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八月十日  萩原井泉水 氏著 昭和七年刊 俳人読本 下巻 春秋社 版

2024年08月01日 11時37分31秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

八月十日

 萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

貞享五年、吉野に花を見、須磨に夏の月を眺めてより、東に戻りつゝあった芭蕉は、名古屋まで来て、信濃姥捨山の名月が見たいといふ心を起して,そこから木曾路へと、旅の又旅を思付いた。これは其送別である。句は名古屋と熱田の連衆。

 

さらしなに行、人々にむかひて

更級の月は二人に見られけり      荷 兮

   越人旅立けるよし聞て、京より申つかはす。

月に行脇差つめよ馬のうへ       野 水

おくられつおくりつはては木曾の秋   芭 蕉 (嚝野)

 

 

一 葉 捨女(たまも集)

 

来る秋のきりぎは見する一葉哉

ほれしより気づくしや露の玉かづら

粟の穏の實は數ならぬ女郎花

月や空にゐよげに見ゆる簾越

衣明には露まで月のわかれ哉

 

 【註】捨女 田野氏、丹波柏原の人、妙齢にして夫に死別し、剃髪して播州網干に隠栖し、

貞閉尼と称した。元禄十一年八月十日歿。年六十五。 井

 

父は花  西鶴

  笙ふく人留主とはかほる蓬かな

  父・は花酒の母なり今日の月

  里人は臼つきかやす花野かな      (蓮 實)

【註】井原西鶴は戯作者として名高くなり、其俳名に覆はれてしまった。

元禄六年八月十日歿、年五十二

 

八月十一日

訪等裁   芭 蕉

福井は三里計(ばかり)なれば夕飯したゝめて出るに、たそがれの路たど/\し。

爰に等裁と云古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋ぬ。逞か十とせ餘り也、

いかに老さらぼひて有にや、将(はた)死けるにやと人に尊侍れば、

いまだ存命してそこ/\と教ゆ。市中ひそかに引入て、

あやしの小家に夕顔、へちまのはえかゝりて、鶏頭、はゝき木に戸ぼそをかくす。

さては此うちにこそと門を敲(たゝけ)ば、佗しげたる女の出て、

いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや、あるじは此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ、

もし用あらば涼給へといふ。かれが妻なるべしとしらる。

むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋あひてその家に二夜泊りて、

名月は敦賀のみなとにとたび立。

等裁も共に逞らんと裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。(奥の細道)

 

【註】この文は永平寺の條に続くので、三里ばかりとは永平寺よりである。

   等裁は連歌師であって、洞哉とも書いてゐる。

「桐をかしうからげて」ともある通りひょうきんな人であったらしく、几右日記に、

「蓮の實の共に飛入る庵かな」とあるのでも其風采が出てゐる。

 

 

蕎麦の花    卓 池

   

山畑や雲かかるまで蕎麦の花

   初雁を見おくる柴の煙かな

   名月をはれに山家の祭かな

   柿の木に梯子かけたり三日の月       (発句題叢)

 

 

八月十二日

 

木曾路 芭 蕉

 

さらしなの里おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。

木曾路は山深く道さかしく、旅寝の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をしておくらす。

をの/\心ざし盡すといへども、驛旅の事心得ぬさまにて、共にむぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、中/\におかしき事のみ多し。

何ゝといふ所にて、六十斗の道心の僧、おもしろげもあらず、

ただむつ/\したるが腰たはむまで物おひ、息はせはしく足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、をの/\肩にかけたるもの共、かの僧のおひねものとひとつにからみて、馬に付て我をその上にのす。

高山奇峰頭の上におほひ重りて、左りは大河ながれ、岸下の千尋のむもひをなし、尺地もたいらかならざれば、鞍のうへ静かならず、只あやうき煩のみやむ時なし。桟はし、寝覚など過て、猿がばゞ、たち峠などは四十八曲りとかや、九折重りて雲路にたどる心地せらる。歩行より行ものさへ眼くるめき、たましゐしほみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるゝけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたゝびなりけるをあとより見あげて、あやうき事かぎりなし。佛の御心に衆生のうき世を見給ふも、かゝる事にやと無常迅速のいそがしさも、我身にかへり見られてあはの鳴戸は波風もなかりけり。(更科紀行)

