松平美濃守吉保 甲斐国志
松平美濃守吉保『甲斐国志』一部加筆
『武家補任』云う
柳沢刑部左衛門安忠の二男始め柳沢弥太郎保明
神田御屋形ノ小姓也、
柳沢氏ハ本州武河衆の一員なり
御本丸ニ被為入節為に御小納戸(延宝九年の『武鑑』に見える)
- 貞亨二年()丑十二年廿八日、任官出羽守従五位下
『諸家盛衰録』云う、
- 貞享三年寅正月十一日加賜千石(合弐千参拾石)
- 貞享五辰年御側御用人補任に、
- 貞享五年九月十二日、十一月十二日加え壱万石
『古今城主記』に
- 元禄三年午上総佐貫とあり不記高、蓋し此の時也)
- 元禄三午三月廿五日加、弐万石 拝借金三千両
『補任』云、
従四位下
『古武鑑』に
泉州大鳥高三万弐千参捨石
- 元禄五年申十一月十四日、加三万石、
- 元禄七年戊正月七日(『補任』八日)
- 加、壱万石合 (総高)七万弐千三拾石、為武州河越城主
『補任』云
- 元禄七年十二月、任侍従
- 元禄十一年七月廿一日
任、少将
- 元禄十丑年七月廿一日
加、弐万石
- 元禄十四巳十一月廿六日、
私邸に渡御の時、父子松平の御氏号並御諱一字を賜わる、称、松平美濃守吉保。
- 元禄十五午三月九日
加、壱万石
- 宝永元申十一月廿一日
加、五万石
都合、拾五万石余
賜本州三郡一円領之
- 宝永二年酉二月
御朱印有之、
- 宝永二年十九日引渡なり、
吉保始懇望し被封于本州一恵林寺不動明王へ祈願の一封の願書を捧置きしが受封後ニ解願卸祈願書上京せり、
柏尾山に奉納の画幅あり、記云、奉蔵観世音菩薩画像一灯、武州河越城主従四位下行侍従兼出羽守源朝臣柳沢保明と
あり
『補任』に
- 宝永二年酉二月十九日
本州領分御引渡シ城番並に代官(野田勘兵衛、遠藤次郎右衛門、飯島八右衛門、前島小左衛門也、河東の御料所並に
給所共平岡次郎右衛門、雨宮勘兵衛両人請取之、
即チ松平美濃守の役人(柳沢権太夫、平岡宇右衛門、薮田五郎左衛門、柳沢帯力)へ相渡す(但駿州富士都八千石余
の内は給人へ引渡す)
- 宝永六年丑六月三日
隠居
- 宝永六年十月十日
除髪 号保山
- 正徳四午十一月二日 卒年五十七
法諱〔永慶寺殿甲陽羽林次将保山源養居士〕
(墳寺等の事は古府の条に詳なり)
伝云う、吉保本州拝領ノ時於御前詠歌一首ヲ上ル如左
ぬくみある君につかへしかひありて雪のふる道いまそ踏みん
一条一連寺所蔵吉保肖像(狩野養朴筆)
上に自詠の和歌二首載す、
云う、仙洞叡覧吉保所詠名所百首の内御長点の歌
嵐吹生駒の山の秋のそら曇りみはれみ月そ更ゆく
朝日かけきらす手つくり露ちりて垣ねにみたす玉川の里
- 宝永八年二月
於同寺吉里所詠和歌
池水のすめるところの長閑さを問はゝ千年の松やこたへん
府中八幡宮住吉社等に奉納の和歌あり、各々社記文古蹟部にも記せり。
松平甲斐守吉里 吉保ノ男、幼名、網干代又は柳沢兵衛安暉と云う。
元禄 年
任越前守
- 元禄十四年
賜御氏諱改、松平伊勢守吉里
- 宝永六年丑六月廿八日
家督改甲斐守四品侍従に至る(按に宝永三年の八月、望まれて古府八幡宮奉納百首和歌の尾に記して曰く、従四位
下行侍従兼伊勢守源朝臣吉里、「武家補任」に家督の時叙任と記せるは非なり)
- 享保九年辰三月
和州郡山へ本高得替えなり。按に本州三郡高弐拾弐万八千七百六拾五石八斗六升五合四勺之内拾五万千弐百八拾八石
七斗三升七合(本知行高なり)七万七千四百七拾七石壱斗弐升八合四勺(内高)
外二五万四千弐百四拾六石弐斗四升式台九才(新田ノ高)
弐万八百拾七石九斗弐升壱合七勺(都留郡御預り、但し宝永三成七月より正徳三己九月に至る)
【註】柳沢吉里 – Wikipedia
柳沢吉保の長男として生まれる。父の吉保は第五代将軍・徳川綱吉に寵愛された側用人で、宝永元年(一七〇四)に甲府藩主・徳川綱豊が将軍後継として綱吉の養子となり、江戸城に移った際に甲斐を拝領し、甲府藩主となっていた。
元禄十四年(一七〇一)には父と共に綱吉から偏諱を授かり、吉里と名乗る。宝永六年(一七〇九)に綱吉が死去して第六代将軍に家宣(綱豊)が就任すると、同年六月には父の吉保も致仕して隠居したため、家督を継いで甲府藩主となる。父の吉保は終生幕閣にあり、国元へ入国して直接藩政に携わることはなかったが、吉保期に甲府藩では都留郡を預地として甲斐一円を支配し、甲府城の修築や城下の整備を進められていた。また、甲府藩では前代の徳川一門の藩主も江戸定府で甲府城へ入城することはなく、翌宝永七年(一七一〇)五月に吉里が甲府城へ入城すると、甲府藩は初めて藩主を国元に迎えることとなった。吉里は藩政において、慶長以来検地が行われず、幕領と旗本領が入り組んでいた笛吹川以東の山梨郡栗原筋、八代郡大石和・小石和筋の村々に対して検地を実施し、用水の整備など勧農政策も行った。
また吉保の隠居に際して、庶弟である経隆と時睦には藩領内の山梨・八代両郡のうちの新田高をもってそれぞれ一万石を分与され、甲府新田藩が立藩した。享保九年(一七二四)には享保の改革における幕府直轄領の拡大政策が行われ、甲斐の直轄領化に伴い吉里は大和郡山藩主として移封され、甲斐一国は甲府勤番と代官支配となった。なお、経隆は越後黒川藩、時睦は越後三日市藩へ移封されて共に幕末まで代を重ねた。
吉里は父譲りの学問好きで、郡山藩政においても基礎を固め、名君とも評されている。延享二年(一七四五)九月六日に死去した。享年五九。跡を四男の信鴻が継いだ。
明治維新の後、新政府により廃藩置県が行われて大和郡山藩が消滅したが、明治十三年(一八八〇)、旧郡山藩士族が初代藩主の吉里並びにその父の吉保の遺徳を偲び、旧大和郡山城跡に父子を祭神とする柳沢神社を創建した。
【年譜】一部加筆
◇ 貞享四年(一六八七) 生まれる
◇ 元禄四年(一六九一) 将軍・徳川綱吉に初見
- 元禄一四年(一七〇一)十一月二十六日、松平の苗字を許され、将軍・綱吉の偏諱を授かり吉里と改める。
- 元禄十二年(一六九九)十二月三日、従四位下に叙位。越前守に任官。
- 元禄十四年(一七〇一)十一月二十六日、伊勢守に遷任。
- 元禄十五年(一七〇二)十二月一日、侍従を兼帯。
- 宝永六年(一七〇九年)六月三日、父・吉保が隠居し、柳沢家を相続。
- 宝永六年(一七〇九年)六月二十八日、甲斐守に遷任。侍従如元。
- 享保九年(一七二四年)三月十一日、大和国郡山藩に転封。
- 延享二年(一七四五年)九月六日、卒去。
