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桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説

2024年06月08日 07時31分32秒 | 文学さんぽ

桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説

 

 

篠原昭二 氏著

 

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

光源氏の出発

 

光の出現

 

ある帝(みかど)の御代……後宮に仕える多くの妃たちのなかに、低い身分ながら際だって帝の深寵愛を蒙る更衣(こうい)がいた。身分の高い女御たち、また同輩の更衣たちの憎悪と嫉妬とが集中するのは当然であろう。更衣は心労の絶えぬ日々を過ごしていた。しかし宿世の因縁というべきか、更衣はこの世のものとは思えぬ玉のごとくに美しい皇子を生んだ。この物語の主人公、光る君である。

 皇子の母となった更衣に対する帝の愛はますます深く、ために周囲の迫害も異常の度を加えた。更衣の局(つぼね)の桐壷(きりつぼ)は清涼殿(せいりょうでん)からは遠く、参上する道々、さまざまの陰湿ないやがらせが待ち受けていたので、彼女は堪えがたい屈辱と脅えに惟悴(しょうすい)した。これをいたわる帝は、その局を近くの後涼殿(こうりょうでん)に移したりしたが、それがまた他の夫人たちの恨みを倍加させたのである。

 

桐壺 きりつぼ

 

「桐壷」(きりつぼ)……帝は7歳になって学問を始める。神才ぶりを発揮する光源氏を高麗(こま)から訪れた高名な人相見に会わせるために,鴻櫨館(こうろかん・外国使臣を接待するための施設)に遣わした。相人(そうにん)は頭を傾けながら光源氏の数奇な運命を予言し,たまさかに彼のような運勢を持つ人間に会いえた喜びと,そしてすぐに別れなくてはならない悲しみとを詩に歌った。光源氏もまた感興深く感じて,詩を作って和した。

東京都国立博物館

 

帯木 ははきぎ

 

「帚木」(ははきぎ)……五月雨のしとしとと降る夜,桐壷に宿直(とのい)する光源氏のもとに親友で義兄にもあたる頭(とうの)中将が訪ねてくる。好色者(すきもの)の彼は厨子(ずし)棚からさまざまな女手の消息を取り出し,これはあの人,などとあて推量に言うので光源氏は取り隠し,君の所に届いているものも見せるならこれも見せよう,などといって2人の話題が女性談義に移っていくころ、折よく左馬頭と藤式部丞が参上してきた。

東京都・徳川黎明会

 

★この『源氏物語画帖』は,

京都国立博物館蔵のものが土佐光吉ほか筆、徳川黎明会蔵のものが土佐光則筆である。

 

空蝉 からせみ

 

「空蝉」(うつせみ)……心を許さない空蝉に業(ごう)をにやした光源氏は弟の小君に手引きさせて、その寝所に忍び込もうと,中川辺りの邸にやってきた。のぞくと2人の女が熱心に碁を打っている。横を向いた方が空蝉で,そそとした風情に慎ましい動作,いかにもたしなみのほどがうかがわれる。真正面を向いた相手の女は暑さに小袿(こうちき)を形ばかり着て腰紐の辺りまで胸もあらわである。目鼻立ちのはっきりした大柄の美人であるが,彼にはこのにぎやかな美人よりは,はれぼったい目をしたやや地味な空蝉の方が好もしく思われた。

京都国政博物館

 

「夕顔」(ゆうがお)

 

光源氏はやっとの思いで六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)をわがものとしたのだったが,その後はさほどご執心とは見えなかった。たまさかに訪れた秋の後朝(きぬぎぬ),帰っていく彼を御息所はわずかに頭をあげて見守るのだったが,咲き乱れた前栽(せんざい)の草花の風情に足を止めた彼の目には,見送りに出た中将の御許(おもと)の析にあった紫苑色の羅(うすもの)の裳を着けた腰つきのなまめかしさが見過ごし難く,隅の勾欄(こうらん)に引きすえて恋の思いを訴えた。庭には朝霧の晴れ間を待たぬ朝顔が咲いていた。

京都国立博物館

 

「若紫」(わかむらさき)

 

北山の僧庵。昼間見た由緒ありげなたたずまいにひかれて,光源氏は夕暮れの霞に紛れて立ちのぞき,心に聯も忘れることのない藤壷女御(ふじつぼのにょうご)に酷似する10歳ほどの少女を発見した。ともに遊ぶ子だちとは似るべくもなく,成長した姿の美しさが思いやられて,かわいらしい顔立ちであった。

京都国立博物館

 