 

【註】八月十二日

    此更科行には文にある如く、越人が同行し、荷兮の小僕が伴をした。

桟、寝覚は副島の近くにあり、猿が馬場、たち峠というのは木曾路を出て、姥捨に近い

所にある。修辞の上から一緒にして書いてあるが、地理的には大分違う。

「たましゐしぼみて足定らざりけるに」などいうのは桟あたりの險道であらう。

 

「阿波の鳴門」とは「世の中を思ひくらべて見る時は阿波の鳴門は波風もなし」此途中

の吟として、此紀行の後に載せてある句は、

「桟道や命をからむ蔦かつら」「枝道や先づ思ひ出つ駒迎ヘ」

越人の句は、「霧晴れて桟道は目もふさがれず」

 

栗  小林一茶

 

 立寄らば大木の下とて、大家には貧しき者の腰をかゞめて、おはむき云ふもことはりになん。こゝの諏訪の宮に大きさ牛を隠す栗の古木ありて、うち見たる所は葉一つもあらざりけるに、其の下をゆきゝする人、日々採り得ざるはなかりけり。(おらが春)

 

木曾の宿  芭 蕉

 

夜は草の枕を求て、昼のうち思ひまうけたる景色、むすび捨たる発句など矢立取出て灯の下に目をとぢ、頭かてきてうめき伏せば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物おもひするにやと推量(おしはかり)し、我を慰めんとす。わかき時拝み巡りたる地、阿弥陀の尊きたふとき數をつくし、をのがあやしとおもひし事共はなしつゞくるぞ風情のさはりとなりて、何を云出る事もせす。とてもまぎれたる月影の壁の破れより木の間隠れにさし入りて、引板(ひだ)の音、鹿追う聲所々に聞えける。まことにかなしき秋の心、爰に盡せり。

 いでや月のあるじに酒振まはんといへば、さかづき持出たり。世のつねに一めぐりもおほきに見えて、ふつゝかなる蒔絵をしたり。都の人はかゝるものは風情なしとて手にも触れざりけるに、おもひもかけぬ興に入りて、靕碗(せいわん)、玉巵(ぎょくし)の心ちせらるゝも所がらなり。

   あの中に蒔繪書たし宿の月  (更級紀行)

 

八月十四日

 

秋の句合 蕪村

 

蕎麦花  畑ぬしの名をなつかしみ蕎麦の花  菫

野 菊  折とれは莖三寸の野きくかな    居

 

 野を懐かしみ一夜寝るにけりといへる詞をとりて、畑主が名のゆかしさ好みて作れるならんや、きかまほしく思ふも、白妙に咲きみだれたる中に、赤き莖の色たちたる、香気さへ郁々として、花で持て成すと祖翁の見とがめ給ふも、げに此物に癖する人の多き故ならんかし。

野草のながき根さし、芋小篠につれて、ひよろ/\と伸び過たる、莖も折とれば僅かにみつがひとつを得たり。然るを莖三寸と決定したる、俳諧の神卒といふべし。よって至つて好めるそばなれど、野菊をもて勝れりとす。

       ○

落鰷(はや)うらさびて鮎の脊みゆる川瀬哉   董

鹿啼や宵月落る山低し             居

 

 鬼實が句に、「夕ぐれは鮎の腹見る川瀬哉」、此句、鬼を兄とし、腹を脊にかへて弟たり。

俗諺にいふ脊に腹の反斡轉なるべし。

 紀貫之が「夕月夜おくらの山になく鹿の」といへる、五七五につゝめて、宵月の朦朧(もうろう)たるに嵯峨たる山も低しとはいひおゝせたり。しかれども陳腐の譏(そしり)免れがたし。さはいへ實情たるをもて勝とや申べき。 (反古瓢)

     

気比宮夜參   芭 蕉

 

 十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。その夜月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに洒すゝめられて、氣比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて松の木の間に月のもり入りたる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥淳をかはかせて、参詣往来の煩なし、古例今にたえず、紳前に餌砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持(すなもち)と申侍ると、亭主のかたりける。

月清し遊行のもてる砂の上


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