源氏とよぶは侮称
源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著
元禄十一年、江戸大火後の弾圧以降は、神仏が強制的に祭祀合併され、「白旗党」といって土豪というか匪賊扱いされた足利時代同様に原住民系が蔑まれる時代がやってきて、人買い、千三つ屋のことを「源氏屋」と呼んだが、お女郎の名も「源氏名」と侮称した。また胡乱くさい青線の女たちの溜りを「地獄長屋」とか「源氏名」と蔑すんだ。芝居小屋に原住系の頭、弾左衛門の管轄なので、舞台の上では、源氏店の名をさけて当て字となし、これを「玄冶店(げんやなだ)」に呼びかえられ、「しがねえ恋が、なさけの仇」と、切られの与三郎が入ってゆくのを、今で云う「オメカケアパート」か、二号さんのマンショソ程度に恰好をつけているが、江戸時代に俗に岡場所といわれた青線は、現在の水天宮を中心に、人形町、蠣殼町一帯が多く、それを知らぬから人形町の先には「玄治店の遺蹟」という標識がでている。かつてあった寄席の「人形町末広亭」の側である。
螢だって、浮浪みたいに、ふらふら飛ぶのは「<源氏螢」とバカにされる程だから、まさか、ご当人が、文治のその時代に、
「われこそは、源氏の何某なり」なんて、名乗りをあげなかったのは事実らしい。勿論、「われこそは、みなもとの・……といっていたのだろう。
なにしろ彼らは(みなもとの民)つまり原住民意識は濃厚にもっていたのである。そして血液の純潔さを保つために、明治までは同族外の婚姻は死罪だった。昭和二十年までは「血統調べ」といって、双方の血脈を厳しく調べたものだが、これも血の中にレプラや悪性の病気があるというのではなく、原住系か外来系かの区別をするために、その調査をしたのである。
『古事記』に
「忍坂の大室屋に、人多く来入り居り、入り折りとも、みつみつし、久米の子が、
くぶつかり、いしつらいもち、撃ちてしやまむ」
と、土雲八十建(たてる)を殺し、「日本紀』では「八十タケル」を国見岳にてうつ」というように討伐してあるき、「ヤマトタケル」という名を向うから貰って名のら牡るの示日本武尊の神詣だが、これでも判るように日本列島の・原住民示はヤのつくヤ印である。後年は非占領国民としてグレてしまって「ヤーさん」は「ヤア公」になってしまうが、占領系にしてみると、せっかくの舶来系を土着のヤ族と結びつくようなのは、もっての外というのであろう。そうした血脈か無視した結合を彼らの側からは「野合」というのである。何も野っばらで青かんしたという意味ではない。
さて、原佳民といっても、インデオやインデアンみたいに日本の原住民は馬に跨って「アオ、 アオ」言ってる暇など彼らにはなかった。そして酒や性病で民族の衰亡を招くようなこともなかった。
なにしろ女尊男卑の彼ら男どもは、山の神である女に、厳しく躾けられ、忍従と精励をたたきこまれていたからである。
「源・平・藤・橘」と四姓に分けても、大陸からきた占領人種は僅かで、なにしろ日本人には土着の源氏が多いから、その末裔の女性は、今でも、その伝統精神によって、夫を「奴」として扱い、給料袋ごと巻き上げるのを、当然のように考えている女性もいるらしい。
旧幕時代、新田義頁貞で名高い、今の群馬あたりの男どもは、あまりにも苛められて、逃亡奴隷として、旅烏になり、生きては戻る所もないから、喧嘩の特は死ぬ気で暴れ「上州長脇差」の評判を高からしめた。つまり国乱れて忠臣が現われ、家が貧しくして孝子現われ、女強くして男が苛められ、そこでやむなく敢死になるゆえんである。
さて、なんといっても女というものは、いつの次元においても、谷ろことが好からしく、山繭を集めさせて、それを男どもに、機(はた)で織らせ、衣多(えた)たらん事を願って「八のはた神」つまり、<八幡」をもって、その氏神にした。
そして氏子である頼朝は、旗上げに際して、
(東方に光ありと唱える……東光薬師寺系)
(東北の白山を懐しかむ……白山神社系)
(えびす大黒、七福神 ……蘇民将来系)
つまり国川内二千有余の別所の、多神教の原住民の末梢の一第団結を企てた。
そして、この氏族解放の戦いが成功すると、みなもとの「大棟梁」として君臨したが、勿論、実権は、政子夫人の政所(まんどころ)が押えていた。
いかに彼女の権勢が凄まじいものだったか、という例は、それまで女性の象徴を呼ぶのに、男どもは、別所に「お」の敬語をつけて尊称していたものだが、このあと、東国武士は、頼朝夫人の御名をもって当てたということである。
ところが、この女性王国に対して、弓をつがえ男性革命を企てた不逞な輩が現われた。
その男は、河越重頼の娘を妻に持ちながら、静御前という愛人か別にこしらえた。
……これぞ「九郎判官義経」そのひとなのである。
これは「八」の部族にとっては破天荒のことだったらしい。明治期に入って南方族が江戸へ入ってきて、「△権妻(ごんさい)」とよぶ蓄妾制度を流行させ、東京になってからは、おおっぴらに、目かけ、手かけを作って、江戸人の度肝をぬいたが、「八」の男は清潔を旨として訓育され、浮気は、神明の「かげま」ぐらいで、妻以外の女性にふれることは、信仰上許されなかった。それなのに、その男は重婚をした。