松平刑部少輔安通 吉保の二男、初め云、横手伊織
- 宝永六丑年
依願分知新田の内壱万石
- 享保九年
賜越後蒲原郡の内壱万石、引替ふ在所黒川と云う、後改め名を経隆、号随雲軒「除禄」に曰く至其男刑部少輔里済ノ時復称柳沢氏子孫之同
【柳沢経隆(やなぎさわつねたか)】Wikipedia 一部加筆
※ この記事では吉保の四男となっている。
幼名は安通、伊織。
- 元禄七年十一月十六日、江戸神田橋邸にて生まれる。享保十年八月二十三日、卒
甲斐甲府新田藩主、のち越後黒川藩の初代藩主。
柳沢吉保の四男。母は側室正親町町子(田中氏とも)。正室は大納言正親町実豊の娘・直子。
官位は従五位下、刑部少輔。
- 元禄八年(一六九五)六月十九日、将軍徳川綱吉の命令を受けて横手姓に改姓した。
- 元禄十四年(一七〇一)十一月二十六日、松平姓を名乗ることを許される。
- 宝永六年(一七〇九)六月三日、父より一万石を分与されて甲府新田藩主となった。
- 宝永七年(一七一〇)四月七日に元服する。
- 享保九年(一七二四)閏四月二十八日、甲斐から越後黒川に移封された.
- 享保十年(一七二五)八月二十三日に三十二歳の若さで死去した。子がなく、跡を養嗣子の里済が継いだ。
法号は〔実山勝義天休院〕。墓所は東京都新宿区市ヶ谷河田町の正覚山月桂寺。
松平式部少輔時陸 柳沢吉保の三男也。初め云う横手左門
依願分知新田の内壱万石得替蒲原郡三日市壱万石、
嗣于称、松平弾正少弼保経、実ハ吉保ノ五男也
保経ノ男刑部少輔信著ヨリ、復柳沢氏子孫同之
吉保には五男五女アリ
柳沢保成 柳沢吉保の四男
第四男保成は米倉丹後守ノ嗣、更に米倉主計忠仰、五男は保経也
五女は松平右京大夫輝貞、黒田豊前守直重、土屋出羽守定直、内藤山城守政森、大久保加賀守忠英の室と為りぬ。
【参考資料】三日市藩 - Wikipedia 一部加筆
享保九年(一七二四年)三月十一日、柳沢吉保の長男・柳沢吉里は甲府藩から大和国郡山藩へ移封された。このとき、甲府藩の支藩で一万石を領有していた吉保の五男・柳沢時睦は越後三日市に一万石の所領を与えられ、ここに三日市藩が立藩することとなった。
時睦はわずか三ヶ月の在職で家督を弟の柳沢保経(吉保の七男)に譲ったため、治績はほとんど無い。保経は江戸城警備・大坂と駿府の加番・日光祭礼奉行などを歴任して活躍した。
しかし成立直後から、もともと小藩であった上、藩主が江戸定府で膨大な出費が続いたため、藩財政は極度に悪化した。このため、天保十四年(一八四三)頃には藩の借金が二千百九十両というとんでもない額になったと言われている。このため文政年間に財政再建を主とした藩政改革が試みられたが、失敗してしまい逆に藩財政をさらに悪化させるに至った。
幕末期、三日市藩は外国船の到来に備えて、軍備増強に多額の経費を投入した上、幕府から新潟町の関屋・青山海岸や江戸飛鳥山近辺の警備を命じられた。おまけに第八代(最後の)藩主・柳沢徳忠の家督相続による費用、安政の大地震での藩邸復旧費用、朝廷に対する費用などの出費も重なって、遂に藩財政は破綻寸前を迎えた。ちなみに歴代藩主の中で藩に入ったのは、最後の藩主・柳沢徳忠だけである。明治元年(一八六八)の戊辰戦争のとき、三日市藩は新発田藩と行動を共にした。翌年、版籍奉還により徳忠は三日市藩知事となる。
