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芭蕉の人間的討究(2) 斎藤清衛 著

2024年08月12日 19時51分42秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉の人間的討究(2) 斎藤清衛 著

 その頃は談林の全盛時代で、芭蕉も桃青の号を用いて宗因一派の俳席にも出た。

延宝時代(三十歳~三十七歳)の発句は八十句足らず残されているが、大凡談林調になっている。

   見るに我も折れるばかりぞ女郎花  (績建珠)

   猫のつま広の崩れよと巡ひけり   (六百番歌合)

   あウ何と屯なやきのふは過ぎて河豚汁(江戸三吟) 河豚汁=ふぐとじる

貞門の得意とした語戯れを離れて、内容上の奇抜な可笑し味を求めたのである。

芭蕉はこゝで俳諧本来の特質である通俗性を十分に拡充し、時代の俳人として立場をはっきり打ち出したのである。然し彼は談林の安易な通俗性に満足したわけではなかった。その中には手法は談林的であっても、しみ/\゛とした寂寥の漂っているものが見られる。老荘の寓言めいた句も少しずつ現れているし、後世の芭蕉を思わせるような閑寂味の句も僅かではあるが試みられている。

例えば「東日記」を見ると、

   愚にくらく棘(いばら)をつかむ螢かな

枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮

夜密かに竊(ひそ)かに虫は月下の栗を穿つ

     富家喰肌肉丈夫喫ス菜根予乏し

雪の朝ひとり干鮭(からざけ)を噛み得たり

 

延宝時代に、芭蕉は、

「十八番発句合」(延宝六年跋)

「田舎の句合」 (延宝八年板)

「常盤屋の句合」(延宝八年板)

などの判詞を書いている。それを見ると、「貝おほひ」の場合とは違って、中古風の雅文を用い、老荘、列子、山海経などが引用されている。その頃芭蕉は蘇東坡・杜子美・黄山谷の詩集を愛読していたようで、このように漢籍に興味をもったことが、談林風から離れる一つの切掛けなったのである。幽玄といふ事が重んぜられたようであるが、その幽玄というのは、一見意味が不明で、謎のような

思想を掊屈な言い回しで表現するのが、幽玄体と考えられたのである。

「常盤屋の句合」の芭蕉の跋文を見ると、

「句々たをやかに作新しく、見るに幽なり、思ふに玄也。是を今の風体といはんか」

と賞めているが、彼が勝句としてあげた句は

「茶僧月を見るに梅干の影のごとくに來り」

「だいくを蜜柑と金柑と笑て曰」

というような、寓言めいた謎のような句が多い。こういう幽玄体の句は天和時代に入っても盛んであったのである。

 

三 芭蕉が芭蕉らしくなったのは、

 

芭蕉庵に入庵してからである。入庵当時の俳諧には、尚延宝時代の名残があった。

「俳諧次韻」(天和元年 1681)から芭煎の句を引き出して見ると、

「白キ親仁紅葉村に送婿ヲ」

「禅小僧豆腐に月の詩刻む」

というような漢語調の謎のような句が少くない。

天和時代(三十八歳~四十歳)は芭蕉の寓言時代である。

老荘や禅の思想を殊更ら尊重するといふ風があった。談林調には満足できないで、新風を開こうとするともがきが明かに看取される。藷術上の苦悶時代であった。

 天和二年(1682)三月に「武蔵曲 むさしぶり」が出、翌年五月には、[虚栗 みなしぐり]が出たが、この二書は「次韻」とともに、延宝の談林から、貞享以後の蕉風に移る過渡期を代表する作品であった。新風を開こうとする芭蕉一派の歩みが、漸く顕著著になってきたのである。「武蔵曲」

