八月十五日 月見の賦 芭蕉
萩原井泉水 氏著 昭和七年刊
俳人読本 下巻 春秋社 版
ことし琵琶湖の月見むとて、しばらく木曾寺に旅寐して、膳所松本の/\を催すに、乙州は洒をたづさえて、泉川に三日の名をつたへ、正秀は茶をつゝみて、信楽(しがらき)に一夜の夢をさます。今宵は茶といひ、酒といひ、かたふの人も二派にわかれて、酒堂は灯にかたぶきて、其荼に玉川が歌を詠じ、丈抑は月にうそぶきて、其洒に楽天が詩を吟ず。
支考は若く、木節は老ひぬ、智月は物のおぼつかなふ、かつぎのあまのなま浮びならず、それが中にも惟然法師は、洒にむどろき茶に感じ、ほむるもそしるもそらに風吹て、爰に三子者の志をためざらんや。まして其外の友とする人も、峩々洋々の心ざしをしれれば、すべては飲中八仙のあそびたらん。誠や、つれ/\゛法師だに、心をつくろはぬ友えらびは、かゝる月見の佗たるやと、思ひしまゝの草の庵に浮世の外の風狂をつくせり。
米くるゝ友をこよひの月の客
かくて三盃の興に乗じて、湖水の月に船を浮べんと物このむ人の風情をそへたるに、杖に瓢箪の唐子はなけれども,扇に茶瓶の若男あれば、赤壁の蛤のとぼしさにはあらざめり。さゞ波や、打出の濱の名にしあふ、鏡の山もこなたにさしむかひ、日枝は横川の杉につらなりて、比良の高ねは、雁をもかぞへつべし。うしろに音羽の峰たかく、石山の鐘はあはづの嵐にさえて、そこに楓橋の霜も置ぬらん、矢植の帰帆は、今宵をもてなすに似たるべし。
名月や湖水に浮ぶ七小町
されば、我朝の紫式部は、石山に源氏のおもかげを寫し、唐国の蘇居士は、酉洞に越女のよそほひをたとふ。いづれも風俗の名にのこりて、今のまぽろしに浮ざらんや。實そも和漢の名蹤なりけらし。さて松本に舟をさしよせて、茶店の欄干に心をはなてば、目はよし蓬莱の水をへだてす、身はただ芙蓉の露にうるほふ。
’竹林の酒も時ならで、松が江の鱸はこよひなるをや。猶はたかたぶく月の名残には、辛崎の松もひとりやたてる、古き都の名もゆかしければ、尾花川の明ぼのをこそと、千那、尚白をおどろかしぬれば、衣ははや五更に過ぬべし。
三井寺の門たゝかばやけふの月
誠よ、推敲のむかしながら、船にこよひの遊をおもへば、此座に韓愈が文章をもあざむき.賈島が詩賦をももどきねべき詩人文客にとぼしからねば、たとへ赤壁の前後といふとも、その地に此人をはづべきやと、見ぬもろこしを相手にとりて、今宵の風流をあらそふほどに、月は長等山の木の間に入りぬ。 (和漢文操)
わたましの夜 芭 蕉
名月にふもとの雲や田のくもり
名月の花かと見えて棉畠 (続猿蓑)
今宵誰よし野の月も十六里 (笈日記)
【註】元禄七年八月命終の二ケ月前、舊佑里なる長兄の宅地に小庵を作りて其披露をした夜の作「笈日記」に[名月の佳章三句」としてあるのを逍補する。
堅田十六夜之辨 芭 蕉
望月の残與なをやまず、二三子いさめて舟を堅田の浦にはす。共日申の時ばかりに、何某茂兵行成秀といふ人の家のうしろにゐたる。酢翁狂客月にうかれて来れりと聲々によばふ。
主思ひがけずおどろきよろこびて、簾をまき簾を拂ふ。
園中に、芋あり、さゝげ有、鰹鮒の切目たゞさぬこそいと興なけれと、岸上に菰をのべて宴をもよほす。月は待つほどもなくさし出、湖上花やかに照らす。
かねてきく、仲の秋の望の日.月の浮御堂にさしむかふを鏡山といふとかや。今宵しも猶そのあたり遠からじと、彼堂上の欄干によって、三上、水莖岡は南北に別れ、その間にしてみね引はへ、小山顛(いただき)を奎じゆ。とかくいふ程に、月三竿にして黒雲の中にかくる。いずれか鏡山といふ事をわかず。主のいはく、折く雲のかゝるこそと客をもてなす心いと切なり。やがて、月雲外にはなれ出て、金風銀波千體佛のひかりに映ず。かのかたぶく月のおしきのみかは、と京極黄門の歎息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、此堂にあそびてこそ、ふたゝび恵心の僧都の衣もうるほすなれといへば、あるじまた云、興に乗じて来れる客を、など興さめて帰さむやと、もとの岸上に盃を揚て、月は横川にいたらんとす。
鎖(じょう)明て月さし入よ浮御堂 はせを
安/\と出ていざよふ月の雲 同 (小文庫)
【註】八月十六日 前文とつづいて書かれたものであろらう。支考の「本朝文鱈」に載せてあ
るものは、措辞が大分違つてゐるけれども、此方が原文であらうかと推せられる。
猶此時の句に、「十六夜や海老煮る程の宵の闇」芭蕉
「浮御堂」の中に千但佛が祀ってあるので、月光の波に砕くる様を千體佛の光にたとへ
たのである。
