石狩炭田での朝鮮人労働
はじめに
アイヌモシリの植民地支配とそれにともなう開発において、石狩地域での石炭の採掘はその支配と開発の中心となるものだった。アイヌモシリは北海道とされ、幌内で採掘した石炭を小樽港へと運ぶなど、各地で採炭された石炭を輸送するために鉄道がひかれた。炭鉱街が形成され、港には石炭荷役の労働者が集まった。夕張からの石炭が室蘭へと運ばれ、室蘭に製鉄・製鋼工場が建設された。国家と資本の結合と癒着による植民地経営の下で、石炭と鉄を中心に鉄道・港湾が整備されていった。
石狩炭田は空知と夕張の二地区で構成される。この炭鉱地域から掘り出された石炭は戦争国家日本の動力源となった。この地域の炭鉱での朝鮮人の集団的労働は一九一〇年代後半からはじまり、労働者は植民地朝鮮から甘言によって「募集」されてきた。侵略戦争の拡大は石炭の需要を増加させ、国家と資本は労働力不足にともない朝鮮人の強制連行を計画し実行していった。石狩をはじめ釧路・留萌・天北・茅沼など北海道各地の炭鉱へと連行された朝鮮人の数は一〇万人を超えるとみられる。
石狩炭田での朝鮮人労働に関するこれまでの調査・研究についてみてみると、戦時下の朝鮮人強制労働については、北海道の委託を受けて一九九九年にまとめられた『北海道と朝鮮人労働者』が詳しく、連行先の一覧作成など、これまでの調査・研究を集約したものになっている。北海道の朝鮮人史をまとめたものが桑原真人『近代北海道史研究序説』に収録され、強制労働については朝鮮人強制連行真相調査団が一九七四年にまとめた『朝鮮人強制連行強制労働の記録』がある。『北海道開拓殉難者調査報告書』にも強制連行関係の記事がある。
石狩炭田関係の連行期の文書史料については、美唄・夕張については『戦時外国人強制連行関係史料集』Ⅲ朝鮮人2に、歌志内については『戦時下強制連行極秘資料集』Ⅱ・Ⅲに主な史料が収録され公刊されている。石炭統制会関係の統計資料は『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』Ⅰに収録されている。北海道炭礦汽船関係の史料が北海道大学付属図書館、北海道開拓記念館、三笠市立博物館などにある。北炭下の各炭鉱への連行状況と連行者数については守屋敬彦「第二次大戦下における朝鮮人強制連行の統計的研究」、長澤秀「北炭と朝鮮人強制連行」で分析されている。
連行者の名簿については一部ではあるが、住友歌志内、北炭万字・平和・新幌内への連行者名簿が発掘されている。死亡者については夕張、美唄、赤平市内の炭鉱での死亡者名が明らかになっている。また大日本産業報国会の殉職者名簿から連行初期の各炭鉱での死亡者がわかる。歌志内、赤平、芦別での過去帳調査の記録が、杉山四郎『語り継ぐ民衆史』に収録されている。ほかにも多くの先行調査があり、『北海道と朝鮮人労働者』の巻末にまとめられている。
連行期の炭鉱史跡については『空知炭鉱遺産散歩』や北海道空知支庁の作成した冊子から知ることができる。ここではそれらの資料や調査をもとに、石狩炭田(空知・夕張)での朝鮮人労働を、幌内、赤平・歌志内、美唄、夕張の順に、戦時下の連行状況と死亡者数、炭鉱史跡や碑などを中心にみていきたい。
北炭幌内と三笠の炭鉱と朝鮮の人々
①幌内炭鉱の形成と万字坑の共同墓
北海道開拓使による幌内炭鉱の開発は一八七八年からはじまる。開発にともない一八八〇年一月に幌内から札幌を経て小樽にいたる鉄道が建設され、年末には札幌まで開通した。一八八二年には空知集治監の炭山外役所がおかれ、八三年七月から受刑者による坑内労働がはじめられた。八三年十一月には幌内・小樽間の全線が開通した。
政府によって開発された産業資産の「払い下げ」の動きのなかで、幌内の炭鉱と鉄道は一九八九年に廉価で払い下げられ、北海道炭礦鉄道会社の所有となった。北炭は一八九二年に夕張と室蘭を結ぶ鉄道を建設した。一九〇六年の鉄道の国有化により同社は北海道炭礦汽船となる。このときの鉄道の国有化の利益により、北炭は室蘭に日本製鋼所と室蘭製鉄を建設し、北海道で石炭と製鉄・製鋼業を独占的に担う資本となった。
三井資本はこの北炭を支配下におく策動をすすめ、一九一三年の北炭の経営危機に乗じて支配権を握った。
戦時下、北炭幌内炭鉱は幾春別坑、美流渡坑、万字坑を支坑としていた。栗沢町にある万字坑は北炭が一九〇三年に獲得し、〇五年には夕張第一鉱万字坑として開坑した。その後、幌内炭鉱の傘下となった。
万字坑では一九一六年から朝鮮人を募集し一七年から使用している。万字坑での朝鮮人雇用の状況をみれば、一九一七年に一〇二人、二二年には三〇七人、二七年には三八五人と増加している。不況になると解雇され、三一年には三一人、三二年には七人となる。幾春別には一九一八年から、幌内では二二年からの雇用があるが、その数は二〇人以下の年がほとんどである(「北炭五〇年史稿本」『近代北海道史研究序説』二二七頁)。
