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・愛と創作主体 伊尹*「とよかげ」との間 益田勝実(ますだ・かつみ)氏著

2024年07月22日 16時44分54秒 | 文学さんぽ

・愛と創作主体 伊尹*「とよかげ」との間

益田勝実(ますだ・かつみ)氏著

  やつし

 十世紀の二つの家集、『海人手子良(あまのとこら)集』と『とよかげ』とは、貴人が<下衆(げす)の集>をよそおってわが集を編んだ、という志向性を共有している。後撰から拾遺の間の和歌史のできごととして、わたしには見過ごしにくいものがある。

 海人の磯良ならぬ手子良を自称したのは、桃園大納言師氏。大蔵の史生倉橋の豊蔭と名乗るは、一条摂政伊尹(これまさ)。九条敲師輔の弟と長子。叔姪の間柄になる。春(十首)・夏(十首)・秋(九首)

・冬(十首)、逢わぬ恋(十首) ・逢ひての恋(九首)、わかれ(七首) ・無常(九首) ・いのり(九首)、年・月・日など物の名を詠みこんだ五首と、「春の花に鶯むつる」「夏ほたる汀に火をともす」など屏風絵の歌らしい仕立ての六首。九十四首の即興自撰の小歌集と見られるものを、師氏が海人の詠草と見たてた理由を、永らく測りかねていた。だが、内容的には海人とかかおる

ことのないこの歌集が、師氏の宇治川のほとりの別荘滞在中に編まれたのではないか、と思い至るにおよんで、彼の風流の「やつし」の仕組みがややわかってきたような気がする。

 

 師氏の別荘は、『蜻蛉日記』の作者の夫兼家の宇治の院と、河を隔て相対するところにあり、日記上巻の終りに近いところに、師氏と道綱の母らとの宇治での交渉が物語られている。

安和二(九六九)年、道綱の母が、初瀬詣での帰途、思いがけなくそこまで出迎えにきてくれた兼家と対面する。そのころ、権大納言師氏は氷魚(ひお)の網代漁にきていて、そのことを聞き伝え、兼家の宇  治の院へ雉子と氷魚を届けてくれた。兼家は伊尹の弟で、やはり師氏には甥にあたる。その年、中納言に進んでいた。日記中巻に、翌々天禄二年、ふたたび初瀬を志す道綱の母は、師氏の宇治の別荘に立ち寄った、とある。師氏がなくなって一周忌近いころだった。

       うたかた   みちのく      なこモ

    逢坂の泡詠(うたかた)人は陸奥(みちのく)のさらに勿来(なこそ)をなづくるかもし

    君しいなばいな /\社(こそ)は信濃なる浅間が山と成や果なむ

 

 宇治の河漁師にみずからを擬して編んだ『海人手子良集』の歌は、懸詞のレトリックによりかかっての抒情のうたが多い。虚構仮託の題名をもちながら、集中の歌にはそれが影響するようすはない。作者の風流のやつしは、そのあたり止りになっている。

 以前から『大鏡』の記事で存在が知られていた伊尹の『とよかげ』は、近代になってようやく再発見されたが、それは、『一条摂政御集』のなかに包摂された形だった。後人が伊尹のうたを蒐め、『とよかけ』の後に加えている。三上琢弥・清水好子ら平安文学輪読会の人たちの手になる『一条摂政徴集注釈』 (一九六七)の解題は、集全体の成立を正暦三(九九二)年を少し下るころ、集中の『とよかげ』の方を、天禄保元(九七〇)年ごろから伊尹のなくなる同三年まで、もし、それが伊尹の自撰でない場合、「九七〇年頃~九九〇年頃までの間」とする、用心深い見方だが、自撰を疑う必要はないように思う。

    おほくらのしさうくらはしのとよかげ、わかかりけるとき、

女のもとにいひやりけることどもをかきあつめたるなり。

    おほやけごとさわがしうて、をかしとおもひけることどもありけれど、

わすれなどしてのちにみれば、ことにもあらずありける。

    いひかはしけるほどの人は、とよかげにことならぬ女なりけれど、

としつきをへて、かへりごとをせざりければ、まけじとおもひていひける

   あはれともいふべき人はおもほえでみのいたづらになりぬべきかな

    女からうじてこたみぞ

   なにごともおもひしらずはあるべきをまたはあはれとたれかいふべき

    はやうの人はかうやうにぞありける。いまやうのわかい人は、

さしもあらで上ずめきてやみなんかし。

 

