○享保年開 洛俳諧の噂『翁草』(二)
○
斯く計り淡々世に鳴といへども己が材のみにて、系統なし、
其角が弟子と称するも安定ならぬ事故、如何にしても然るべき傳を需得んとして、
大奎を賺せし事、前巻に有れば爰に略す、粤(ここに)に於て、淡々大奎間有り、
され共奎が俳材をさをさ淡を欺く許なれば、淡も之に愛て表は彌篤く親しみ、
蕉翁に其角嵐雪有り、我に大奎李賦在りと、二人を賞して左右の羽翼とす、
かくして淡周く世に名を知られ、権門勢家、一世の豪人汎く立入り、
中にも南紀の閣臣、三浦長門守(俳名鳥林)甚流淡を信じ、常に道を聞き、
之が埓に扶助米を與ふ、それより次第に自に誇り、奢侈増長し、行状不正の事多きを、
李賦は疎みて道を廃す、奎は猶も師弟の義を以て、屡淡を諌めれ共、淡更に之を不容、
却て奎を遠ざくヽ此確執に寄て、洛の俳諧益熾(さか)んなり、おのがさまざま淡へ荷據し、
奎に睦ひ、或は道の好士は夫に拘はらず、両方へ出座するもあり、
そこの會、彼この宴、某の會、臨時の興行、毎会数十人群参し、世挙げて是に遊ぶ、
此の道の壮観時を得たりと云べし、乍去淡々は奇才なりと雖、飽迄勢ひに乗り、
行状不正なる事を悪む人多く、大奎質直なるを贔負して、奎が會殊に賑ひ、
己に淡々を壓に及べるを淡懶く思ひて、世の俗士を色々に語らひて、
己が門に入れんとする故に、是れに計られて、淡々に附く輩多し、
難里杜口なども竟ひに其徒に入て奎と交りを断つ、享保十二年朧月に至て、
大奎潜に、几山、指山、羅人、卓々(故春澄子乙澄が弟此砌より春澄と改名)
と共に淡々を離て自立せん事を議す、四人諾して、五吟の百員を綴り、
之を世に流布せしめて淡と千切の證とせんとす、然に指山、羅人は、年頃淡々が三物組なり、
故に二子淡が庵室に往て、存候旨有山にて、三物組を辞す、淡敢て云事なし、
而して五人示合せ、羅人亭に於て之を興行す、是を梓して倭錦と題して、翌十三年早春、
世上へ弘之、淡々は連年の三物組版断に仍、富惑して、俄に餘人を語らへ共、
世の沙汰を聞て是を言ふ人なし、漸く呉舟有風を賺して、急速の間に合せ、翌年の三物組とす、
羅人は、元柊屋花四郎とて、富裕の者なりしが、淡々と師弟の約をなして、囚む事尤篤し、
其宅地に小舎有をしつらひて淡を招じ、(東洞院六角下る町)淡も下河原の庵より爰に移る、
然るに羅人が家衰て、敷地過半を沽却するに至り、淡頻に羅人に疎し、羅人其薄情を悪む、
竟に淡々の舎を去りて、訪小富小路四條上る町の仮の暇栖に移る、それより猶、両雄党を分かち、互に一偏に毀り、或は浮瑠璃・落書、雑録を作りて舌戦する事喧し、 大奎方には凡山・指山・春澄・羅人・其東・貞扇等を俊士とし、淡々方には、竿秋・綿来、其粹なる者なり、淡々方微なるを以て、淡が門生の其頃絶道せし、雪轉、春楽・釣雪・共光・孤松・有堅、澗(閒)の類へ、淡自ら嘆きて、再び道に入らしめ、吟松・半岱(後改杜曉)・一枝・難里・襯露・杜口・半季・蝶我・王立・千々・東湖・、成人・魚川・天棘・若水(後改關路)・泰人(後改魚方)・楓川・鬼車、或いは中絶の人又は入門の人、之に語らはれて、出座の人不可勝計、また是に不拘・両方へ出席の輩、