明治四年(一八七一年)七月十四日、廃藩置県により三日市藩は廃藩となって三日市県となる。
明治四年十一月二十日、三日市県は新潟県に編入された。
柳沢備後守信尹(父ハ孫之丞、信尹は初め八郎左衛門と云う。
御目付を勤め九百石
「補任」に曰く
- 宝永七閏八月十一日、任豊後守
- 宝永八年四月十二日之を改める、
【参考資料】柳沢 信尹(やなぎさわ のぶただ) Wikipedia 一部加筆
養子 旗本山高信吉(武川衆)の次男
江戸幕府旗本。官位は従五位下。柳沢吉次の養子。旗本山高信吉の次男。実母は柳沢安忠の娘。
通称は助九郎のち八郎右衛門、豊後守、備後守。妻は、横山刑部左衛門の娘。後妻は、山高信澄の娘。
- 万治二年(一六五九)生まれ
- 寛文四年(一六六四)一二月十日、養父・吉次の家督を継ぐ(三百俵)。小普請入り。
- 延宝七年(一六七九)二月三日、大番の番士となる。
- 元禄三年(一六九〇)九月二十五日、大番組頭となる。
- 元禄六年(一六九三)十二月十八日、百俵加増される。
- 元禄十三年(一七〇〇)二月十五日、船手頭となる。
- 元禄十三年(一七〇〇)十二月二十二日、二百俵加増される。
- 元禄十四年(一七〇一)三月、蔵米を知行地に改められて、新たに武蔵国多摩郡上・下小山田村、都筑郡恩田村に六百石
を与えられる
- 元禄十六年(一七〇三)三月十五日、目付となる。
- 宝永三年(一七〇六)十二月十五日、武蔵国多摩郡下柚木村、相模国愛甲郡林村に二百石を加増される(都合八百石)
- 宝永四年(一七〇七)十二月一日、作事奉行となる。翌日、宗門改役を兼任する。
- 宝永五年(一七〇八)二月十五日、江戸城吹上花畑(後の吹上御苑)の営築を命じられる。
宝永六年(一七〇九)十一月二十二日、日本に密入国したイタリア人宣教師のシドッチが江戸小石川の切支丹屋敷に収監されると、当時宗門改役を務めていた信尹は儒者の新井白石らと共に彼の取調べを行った。
- 宝永七年(一七一〇)閏八月十二日、徳川綱重霊廟の造営奉行に任じられる。
- 正徳二年(一七一二)十一月二十五日、紅葉山・徳川家宣霊廟の作事奉行に任じられる。
- 正徳五年(一七一五)二月二十三日、宗門改役の任を解かれる。
- 享保四年(一七一九)四月十九日、鷹坊造営の功により褒詞を賜る。
- 享保四年(一七一九)来日した朝鮮通信使の応接役を務める。
- 享保六年(一七二一)十月十五日、寛永寺本坊の修理を命じられる。
- 享保九年(一七二四)一月十一日、槍奉行となる。
- 享保九年(一七二四)七月十五日、死去。享年六十六歳。宗参寺(実家・山高家の墓所)に葬られる。法名、信尹
子に柳沢信孝、酒井忠道(酒井忠成・養子)、娘(赤井盤公・養女)、娘(大久保忠香・養女)、娘(武田(川窪)信安・養女)、娘(兄信孝・養女)、娘(山高信蔵のち植村泰郡・妻)、娘(神保定興・妻)ら七男九女がいる。
信尹の死後、長男の信孝が家督を継いだ。
柳沢源七郎
父ハ彦左衛門、五百石御船奉行、一に四百五拾石雖も今四百三拾俵ナリ
柳沢弥四郎
七百石。以上皆幕府に奉仕する。
○柳沢美作 柳沢弾正 柳沢主馬 以上三人は一族衆、又大寄合上至藩中に在り
○家老六人 柳沢権太夫保格(三千石、始曽根氏、其男保誠始云保教其嗣里恭なり別伝に委し、
柳沢市正(三千石、始薮田五郎左衛門守重と云う、男筑前部屋に住にて百人扶持)
鈴木主水(弐千百石、又主馬とも大内蔵とも記せり、父子二代なりや否未考)
近藤図書(千五百石、後ノ記に同大学為中老其の男か)
川口石見(千三百石)
柳沢失柄(千六百石)
柳沢帯刀(弐千石以下寄合)
松平造酒之丞(千三百石始九左衛門)
酒井内膳(千三百石)
溝口平太左衛門(八百石)
柳沢主殿、荻沢源太左衛門
○城代二人 柳沢隼人(千石)
平岡将監(千石、父宇右衛門資因は御料御代官平岡四郎兵衛の二男なり)
〇中老、寄合、番頭、旗奉行、鎗奉行、留守居、物頭、以下諸役人繁多なれば略して記せず。
○寺社奉行三人 細田半助(五百石)
大山五左衛門(四百石)
山東久左衛門(四百俵)
○郡代三人 三好与左衛門(四百五拾俵)
山口八兵衛(三百石)
福井惣左衛門(四百五拾石)
○町奉行二人 青木左兵衛(三百五拾石)
稲生治左衛門(百五捨石)
- 享保九辰年三月、依召参府
- 享保九年辰十一日、大和国郡山へ場所酋被仰付
郡山の城付七万八千七百五拾石
(河内国) 千弐百五石
(近江国) 五万八千百九拾石七斗五升五合
(伊勢国) 壱万三千百六十石九斗八升
(四箇国合)拾五万千三百五拾壱石七斗三升五合
外 二弐万五千石 於越後国舎弟両人(刑部少輔、式部少輔)へ被下
- 享保九年四月十二日、御代官三人被仰付拾万弐百七拾弐石弐斗七升(奥野思兵衛)
九万四百六拾八石壱斗八升八合三勺九才
(亀田三郎兵衛内三百三拾七石勤番支配御役知)
九万二千弐百七拾壱石六斗四升九合壱勺
(小宮山杢之進内千六百六拾三石勤番支配御役知)
- 享保九年六月十一日、上使(御使番)竹中主水(御小性組)酒井監物(去九日当着)御代宮川原清兵衛(五月中当着国中明細帳請取都留郡支配ナリ)
御城講取在番(遠州浜松領主七万石)松平豊後守資言(去九日国府村着、但シ江戸家老沼野内蔵介一日以前当着、十一日引渡シ相済)
〇 甲斐守家来引渡万(家老)鈴木大内蔵(同)川口石見(城代)平岡将監(中老)豊原図書、根津丹下(番頭)的場甚太夫、酒井外記、永井彦太夫以下也
○ 在番 (豊後守家老八百石)川瀬勘石衛門 (同番頭五百石)鞍岡三郎右衛門 (同用人)山本仙蔵、小出保太夫(同大目付)神尾伊太夫 (同中目付)二人 (物頭)四人 (留守居使番)
以下、六月十一日から十月廿六日まで之を衛る(但し六百人扶持四万石ノ軍役なりと云う)
〇 六月中御代官奥野思兵衛着ス当分在町寺社共に兼帯川原清兵衛より講取之(帰命院旅宿也、是在古治所上一条続)
〇 七月四日甲府勤番支配両人被仰付、三千石高諸太夫御役知千石宛、小普請組支配より有馬内膳(改出羽守)奥津能登守也
〇 八月十三日勤番万弐百人石両人只今まで支配の内より被仰付(五百石以下弐百石以上)内二組頭四人此御役料三百俵づつ与力弐拾騎(弐百俵以上)馬役二人、同心百人、小人弐拾人、十月中退々引越し甲府住居なり。