万字坑での朝鮮人の歴史を示す碑が栗沢町の万字墓地にある「鮮人共同墓之碑」である。この碑は万字第一寄宿舎により一九二六年に建立された。万字坑の殉職者名簿をみると、碑ができた前年の二五年までに三五人の朝鮮人名を確認できる。三〇年までにはさらに二七人の死者がある。この墓碑は建立以後の朝鮮人死者をも追悼することになった。ここでは万字坑での連行期前の死者名を示しておきたい。
万字坑と美流渡坑については強制連行期の「鑛夫名簿」約一六〇〇人分が残っている。名簿には連行時期・募集地方・連行者出身地・前歴・職名・連行先・解雇理由・家族状況などがこまかく記されている。この名簿から両坑での連行期の朝鮮人死者数をみてみると六一人である。美流渡坑では一九四四年八月二一日午前零時頃に坑内火災事故があり、三六人が死亡している。そのうち朝鮮人二六人の名前がこの名簿からわかる。
この「鑛夫名簿」には一九四四年四月二五日付けで「軍需徴用」の万字炭鉱印が押されているものが多く、逃亡者については「逮捕」として処理されているものもある。このような表記は戦時下の強制労働を示すものである。
万字坑から出たズリが山となり、公園として整備されている。残されたズリ山は労働者の歴史を語りつづける遺産であり、墳墓のようでもある。炭住から炭鉱に行くために労働者が渡ったポンネベツ川の英橋(二代目一九三七年)や万字線の朝日駅は当時の面影を残している
(『空知炭鉱遺産散歩』一六六・一七〇・一七二頁)。
三笠地域の炭鉱へ連行状況 朝鮮の人々
三笠地域の出炭状況をみると、一九四二年には幌内五五万七千トン、幾春別十四万五千トン、新幌内四一万トン、奔別三〇万七千トン、弥生十八万五千八百トンであり、この地域から最盛期には年一六〇万トン以上の石炭が産出されていたことがわかる。この産出を現場で担うために朝鮮人が連行された。
北炭幌内炭鉱(幾春別・万字・美流渡坑を含む)への朝鮮人連行者数を石炭統制会や北炭の統計史料からみてみよう。一九三九年から四二年度分までの連行数は三四六一人である。四三年には一一九九人を連行、四四年の八月までに九〇〇人以上を連行している。連行者数は六〇〇〇人近かったとみられる。
守屋敬彦「第二次大戦下における朝鮮人強制連行の統計的研究」での連行者数調査(補足文書)においては、夕張一一三四六人、平和四五九二人、五七五八人、新幌内一九三〇人、空知七〇二三人、天塩四〇六人としている。北炭各坑への連行者の合計は三万人を超える。
この数字は北炭の炭鉱への到着数であり、朝鮮の道・郡からの引渡し数はこの数よりも多くなる。引渡され、渡航して石狩の炭鉱へと連行される途上で逃走者も出ている。連行者数を道・郡へと集められた人数を基礎として算出すれば、連行者数はさらに多くなる。
この守屋論文では、北炭が一九四二年八月から四五年六月までの間に四五〇回を超える集団的連行をおこなったことを確認している。一週間に二~三集団が石狩炭田の北炭の各鉱に連行されてきていたことになる。鉄道は石炭輸送のみならず労働奴隷運搬のためのものでもあった。
幌内・美流渡への連行については柳四守の証言がある。
『新三笠市史』には幾春別坑の『採用者名簿』をもとに七二四人分(一九四二年から四五年)が計上されている(五七〇頁)。
北炭は一九四一年十二月に昭和鉱業新幌内炭鉱を傘下としている。新幌内炭鉱への連行者数は昭和鉱業期の連行者約一〇〇〇人を合わせると約三〇〇〇人とみられる。新幌内への連行者については一九四三年九月から一九四四年八月にかけての着山者名簿の一部が残っている。北炭幌内の各坑への連行者を収容する寮は幌内八、新幌内八、万字二、美流渡三、幾春別三の計二四箇所になった(桑原真人『戦前期北海道の史的研究』二二二頁)。
住友奔別(含む唐松坑)には一九三九年十二月に全南から一二〇人が連行され、五の沢の協和寮に収容された。連行者の増加によって本沢の病院跡が収容施設へと改造されるなど、四つの収容所が建設された。五の沢は朝鮮人の集住地区となっていった(『新三笠市史』五二一頁)。連行状況をみると、四〇年には全南から奔別に二六〇人、唐松に一二四人、四一年には全南、全北、慶北から奔別に一二一人、唐松に九八人と連行している。縁故募集者を含めて、四一年末までに奔別五七八人、唐松二五二人の計八三〇人が連行された(『半島労務者勤労状況に関する調査報告』)。
四二年六月までの奔別・唐松への連行者数は一一八四人であり、四三年から四四年八月までの連行者数は約一一〇〇人であることから、連行者の合計は三〇〇〇人を超えるとみられる。