龍谷・我笑・井龍・雅風・南岫・居林・風竹・車香・竹屋・扇賀・一壹・可耕・羽紅、ヲワカ・隆志・梧山・可令・尹張・井柳・鷺黒の輩、是れまた勝計すべからず。不夜の一廓は呑鯨(後改芳岐)を始、總て大奎が徒となる、獨楓川は淡々門となる、
而して双方互角に繁茂して、淡々方には、同年の春、高點萬國の花押を制し、その賀筵として、高臺寺時雨の間に於いて、點取一日二千句を催し、其高判の句を壹印本にして、之を「萬国燕」と號す、この燕會を空門より陽で、八原の社中に花の摺物をさせて、寄花何といふ各題にて、二十句の発句有り、二千句の発句の句者を識る、
「にくきもの床振袖や花の明」
是杜口なり、各句此格を以て句々を嘲る、その頃京町奉行長田越中守(俳名林夕又歴共)は、太だ道に執深き人にて、上京後、間もなく淡々を招れ、かの門に入りて公務の暇に是れを翫るゝ事せちなり、所司代数野河内守も、雅を好れて折々の発句有り、これ故に地役の輩は我も我も此の道に遊ぶ、中にも李風(右原内蔵助清左衛門)五橋(角倉與一)呉津(山脇道作)魯凰(中井主水)杯至て好士なり、時に越中守、島原の摺物の事を聞及れ、遊廓の者共、身の程を知らず、妄に世人を誹謗する事甚法外なりとて、廳所へ呼出して急度叱られる、よりて互の悪口も是より薄くなりにき、その年の冬かとよ、所司代、洛東高臺寺巡見の時、越中守も侍座せられ、淡々も陪隷する、同所傘茶屋にて、淡々を召れ、本句をと有しに
「紳無月かみ有茶屋は三笠山(淡々)
時雨せぬ空偽りも有り(林夕)
「實に小春日の射る川はのどかにて(魯風)
と仕立て、人興有し、然るに淡々は折を得て大羍を内々に訟ふ、越州之を容て、淡、羍を面に對決せしめて、羍負たり、其の時羍が弟子時羍も倶に呼出されて白洲に於いて俳諧を停止せらる、
古来珍敷裁断成けらし、斯で其東は是非なく道を慌し、素より才智有ものなれば、或侯家に陪仕して士となり、後には時めく身となりぬ、加様に淡々が時を得たる目覚しさを、世人憎みながら、道は益々繁栄して、都鄙邊境の好士、小庵に市か元す事夥し、故に自の庵にて、月次皆も騒々しくしくとて、門弟柳岡が許にて興行し、また十連会と號して、門弟の純なるもの十人を勝って、別に二條川東頂妙寺塔頭某院にて、月次を企て内会とす、其十人は、難里、杜口、釣雪、竿秋、線来、蝶我、東湖、天棘、若水、楓川をり,その外にも好士は淡々に断わり希れには是へも聯る、斯て淡々は奎を失ひて後、統を譲るべき門弟なし、悃弟竿秋は元奈良屋市郎兵衛とて、江戸店の商家成しが、家衰えて家督を失い、その砌漂客たりしが、道に執深く、俳材も有ければ、是を取立て宗匠とし、橋本竿秋と名乗らせ、先假に一箇の點を引せ、竟には党を與奪せん事を計る、自これ先き、淡々は大窐が傳ふる處の秘訣を取得ざるにより、その頃東武より敬雨(初名青流、中頃より祇空と号し、一筒の老俳士なり、浪華の才麿が嗣芳室が兄なり)洛に来て、紫野に在しに親み因みて俳道を聞き、且、郢月泉巴人(後號宗河)武陽より登りて、京師に遊山するにも、篤く交わりて、其角が弟子と称する處を補う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます