。

 変な話だが柔くて伸ばせばいくらでも伸びる金は、まだ文化の開けぬ時代には、あまり価値がなかったのである。

 なにしろ、この後の三百年もたった『応仁記』でさえ、

 「近頃は、きがねも、次第に価が貴くなりで」と、ようやく現われ、金が銀の十倍に昇格したのは、その十六世紀に入った、明応七年の「公文所勘定書」や、文亀二年の「春日神社文書大和中条目」くらいからである。

 それでも、七十年たった天正十年(一五八二)のクーデターの時でさえ、信長の死後、安土城へ入った明智光秀は、金には目をくれず、銀だけ持ちだして、禁中へ五百枚、五山や大徳寺に百枚宛寄進している。

 後年のごとく金と銀で十倍も違うものなら、金か運んだ方が良いと想うのは、現代的な感覚で、まだ実用本位の時代では、装節用にしか用途のないような、人に喜ばれない物を、何も持ち出すことはないからである。

 だから十五日に、知らずに織田三介信雄が安土城へ火をかけ、あわれに残っていた金を、これことごとく燃やして熔かしてしまった。つまりまだ当時は、「しろがねも、くがねも、たまも何せむに」の、「くがね」は金ではなく、やはり硬度が高く細工物や鎧などにもなった利用度の多い黄銅のほうだったのである。

 だが、これは日本だけでなく、神聖ローマ帝国以来、ヨーロッパでも、金を有難がったのは、有色人種の肌に冴える点からアフリカやエジプトの低開発国の一部だけであって、ジャンバルジャンが忍びこんだ司祭の官だって、銀の食器や燭台しか無かったのである。

 のちに硝石が発見され、金は鉄なみに吸いつくのに、銀だけは作用しない、といった点からも、植民地政策上黄金が俄かに必要になって、急ごしらえの錬金術に、うつつを技かす以前のヨーロッパでは、今と追違って銀は、金よりも尊ばれていたから、雄弁官キケロスが、

「諸君も、吾輩のように活発に喋り給え」

 と啓蒙運動するため、せっかく、

「沈黙は金。なれど、雄弁は銀」

 と名句をぶってくれたのに、モの後まったく、金銀の価値が反対に倒錯したものだから、

「そうか………黙っている方が値うちがあるか」

 と雄弁家の主張なのに遂に解釈され、そのまま日本へも輸入されていろ。

 モのため日本人は筒口を美徳と心得ているから、今日、海外のサービス業者から、日本人観光客は、見目で取扱いやすいなどと文句をいわぬ点を激賞されてるそうだ。

 こうした価値倒錯の例といえば、文政三年の『諸国見聞録』にも、越後の国の話として、

 「泉水湧出多く、諸氏の難渋、憐れなり」

 と出てしる。今ならニ一リットル何十円の石油も、当時は迷惑な汚濁水だったらしい。

 

さて、出向社員の吉次が、あまり有能ではなかったから、平泉の藤原鉱業は、さきに平氏と業務協定を結びかけて駄目。寿永二年(一一八三)に延暦寺へ入った木曾義仲にもやはり企業合併を働きかけたが、これも失敗してしまった。

 その点、伊豆開発鉱業の方は、伊東の北条の令嬢政子の督励によって、売れない金を売りまくり、伊立の山々から掘り出した黄金によって、ついに頼朝の「文治革命」を、成功させてしまったのであるから、これは当時としては偉業である。

 だから、金を有難く考えた別所出身の武将は、その後、十九世紀に到るまで、馬印に、みな金色の御幣や瓢を、つけて戦い歩いた。

 これは「史籍雑纂」第三巻の(元文二年八月五日づけ山本伊左より爪印弥次兵衛宛)の手簡末尾に、はっきりと、

「馬印金の幣と申すことに御座候はば、別所同意と存じ奉り候」と明記されたのが残っている。

 

身売りは男性専科

 

吉次の頃は物々交換の時代だが、輸送力に欠けていた。いまのように馬が余って、めんこい仔馬がハムにされる世の中ではなく、南部駒、三春駒の産地でさえ「馬三頭も税金にとられては困る」と、平泉の基衡が拒むほど斟かったし、船は、もっと不足していた。

 だから、アラビアの隊商は駱駝の行列で、月の沙漠をキャラバンしても、運送用の馬のすくないこの国では、ずっと、連雀板を一人ずつ背につけ、それで輸送をしていた。だから百人の隊商を組んで、一人四十キロ背負わせても、四トン車一台分の輸送しかできない有様だった。

 そこでもっとも便利な面目皿というのは、オートマチックに自分で動いてくれる商品である。

 吉次らのような行商人は、羊飼いみたいに鞭をふるって、ひとりで歩く商品の集団を、テクテク歩ませ、輸送して行ったのである。つまり、この当時の、極めの商品は奴隷で、アフリカの黄金沿岸から輸出していたのが黒人であるのと同じことである。ということは他に目ぼしい産物がなかったということにもなる。

 

 さて「奴」というと『大日古本書文書』第一巻に天平勝宝二年(七五〇)五月十七日附けの、大宅郷より東大寺へ寄進された『正倉院文事』が伝わっているから、その、「奴三十八人、婢二十三人」の記録で、男女混合に誤解されがちだが、吉次らのような、別所廻りの奴隷商人は、けっして女を商品として扱わなかったようである。

 といって、吉次がフェミニストだったわけではなく、需要がなく売れなかったからである。

(美しい女を裸にして)奴隷市場へ並べるのは、残念ながら、男が威張っていた、遠いアラビアンナイトのハレムの物語である。ところが、そうした男尊女卑のお国柄と追って、女性優位のこの女将王国の日本列島の彼らの住んでいた地方では、いくら前面に男を出していても、別所系統は女天下だから、愛玩用の可愛いのや、働き蜂にする強そうな、男の子しか購入しなかった。つまり「女が女は買わない」という鉄則の為である。

 だから幕末まで、こうした人身売買業やブローカーのことを、「源氏」とか「源氏屋」とはいったが、女を扱う者は別扱いして、上に、わざわざ「ぜ」の字を冠を「ぜげんじ」とか略して「ぜげん」といったもので「ぜ」は贋の訛りである。

 まだ貨幣経済でなく物々勘定の時代だから吉次は、藤原鉱業の本社へ、売上金の決済用に、かねて集めて置いた男蛮を、毎年春になると、引率して行ったが、承安四年(一一七四)の奴隷少年隊の中に、一人の異分子か混っていた。その少年は十六歳だったが、成人したのち(反りっ歯の小男)だったそうだから、現今の小学生より貧弱な体格だったろう。

 それに鞍馬寺か、とんずらしてきた家出少年だから、多分、吉次に初めて拾われた時は、銭もなく、腹をへらした、薄汚ない身なりの、野良犬みたいな恰好だったと想える。

 まさか十年後に、この少年が「一の谷」やに「屋島」で、一躍スターになるとは、千里眼でなくては、見通せなかったろう。だから、もし、少年に同行した大人が、そのとき居たとしたら、それは、もとをかけずに仕入れようと、吉次が、しきりと、

 「まあ、行ってみなはれ。良ろしゅうおっせ」

 と、陸奥の国の観光ガイドをしてるのを、脇で聴いていたやはりあてなしの浮浪者だったと思われる。まともな大人が、すすんで自分から奴隷に加わってゆくとは、考えられないからである。それに吉次が、商売不熱心だった一例は、鏡の宿で夜盗に契われたとき、牛若を初め奴隷たちを放りだして、まず自分だけ逃げている。

 どうも、あまり、みた錢を払わずに誘拐してきた商品ばかりのようにも、逃げ様からは想顛できる。いくらか銭が掛かっていれば、先ず打刀をぬいて守るのが商売であり人情である。

 それにスキーのなかった当時、十六歳の少年が東北へ行きたがる心理的要素は、何もない。家出して温かい土地へ行くなら判るが、寒い所へ、白分から行きたがる筈などありえない。

 つまり吉次という男は、あまり金が売れないから、代金決済に困り、甘言をもって牛若や多くの少年、そして大人までかどわかしていた常習誘拐犯人であると考えられる。

 この例をもってしても判るが、奴隷商人としてそれを陸奥の国へもって行かねば黄金と引換えられない大切な商売のもとを……東北で欲しがっている布地とか他の交換材料が入手できず、それでとはいえ、放りだして逃げるという手はないだろう。

 また義経少年にしても、「蛇は寸にして人を呑む」というのは講談であって、自分から進んで、つまり自己意志をもって見ず知らずの陸奥の国へ行きたがる要素というのは、何もない。結果論からして、まるで藤原泰衡という男に頼って行くように、話は今となっては創作されているが、未来とか将来というものは、そんな前もって、見通しのきくものではない。まして混沌たる時代においては、常識では計りしれない。

 もし、このとき、いまわしい吉次に逢っていなかったら、少年の運命は、もうすこし別個のものになっていた筈である。あんな悲惨な終末を迎えなくとも、少年は、もっと勇ましく華やかに、自由に生きられたかも知れない。

 というのは、鞍馬の山から、牛若丸が出てきたといっても、その時代の平家には、山国荘の花背別所から鞍馬道をぬけて京へ入るのには、御曾呂口(えぞろぐち)。東海東山道へは、後年、大石内蔵助が潜伏した山科別所口。宇治から奈良への伏見口は、当時狼谷。淀へは鳥羽口。山陽道へは桂口。丹波路の胡麻別所へは、常盤口と関所がある。

 これは、延宝二年に刊行された『山城国四季物語』に詳しく述べられているが、だから、無理して、遠い東北へ行かなくとも、十六歳の少年の一人ぐらい、楽に身を隠して潜伏できる、治外法権みたいな、ハチの部落、つまり特殊地帯の別所が、その京への入り口には、白河の他にも沢山あったのである。

 そして、その六道の辻を固めたいたのが、これが名高い六地蔵の党である。

 「我々さえ、もう少し見張りを厳重にしておれば、みすみす、平泉へなど誘拐させなかったものを」と後年になって彼らは、自責の念にかられたのか、挽歌として『義経記』を書き、謡曲『鞍馬天狗』を著作した。

 そして、鎌倉から単騎できた土佐房昌俊から、彼ら別所者の部族の頭である頼朝の命令といわれて、院地者五十騎を、道案内に出したばかりに、後には、義経の敵のごとく扱われ、五月五日になると投石されるのに、やはり腹をたて、「義経が殺されて、しゃくにさわっているのは、此方も、同様だ」と、負けずに礫うちつけ、双方の石合戦を、ずっと続けたものだから、現代に到るまで、この五月五日は和菓子屋さんの「ちまき販売デー」になってしまったのである。

 つまり吉次さえ現われなければ、少年は、六道の辻のどこかの番所で、しかるべき、手近な別所へ送りこまれていた筈である。そして、もし、そうだったら事態は一変していた。

 黄瀬川へ馳けつけて、初めて兄の頼朝と対面した時でも、近くの別所からなら、すくなくも数百の軍勢は、連れてゆけた筈である。

 そうすれば頼朝も、姿に対して肩身が広く、義経自身も、梶原らの家人に対しては、もうすこし恰好が良かったろう。

 ところが奥州からなので、僅かに五六人しか連れて行かなかったため、馬鹿にされた。そして、最初からなめられてしまったから、その後、義経が、いくら手柄をたてても、実力以下に見られてしまうのである。

 「ものは最初が肝心だ」というが、その振り出しを吉次のために、誤らされたのである。

 義経はその後、頼朝の妻にも睨まれ、仲違いになってからも、腰越あたりで謹慎しなくとも済んだのである。なにしろ関東の別所は頼朝に組織化されていたが、関西は佐々木四郎高綱が近江の日野別所や箕作別所の者を率い「蜂起し」の白旗をたて(高机真一著『旗指物』にその図版あり)蜂起していた以外は、まだ末組織状態だったから、義経にオルグ的要素があれば、幾つもの身のふり方はあり、近くの別所に足場さえ持っていたら、いくらでも逃げこむアジトはあり、味方する者も沢山いたわけで、なにも行先が無いといって、遠い奥州まで、行かずともすんだ。つまり揚合によっては西国の別所を統合して、鎌倉幕府に対抗する新政権を樹立する、という生き方も、あったであろう。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