住友奔別では一九四四年一〇月一五日に日川基永がリンチによって殺されている。かれは四四年二月に慶州から連行され、一〇月十三日に逃走したが捕えられ、リンチを受けて死亡した。当時一四〇〇人の朝鮮人が在籍していたが、リンチ死を知った朝鮮人たちは全員がストライキに入っている。ストの発生を知った北炭幾春別では外出を禁止し外部からの潜入を厳戒してストの波及を防ごうとした(北炭幌内「住友奔別鉱業所半島人労務者私刑致死並罷業事件二関スル件」『北海道と朝鮮人労働者』五三五頁)。
『三笠市史』をみると「町民税賦課調書」を史料にして、一九四一年から四三年の間の三笠地域の朝鮮出身者とみられる人々の数が示されている。一九四三年分をみれば、北炭幌内一三四三人、幾春別四九八人、新幌内一〇九〇人、住友奔別八四七人、弥生五一五人の計四二九三人となっている。統計から四五年六月の在籍者数をみれば、幌内一八一五人、新幌内一五一九人、奔別一一八四人、弥生五一九人の計五〇三七人である。
ここでみてきたように、この三笠地域への朝鮮人の連行者数は一万人を超えるものであった。なお住友奔別では市街地に「性問題解決策」のため「半島銘酒屋」をおいた。幌内でも北炭が建物を無償貸与して「慰安所」を経営させ、朝鮮人女性を炭鉱の医局で検診した。連行者のなかには性の奴隷とされた朝鮮人女性もいたのである。
三笠市内には空知集治監典獄のレンガ煙突(一八九〇年)が残っている。それは坑内労働で死を強いられた受刑者たちの墓標のようでもある。三笠博物館には受刑者用の鉄丸、監獄の模型などが展示されている。柏台の墓地には集治監が一八九六年に建てた「合葬之墓」がある。そこには一九〇一年までの集治監での死者計一一五八人分が合葬されている。
北炭幌内炭鉱での死者を追悼する招魂碑(一八九八年)と哀悼之碑(一九〇六年北炭)が幌内の市街地の丘の妙法寺近くにある。
幌内炭鉱跡には、選炭場跡や幌内神社(一八八〇年)、音羽坑口(一八七九年・北海道最古の坑口)があり、ほかに原炭ポケット、常盤斜坑、斜坑捲揚モーター台座、ズリ山などが残っている。廃坑跡は瓦礫の山となり、崩れたコンクリートの鉄筋が空にむかってはじけている。坑口から水が流れ、水中の石炭塊には苔が生えている。流れる水は静かに歴史を語りかけているかのようである。
北炭幾春別坑跡は三笠市博物館近くにあり、錦坑坑口、錦竪坑櫓、捲揚機室、変電所などが残っている。一九二〇年の錦竪坑櫓の上部には北炭のマークが残っている。現存する櫓としては北海道で最も古い。三笠博物館には北炭関係資料が所蔵されているが未整理であるという。
住友奔別炭鉱の竪坑櫓は戦後の一九六〇年のものである。この竪坑櫓の近くの旧奔別小学校の跡地に、住友が一九四〇年に建てた殉職者の慰霊塔がある。一九五六年にはこの碑へと住友唐松坑の殉職者も合祀されている。弥生地区には弥生坑の坑口跡が残っている。
三笠の清住墓地には三笠で死亡した連行中国人二五人を追悼する碑がある。中国人は住友奔別、幾春別土屋組へと連行されている。この碑は一九六五年に三笠市、幌内鉱業所、奔別鉱業所、地区労、社会党、有志一同が建てたものである。そこには「歴史は君達の足跡を語る 中国の同胞安らかなれ 平和なこの地に」と刻まれている。
碑文を読んで、この地に連行されたすべての人々の尊厳が回復されるようなかたちで歴史が語りつがれているといえるだろうか、平和で安らかな状況を迎え、その恨は解き放たれたといえるだろうか、と思った。この中国人碑にある「君達」とは中国人だけをさすものであってはならない。歴史は広い意味で「君達の足跡を語るもの」であってほしい。そのような視点が確立されれば、この強制労働の現場が北東アジアの和解と平和の交流の場となるように思われた。
赤平・歌志内の炭鉱と朝鮮の人々
赤平の黎明の像
赤平・歌志内の地域には、北炭空知(含む神威・赤間坑)、住友赤平(含む歌志内坑)、三菱系の雄別茂尻、昭電豊里などの炭鉱があった。
北炭『七〇年史勤労編』(稿本)には北炭空知に一九四四年五月までに朝鮮人四九七五人を連行し、さらに七月から九月までに五五〇人を求めている記述がある(三三三頁以下)。このような史料や石炭統制会の史料などから、北炭空知へは約七千人、住友赤平・歌志内には約六千人、雄別茂尻には約二千五百人、昭電豊里には約千五百人が連行され、周辺にあった三井砂川へは六千人、三井芦別へは四千人が連行されたとみられる。これらの人々を合計すると約二万七千人となる。
住友赤平では一九四四年六月二二日に連行朝鮮人一二〇〇人が満期後の「再契約」の強要に抗議し、帰国を要求して起ちあがっている。この闘争は九州での帰国要求のたたかいを知っての行動であった(北炭空知「住友赤平半島労務者暴動二関スル件」『北海道と朝鮮人労働者』五二一頁)。
住友赤平への連行については盧元基の証言がある。
赤平・歌志内地域への中国人連行をみると、北炭赤間、住友赤平、住友赤平川口組、豊里川口組、平岸油化地崎組、北炭神威鉄道工業などがあり、連合軍捕虜も住友赤平と北炭空知へと連行されている。