〇 九月廿二日着(御勘定奉行千五百石)稲生下野守(御目付千石)長田三石衛門(御勘定組頭三百五拾俵)八木清五郎(平衡勘定)弐人、御徒目付、御小人目付以下なり国万諸岡見分、十月九日奥野思兵衛より有馬出羽
守へ御城下支配引渡、
〇 九月二十六六日、豊後守家来より在番引渡し長田三石衛門立会なり(但し能登守は十一月十二日当着)
- この後甲斐は勤番支配となっていく。
甲府勤番支配
一甲府勤番支配(三千石高、御役知千石、但し六百七拾石は小佐手村、三百三拾石は上塩後村にて渡る)大手に御役宅あり、同組頭弐人(御役料三百俵宛)勤番士百人与力拾騎、同心五拾人(以上追年交替進退あり今官省略して不記)
仮目付五人、仮役御武具奉行一人、同御破損奉行壱人、同御蔵立合壱人(以上勤番士の内より勤む)勝手組小普請八人、
両支配御小人拾七人、御破損手代弐人、町年寄弐人、問屋壱人、牢番弐人
- 享保九辰七月四日、小普請組支配ヨリ同十巳五月廿八日大目付へ 奥津能登守忠閭
- 享保十巳六月十八日、小普請組支配ヨリ彼地へ不罷越同九月廿五日 依願御免 伊丹覚右衛門晴友 任摂津守
- 享保十巳十月十八日、小普請組支配ヨリ同十二末七月六日 病気依願御免 曲淵下野守景衡
- 享保十二末七月十二日、小普請組支配ヨリ同十四酉九月九日 於甲府病死 曽我平次郎長祐 任丹波守
- 享保十四酉九月二十八日、小普請組支配ヨリ同十九虎九月十二日 於甲府病死 松野八郎兵衛輔 任豊後守
- 享保十九寅十月八日、小普請組支配ヨリ元文三午十二月十八日 右衛門尉殿家老へ 建部民部少輔広充
- 元文四禾正月十一日、小普請組支配ヨリ延享三寅八月十四日 病気依願御免 久留島数馬通富 任出雲守
- 延事三寅九月七日、百人組ノ頭ヨリ寛延三午十月二日 病気依願御免 坪内惣兵衛定堅 任伊豆守
- 寛延三午十月十八日、小普請組支配ヨリ宝歴五亥八月廿八日 石衛門殿家老へ 奥田八郎右衛門忠英 任備後守
- 宝歴五亥八月廿八日、小普請組支配ヨリ同十三未十二月十五日 御持簡頭へ 川勝左京忠英 任近江守
- 宝歴十四申正月十一日、百人組ノ頭ヨリ明和三成四月十日 病気依願御免 松平軍次郎康年 任河内守
- 明和三成四月廿二日、小普請組支配ヨリ安永五申十月十五日 一ツ橋殿家老へ 山口兵庫直今 任出雲守
- 安永五申七月廿四日、百人組ノ頭ヨリ天明四辰四月廿九日 病気依願御免 松平隼人忠孝 任下野守
- 天明四辰五月十日、百人組ノ頭ヨリ同八申八月十四日 病気依願御免 戸田大学忠諏 任下総守
- 天明八申九月廿八日、御持簡頭ヨリ寛政七卯十二月十二日 御鎗奉行へ 大久保式部教近 任遠江守
- 寛政七卯十二月十二日、小普請組支配ヨリ同十午十二月八日 御小姓紆番頭へ 近藤左京政明 任淡路守
- 寛政十午十二月廿三日、小普請組支配ヨリ文化二丑七月廿五日 西丸御小姓組番頭へ滝川長門守利雍 後出羽守
- 文化二丑八月三日、百人組ノ頭ヨリ同四卯八月廿四日 西丸御小姓組番頭へ松平侶之允定能 任伊予守
甲府勤番支配
三千石高御役知千石、但シ三百三拾七石、南八代村百九拾六石四斗五升壱合、尾山村四百六拾三石六斗八合石村ニテ渡ル
宝暦四戌年尾山、石村ノ代地五百弐石四斗四合竹森村上切、百三拾七石九斗七升七合別田村ニテ渡ル合セテ九百七拾七石三斗八升壱合ナリ、山手ニ御役宅アリ同紙頭弐人(御役料三百俵宛)勤番士百人、与力拾騎、同心五拾人(以上右同断省略之)
