伊達政宗 キリシタン 支倉六右衛門常長
『続 歴史の旅』監修 亀井勝一郎
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
政宗がキリシタンにとり憑かれたのはこのときからである。ソテロを招いて家臣たちの帰依をはかることを告げたり、また、城門と大広間にキリシタン布教の自由を掲示したり、そのうえ、松島瑞巌寺の数多くの石像を破壊するという思いきったことさえしている。ある寺の仏像の破壊を命じたとき、これを承知しなかった住僧たちを殺すという暴挙までしてしるのである。
秀吉はキリシタンに対して厳禁の態度でのぞんだが、京染は通商の利益に着目して、この禁令をゆるめたのである。
新救国であるオランダとの通商をひらいた翌年にあたる慶長十五年、京染はスペイン国王に対し、その領国であるノビスパン(メキシコ)と日本との通商を約束した。このときに、前ルソン(フイリピン)大守ロドリゴの代理として、幕府との交渉にあたったのがソテロであった。
そのころ、政宗の愛していたある侍女が病にかかり、医者からも見放されるという重態にあった。そのときソアロのつれてきたブルギソョというイルマン(修道士)が見事この難病を治したのである。これを機会にソテロは政宗に近づいた。慶長十六年の五月に帰国した政宗のあとを追って、ソテロも仙台に向かったのである。これと前後して、スペイン使節ビスカイノが仙台にはいった。
彼は、幕府の許可を得て日本の東海岸を測量することになっていたのである。政宗はビスカイノを仙台城に招き、スペイン国王と親交を結び通商の目的を持っていることを告げた。
政宗がキリシタンにとり憑つかれたのはこの時からである。ソテツを招いて家臣たちの帰依をはかることを告げ、城門と大広間にソテロを招いてキリシタンの布教を自由に掲示し、その上松島瑞厳寺の数多くの石造を破壊するという思い切った行動を起こしている。ある寺の仏像の破壊命じた時、これを不承知の僧侶たちを殺害するという暴挙まで行った。
このとき政宗の命をうけて、寺に火を放ち僧侶を斬ったのが、支倉常長であった。ここで面白いことに、このようにしてまでキリシタンヘの傾倒ぶりをみせている政宗が自分自身は洗礼を受けていないのである。自分は、親類や友人との関係上できない、といっているのである。ここに、他のキリシタン大名とは異なる、ある片鱗がチラついている。
仙台には小さな教会堂が二つ建てられたが、政宗はさらに壮大な会堂を建てて布教をすすめようとし、ソテロにその方法をたずねた。ソテロは、ローマ法王に指揮を仰ぐことをすすめた。そして、自身がその使になることを申し出たのであった。支倉常長らが付き添ったこの使節団は、浦賀沖の難破で挫折したが、慶長十八年幕府の許可がおりると、政宗はさらに新船を建造して使節派遣を決心したのである。
かくして、横五間半、長さ十八間、帆柱十六間余と九間余、二本マストの黒船(洋船)ができあがった。ソテロの残した言葉を集めた『シマンカス文書館文書』によれば、五百トンをこえる大船であったという。
正使は支倉常長と決まった。そしてソテロもこれに同行することになったのである。そのころ幕府のキリシタン弾圧がはじめられていたが、ソテロは改宗のとりなしで救われた。イエズス会派におくれて日本に入ったフラソシスコ派を奥羽地方に広め、そこに教区を設立して、その哨教におさまろうというのが、ソテロの望みであった。