屯「虚栗」も大体同じ調子で、表現は掊屈でぎこちなく、何か寓意めいた内容をもっている。談林の滑稽の行き詰りを感じた人々が、新たな歌意を出そうとする苦悶の現れとも見られ、悲鳴のように聞える。然しこういう苦悶は蕉風をきり開く上によい結果を資した。穏健平板な調子で始まると、安易に流れ卑俗になり易い。桔屈難渋な表現も、蕉風を大成する上には、当然踏まねばならぬ径路であった。然し乱雑といっても、談林の場合とは大分趣を異にしている。わざと異様な表現をして人を驚かそうというのではない。内にあるものをいかに表現すべきかといふ苦悶の現れであった。そしてぎこちない表現の中にも、穏健平明な句が既に現れているのである。

 

 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな  (武蔵曲) 盥=たらい

   櫓の卑波をうつて腸氷る夜やなみだ (同)

   朝顔に我は飯食ふ男かな      (虚栗)

   髭風を吠いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ (同)

   世にふるもさらに宗祗のやどりかな (同)

 

四 天和二年~

 

 天和二年(1682)冬芭蕉庵が火災に遇ってから、一方では無住所の心をおこし、他方では西行や宗祗の先蹤を踏もうという気持が起きていた。

そして貞享元年(1684)秋八月には、門千里とともに関西旅行に出た。その紀行文が「甲子吟行」(野ざらし紀行)であって、その出発に際して、芭蕉はこのような句を詠んだ。

   野ざらしを心に風のしむ身裁(甲子吟行)

彼は悲壮な思いをいだいて旅に出た。この旅の間に、どうしても貞門・談林から離れ、俳諧の新風を樹立しなければならぬ、死を賭しても俳諧の実体をつかまなければならないという強い覚悟があった。その決意が旅の門出にあたって、このような悲壮な句を産みみ出したのである。

 甲子吟行の句にも、

「みそか月なし千とせの杉を抱くあらし」

  「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」

のやうな、字余りのぎこちない調子がまだ残っている。然し次の句などには既に完成された蕉風の姿が見られる。

   蔦植ゑて竹四五本のあらしかな

   秋風や薮も畑も不破の關

   海暮れて鴨の聲ほのかに白し

  春なれや名もなき山の朝霞

   山路来て何やらゆかしすみれ草

 

悲壮の決意を以て門出をした旅の成果は、こゝに十分に現れたのである。これ等の句は貞門や談林でもなく、漢語調や漢詩趣味のものでも恚ない。

目に触れ心に感じた情景を、そのまゝ素直に表現しているのである。

 「甲子吟行」の句も、貞享元年と貞享二年では大分違っている。

元年の句には桔屈な険しい感じがあるが、二年になると大分句境が落着いている。旅が芭蕉を大きく育てたのである。一方では若い頃出奔した故郷を訪れて、心に潤いを與えられたということもあろう。それよりも最も大きな理由は、尾張の俳人達と[冬の日]の歌仙五巻を巻いて、俳諧の道に新しい希望を見出したという安心があったためではないか。

 「冬の日」は七部集の第一に数えられる書である。貞享元年冬の作であるために、趣向が勝っていて、しみ/\゛とした閑寂味に乏しいうらみはある。表現は力強く、派手ではあるが、その境地は庇に蕉風のものになっている。「甲子吟行」と「冬の日」によって、蕉風は先づ確立したと見てよいのである。

 貞享三年には、やはり尾張蕉門の手によって「春の日」(貞享三年八月刊)が刊行された。その中に、

  古池や蛙飛びこむ水の音

の句が収められている。この句は「古池や蛙飛だる水の音」の形で、すでに「庵櫻」にはいっていて、恐らくこれが初案である。

 「飛だる」には天和の響きがある。句調にはずみがあり、興に乗って表現しようとする態度が見られる。「飛びこむ」と改めたことによって、そこに著しい句境の進化が示されたのである。勿論其角の進言のように、[古池や]を「山吹や」に替えては、ただ傍観的な句になってしまう。この句は単なる寫生の句ではなく、叙景の句でもない。古池にひろがる閑寂の餘響を、しみ/\゛と味わおうとした句である。古池は心の田地ともいえるだろう。明鏡止水の心裡に灯された刹那の音に、永遠の閑寂の姿を追ひ求めた句である。

