先日、報道ステーションのスクープを見て、憲法9条は、アメリカの押し付けではなかった、という記事を書いたのですが、それに関連して、ブログ「人生波乱万丈」の管理人のひろみさんが、ネットサイトから見つけてくださったすごいテキストがありました。

昭和26年、3月10日、9条を提案した幣原(しではら)喜重郎元総理が急逝されました。
それは、幣原氏の亡くなる数週間前2月下旬に、元衆議院議員平野三郎氏が、日本国憲法のできた経緯について、どうしても聞きたかった疑問を、ご本人から直接聴取した内容であるということです。
当時は、ご本人からもオフレコとして他言しないで欲しいという申し出もあり(その理由も最後に述べている)、長く表に出ることはなかったそうです。
しかし、昭和39年、憲法制定時の経緯について論議が出てきた状況に鑑み、平野三郎氏が公に出したもので、その文書が国会図書館に保管されていたのです。
さらに、ネットサイトの管理者である今川氏が、川西市立図書館を通じて国会図書館にコピーを依頼しそれを手に入れ、ワードに移し替えたものです。
原文サイトです。
↓
幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について ー 平 野 三 郎 氏 記― 憲法調査会事務局
こういった情報収集の努力をしてくださったサイト管理人の方には感謝の気持ちですが、これもまた、個人の情熱によるものであるのですね。
改めて、憲法9条は、多くの日本人の心に根ざしている、大きな宝物なんだなと思いました。
「人生波乱万丈」の記事に、原文はそのままに、より読みやすくアップしてくださっています。ぜひ、リンク記事をご覧頂きたいです。
↓
憲法9条は、日本製「愛のバクダン」
長く、読み応えがありましたので、私は、印刷して読みました。
大切なことは、マーカーで線を引っ張ったりしてアナログですが、こういう読み方が一番性に合っています(笑)
読んで思ったのは、やはり、憲法9条は、天の計らいとしか思えないものだったということです。
そして、幣原喜重郎氏、マッカーサー元帥、昭和天皇、というキイパーソン3人の人類愛というものが、結集されていました。
文書によると、戦争放棄については、最初は脳裏をかすめたひらめきのようなものだったのだけれど、次の瞬間、理性で思い直したが、頭のなかで止まらなくなってしまったのだといいます。
ひらめきは天啓であり、それを行動に移したのは、天命。人智を超えたスピリチュアルな経緯があって、憲法9条は生まれた。そういうことだと思います。
その部分を抜粋させていただきます。
また、日本が神の民族だと言って武力を持って戦ってきたものの、それも地に落ちてしまった。だが、9条によって悪魔であった武力を手放すことで、再び神の民族になれる、といったところも、ほんとうにそうだなと思いました。
よく改憲派の人たちは、戦後の日本を自虐史観とか言いますが、私は、戦争を反省し戦争をしないと誓ったことを、一度も恥ずかしいとか惨めだとか思ったことなどないですから。逆にそのことで、どれだけ世界に対して、日本の国を誇りに思ったことでしょう。幣原氏の仰るとおりでした。
その部分も、抜粋させていただきます。
「神」という言葉に違和感を持たれる方には、耳障りが悪いかもしれませんが、それを「天の理」とか「大道」、仏教における「法」という言葉に置き換えるか、あるいは持続可能な未来につがなる宇宙の法則、というふうに理解したらわかりやすいかもしれません。
もちろん、憲法発布当初は自衛隊もなかったのですが、『自衛』のための警察は、必要であるとはっきり述べているので、そのことも、改憲派の皆さんの誤解なきように抜粋いたします。
また、日本の防衛は、「徹頭徹尾正義」でなければならず、その正義も、自国の主観的・独断的な正義ではなく「世界の公平な与論(原文ママ)」という、天の目、大所高所からの視点を強調されています。
そして、私が幣原氏の言葉で、その洞察力と思考に感銘を受け、特に心に残ったのは、以下の部分です。
この言葉が、昭和26年西暦1951年、東西冷戦時代まっただ中の言葉であることに、驚かされます。
共産主義はもとより、今世界を支配しているように見える金融資本主義ももう限界であろうと思います。
私たちが昨日まで信じていたものは、私たちの本当の幸せを約束するものではないかもしれません。
本当の敵は、対立する勢力ではなく、向こう側の勢力に対して「戦争するしかない」と思ってしまう、その思考そのものであると言われているのだと思います。
・・・まだ引用したい部分はありますが、今日のところはこの辺で(笑)
全文は、 憲法9条は、日本製「愛のバクダン」を、ゆっくり読んでくださいね。
ところで、先日の報道ステーションの放送に関して、ゴーマニズムなんとかという漫画家の方が、9条の発案は諸説あり、番組は幣原説だけをことさら説明したものである、というようなことをどこかで書かれていたのですが、それは違うと思います。
報道ステ―ションに示されたテープやマッカーサーの書いた文書に加えて、このような資料が存在することも、はっきりとした裏付けであり、やはり、幣原氏が発案したものであるということは、まごうことない事実であると思います。
コメント欄で教えていただきました。
3月14日に出版された、この本の付録で、国会図書館に保管されていた、幣原喜重郎氏の言葉が全文読めます。

昭和26年、3月10日、9条を提案した幣原(しではら)喜重郎元総理が急逝されました。
