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墨田沿岸に碑文を訪れて江戸を偲ぶ  十一、十返舎一九の碑  長峰光壽 氏著

2024年08月06日 09時31分30秒 | 文学さんぽ

墨田沿岸に碑文を訪れて江戸を偲ぶ

 十一、十返舎一九の碑

 長峰光壽 氏著

 一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

 

芭蕉雪見冡を以って世に知られて居る長命寺境内に十返舎一九の碑のある事は既に世に知られて居る。大正十二年の大震火災で避難民の置き捨てた荷物の火に煽られて非常に破損したので現在ではコンクリートで周回が包まれれて哀れを止めて居る。その時は高さ約四尺で下方に相変わらず熊手に○貞が書かれて其の上に次の様な文句が載せられてある。

   なへての人のいかに異なりとおむふことも

   常となりてはめつらし可良禰と

   い津とて母あかぬものは

   月の夜東米の飯さては

   色と酒なる遍し

  今年知合太平記六樹狂歌會一同

 

と書いて示した處両人も直ちに次の様な狂歌を詠んで示した。

 是までのだんまりの幕引返し

     気も帽屑のもとの棒組 具顔

 睦とひざよい中村のした桟敷

     二間続きの隔だになし 飯盛

 

 両将は浙く赤良の尽力によって和睦したけれども、赤良の歿後再び真顔は俳諧歌の鼓吹につとめ飯盛は落首体の狂歌を詠んで彼に反抗し、いがみあったが文政十一年五月眞顔に勧誘されて二篠家から両者が俳諧家宗匠の號を受けたので世間の識者に飯盛は真顔に降伏したのであると大いに嘲笑された。

 雅望は天保元年閏三月二十四日、享年七十八歳で歿し彼の愛弟子の葬られて居る正覺寺の子院哲相院に葬られ法號を、六樹園臺五老居士といった。

 

10、黒人塚

 

 白鬚神社境内の井戸の後側で用水を背にして高さ三尺・幅二尺・奥行九寸五分の安山岩の碑石が袴石をはいて立って居って、碑面には「黒人塚」と大書してある。左右並びに裏面にも色々の文句が彫り付けられている。向って右側の面には次の文句がある。

   天也生此人天也亡此人

   此人何人去崑崙倚一人

 向って左側の面には、

うつせみのうつつにしはしすみた川

     渡りそめつるゆめのうきはし

裏面には

   姓北島名玄二號黒人其先出

   於源氏也寛政十二年庚申春

  内損か腎虚と和れはねかふな利     

 そは百年も牛延しうへ 十返舎一九

  (碑陰)

維持天保三歳

壬辰首夏上浣

應需 憲齎(印)

五返舎半九

東寧舎一河

早春亭一毒

金鈴者一寶

丹仙舎一酒

柳詩葊季雁

三亭 春馬

十返舎一九

真砂亭珠交

稲廼屋穂女

福輪亭白銅

 

この碑は一九が死んだ翌年一周忌を機として、二世十返舎一九即ち十字亭三九始め門人どもが当時の名筆憲斎に代筆を乞い建てたのであるが、この詞書の一句は実宜によく彼の一生を言い盡したものである。     

  「月の夜と米の飯さては色と酒なるべし」を簡単に追想して見よう。

 一九は通り油町に住居して重田真一と名のって居って膝栗毛の作者として世に名高い人であるが、始めは可成家が富んで居ったが、若い吽分から廓通いを始め三百六十五日の大半は廓の中で暮し著述の原稿を作るのも郭で書いたという位であるから、廓中で彼の遊ばない樓もなく、得意でない娼もないといふわけであったので、一九の如き売れっ子が馴染の敵娼であると自然に他の客人を招く妨となるというわけで、遂には蔦の唐丸が添判をして今後は一際大門を入らないという証文を廓へ差出す事の止むを得ざる事となったという話である。

 この様な彼の日常生活であったから、遂に家産を傾け着るものもなく、米も無いといふ有様となったけれども酒だけは決して絶したる事なく、収入あらば直ちに全部を酒に替えてしまい、壁を白い紙で張り箪笥、床の間、違棚、花生けまでも書いて置いたから、遠くから見れば裕福の暮しをして居る様に見へ、甚しきに至っては盆近くなった時に閼伽棚を作るにも物がないので掬、前と同じ様にこれを書いて壁に張り旦に麺を書いて張り、夕には団子を供へるのだとして、また団子の畫を書いて張り替へた。