 兎も角「春の日」になると、詩句も屯連句も談林調から抜け出ている。「冬の日」にはぎごちない調子があり、感情も強く張り出ているが、それに比べると、「春の日」はいかにもおだやかで、のび/\としている。なお貞享三年(1686)には「初懐紙」が出ている。貞享四年八月には鹿島に旅行して、「鹿島紀行」の作を残した。

 

五  貞享四年十月(四十四歳)、芭蕉は「笈の小文」の旅に。

 

その門出にかういふ句をよんでいる。

旅人と我が名呼ばれん初時雨

この句と「野ざらし紀行」の門出の句

野ざらしを心に風のしむ身かな

と比べて見ると、心境が大分違っている。自己を客観視して、それを喜ぶ風情が見られる。旅に勇み立つ浮かれた気持が見られる。野ざらしの旅に出る時には、まだ確乎不動の信念ができていなかった。かすかな曙光は見えていたが、しっかりと體得されたものではなかった。今度の旅では、彼は既に風雅道に十分の信念を持っていた。野ざらしの旅に於ける自然との接触や、草庵の閑寂な生活を通して、自分の姿すら客親し得るようなゆとりができていたのである。

 

 「百骸九竅の中に物有り、かりに名付けて風羅坊といふ」といふ文章ではじまるこの紀行の冒頭の一節は、芭蕉の俳諧に対する根本観念を力強く表現したものである。風雅道を確立するまでの様々の心の苦悩を述べ、次に和歌・連歌・繪畫・茶道を貫く精神が同一であることを力説し、更に風雅に於ては、息意私情を去り、夷狄鳥獣の心を克服して、造化に随い造化に帰るべきことを説いたのである。そういう心境から眺めると、どういう卑俗卑近なものからも、芸術美は感得されるといふのである。「笈の小文」には、そういう髄順の心境を述べた句が多く見られる。

 

寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

春立ちてまだ九日の野山かな

草臥れて宿かる頃や酋の花

ほろほろと山吹散るか滝の音

 

芭蕉は実践の人であって、理論家ではなかった。あくまで実践によって俳諧の神髄をつかみ取ろうとした。風雅感を徹底させるためには、更に大きな旅の計画をしなければならなかった。その頃は既に芭蕉の俳壇に於ける地位は固まっていた。然し彼は世間的な聲望に満足する気にはなれなかった。安易な道をさけて、険難な道を選ぼうとするのも、藝術に生きる者に取っては宿命的な悲劇であった。  このようにして芭蕉は元禄二年(1689)三月、江戸を出発して、「奥の細道」の旅に上った。同年九月のはじめ大垣に入るまで、日數百五十日、旅程六百里に及ぶ大旅行が、芭蕉の藝術を深め育てる上に大きな役割を果たしたことはいうまでもない。

「閑さや岩にしみ入る蝉の腸」

「荒海や佐渡によこたふ天の川」

などの敷々の秀吟を残したのである。

 元禄三年(1690)の春は琵琶湖のほとりで迎へ、四月には石山の奥なる幻住庵に入り、こゝで「幻住庵の記」を草した。元禄四年の四月には去来の別墅落柿舎に入り、「嵯峨日記」を書いた。その頃去来・凡兆の手によって、「猿蓑」撰集の計画が勧められた。「猿蓑」は蕉風俳諧の円熟期を代表する撰集である。芭蕉俳諧の根本理念ともいうべき、さび・しをり・細みが、その完成された姿で示されているのである。発句

病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」

から鮭名空也の痩も寒の中」

などの佳吟が多く収められている。

 元禄四年十一月の朔日に、「奥の細道」の旅に出てから三年ぶりで江戸に戻った。

   ともかくもならでや雪の枯尾花 (北の山)

 