赤平市の赤平公園の頂上付近に一九六六年に建てられた黎明の像がある。この像には当時、赤平の平和市民会議会長でもあった赤平市長による碑文がある。そこには、炭鉱殉職者を追悼し、未来永劫の平和を希求し、炭鉱職場の安全を祈念して建設したことが記され、「抑留外国人殉職者は戦争中生産増強の犠牲となり肉親の許に帰ることも叶わず異郷の地に果てた」とし、国際平和を求める運動をすすめるにあたり、「外国人殉職者の霊をも合祀する」と刻んでいる。この像は国際平和の立場から連行された人々をも追悼するものである。
しかし、この碑文に追悼の表現はあるが、連行による抑留の経過やその労働実態、企業や政府の責任についてはふれてはいない。
『赤平八〇年史』(一九七三年)では、赤平地域での朝鮮人殉職者数を北炭赤間二二人、豊里二九人、茂尻四一人、住友赤平0人、赤平川口組0人の計九二人としている。住友赤平では連行朝鮮人の死亡者が存在したから、この数字は正確とはいえない。その後に出された『赤平市史』(二〇〇二年)には殉職者名簿が入っている。そこには赤平分の死亡者も含まれているが、連行による虐待死や病死などすべての死亡者を示すものではない。
住友歌志内各坑は一九四二年八月に赤平鉱業所に統合されている。住友赤平・歌志内坑での死亡状況については杉山四郎『語り継ぐ民衆史』に寺院等での調査報告が掲載されている。
赤平駅の南西に北炭赤間坑のズリ山が整備されて展望広場となっている。このズリ山は戦時中の一九三八年から七三年の間に形成されたものである。ズリ山近くには選炭工場の一部が残されている。一九三九年にできた豊里炭鉱の選炭場の土台の一部も残っている。
そこには連行の歴史は記されていない。その歴史は記される作業を待っているようにも思われた。
住友上歌志内朝鮮人殉職者の碑
歌志内への連行の状況については『戦時下強制連行極秘資料集』に収録された歌志内関係史料から一九三九年から四二年までの連行状況がわかる。一九三九年に歌志内へは五〇〇人ほどが全羅南道潭陽・咸平から連行されている。四〇年には慶北高霊からの連行があった。上歌志内へと連行された潭陽一五〇人・咸平一一一人・高霊九五人分の名簿が残っている。
一九四二年度には少なくとも一〇次にわたる連行があった。連行された朝鮮人は親和寮に収容された。史料からは「募集」の経費、連行者の名前、寮内での生活の一端を知ることができる。
歌志内現地での聞き取りの報告書には、住友上歌志内の松島組は新栄町・西町の長屋を改造して朝鮮人を収容した。北炭神威へ連行された人々は鳩が丘の三棟の寮に収容された。住友歌志内では北区に親友寮、南区栄町に家族持ちを収容した。住友歌志内の寮長は一九四二年に上歌志内の労務とともに連行者を迎えにいったが、数人が逃亡した。函館で警察が逃亡した五人を引き渡した。連行された人々はわらじのようなものの底に鉄板をつけたものをはき、帰りは滑って坂道が登れなかった。それを監督が後ろから棒でたたいていた。同じ人間なのに何もそこまでしなくてもと思ったと、当時の様子が記されている(『古老が語る歌志内』)。
住友上歌志内坑で一九三九年から四五年の間に死亡した朝鮮人二二人を追悼する碑が歌志内市の安楽寺にある。この碑は安楽寺の墓地の奥に元労務担当者によって一九八〇年に建てられた。この碑には死者の氏名が刻まれているが、その経過を記した碑文はない。石狩の炭田において、現時点ではこの小さな墓碑だけが、連行朝鮮人死亡者を追悼する形で死亡者名を記している。
歌志内坑の史料にある「鉱山殉職者二関スル件」(『戦時下強制連行極秘資料集』Ⅲ二六二頁)をみると、四四年から四五年にかけての上歌志内での死亡者が記されている。その記載から、安楽寺の碑には崔龍雲、地崎組金海?修の名が欠落していることがわかる。上歌志内では二二人を超える死者がいたのである。
採炭報国の掛け声の下、死者は「名誉の戦死」とされた。死者の何人分かは朝鮮へと戻されたが、遺骨のおおくは安楽寺の慰霊塔の下に合祀されたという(『歌志内むかしばなし』第三集四五頁)。
歌志内市内には歌志内坑のズリ山跡、密閉坑口や空知炭鉱倶楽部(一八九七年)の建物が残っている。炭鉱関連の碑が神威史跡広場にある。一九二七年にできた上歌志内坑第一竪坑櫓が上歌志内バス停近くに残っている。この櫓は労働者や石炭を六〇年にわたって運んだものである(『そらち炭鉱遺産散歩』二〇三頁)。歌志内の郷土館には北炭空知の「空知鑛業所各礦配置図」が展示されていた。
三井砂川炭鉱は三井が空知で拠点とした炭鉱であった。一九四四年八月時点での朝鮮人在籍者数は二五七四人である(石炭統制組合「給源別労務者月末現在数調」『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』Ⅰ 二五四頁)。事故も多かった。歌志内・砂川・三笠での朝鮮人死亡者については、北海道平和愛泉会がまとめた名簿に記載がある(「北海道開拓殉難者調査資料」所収)。