仮目付以下御役名同右勝手組小普請六人
- 享保九辰七月四日、小普請組支配ヨリ新規、同十三申正月十一日 大目附へ 有馬内膳純珍 任出羽守
- 享保十三申正月十一日、小普請組支配ヨリ同二十卯五月廿五日 甲府府御料金紛失之
儀ニ付不時ノ取扱有之本多伊予守於宅御役被召放 宮崎七郎右衛門成久 任若狭守
- 享保二十卯六月十一日、小普請組支配ヨリ寛保元酉五月二日 病気依願御免 永見新石衛門為位任伊賀守
- 寛保元酉五月十五日、小普請組支配ヨリ延享四卯九月廿五日 大目附へ 能瀬市十郎頼次 任印旛守
- 延享四卯年正月十五、日小普請細支配ヨリ寛延四末八月廿三日 西丸御持弓頭へ 長谷川久三郎正誠任讃岐守
- 寛延四未八月廿三日、小普請組支配ヨリ宝暦八寅七月十九日 病気依願御免 柴田七左衛門康闊任日向守
- 宝暦八寅七月廿八日、小普請組支配ヨリ安永四未四月朔日 御槍奉行へ 八木十三郎盈適 任丹後守
- 安永四未四月十二日、小普請組支配ヨリ天明元丑八月廿六日 御槍奉行へ 渡辺図書貞綱 任図書頭
- 天明元丑九月十日、西丸御持簡頭ヨリ同五巳十二月七日 病気依願御免 加藤登之助泰朝 任駿河守
- 天明五巳十二月十五日、百人組ノ頭ヨリ寛政元酉閏六月十二日 思召有之御役御免 安藤内蔵助広峯 任出雲守
- 寛政元酉閏六月十二日、新番頭ヨリ同十午正月十一日 御小姓組番頭へ 永見伊予守為貞
- 寛政十午二月二日、新番頭ヨリ享和二成就病気養生願之通出府被仰付
同九月十九日、於江戸表病死 松平内蔵允信愛 任主計頭後伯耆守
- 享和二成八月廿一日、百人組ノ頭ヨリ同三亥七月十四日、 於甲府病死 牧野半右衛門忠義 任播磨守
- 享和三亥八月廿一日、百人組ノ頭ヨリ文化三寅三月十六日、 病気依願御免 酒井内記忠貞 任壱岐守
- 文化三寅四月三日、百人組ノ頭ヨリ 大久保志摩守忠道
〇 甲府御代官奥野忠兵衛(元御勘定組頭ヨリ願ニ付被仰万共ニ兼帯帰命院ヲ仮ノ陣屋トス
- 享保十年巳二月、於元樹木地、参千五百坪余相渡り建治所地続長禅寺前称甲府陣屋城内御米倉立合御役料三百俵、御蔵方手代上役三人下役三人附属ス御代官所高拾万石余
- 享保十九寅年、小普請入跡役山田治石衛門被仰付以下交代略之)
〇 上飯田御代官亀田三郎兵衛(本卜飛弾国ヨリ代ル享保九年本州御代官被仰付上飯田村ニ建治所高九万石余、同十一年未月
日病死、跡甲府石和当分御預り。
- 文化十四酉年、坂本新左衛門代之後交代並に支配高増減数々相代リ、天明七年未七月當陣屋明キ取払ニナル。
〇 石和御代官、小宮山杢之進、本ト下総支配、享保九年引替ル、御代官所高九万石余外ニ関東四万六千石兼之、
享保十九寅年、小普請、八代増田大兵衛、高拾弐万石トナル自上飯田加弐万石ナリ、当陣屋ハ寛文元年甲府殿河西御領分
ノ時平岡勘三郎遷治所建之)
〇 都留郡弐万八百拾七石九斗弐升壱合七勺、御代官河原清兵衛如前(後代ニ斉藤喜六郎)
〇 当今治所四分ナリ(但シ都留郡谷村ノ治所属石和御代官所高ニ合ス)
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