長い旅を終わって江戸に辿り着いた感懐を雪中の枯尾花に託した句である。

元禄五年五月には新庵が成って、そこへ移つたが、その生活にも様々な煩はしいことがあった。そこで彼はその年の秋(元禄五年説と六年説とがある。)「閉關の辞」を雪いて、外部との交渉を絶とうとした。その頃芭蕉庵の内部には複雑な事情があった。壽貞・桃印・まさ・おふうなどがその庵に同居して居たようである。それに俳諧の方面で名、いろ/\芭蕉を悩ます問題がおこっていた。「わび」「さび」の話術は必ずしも名門人どもに深く理解されてはいなかった。その晩年の文章や発句から、俳諧に失望したかのような口吻さへ感ぜられるのである。芭蕉の閉關には、このような複雑な心境が動いていたのである。

 然し結局、芭蕉は完全に門戸を閉じることはできなかった。門人の出入が絶えず、その間に「深川集」が成り、「炭俵」撰集の計画が進められた。芭蕉晩年の「軽み」は、この「深川集」や「炭俵」、「別座敷」(元禄七年板)や「続猿蓑」(元禄十一年板)によって窺われる。これ等の集には、淡白な客観趣味を喜ぶ傾向が現れて居り、意味もわかり易く、附方名平易になっている。

変化や緩急に乏しく、一體に調子が低い。これは元禄五年六年の内省生活から生れたもので、芭蕉としては極自然な歩みであった。「閉關の辞」を書いて門を閉じても、世俗から遁れることはできない。それで俗中におって俗を去るべき一段の工夫が必要と

された。そういう反省から生れたのが軽みの俳諧であるといえるであろう。

 芭蕉は、今度は珍らしく三年近く江戸にとどまっていたけれども、無所住無所着の決意がにぶったわけではなかった。宗祗や西行の系譜に従って、旅に生き旅に死のうという願いは衰えなかった。風雅道のためには現実的な、ほだしもたち切らなければならないと思っていた。

そして元禄七年夏には西国行脚を思い立ち、今度は遠く筑紫の果までも見極めようとしたのである。

 人々は品川まで見送って別離を惜しんだが芭蕉も、もう五十一歳で、ふだん頑健でもない身体は既に衰えを見せていた。再び生きて江戸に戻ろうとは思っていなかった。人々から句を乞われるまゝに、

   麦の穂を力にたのむ別れかな (陸奥衛)

といふ別離の句をよんだ。再會計り難い旅である。芭蕉の胸にも流石に別離の情がこみあげて来て、姿の程をたよりにつかむばかりであった。

 尾張を経て五月の末には故郷の伊賀に着いた。暫くそこに滞留して、それから京都・湖南に遊び、去来・丈草・木節・惟然・支考などと風交を重ねた。

その頃芭蕉庵に病を養っていた壽貞の訃報に接し、

数ならぬ身とか思ひそ魂祭 (有磯海)

という句をよんだ。七月には再び伊賀に帰り、兄半左衛門が彼のために新築した無名庵に二ケ月ほど滞在した。九月のはじめに伊賀を立って奈良に向い、九日のタ方大阪の西堂の家に着いた。大阪でもあちこちの俳席に招かれたりしたが、気分がすぐれなかった。

九月二十九日の夜から泄痢にかゝり、病勢は日増しに進んでいった。

十月五日には花屋仁右衛門の裏の貸座敷に病床を移したが、

十日の暮から病状は悪化して、十二日の申の刻に永遠の眠りりについたのである。

  秋近き心の寄るや四疊半   (鳥の逍)

  菊の香や奈良には古き俤たち (笈日記)

  此の這や行く人なしに秋の暮 (同)

  此の秋は何で年よる雲に鳥  (同)

  秋深き隣は何をする人ぞ   (同)

  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(同)

 

これ等の句には芭蕉終焉の年の心境がしみ/\゛と託せられている。殊に「旅に病んで」の句は、風雅に痩せ、旅に痩せた芭蕉の最後の吟として、深い感慨を覚えさせるのである。


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