三井砂川への連行については鄭明秀の証言がある。
三井芦別にも朝鮮人が連行されている。石炭の増産がすすめられていった一九三九年からここでの採掘が始まった。一九四四年八月の現在員をみれば一四〇五人となっている。収容所は七棟あった。三井芦別では一九四四年一〇月一日、三〇〇人がストライキを起こした。ストは黄海道新渓・谷山から連行されていた人々が中心となった。ストは再契約の強要と再契約に抵抗するリーダー三人を三井が軍要員として北方へ送ったことに対する抗議行動だった(北炭空知「三井芦別鉱業所半島労務者罷業二関スル件」『北海道と朝鮮人労働者』五三三頁)。
三井芦別については一九三九年ころ坑内へと資材類を運ぶためにつくられた材料捲が残っているという(『そらち炭鉱遺産散歩』二三七頁)。三井芦別駅舎も当時の建築である。そこは朝鮮人や中国人が連行され通過したところでもある。
三井芦別へと連行された中国人については、芦別市街から空知川を渡ったところにある旭ヶ丘公園に芦別市が建てた中国人追悼碑がある。そこには芦別の炭鉱に中国人一二〇〇人が連行されて四六八人が死んだことが記されている。しかしこの数字は正確ではない。中国人強制連行関係資料をみると三井芦別へ六八四人(内死亡二四五人)、三井芦別川口組へは六〇〇人(内死亡二七三人)とされている。この芦別での死亡率は高い。この碑は一九六四年に建てられ、七六年に中国を望む旭ヶ丘に移設された。碑の周辺は整備されているが、死者の名前はなく、政府や企業の責任についての記述もない。
芦別川口組の下で坑内労働を強いられた中国人の死亡率は四五パーセントと高い。川口組は室蘭のイタンキ浜に埋められ戦後発掘された遺骨に示されるように、連行者を虐待し、死体を無責任なかたちで処理することがおおかったようである。朝鮮半島でも川口組の虐待は地域での風評となっていた。
炭鉱は朝鮮人連行をすすめるなかで、朝鮮人用の「慰安所」をつくり、そこに朝鮮人女性を連行してきた。かの女らは性的奴隷とされた。昭電豊里の慰安所は「太陽館」といった。建物は会社が無償で貸与し指定業者が経営したというが、利用者は少なかった(「半島労務者勤労状況に関する調査報告」)。
北炭神威では、慰安所が空知と神威の中間にある歌神市街地のペンケウタシナイ川の側につくられた。住友赤平では川添町の朝鮮人寮の近くに会社が業者を入れて開設した。三井芦別では炭鉱側が開設して成績のよい坑夫には割引券を発行したという(杉山四郎『続語り継ぐ民衆史』一三〇・二〇三・二五九頁)。
3 三菱美唄炭鉱
① 美唄への連行前史を示す額
三菱美唄炭鉱は美唄駅から美唄川をさかのぼった地点にあった。
三菱美唄は三菱鉱業が北海道炭礦汽船・三井に対抗して北海道開発の拠点とした炭鉱である。この炭鉱を三菱が買収したのは一九一五年のことであり、一九一七年には二坑、三坑を開発した。朝鮮人はこの炭鉱の開発がすすむ一七年に雇用されている。一〇年後には朝鮮人数が七〇〇人を超えた。朝鮮人が増加する中で、二七年には桜ケ岡の直轄寄宿所で舎監の更迭を求めて、五一人が連判してストライキを起こした(「美唄鉱業所山史稿本」『戦時外国人強制連行関係史料集』Ⅲ朝鮮人2上一〇九頁)。
この年の十一月には、ガス爆発事故がおきて三九人が死亡したが、そのうち朝鮮人は六人だった。この事故で死亡した朝鮮人が採用されたのは二七年の七月から九月のことだった。死亡者の年齢は二五歳から三五歳にかけてであり、経歴を見ると、土木、港湾、炭鉱などで働いた後に美唄に来ている。たとえば、趙正淑は三菱鯰田・小樽の荷役、金元学は三菱方城・新入、呉俊乾は朝鮮での農業・夕張炭鉱を経て美唄に来ている(「竪坑瓦斯爆発事件」『戦時外国人強制連行関係資料集』Ⅲ朝鮮人2上 二三七頁)。
市街地であった我路のファミリー公園には一九七七年六月に建てられた炭山の碑がある。公園近くの三菱美唄記念館には鉱業所名の石板、大正期の地図、友子免状、美唄炭鉱地域の模型などが展示されている。展示品の中に、一九二三年五月一日に神社に納められた額がある。額には寄贈者の名前が記されているが、そこに日本人とともに、許億・李濟愚・李徳梧・李福祚・朴●漢・鄭徳化といった名前が記されている。三菱美唄には一九一〇年代末から朝鮮人が働いているが、この額は当時朝鮮人がこの地域で働いていたことを示すものである。
② 三菱美唄への強制連行者数
恐慌になると朝鮮人は大量に解雇されたが、戦争の拡大にともなう労働力不足によって大量に連行されるようになった。このころ、職場では産業報国が叫ばれ、労使協調から一君万民へと戦時統制が強まり、軍隊的労務管理がすすめられていった。