支倉六右衛門常長は、常陸介常隆の次男伊藤壱岐守常久を祖としている。常久は伊達家の祖朝宗に属して常陸の中村に住んだが、その子久成とともに頼朝の奥州征伐に従軍し、その功によって信夫郡山口・伊達郡梁川・柴田郡の田五百余町が常久にあたえられ、伊達氏の命で支倉を名乗ったのであった。紀伊守時正は信夫郡山口に住み甥の与市を養子としたが、その後二子が生れたので、その禄を分けて六百石を実子の紀伊に、六百石を与市に与えたのである。この与市が後の六右衛門常長であった。大崎・葛西の戦いには、改宗の命を受けてたびたび使となっており、朝鮮征伐にも御手明衆の一人として功をあらわしている。慶長十八年には不惑を越えて四十三歳であった。
慶長十八年(一六一三)九月十五日の夜、ローマ派遣使節団一行を乗せた黒船は牡鹿郡の月ノ浦を出帆した。常長らはメキシコ、スペインを経てローマにはいったが、そのまえに常長は、スペインのサン・フランシスコ分派の尼院で受洗し、ドソ・フイリッポ・フラ
ソシスコの洗礼名を授けられている。
月ノ浦を出帆して二年、一行は晴れてローマ法王に謁見することになったのである。一六一五年十月二十九日、一行の華々しいローマ入府式が行なわれた。華麗な日本服にローマ風の帽子をいただいた常長は、ローマ市民の群列するなかを、軽騎兵、各国大使館員、各国貴族神士らに先行され、ソテロ、侍衛兵、馬丁を従え、楽隊の奏楽で市の門から市庁の広場に向かい、礼砲をもって迎えられた。
十一月三日、法王に謁見して奥州王改宗の国書を呈した。内容は宣教師の派遣を乞い、通商に関してスペイン国王への斡旋を願うものであった。二十日には常長に対しローマ市公民権が贈られ、貴族に列し、随員七人にも公民に列することを許されたのである。
しかし、この間日本の国情は急激な変化か見せていた。常長の出発三ヵ月後には、宣教師の追放とともに、日本人のキリシタン信仰を禁止する、全面的な禁圧令が出されていたのである。それと共に改宗の心境も変っていた。大阪落城の間際に、スペインの神父が脱走し、改宗の陣営にたどりついて救いを求めたが、政宗はこれを拒絶している。
支倉常長が帰国したのは、元和六年(一六二〇)八月二十六日のことであった。出発以来、実に七ヵ年の月日か経過している。常長は帰国二年後の元和八年七月一日に病死し、長子常頼は弟がキリシタン宗徒であったために斬罪に処せられ、支倉家は断絶した。しかし寛文八年(一六六八)には、五十石をもって再興を許されている。
常長と同行したソテロの運命も残酷なものであった。元和八年長崎で入牢させられ、大村に移された後、寛永元年七月(一六二四)火刑に処せられて、五十一歳の生涯を閉じている。
伊達騒動で有名な政岡の墓というのがあるが、元来この人物の実在には不審が持たれている。仙台線榴が岡駅の西にあたる日蓮宗孝勝寺内にある『三沢氏子初之墓』というのがこれであった。付近は近代的な市街地とは変って埃っぽい士道が緑にかこまれた古びた家々のあいだを通っている。墓所の入口に氷水平やアイスクリームの旗をかかげた茶店があり、それに土産物の陳列所まであった。
そのうえ、広い墓所の門には厳重に閂(かんぬき)がかけられており、周囲に鉄条網がはりめぐらされている。これまで見たどの墓、伊達公の墓でさえも、このように派手(?)な構えではなかった。やはり『仙台萩』のしからしめるところであろうか。
『伊達騒動』は、わずか二歳で父綱宗のあとをついだ亀千代(綱村の幼名)の妨きに起った。この生
母が三沢初子であった。亀千代には伊達兵部少他宗勝と田村右京亮宗良との二人の後見がついた。宗勝が家老原田甲斐宗輔と結んで悪政をひいたので、寛文十丁年(一六七一)涌谷の邑主伊達安芸宗重はその失政を幕府に訴えたのである。同年三月、ときの大老酒井雅楽頭の邸で安芸、甲斐、柴田外記、古内志摩らに対する尋問が行なわれると、甲斐の罪状が明らかになった。すると、とつぜん一室に休息中の安芸に原田甲斐が斬りつけ殺害したのである。甲斐もその場で討ちとられてしまったが、その後、宗勝は土佐に流され、宗良は閉門を仰せつけられて事件落着、伊達六十二万石は安泰となった。