前出[堅田十六夜之辨」に「何某茂兵衛成秀」の家で馳走になったことが書いてある。
その政秀の庭上の松を誉めた言葉である。「元禄四年仲秋日」と眞蹟にある。
「奥の細道」には「十六日、空雲たれば、ますほの小貝拾はと、種の濱に舟を走す、
海上七里あり、天え走ん
松 芭 蕉
松あり高さ九尺ばかり、下枝さし出るもの一丈餘、枝上段を重、非葉森々とこまやかなり。風琴をあやどり、雨をよび波をおこす。筝に似、笛に似、靸ににて、波天領をとく。當時牡丹を愛する人、奇出を集めて他にほこり、菊を作れる人は小輪を笑て人にあらそふ。柿木柑類はその實をみて枝葉のかたちをいはず、唯松獨り霜後に秀、四時常盤にしてしかもそのけしきをわかつ。楽天曰く、松能舊気を吐、故に千歳を經と、主人目をよろこばしめ心を慰するのみにあらず、長生保養の気を知て、齢をまつに契るならべし。 (堅田集)
種の濱 等 裁
気比の海のけしきにめで、色の濱の色に移りて、ますほの小貝とよみ侍しは西上人の形見なりけらし、されば所の小わらまで、その名を傳へて、しほの間をあさり、風碓の人の心をなぐさむ。下官もとし比思ひ渡りしに、此たび武江芭蕉桃青、巡国の序、この濱にまうで侍る。同じ舟にさそはれて小貝を拾ひ袂につつみ、盃にうち人なんどし、彼上人のむかしをもてはやす事になむ。
福井洞哉書
小萩散れますほの小貝小盃 桃 青
(越前種の濱、本陸寺所蔵眞蹟)
元禄二年仲秋
寂しさや須麿にかちたる濱の秋
浪の間や小貝にまじる萩の塵 (奥の細道)
【註】芭蕉と同行した「ひとりは浪客の士」は奥の細道にも同行した曾良、
ひとりは水雲の僧」は宗波といふ者。「僧にもあらず俗にもあらず」は己れの事。
秦甸一千里とは、都の四方の郊外は一千里にも及ぶ廣袤あるべきもの、朗詠集に、
奉甸之一千餘里、凛々氷舗云々。日本式尊の言葉とは、後項酒折に註す。
爲仲は奥州の任に下りし時、宮城野の萩を長櫃十二合に入れて上京したといふ。
八月十七日
鹿島の月見んと 芭 蕉
洛の真宗、須磨の浦の月見に行て、松かげや、月は三五夜中納言といひけむ、
狂夫のむかしもなつかしきまゝに、此秋鹿島山の月見むと、おもひ立事あり。
伴なふ人二人、ひとりは浪客の士、ひとりは水雲の僧、僧は烏のごとくなる墨の衣に三衣の袋をえりに打かけ、出山の尊像をダ厨子あがめ入りて、背中に背負う。柱杖曳ならして、無門の關もさはるものなく、天地(あまつち)に獨歩して出でぬ。今独りは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠に間に、名をかうふりの.鳥なき島にも渡りぬべくて、門より船に乗りて、行徳といふ所にいたる。
船をあがれば、馬にも乗らず、細脛(ほそはぎ)の力ためさむと、歩行よりぞ行。甲斐国より、ある人の得させたる、檜木もてつくれる笠を、をの/\いただきそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ、ひろき野あり。秦甸(しんてん)の一千里とかや、目もはるかに見わたさるゝ。筑波山向うに高く、二峯ならびたてり。かの唐士の双釼の峯ありと間へしは、廬山の一隅なり、雪は申さず、先むらさきの筑波かなとは、我門人嵐雪が句なり。すべて此の山は、日本武尊(やまとたける)の言葉をつたへて、連哥する人のはじめにも名づけたり。和哥なくばあるべからず、句なくは過べからす、誠に愛すべき山の姿なりけらし。
萩は錦を地にしけらんやうにて、為仲が長櫃に折入て、都の土産に持せたるも風流にくからず。きちかう、をみなへし、かるかや、尾花みだれ合て、小男鹿のつま懸ふ聲、いとあはれなり。野の駒、所得がほに群れありく、又あはれ也。日すでに暮れかゝる程に、利根川のほとり、布佐といふ所に着く。此の川にて鮭の網代といふもをたくみて、武江の市にひさぐ者あり、宵のほど、その漁家に入りてや盃にうち入りなんどし、彼上人のむかしをもてはやす事になむ。
福井洞哉書
小荻散れますほの小貝小盃 桃 青
(越前種の濱、本隆寺所蔵真蹟)
寂しさや須磨にかちたる濱の秋
浪の間や小貝にまじる萩の塵 (奥の細道)
【註】屋何某と云ふもの、破籠小竹(わりこきさえ)筒などこまやかにしたためさせ、
僕あまた舟にとりのせて、追い風時のまに吹着ぬ、濱はわつかなる海士の小家にて、
佗しき法花寺あり、爰に茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪へたり……
其日のあらまし、等裁に筆をとらせて寺に残す」
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