一九三九年の一〇月二〇日、三菱美唄への連行者の第一派三一八人が慶尚北道義城・達城などから連行され一心寮に収容された。この連行から一〇日後の三〇日には一五〇人が契約違反に抗議して入坑を拒否している。十一月六日に一一二人が連行されるが、十一日には連行者への傷害行為に対し抗議している。三菱系の雄別炭鉱への連行に際し、三菱は三菱マークのはいった戦闘帽を着用させている。美唄への連行の際も同様であったとみられる。翌年の一月には落盤で死亡した仲間の慰霊や同僚の釈放・待遇改善を求めてサボタージュやストライキをおこなっている。連行されてもこのような抵抗をつぎつぎとおこしていった。
三菱美唄への連行者数を諸史料からみてみると、一九三九年十二月末の現在員数は六五九人、四〇年三月末の現在員数は一一二一人(山史)、四一年三月までに慶北達城・永川・安東・義城から一五〇〇人を連行し、その後、安東・醴泉・青松、慶南晋州から連行した(「半島労務者勤労状況に関する調査報告」)。四二年六月までには二一五〇人が連行された(現在員数は一三六六人、協和会史料による)。一九四三年には一年で九二七人を連行、四四年一月から八月までには約八五〇人を連行している(石炭統制会史料)。連行者数の不明の月での連行者数を、連行状況から約一三〇〇人と推定すると、連行者総数は約五二〇〇人となる。
美唄には鉄道工業、黒田、原田、石崎、菅原、団、地崎、川西といった多くの下請けの組があり、そこにも多くの朝鮮人が連行されていたから、それらの人々を加えると三菱美唄への連行者総数は六〇〇〇人を超えたとみられる。
三菱美唄の場合、坑内の請負労働者の率が他の炭鉱よりも高く、一九四五年七月の数字をみると坑内五八一九人中七九八人が請負である(北海地方商工局「北海道各炭礦別労働者調」)。
連行された人々は一心寮、常盤寮、自啓寮、旭日寮などに収容され、家族持ちは清水台、常盤台、旭台、桂台などに居住した。下請の組の飯場も各所にあったが、多くがタコ部屋と呼ばれていたところである。そこは拘禁性が強く、暴力的な労務管理がおこなわれていた収容所であった。
連行されてきた朝鮮人は戦時下の労働奴隷であった。とりわけ請負の組に配置された人々への虐待と拘束性は強かった。
一九四四年七月末、三菱美唄(含む日東美唄・下請組)の労働者は約一万人、そのうち三菱が直轄していた朝鮮人は約三〇〇〇人、下請けを入れれば朝鮮人は三五〇〇人ほどとみられる。この数は北炭夕張の朝鮮人約七〇〇〇人に次ぐものであり、北炭空知(含む赤間)と並ぶ数である。
三菱美唄への連行については、丁在元、金相国、金全永(黒田組)、李基淑(黒田組)崔千守(原田組)の証言がある。
三菱美唄では一九四四年に一八九万トンの石炭を産出したが、労働現場ではここでみてきたようにたくさんの連行朝鮮人がいたのである。
解放後、三菱美唄の朝鮮人は一〇月一日から十一月一九日にかけて、五次にわたって約三千人が集団帰国している。
③ 三菱美唄での死亡者数
三菱美唄での朝鮮人死亡者はどれくらいになるのだろうか。
三菱美唄炭鉱関連での一九三九年から四五年の朝鮮人死亡者(子どもをのぞく)の数を「美唄関係朝鮮人死亡者名簿」(『戦時外国人強制連行関係資料集』Ⅲ朝鮮人2上)や「美唄朝鮮人関係死亡者調査書」から作成したところ、二七〇人を超えた。連行期の三菱美唄の死者は他の炭鉱と比べて多い。
三菱美唄では一九四一年三月通洞坑でガス爆発事故(一七七人死亡、内朝鮮人は三二人)、一九四四年五月には北部第一斜坑でガス爆発事故(一〇七人死亡、内朝鮮人は七〇人以上か)というように大きな事故が二回おきている。また下請けの組での危険な現場での労働や虐待も多い。四一年三月の事故の際、三菱は朝鮮人寮や通洞坑口の警戒を強めた。事故の二日後には坑道をコンクリートで閉鎖したため、五三人(内朝鮮人は一四人)の遺体は今も地中にある。四四年五月の事故は石炭増産運動の中でおき、報道されることもなかった。
死亡者名簿から朝鮮人が連行されてきた郡がわかる。三菱美唄には慶北の義城・達城・慶山・安東・永川・醴泉・迎日・善山・聞慶などから連行されている。三菱へと戦時中に編入された日東美唄へは慶北尚州から連行されている。
下請けの組へと連行された朝鮮人の出身郡は、黒田組は京畿道・江原道・黄海道など各地、鉄道工業は京畿道楊州・冨川ほか、団組はソウル、地崎組は陜川などである。
札幌の東本願寺別院で発見された朝鮮人の合葬遺骨にはこの三菱美唄の下請けの組である鉄道工業や黒田組に連行され放置された遺骨が含まれていた。死亡して放置され、すでに六〇年が経過している。二〇〇四年五月、鉄道工業によって連行されて死亡した具然喆氏の遺族が捜し出された。遺族によれば、具氏は結婚してすぐに連行され、現在まで行方不明のままであったという。
なお大円寺には過去帳が残されているという(北海道新聞二〇〇一年八月一〇日付)。常光寺では過去帳に朝鮮人強制連行真相調査団の調査で朝鮮人名が確認された(一九七四年報告書)。