『伊達騒動実録』によると、政岡を架空の人物として「政岡のモデルらしき人物を強いてあげれば、鳥羽ではないか」と疑っている、鳥羽は、第一回の置毒事件で、嫌疑をうけて仙台に送られた女でありながら、厚遇されて天寿を全うしている人物で、史実もあきらかになっている。
騒動のとき、伊達兵部宗勝を斬ろうとして捕えられた男に伊東七十郎重孝というのがいた。寛文八年四月二十八日米が袋の刑場で斬罪に処せられたが、片平丁の牢を出っ切りになるとき、揚り屋の床板をどうどうと踏みならした気力は、三十三日間断食した人とは思えなかったという。鹿子清水の坂から捕縄をとっていた獄卒を横倒しにひきずったまま刑場に向かい、どたん場に坐ってから首斬役の小人頭万右衛門に「人は首を刎ねられるとまえにのめるが、おれは仰向けになるだろう。さすれば兵部殿を三年のうちに亡きものとしてみせよう」といい、万右衛門が斬り損じると、「おちついて、よく斬れ」といい、果してうしろに倒れた。
万右衛門はその翌日、小人頭をやめて仏門に入り、のち七十郎の供養にたてたのが、鹿子清水の河原にある縛り地蔵だと伝えられる。この地蔵は人間の苦しみなら何でも除いてやるといわれ、願かけに繩でしばるため、地蔵さんの顔も体も繩でぐるぐる巻きにされて、繩束が立っているように見える。毎年夏の縁目にだけ繩をほどくので、お顔は年一回この日だげにしか見られない。
市の西北部、北山の立上にある青葉神社は伊達改宗を祀っており、秋祭の十月九日には旧藩士の子孫たちが集まって甲冑行列が行なわれる。改宗の廟所のあるのは、瑞温寺である。臨済宗のお寺で政宗山といわれ、向山径が峯にある。境内にある瑞鳳殿(政宗廟)、感仙殿(忠宗と綱宗の廟)は、日光につぐ壮麗な美観を誇っていたが、戦災で惜しくも焼失、いまはその焼跡に木碑が立っているの
である。
政宗が仙台に居城を定めたとき、その開府の守護神として遠刈田郡八幡村から仙台へ移しだのが大崎八幡神社であった。応神天皇、仲哀天皇、神功皇后などを祭神としており、松島の端厳寺とともに東北における桃山式建築の由緒を持つものである。市の西北伊勢堂下竜雲寺境内には寛改の三奇人の一人林子平の墓がある。仙台藩上林嘉膳の弟で、蒲生君平、高山彦九郎らとならび称された。深く海防のことを憂い、日本国内を視察し、長崎で海外事情を調べて『三国通覧』、『海国兵談』などを著わしたが、幕府の忌諱にふれ、寛政四年仙台に幽閉されて翌丑年五十六歳で獄中に歿した。
「親もなし妻なし子なし版木なし金もなければ死にたくもなし」
と詠じ、六無斉と号した。
また、相撲で名高い谷風梶助も仙台の生れだ。寛政元年横綱になり、体重四十八貫、二千七百六十四回の相撲中、敗けたのはたった四回であったという。南鍛冶町東漸寺境内にその墓が残っている。
『荒城の月』で有名な土井晩翠は仙台の人である。市内新寺小路の大林寺はその菩提寺で墓があり、寺の門前には、
「おほいなる真ひるの夢を見よかしと、生先(おいさき)長き子等に望まん」
の歌碑が立っている。それに青葉城址の仙台市を眺望する高みにも、詩碑があり、仙台名誉市民の晩翠の生前の詩業を偲んでいる。
仙台市の年中行事として有名なものに、毎年八月三日から催される『七夕祭』というのがある。何百年の伝統を持ち、飾りつけにも特徴があって、丈余の葉竹に短冊、吹流し、四ツ身の紙衣、巾着、屑龍、千羽鶴、七夕線香を基本とし、これに宝船、薬玉など思い思いに趣好をこらした紙細工を軒毎に立てるという豪華なもので、日本一と称している。