「男の分際にて、よろめくとは、なんたる不所存か」
政子夫人は烈火のごとく怒った。こんな悪弊が広まったら、女王蜂の権威は失墜するから
である。そして男の浮気は「八」の女どもへの冒涜(ぼうとく)であり、これは部族への反逆罪である。頼朝や、他の家人も、庇(かば)ってやりたかったが、そうすれば、自分たちの「男の貞操」を疑われる。そうなると妻の君に苛められるのは、目にみえている。だから一緒に憤った。
表向きの咎は、九月十八日に従五位下の官位を勝手に受けたことだが、現代なら、郵便局長を勤め上げた方でも、その上の「正五位」は貰っている。
だから、話の当初は、ダブル結婚だったようである。これが原因で、義経は「稀代の好色漢」とされた。今日に到る「壇ノ浦合戦」などと言う艶本の主人公にされ、彼は文字通り冤罪を蒙っている。
「至急、ひっとらえ、仕置きするよう」もう悪いことをせぬよう、その部分だけでも切断するぐらいのつもりで、十月九日に土佐房を鎌倉から、六条油小路の義経の許へやったところ、そこ(男性自身)を切られては男が立たぬと、あべこべに土佐房らを六条河原へ曝し、十八日には、頼朝追討の宣旨を、義経は受けてしまった。
だが十年前に吉次が変か所へかどわかして行ったりしたから、何処へ今度も潜入したものか、杳(よう)として行方が判らない。そこで源頼朝は[総追捕使」という現今なら検察庁のようなものを設け、その総長になるや、各地に検俳局や警察署を設ける代りに、費用削減の意味もあって、全国二千有余の別所に対して逮捕権を委ねてしまった。三等郵便局というのがあるが、これも同じ形式の三等検事局や三等警察署だった。
さて別所は何処もかしこも、実権は女である。そして女のひとは、一度手にしたものは、死んでも手離さない本能がある。
だから、この十二世紀の文治元年(1185)十月に、各地の別所衆へ委任してしまった警察権は、その後、ずっと、七百年もそのままで、取り返したのは、和製ベトコンの永遠の敵である山方民族の薩長の明治新政府だった。だから、菅茶山の『福山志料』にも、
「三吉村の北に、源氏とよぶ部落あり。ここの者は、すべて「三の八」とよぶ。これは領主水野侯が、備後福山へ入国のみぎり、三河より「八」の頭分を伴って来たから、「三河の八」が縮まって、「三八」になったので、領内の召し取り、牢獄、拷問か司っているものである」
と誌されてあるし、『雲州鉢屋由来記』によると、
「当地方は、茶せん、長吏、番太、河原者などとも云うが、頭分は文明十八年(1486)正月、爪子伊子守経久を援けた蜂星掃部(かもんべ)の末にて、現在、賀麻(かも)、蒲生(かも)の二家に別かれ、各郡一ケ所の郡牢を設け、この司を「郡廻り鉢屋」とよび、下に「村受鉢屋」があって、数村を監督して、区域内の住民の非違を糺す」とあり、
「文化四年(1807)の松平出羽家書上げ書」にも、
「鉢屋者は牢番、召捕りにあたるため、一定地に聚楽居住、当時、剣道、柔術、棒術を修練し、武芸巧者として、著名なるものも多く、別に竹細工をなす者は、「茶筅」とよび、茶湯指南などをなすも、他族とは通婚同火は一切固くこれをせず」
と出ている。但し同火は、その文字通りで、拝火教徒の末の源氏族は、他族の火を忌み、これと一つにしなかった。だから今日でも博徒は煙草の火を、直には貨さないし、パチンコ屋や競馬場などでは、
「つきが落ちる」といって、火の貨借りを忌み嫌うのも、このためなのである。
さて公儀お膝許の御府内では、牢の方は、関屋隅田別所出の石出帯刀が、世襲で、その別所出の与力同心を使って収監に当たり、刑の方は、桜田別所、室町別所を明け渡して、山谷から川向うを囲い内にしていた弾左衛門が、彼の奴隷である、黒身分のから転落してきて非人となったのを使って、せっせと鈴ケ森や小塚原で首を斬っていた。そして、首斬り浅右衛門も山田姓だったが、弾家の四人の手代(用人職)もやはり「ヤ姓」で代々世襲であったし、弾左衛門も幕末の当主は矢野とヤ姓になる。尚、「弾左衛門」というのは個人名ではなく、司法警察の「弾正台」を司る官名の軟化したものだから、江戸だけでなく各地にも弾左衛門や弾正は居たのである。
さて、なにしろ捕縛する権利と処罰する方か、彼らが握っていたのだから、警察は殆んどデッチアゲに終始していたらしく、捕えても、源氏の白旗の同族だと判ると、すぐさま、「……白だ」と直ちに放免してしまい、その身代りに、白でない部族、つまり墨染めの衣をまとう宗派の者を探してきて、「こいつは、黒だ」と、あっさり罪名を被せ、否応なしに、首を刎ねたので、それに抗議することを「黒白を争う」などといった。
吉次のおかけで、この七百年間に、無実の罪で処刑された者は夥しい数であろう。そして現代では明治以降国家体制が反対になったので、黒の検察官が、白を苛めることもあるのだが、口癖になってしまったか「白か黒か」は同じように用いている。
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