三菱美唄記念館から楓橋をわたると奥に大きな「弔魂碑」(一九二九年三月)があり、近くに小さな慰霊碑(一九七七年六月)がある。弔魂碑には三菱鉱業取締役会長が「殉職諸氏ノ英霊ノ為」「冥福ヲ祈念」して建てたことが記されている。小さな慰霊碑は閉山後の一九七七年に三菱美唄で殉職や病気で亡くなった人々の冥福を祈り、故郷を偲んで建てたと記されている。
しかしここには死亡者の名前やその死亡者の数を知るものはなく、三菱美唄に連行された朝鮮人や中国人のことは記されていない。
美唄駅と炭鉱を結んでいた鉄道の廃線駅(東明五条)に四一一〇型の機関車(一九一九年発注・三菱神戸造船製)が残されている。戦時下この鉄道は石炭を運び出すとともに、労働奴隷としての連行朝鮮人を運送する路でもあった。
朝鮮人家族も住んでいた清水台の社宅跡地は敷地の段を残して草に埋まっている。コンクリートの橋はひび割れ、欄干が崩れている箇所もある。
美唄炭鉱の施設が集中していた一の沢の跡地は炭鉱メモリアル森林公園となり、竪坑の捲揚櫓二機(一九二三年)、原炭ポケット・炭鉱開閉所(一九二五年)の建物が残されている。一九七二年の閉山にともない、ほとんどの炭鉱施設が破壊された。市街地だった我路には廃屋が並ぶ。そこに社会党の衆議院議員だった岡田春夫の生家(一九一三年頃)が保存されていた。かれの成長と活動はこの地域の炭鉱労働者の精神によって闇の奥底から支えられていたのだろう。
労働者が入坑し、資材やズリを搬出し、入気・排気がおこなわれていた竪坑の捲揚櫓二機はあざやかな赤色に塗装され、公園は整備されていた。近くには閉ざされた坑口が残っている。それらは墓標のようである。ここで労働を強いられ、坑内に埋められたままの死者たちは、示されてはいない労働者の歴史と戦時下の連行と強制労働の史実を語り継いでいくことを求めているように思われた。
すでに連行期の朝鮮人使者については明らかになっているので、ここでは連行前期の三菱美唄での朝鮮人死者の名を示して追悼のための資料としたい。
④ 三井美唄の朝鮮人寮跡
三井美唄炭鉱へと連行された朝鮮人は約四〇〇〇人とみられる。三井は全羅南道から連行してきた。死亡者名簿から、連行者の出身地を見ると、谷城、宝城、求礼、長興、羅州、和順、海南、康津、済州島、莞島、霊巌、務安などであり、慶南の密陽、河東などからも連行している。連行期の子どもをのぞく朝鮮人の死亡者数は約一四〇人である。
三井美唄炭鉱跡地には当時の建物が残されている。朝鮮人寮として使われていた建物の一部は改築され、幼稚園として使用されている。三井のマークをつけたこの建物は一九三三年ころのものであり、南美唄町下五条三丁目にある。
ほかにも三井美唄炭鉱事務所の建物や一九二八年頃に建てられた炭住が転用されて残っている。山神の近くに三井美唄炭鉱跡の碑(一九六四年美唄市建立)があり、一九二八年から六三年にいたる三五年の炭鉱の歴史の概略が記されている。旧炭鉱厚生館の建物の近くに慰霊の碑があり(一九七八年建立)、閉山十五周年行事として、生命を捧げた人々を慰霊する旨が記されている。
三井美唄には朝鮮人・中国人・連合軍捕虜が連行されていた。日本人の労働者のみならず、この中からも多くの死者がでた。その歴史を記した碑はここにもない。
『美唄市百年史』には美唄の炭鉱の歴史が詳細に記されている。
4 北炭夕張炭鉱
① 連行前史を示す夕張の「神霊之墓」
夕張地域には北海道炭礦汽船の夕張炭鉱と平和炭鉱があり、平和炭鉱は平和坑のほかに登川坑、真谷地坑、角田坑の支坑をもっていた。また三菱の大夕張炭鉱もあった。
戦時下、この夕張地域へと連行された朝鮮人の数は北炭夕張に約一万四千人、北炭平和に約五千人、三菱大夕張に約四千人とみられる。この夕張地域には二万人を超える朝鮮人が連行されてきたことになる。
この夕張での朝鮮人労働の歴史をみると、一九一二年末に夕張の石狩炭鉱での朝鮮人の労災死の記事があり、一九一六年には北炭夕張炭鉱に三五人の在籍が確認できる。はやくから夕張で朝鮮人が働いていたことがわかる。
北炭は一九一七年に釜山と元山を拠点に大規模募集を始めていく。一九一八年の北炭の夕張・新夕張・平和の各坑の朝鮮人数は計五五七人となり、一九二八年には一一三三人となった。北炭のほかの炭鉱の朝鮮人数をみておけば、一九二八年には、万字三六〇人、幌内一〇人、幾春別七人、空知二人であり、夕張地域での朝鮮人数が多かったことがわかる(「北炭五〇年史稿本」『近代北海道史研究序説』二二七頁)。
夕張炭鉱へと「募集」された朝鮮人は高松一区の棟割長屋に収容されるようになった。一九一七年六月には平和(若鍋)で一六五人がストをおこない、一九一八年三月には釜山経由で八二人が夕張に連れられてきたが、労働実態を聞いて就労を拒否、周旋人に対して抗議した(同書二三三頁)。「募集」は甘言による勧誘であり、当初から抵抗が起きていたことがわかる。