『とよかげ』が『海人手子良集』とちがうのは、歌物語の手法を貫こうとしている点である。物語の叙述法は明らかに『伊勢物語』に倣い、その情熱的な恋への没頭を襲おうとするところもそうである。だが、その伊勢的な傾斜が、ことさらに下衆の男女の愛の物語としての虚構をとって保障されうるとする点において、かえって伊勢とちがう。

伊尹自撰集『とよかげ』は、大蔵の史生倉橋豊蔭の歌物語としての風流のやつしをしているが、内容において自作歌集成を踏み外さず、想像の物語、想像のうたの贈答を交えない。そのため、歌物語の伝承的要素を再生しえないで、私家集にとどまっている。やつしの営みを、うたとうたをめぐる物語の創造へはみ出させなかった。

 

ふたつのエロチシズム

 

伊尹は、奔騰する愛の思いに身をゆだねる主人公豊蔭を、「上ずめきて」やむ、上品ぶった中途半端な愛への献身にとどまる、集中の女たちに対置する。しかし、大蔵の史生の物語であるから、后がねの深窓の女性に求愛し、その愛をかちとりながらも、大きな力に仲をひき裂かれていく、『伊勢物語』の<冒>し、社会的制約との愛の戦いがない。やつしの自己束縛である。

 冒頭の段で、以前からの間柄を復活しようとした豊蔭は、もろくも相手にうたで突きはなされている。「あはれともいふべき人はおもほえで」の歌いかけの秀逸さにもかかわらず、うたの功徳というべき、うたの力は相手を動かさない。恋の負け犬のかたちの物語の出発である。伊勢の初冠の段のうたを女へ贈りそめる、という歌による元服の上昇性がなく、不成就の求愛歌で出発するかたちは同じでも、内実がちがうのである。第二段では、

   みやづかへする人にやありけん、とよかげ、ものいはむとて、

しもにこよひはあれと、いひおきてくらすほどに、

あめいみじうふりければ、そのことしりたりける人の、

うへになめりと、いひければ、とよかげ

   をやみせぬなみだのあめにあまぐもののぼらばいとどわびしかるべし

    なさけなしとやおもひけん。

 

と豊蔭は、女のつらいしうちを甘受しなければならない。もろもろの制約とたたかい、愛する女性を情熟とうたの力とで屈服させ、現実に肉体の愛をひとつひとつ成就していく、歌物語伊勢のエロチシズム、疾風怒濤を衡いて猛進し、愛の抱擁に歓喜し、裂かれて号泣する強烈さが欠けている。

この段の「みやづかへする人」は、第三段では、結局、豊蔭の求愛に応じるのが、それはこう語られる。

     おなじ女に、いかなるをりにかありけむ

   からごろもそでに人めはつつめどもこぼるるものはなみだなりけり

     女かへし

   つつむべきそでだにきみはありけるをわれはなみだにながれはてにき

としをへて、上ずめきける人のかういへりけるに、

いかばかりあはれとおもひけん。

これこそ女はくちをしうも、らうたくもありけれ。

     をんなのおやききて、いとかしこういふとききて、

とよかげ、まだしきさまのふみをかきてやる

    ひとしれぬみはいそげどもとしをへてなどこえがたきあふさかのせき

     これを、おやに、このことしれる人のみせければ、

おもひなほりてかへりごとかかせけり。

はは、女にはらへをさへなむせさせける

 あづまぢにゆきかふ人にあらぬみのいつかはこえんあふさかのせき

   心やましなにとしもへたまへ、とかかす。女、かたはらいたかりけんかし。

人のおやのあはれなることよ

 

 豊蔭は、ついに手にした、女の愛を受けいれてくれるという返歌を、無上にいとおしく思い、「これこそ女はくちをしうも、らうたくもありけれ」と感無量のことばを吐く。だが、ふたりが寝たこと、遂に逢ったふたりの愛のかたちについては語ろうとしない。

 伊尹は、自分の分身豊蔭の贈歌と女の返歌のからみあいのおもしろさ、そのあとの事件での自分たちの小狭智の謳歌に心を奪われている。豊蔭のまだ逢わぬ恋をよそおっての求愛の歌に、娘が心をゆさぶられることを怖れて、親は恋の虫封じの祓いをうけさせ、思うままの拒絶の返歌を書かせる。わたくしがあなたと逢う逢坂の関をこえる日なんてありますまい、何年でも坂の手まえの山科で滞留していなさったら、などと小気味よい書き方。