現在の七夕祭は、もちろん商店街の宣伝と観光用だが、いまよりもっと盛んであった昔の七夕祭は、そのかげに田ノ神信仰があったからではあるまいかといわれている。周期的に襲ってくる冷害による飢饉は、東奥にとっては宿命的なものであった。この凶災からのがれるために田ノ神に願い、祈りをかげるのである。藩政時代二百五十石取りの大番士だった浜田氏の『年中行事』七月の項には
「六日 五色の色紙、短冊の詩歌を書て竹へ付、牽牛織女の星を祭る。
七日の朝なれ共旧例によって今夜より七日迄立置く也、」
とあるから、大身の門閥、大家、家柄の家臣以下平侍、紙侍、足軽、小人に至るまで侍町、足軽町のすべてをあげて軒並に七夕竹をたてていたことが想像される。
白石市はスキーで有名な蔵王の東能にあり、伊達家の忠臣片倉小十郎景綱居城の地であった。市役所の裏手にあたる丘陵の上に白石城址があり、いまは益岡公園となっている。
市内の傑山寺は小十郎景鋼の開いた寺であり、その背後の山林の中腹には、代々の後室や娘の墓が立ちならんでいる。
市の西方には小原、鎌先の両温泉があり、和紙や温麺が名産である。
白石で面白いのは児捨川に架っている橋の欄干がこけしであることだ。市役所の観光課でも、こけし橋がずいぶん評判になって、方々の県市から写真を送れといってくるといっていた。そこから市街地の方へくる途中、白石川にかかる白石大橋北岸の小高い丘陵地には、世良修蔵の墓がある。
慶応三年(一八六七)十月、大政奉還がなり、十五代将軍徳川慶喜は征夷大将軍を辞したが、仙台潘内の意見はまとまらず、上洛即行論と自重待機論にわかれた。
そうしているところ慶応四年正月早々…鳥羽伏見の変…が起って討幕の勅令が下った。そして十五日には太政官から正式に仙台中将に討幕の脅か下り、つづいて会津討伐の命が下ったのである。
三月二目、奥羽鎮撫使の一行、九条総督、沢副総督、醍醐参謀、大山、世良参謀以下薩長筑三藩の兵五百四十名が松島に上陸し、二十三日に入仙、養賢堂を宿舎とした。世良、大山らの下士出身の参謀の尊大な態度は、但木、坂などの重臣の憤激を買い、「竹に雀を袋にいれて後においらのものにする」と城下を放吟して歩く官軍は藩士たちを刺激したが、それでも藩は不承々々ながら準備をしなければならなかった。
そして、閏(うるう)四月十一日には 白石で奥羽二十四藩の平和同 盟がなり、会津の降伏嘆願書、
仙米両藩の意見書、二十四藩 連署の嘆願書を調印して平和 裡にことを解決しようと決意 し、その嘆願書を九条総督に提出した。がしかし、これを世良参謀が却下してしまったうえ、逆にもし会津に兵を進めなければ、仙台藩も会津に同盟しているものと認め、仙台を討伐するぞと威嚇する始末であった。これには伊達も上杉も憤激した。四月二十日未明、福島遊廓で泥酔していた世良修蔵は仙台藩士瀬ノ上主膳、姉歯武之進という慷慨の士のために捕えられ、会津藩土によって叩き斬られた。二十一日には仙台を盟主として奥羽越三十一藩の攻守同盟が結ばれたが、結局時の勢いには抗しがたく、九月十二日仙合藩の降伏が決定した。いま、世良修蔵の墓へ参ってみると、あまり訪う人もないのか、周囲はぼうぼうたる雑草の茂るにまかせ、石の囲いもあらかた崩れている。夕暮迫るなかに寂しげに立つ墓のところから、白石川の水沫がキラキラ光って見えた。
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