北炭の統計によれば、一九二四年から三六年までの北炭各坑への募集朝鮮人(含む志願者)七三四九人のうち、逃亡は一七八七人に及び、死亡は一四一人となっている。逃亡率は約二四パーセントである。一九二四年をみれば、増員が一〇九三人、減員が八八四人であり、そのうち逃亡者が三五七人と多い(「北炭五〇年史稿本」前掲書二三五頁)。
これらの例から、北炭による植民地朝鮮からの「募集」による労働は現場での多数の逃亡者を生み、死亡者も多かったことがわかる。
一九二八年の北炭夕張の朝鮮人数は七〇一人、三菱美唄は六〇三人、雄別(含む尺別)は五六六人であり、この頃から、三井系の北炭や三菱、三菱系の雄別が朝鮮人を雇用してきたことがわかる。当時、北海道での三井系の朝鮮人数をみると一四〇〇人を超え、三菱系の朝鮮人数は二二〇〇人近くとなっている(『在日朝鮮人と日本労働者階級』一〇六頁)。このような朝鮮人使用の経験が、戦時下で朝鮮人強制連行強制労働につながっていったといえるだろう。
朝鮮人の増加は朝鮮人自身の団結を生んだ。一九二〇年の全日本鉱夫総連合会夕張連合会の組織をみると、理事に河応図、金南周の名がある(『北海道社会運動史』八二頁)。日本人による団結組織形成のよびかけに答えて、民族的に結集しつつ階級的な団結がめざされていたのだろう。
この一九二〇年には夕張の北上坑でガス爆発がおこり、二〇九人が死亡している。死亡者の名前が刻まれた碑の中に朝鮮人名がひとりある。
夕張での大きな事故での死亡者数をみると一九〇五年一月三六人、一九〇八年一月九一人(新夕張)、一九一二年四月二六七人、同十二月二一六人、一九一四年十一月四二三人(実際は六〇〇人以上という、若鍋坑)一九二〇年一月三三人(若鍋坑)などがあり、一九〇五年から二〇年の大きな事故の死亡者を合計するだけでも一四〇〇人近い数となる。
労働者の団結はこのような状況下で生まれていったが、運動は弾圧された。北上坑の死亡者名を刻んだ碑はこのような団結の時代の影響をうけてつくられたものである。大きな事故での死亡者の名前を刻んだものはこの碑だけである。一九三〇年までの夕張坑と若鍋坑での朝鮮人死亡者は九三人に及ぶ(加藤編『戦時外国人強制連行関係史料集』Ⅲ朝鮮人2中・所収の統計による)。
この時期の朝鮮人死者を追悼するものが夕張の末広墓地にある「神霊之墓」である。
この墓碑は夕張砿寄宿舎朝鮮人有志一同によって一九三〇年九月に建てられた。碑文に発起人の金一鳳、金鎬聲、金正伊、崔鉉佶、黄萬源、金憲郷、崔昌漢、朴京龍の名がある。死者の名前はない。
末広墓地の友子の墓には朝鮮人坑夫として渡辺昌浩の名があり、登川坑の楓墓地には友子の坑夫名として梁茂振、文徳三、金在裕らの名がある。かれらは三〇年代前後にこの地で働き暮らしていた朝鮮人労働者である(『わが夕張』三三二頁~)。
一九三〇年には不況のために朝鮮人が解雇され、一九二九年に北炭全体で一二〇五人いた朝鮮人が三二年には七〇人となっている。
三〇年代前半の朝鮮人の死者数は少ないが、三八年以降は増産と連行がすすみ、死亡者が増加する。一九一三年から四五年の間の夕張地域での労災での朝鮮人死亡者数は判明しているだけでも、二七六人に及ぶ(『戦時外国人強制連行史料集』Ⅲ朝鮮人2中一二〇五~六頁)。
平和坑や大夕張の死者については不十分なものしか残されていない。また病死者で欠落しているものも多い。夕張地区での朝鮮人労働者の死者数は五〇〇人を超えるであろう。
夕張での日本人を含めての労働者の死亡者数についてみれば、労災の統計によれば、一八九三年から十二年の間で七七四人、一九一二年から二六年の間で一六六五人、一九二六年から四五年の間で一四六七人が死亡している。これだけで四〇〇〇人近い。この統計では一九二六年から四五年分にかけて平和坑(本坑)分の死者が欠落している。三菱大夕張分の統計も不十分なものである。また病死者も欠落している。このような数字から、病死を二〇〇〇人とすれば、開発から敗戦までの間に、夕張地域で労災・病気によって生命を失った労働者の数は六〇〇〇人ほどになる。事故で身体を破壊された人たちも多かった。死亡者の正確な数は不明であるが、この夕張の炭鉱地帯は、戦争と増産の中で、数千人におよぶ数多くの労働者の生命を吸ったのである。
夕張地域で朝鮮人の追悼碑は末広墓地の神霊之墓しかない。現状ではこの墓碑が連行朝鮮人の死者をも追悼する碑の役割を果たしている。
北炭は、聖恩寺に慰霊堂を建てて供養したという。札幌の聖恩寺によれば、北海道炭鉱慰霊堂内には戒名や俗名が記された位牌があるが、死亡者の名簿類はないという。
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