また歳の暮になれば大きな墨に三尺余りの鏡餅を書いて壁に張って置き、大晦日になれば掛乞がうるさいといって外に飛び出して友人の家を飲み歩いて居ったといふ事である。

私が前に「常となりてはめづらしからねといつとてもあかぬものは月の夜と米の飯さては色と酒なるべし」の詞書を評して一九の自叙傳であるといったのも無理ではないであらう。

 

十二、櫻樹奉献碑

 

長命寺の西隣りは本所總鎮守牛島神社一千餘年来の舊地であって弘福寺との境橋の橋下の碍の額の様な地面に移されて しまったといふ事は向島に住む我々は勿には祭紳の古墳であると言い傳惇へられて居るものすらあるのであるが、大正十二年九月二日の大震災の結果隅田川沿岸の史蹟名勝地保存の意味に於いて設立された隅田公園工事に際し公園計重に支障ありとの復興局の土百姓役人の為に一千餘年の光輝ある歴史有る当社を遂に隅田公園の一部である舊水戸邸の一隅言問橋の橋下の猫の額の様な場所に移されてしまったと云う事は向島に住む我々は勿論都市美を尊ぶ市民一同挙げて嘆いたものである。           この牛島神社、一名牛の御前の舊地には、談洲楼焉馬の

   いそがずばぬれましものを夕立の

     跡よりはるゝ堪思のにし

 の碑を始め六樹園飯盛、式亭三馬、徳亭三考、朝寝坊夢羅久、談洲楼焉馬等が文化八年三月牛の御前に櫻を五株奉納した面白い記念碑等があったのであるが、現在牛の御前が移転されてからは本社築中のために立てる所がないので焉馬の狂歌碑は雑碑の下積みとなり、櫻樹奉献碑は仮社前石牛に心なく立て掛けられてある。櫻樹奉献の碑は安政の地震の際に上部に横書きされてあった「奉献櫻樹五株」の五字が既に破損紛失したが三馬の式亭雑記を見るとこの碑並びに焉馬狂歌碑の沿革及び其の見取圖が載せられてあるからそれを参考に引用して見よう。

 文化八年閏二月二十七日から本所牛の御前木地大日如来の開帳があって奉納物も多数あり参拝者が群集した。よって談洲楼焉馬老人が催主となって櫻樹五株を門前右側に奉納して植えたがそれを記念する為に碑を建てる事になり、碑面に三馬が筆を執った。即ち「奉献櫻樹五株」は横書きとして金字とし其の下に一列に六樹園飯盛式亭三馬、三馬門人徳亭、三考朝寝坊夢羅久、談洲楼焉馬と楷書で書いて朱字とし裏には「文化八年辛未三月造之」と刻みっけ一人分入費が金三分二朱懸かったといふ事である。

 これより前に牛の御前は焉馬の菩提所であるという関係から焉馬老人は狂歌の碑を、門を入って右側大樹の下に建てたが今回の記念碑も其の関係から其の狂歌碑の左側に建てる事になったのであると書いてある。             

 焉馬は本所相生町の大工の棟梁であって店では足袋屋をして居た。姓は中村、名は英祝通称泉屋和助と云った。狂名「のみてうなごんすみかね」立川談洲楼と云い、烏亭と呼ぶ。別号 桃栗山人柿発齎といった。五代目市川團十郎を贔屓にして義兄弟の契を結んでから談洲楼と號した。彼は既に世に捨てられた落語の中興を志し天明四年 四月二十五日柳橋の河内屋星で寶合という好事家の會合があった時其の席上で始めて二三の落語を講じたところ來會者一同は其の趣好を賞讃したので天明六年四月十一日向島の武蔵屋

三郎方に落語の會か開いた。其の時のちらし蜀山人の作で「むかふ島の武蔵屋に噺の會が権三ります」

といふ文であったが、これが大評判となった。それから度々噺の會を各所に開いたが、寛政度の改革によって寛政九年十月北町奉行小田切土佐守から噺の分禁止の限命が下って一時は頓挫しれけれども、よりより秘密に会合して打ち興じて居た。處が文政元年二月に至り、制限付きで禁令が解除されたから文政三年正月二十八日、彼が一世一代の落語會を龜戸の藤屋で開いた時には来會者が雑踏して始末がつかなかったという事である。

文政五年六月二日、歳八十で歿した、平生彼は請方面に交際を廣くして居ったので、弔客は門前に市を成して其の盛大なる葬儀は満都の人目を驚かし牛の御前の別當寺であった本所表町牛寶山最勝寺に葬られ、法號は「三楽院壽指焉馬」といった。式亭三馬は菊地泰輔といったが通称は太助といった。彼の父は八丈島の為朝大明神の祠官菊地壹岐守であるといい、壹岐守の妾の子が父であるとも言はれて居る。

。安永四年浅草田原町に生れて、文政五年閏正月六日、四十八歳で歿し深川霊光院に葬られた。

 彼の號は本町庵、遊戯堂、洒落斎、哆曜哩樓、四季山人、遊戯道人、戯作者滑稽堂等の数號があって本町二丁目に住み、し家製の薬を鬻(ひさ)いで居った。

 兎に角書畫会の席で畫の讃を求められた時に直ちにざれ歌を按出して書き與える事の出来る常時の狂歌師としては三馬と彼の親友の焉馬との両人に並ぶものはなかったいう事である。

 

一三、朱巣楽菅江辞世塚

 

三圍神社本殿西側に車應の碑と並んで立って居る自然石の碑がある。これは今述べようとする朱楽菅江の辞世塚である。表面は

               朱楽菅江

    執着の心や娑婆にのこる羅む

       よし野の櫻さらし那の月

とある。

 彼は市ケ谷廿騎町に住んで居た御先手與力である。もと内山先生に学んで本歌を詠んだ人で始めの名を景基といったが、字を菅江の上に加える様になったのは自宅で醪(もろみ)酒を飲んだ時、戯れに行燈の紙に「われのみひとりあけら菅江」と書いたのに出発して居る。

 菅江は和歌・狂歌・俳句のみならず、川柳點の前句附を好んで試みたので、牛込蓬莱連の頭梁となったし、また橘洲赤良と同様に内山赤良と同様に内山賀邨の門弟であったので両人の勧誘によって安永初年から狂歌を詠み始め忽ち一方の旗頭となり「の一連」といふ団体を組織した。

 碑文の裏面には

「先生 姓山崎貫字道甫朱楽菅江其號也 生于元文戌午十月二十四日終

干寛政戌午(十年)十二月十二日葬于青山青原寺」

とあって法號は「運淫光院泰安道父居士」。

死に臨んで辞世を自書して遺したが、それがこの時に彫られたのである。

 彼の妻女は小宮山氏の娘で狂名を「節松嫁ゝ(かゝ)と云い、狂歌三才女の随一と世に称されて、夫の菅江にも劣らぬ程の秀逸を多く遺した。十六の年、菅江に嫁いで

 君ならで誰にか見せん?????

?のむくむくと生えしところを

と詠んだという逸話がある。

 

一四、裏住辞世塚

 

 神社社務所玄関に向って右側に立てられてあり、碑面には次の文句が彫り付けられている。

辞世   萩の屋裏住

楠のつよきも老のたのまれ壽 

  くちての後は石となるもの 

非農非商隠市求志賤驕王侯受忘

 天地夕寓婬坊朝飲酒肆放言涯影 

 舞木弄戯滑稽之雄千古無二

            杏花園題

 彼の傳記は碑陰に蜀山人が書いてあるから、傳記の中で一番正確なものと認め、次に掲げて置く。

 萩の屋翁は久須美氏にして白子屋孫左衛門と称す。其先久須美親衛祐永勢州にゆきて国司北畠家に奉仕し、南伊十餘世の孫長隆の時北畠家減びしかば長隆白子村に隠る、

その子重長孫左衛門といふ者白子屋貞三の家を継ぎ、駿府にいたり賈人(あきないにん)となりはじめて江戸に来り、萬治二年七月二十五日に終る、是翁の先組なり、翁はやくより狂歌をこのみ卜柳の門に入り大奈権厚起と将す、後、窓雪沈大屋裏住、と改め四方の門下となる寛政九年十月剃髪して上京し京極黄門御遠忌の狂歌を詠む、ある縉紳家この歌を将美したまい、萩廼屋の號を賜う、また偃師舞木の戯を弄ぶ、世に所謂のろま人形なり、享保十九年甲寅に生れて文化七年庚午五月十一日に死す、歳七十七なり江戸深川法禅寺に葬る余翁を知る事三十餘年ことし其門人の乞うにまかせて其行状を記す事しかり。

              杏花園

 

 裏住は俳諧を好んで號を勢賀と呼んだ。又ト柳について始めた狂歌は一寸問題があって廃詠する事二十餘年に及んだが、明和の頃から江戸風の狂歌が勃興したので元の木阿弥と共に其の群に入り、後に四方赤良に隨って「大屋裏住」と改めた。この改胱をした事に肘いでは次の様な意味合があった。即ち彼は野呂松人を使ふ名人で鷺某の門弟となって狂言師ともなった。その頃同門の中井嘉右衛門という人に狂歌を詠むことを奨めて戯名を「腹唐秋人」と付けたが、この人の斡旋により、本町一二丁目の横通り金吹町の裏

屋に転居して大家になったので「大屋裏住」の號を付けるに至ったのである。一日その裏屋の棚板に頭をひどく打ちつけて

我宿はたとへのふじの火打箱

    かまちでうちて目から火が出る

 という狂歌を詠んだ。

 

十五 鳥兼の碑

 

 本社西横に菅江の碑に並んで鳥兼の碑が立てられてある。

    萩廼家鳥兼

  いまは唯

    宇き世に

      あきの山すまひ

   先さし阿堂累

       月そ友なる

  (碑陰) 文政十丁亥歳九月 社中建之

            畫齊松平盛義書

 この人は本町の裏住の近所に住んで居て、裏住の弟子となり遂には本町側判者として多くの門弟を擁して居た。裏住の死後萩の屋を継いで二世萩の屋となった。

 

十六、百多樓槍團子辞世塚

 

本社東横側に立てられてあって碑の上部に桃の畫があり其の下に次の様な辞世が彫り付けられでいる。

    けふは身の千秋楽よ

     先の世の席へ

      行には延さへ

          なし 百多樓團子

(碑陰)交政丁亥九月廿二日

 

百多樓團子は通称茂吉郎と云い、神田に住居して落語家で、狂歌をよくした。別號は「子遊庵」と云い文政十年九月二十二日年六十二で歿。即ちこの辞世は終焉に先だって絶筆されたものである。

 

十七、天明老人月塚

 

 本社東白狐祠の前にみる詩であって碑面は松平董斎が代書して居る。

 

      天明老人

        晝語樓内匠

むさし野の月は

     昔に加はら家の

       可良艸を出亭

         唐草に入る

             畫齊正書

(裏面) 

  語史安有恆 勇々館道章 花垣眞吹

  語吉窓喜樽 椙之門笹好 五葉亭實烏

  稲之舎實則 木芽舎好香 文語樓梅實

稲垣秋吉  語一堂由隆 松梅亭槇住

  七寶亭特利 一笑亭喜楽 呉龍軒那蔵

  有信亭友成 文省堂尚丸 辰気樓千往

松春亭門芳 唐崎亭松風 靜海樓豊風

青柳園綾糸 狂畫堂椿月

   催 幹

  出久之坊画庵 神楽堂外道 夜職庵歌多丸

寶鮮亭魚海 語同堂春道

元治元年申子秋八月  董仙宗害

 

黄表紙は宝暦末年から起って文化初年に終って居るが、江戸風狂歌も殆んど黄表紙と同一経路を辿った。しかし黄表紙よりは少しは生命が長く文化から文政にかけて著名の狂歌師が前後して死亡してから暫く狂歌の風調が変化し初めて新に文政調といふ狂歌が行われ、一時隆盛であった江戸風狂歌は遂に凋落したのである。彼は一名下手内匠と云い、初め近亭三盡樓と號して、本田甚五郎と通称した、天明老人の狂歌道場で行った狂歌は天明寛政の頃の江戸風狂歌とは似ても似つかぬものであったとはいえ、この天明老人は江戸風狂歌師の最後の一人であったといふ事は狂歌を研究する者にとって赤良橘洲眞顔などと同様に取扱はなくてはならぬものであろうと思う。

 彼は文久元年五月十四日八十一歳を以て歿し浅草新堀酉福猫寺に葬られた。

 未だ向島には有名は狂歌師の世に隠れたる碑が多く残されて居るが、この原稿を纒めるために数日間食事する時間も惜しみ寝る時間も倹約して苦しんだので、非常に疲労を覚えた上に葉人編輯長より電話で急がれたから今回はこれで止めて残りは次回に譲り度いと思う。 (未完)


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