末摘花 すえつむはな

 

十六夜(いざよい)の月の明るい早春の一夜,光源氏はかねて大輔の命婦(みょうぶ)に吹きこまれていた常陸官(ひたちのみや)の姫君のうわさにつられて官邸を訪れた。しかし姫君の琴(きん)の音ばかりはわずかに干引きの命婦の機転で耳にすることができたが,もの深い宮家の姫君にそれ以上近づくことはかなわなかった。少しでも気配をうかがおうと透垣(すいがい)のもとに立ち寄るとそこには先客があった。一緒に宮中を出たはずの頭(とうの)中将である。彼はいたずら心から光源氏の恋の現場を押さえようとしてぃたのである。

京都国府専物館

 

「紅葉賀|(もみじのが)

 

光源氏は藤壷へのかなわぬ思いを二条院に引き取った紫の上によってわずかに慰めていたが,乳母(めのと)の少納言はそうした彼の手厚い待遇を受ける幸運を仏の加護かとさえ思った。しかし当の紫の上は幼く無邪気なばかりで、雛(ひいな)遊びなどに夢中で,正月,朝拝のために参内する光源氏を彼女は見送ると早速,雛の中に光源氏を見立てて参内させたりして遊んでいる。少納言は夫を持つ人はもっと大人にならなければ,などと意見したが、紫の上にはそれがどういうことなのか,まだわからなかった。

東京都・徳川黎明会

 

「花宴」(はなのえん)

 

2月20日ごろ、紫宸殿(ししんでん)に桜花の宴が催され,光源氏は人々の新望により「春鶯囀」(しゅんおうてん)の一節を舞った。月光のもと,宴の名残の尽きない宮廷を彼は藤壺中宮を求めてさまよい歩くうち,弘徽殿(こきでん)の細殿(ほそどの)に紛れこんだ。すると若く趣があって,とても並みの人とは思えない声で「朧月夜に似るものぞなき」と吟誦しながらやって来る女に出会った。一夜の契り交わした2人は,扇を記念に取り交わして別れたが、女は東宮妃に予定された右大臣家の姫君だった。

京都国立博物館

 

「葵」(あおい)

 

光源氏に憧れて集まり寄った祭の群衆の雑踏の中にあって,その光源氏との愛に悩みながら六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は慎ましく人目を避けて,一目でも男の晴れ姿を見ようと行列を待っている。そこへ左大臣家の威光を笠に着た葵の上こ一行がやってきて,たちまちに修羅場が現出する。わめき叫ぶ男達の声は身分や教養の故に自らの真実を胸中深く隠さざるをえない女主人の内面の悲鳴であると聞くこともできる。

京都国立博物館

 

「賢木」(さかき)

 

あわれ深い晩秋の野営(ののみや)に光源氏は伊勢下向を句日にひかえた六条御息所を見舞った。生害事件の後,男の態度にその冷えきった心を知って,女はわが執着を断つためにもと別離を決意したのであったが、男を目前にしてしみじみとしたやさしい言葉に接すると,さすがに心はあやしく揺れた。男も薄情であると恨みを買ったまま別れるに忍びず,女を慰めるために訪れたのだったが,深い教養によって洗練された女に接してみると,過ぎた月日を取り戻したいと思うのだった。

京都国立博物館

 

[花散里」(はなちるさと)

 

弘徽殿人后に(こきでんのおおぎさき)方の圧迫がますます露骨になって行き,光源氏は世の中の何もかもが厭になったが,また昔を恋うる気持も抑えがたく湧きおこって,五月雨の晴れ間,花散里を訪れた。姉は桐壷院の女御(にょうご)で姉は彼の愛人であるが、光源氏の援助によってひっそりと暮らしていた。彼にとっては心を開いて語り合えるわずかに残った人達である。二十日の月がれるほど,「昔の人の袖の香ぞする」と歌われた橘が香り,ほととぎすが喝いて渡った。

東京都・徳川黎明会

 

 

須磨 (すま)

 

須磨退居を前に、光源氏は別れの挨拶のために人目を忍びつつ左大臣や藤壷女院を訪れたが、彼の援助によってようやく暮らしを立てている花散里の心細げな様子も気の毒で、いま一度会うこともなく旅立ってしまったら悲しみも大きかろうと、多忙な特をさいて訪れた。しみじみとした月光のもと、たとえようもない光源氏の訪問を、花散里は少し端近くいざり出て迎えたが,ともに月を眺めるうちにはかなく明方近くなってしまった。別れを惜しむことさえままにならず,涙顔の花散里に対して、かえって光源氏が慰めの言葉をかけるのだった。