 ジョルジュ・バタイユは、肉体のエロチシズム・心のエロチシズム・神聖なエロチシズムと、エロチシズムの三形態を指摘している(『エロチシズム』室淳介訳)。もう遥かすぎる昔、「豊蔭の作者」(『日本文学史研究』二〇号、一九五三年五月)を書いた頃のわたしは、そういう三分類など思いおよばなかったが、<好き者>と<色好み>の区別に熱中していた。「肉体的交渉を持たない男女交際が『すき』であり」(吉沢義則『源語釈泉』)というような、平安朝の<好き>の中世的把握に抵抗したがって、性愛ぬぎの<すき>はないという一方で、<好き>と<色好み>の峻別を声高にしやべっていた。バタイユの肉体のエロチシズムにあたるものが<いろごのみ>で、うたによる風流を精力的に注入して、<色好み>が<好色者>に昇華される。心のエロチシズムになりうる。そういう考え方に固執する傾向は、いまも変らない。

 わたしは、『伊勢物語』の文学的達成を<好色者>憧憬の結晶、心のエロチシズムの高い到達とし、歌物語の主人公としての昔男…平仲…豊蔭を、<好色者>の下降の系譜としてみてきた。

 『とよかげ』を歌物語の末裔としながら、歌の風流に重点をおき、<すき>のなかの<いろごのみ>の要素が稀薄化したものと慨嘆する点で、いまも同じような見方に低迷している。

 『とよかげ』に関して、わたしにそういう見方をさせるのは、『とよかげ』の豊蔭よりも、伊尹その人の<いろごのみ>の姿が印象深いからでもある。

   仰云、世尊寺ハー条摂政政家也九条殿。件人、見目イミジク吉御坐(よくおはしま)シケリ。

細殿局ニ夜行シテ朝ボラケニ出給トテ、冠押入テ出給ケル、

実(まこと)ニ吉御坐(よきおはしま)シケリ。

随身切音(きりごえ)ニサキヲハセテ令帰給、メデタカリケリ。

……(『富家語』)

 

 語り手は、保元の乱後幽閉中の富家関白忠実。伊尹の弟、関白兼家の五代の孫。この談話をのちの『続古事談』は弘徴殿の細殿の局として書きかえているが、宮廷のどこかの細殿の局の女房のもとへ忍び、あさぼらけ忍び出るとする原語の方が味があろう。

「冠押入テ出結ケル」容姿にはエロチシズムが漂っている。その人がたちまちかたちを整え、随身にキリリとした声で先を追わせ、堂々と退出していく。その姿をかいまみて、くっきりと眼底に焼きつけていたのは、どこぞの女房か。宿直に名をかる他の蕩児か。それにしても、それは北家の氏の長者たる人が語り伝えるような伝承になっていた.

 

   多武峯の入道高光少将は、

兄の一条の摂政の事にふれつつあやまり多くおはしけるを見給ひて、

「世にあるは恥がましき事にこそ」とて、是より心を発し給ひけるとなむ。

      (『発心集』第五)

 

 弟高光の出家を、『多武峯少将物語』は、前年父師輔が世を去り、かねての出家入道の素志をさえぎるものがなくなったためとし、『栄華物語』は、姉安子中宮の死に触発されてとする。後者は時間的錯誤をはらむ説である。「あやまり多くおはしける」の内容は遊蕩とばかりにしぼりにくいかもしれないが、それを含まないはずはあるまい。

 伝承の伊尹像は、<いろごのみ>……肉体のエロチシズム本位で、伊尹の『とよかげ』に滑りこませたようなうたの風流をほとんど無視している。伊尹自身の「やつし」の自画像豊蔭は、うたの風流に偏りすぎた<好色者>になっていて、肉体のエロチシズムの稀薄化しすぎた心のエロチシズムということになろうか。

歌物語の后がねさえ奪いとる上流貴族社会の主人公は去り、下衆の下級官僚の<すき>を空想する伊尹の企ては後継者がえられず、雨夜の品定めに啓発された若い一世の源氏の君が、宮廷や上層貴族社会に背を向け、中層の家に隠れた理想の女性たちに好奇の眼を向けるような物語作者の想像が、育まれていく。

        ……法政大学教授……


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