  東京都・徳川黎明会

 

「明石」(あかし)

 

 初夏ののどかな夕月夜、明石の浦のの住居から見渡される海面に、光源氏は都のわが邸の池が思われて言いようもなく恋しく,久しく手にしなかった琴(きん)を取り出して奏した。悲涙をしぼる琴の音を遠く耳にした明石の人道も堪えられずに、勤行もそこそこに訪れてきた。2人は互いに琵琶や筝(そう)の琴を奏して心を慰め、音楽談義に夜は更けていったが、醍醐天皇より伝えたという人道の手(演奏)より上手という娘の噂に、彼は心をひかれた。       

東京都国立専物館

 

澪標(みおつくし)

 

光源氏は願果たしのために住吉明神に詣でた。折しも例によって詣でた明石の君は松原の深緑の中に花紅葉を散らしたかに見える一行の華麗な栄えある様子に、取るに足りないわが身のほどを思い知らされることになった。かしずきたてられた夕霧に比して,光源氏の子ともまだ認められないわが腹の子を思うと、女は,言いようもなく悲しく,一行を避けて,参詣も延引したのだった

京都国立博物館

 

蓬生(よもぎう)

 

 光源氏が流滴(るたく)生活を送る間、頼る人のない水滴花(すえつむはな)の生活は困窮の一途をたどっていた,それでも彼女は光源氏を信じて待っていたのだが、彼は帰京しても彼女を訪れることはなかった。忘れていたのである。帰京した翌年の四月,花里散邸へ赴く途中、彼は見覚えのある邸宅の前を通りかかり,供の惟兄(これみつ)に問わせると、荒れきった邸内に末摘花が咲いていたのだった。兄源氏はわが心の情なさが思い知られて、生い茂った草の露もいとわず中に入って女を慰めた。

京都国立博物館

 

関屋(せきや)

 

空蝉(うっせみ)は夫に伴われ,任国常陸(ひたち)におり,光源氏との音信も長く途絶えたままになっていた。彼らが任果てて上京の途次,逢坂山を越えるころ偶然に石山詣に赴く光源氏の一行に出会った。

秋も末,さまざまに紅葉した樹々の間に車を立てて道をさける空蝉の一行を,光源氏は深い感慨をもって見たが,人前のこととて意を伝えるすべもなかった。女も昔のことを忘れずにいたから,御簾(みす)に隠れて前を渡る彼の姿に,人知れず懐旧の涙に頬をぬらすのだった。

京都国立博物館

 

絵合(えあわせ)

 

3月下句、清涼殿におぃて絵合が催された。左方は光源氏の後見する斎宮女御 (さいぐうのにょうど),右方は権(ごん)中納言の後見する弘徽殿(こきでんの)女御で,判者は螢宮(ほたるのみや)である。藤壷女院も出席して,双方趣向をこらしたこの盛儀は光源氏の流滴(るたく)生活を描いた絵日記によって左方の勝ちとなった。当代の栄えが結局は彼の,自分を犠牲にした忍苦によってもたらされたものである限り,光源氏方の人々の感涙は当然のこと,相手方の中納言も認めざるをえなかったのである。

京都国立博物館

 

松風(まつかぜ)

 

光源氏は父人道の計らいで上京し,大堰(おおい)の山荘に入った明石の君母子を見舞った。それは嵯峨の御堂とか桂の院とかさまざまに口実を設けてやっと叶った訪問であったが,女には男の誠意はそれとして,行動の不自由な男の身分と自分との違いが絶望的に思われる。人々にせかされてのあわただしい出発,乳母に抱かれて見送る姫君の愛らしさに彼は胸が一杯になって,思い乱れて几帳(きちょう)の陰に嘆きふす女に,姫君を二条院に引き取るとはついに言えなかった。

東京都・徳川黎明会

 

薄雲(うすぐも)

 

姫君を二条院へ引き取って後,光源氏は明石の君のことをつねに気にしながらも、天変地異や藤壷女院,大政大臣等の死去など公の多忙のために訪れは絶えていた。女が何故もっと気楽に東院にも住まないのかと,その誇り高い態度を身分不相応に生意気だとは思うものの,やはり人気違い山肌のわびしい暮らしには同情されて,初秋のある日,例の嵯峨の御堂の常念仏にことよせて見舞いに赴いた。明石の浦に通う大堰川の水辺の情景に,彼ら2人の不思議な因縁が思われるのだった。

京都国立博物館


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