それは、幣原氏の亡くなる数週間前2月下旬に、元衆議院議員平野三郎氏が、日本国憲法のできた経緯について、どうしても聞きたかった疑問を、ご本人から直接聴取した内容であるということです。
当時は、ご本人からもオフレコとして他言しないで欲しいという申し出もあり(その理由も最後に述べている)、長く表に出ることはなかったそうです。
しかし、昭和39年、憲法制定時の経緯について論議が出てきた状況に鑑み、平野三郎氏が公に出したもので、その文書が国会図書館に保管されていたのです。
さらに、ネットサイトの管理者である今川氏が、川西市立図書館を通じて国会図書館にコピーを依頼しそれを手に入れ、ワードに移し替えたものです。
原文サイトです。
↓
幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について ー 平 野 三 郎 氏 記― 憲法調査会事務局
こういった情報収集の努力をしてくださったサイト管理人の方には感謝の気持ちですが、これもまた、個人の情熱によるものであるのですね。
改めて、憲法9条は、多くの日本人の心に根ざしている、大きな宝物なんだなと思いました。
「人生波乱万丈」の記事に、原文はそのままに、より読みやすくアップしてくださっています。ぜひ、リンク記事をご覧頂きたいです。
↓
憲法9条は、日本製「愛のバクダン」
長く、読み応えがありましたので、私は、印刷して読みました。
大切なことは、マーカーで線を引っ張ったりしてアナログですが、こういう読み方が一番性に合っています(笑)
読んで思ったのは、やはり、憲法9条は、天の計らいとしか思えないものだったということです。
そして、幣原喜重郎氏、マッカーサー元帥、昭和天皇、というキイパーソン3人の人類愛というものが、結集されていました。
文書によると、戦争放棄については、最初は脳裏をかすめたひらめきのようなものだったのだけれど、次の瞬間、理性で思い直したが、頭のなかで止まらなくなってしまったのだといいます。
ひらめきは天啓であり、それを行動に移したのは、天命。人智を超えたスピリチュアルな経緯があって、憲法9条は生まれた。そういうことだと思います。
その部分を抜粋させていただきます。
それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前にはだかのからだをさらそうと言う。なんという馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。もしこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。まさに狂気の沙汰である。
そのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋(とき)ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。
そのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋(とき)ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。
また、日本が神の民族だと言って武力を持って戦ってきたものの、それも地に落ちてしまった。だが、9条によって悪魔であった武力を手放すことで、再び神の民族になれる、といったところも、ほんとうにそうだなと思いました。
よく改憲派の人たちは、戦後の日本を自虐史観とか言いますが、私は、戦争を反省し戦争をしないと誓ったことを、一度も恥ずかしいとか惨めだとか思ったことなどないですから。逆にそのことで、どれだけ世界に対して、日本の国を誇りに思ったことでしょう。幣原氏の仰るとおりでした。
その部分も、抜粋させていただきます。
「神」という言葉に違和感を持たれる方には、耳障りが悪いかもしれませんが、それを「天の理」とか「大道」、仏教における「法」という言葉に置き換えるか、あるいは持続可能な未来につがなる宇宙の法則、というふうに理解したらわかりやすいかもしれません。
日本民族は幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることによって再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。
もちろん、憲法発布当初は自衛隊もなかったのですが、『自衛』のための警察は、必要であるとはっきり述べているので、そのことも、改憲派の皆さんの誤解なきように抜粋いたします。
また、日本の防衛は、「徹頭徹尾正義」でなければならず、その正義も、自国の主観的・独断的な正義ではなく「世界の公平な与論(原文ママ)」という、天の目、大所高所からの視点を強調されています。
僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。もちろん軍隊をもたないと言っても警察は別である。警察のない社会は考えられない。とくに世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論によって裏付けされたものでなければならない。そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。
そして、私が幣原氏の言葉で、その洞察力と思考に感銘を受け、特に心に残ったのは、以下の部分です。
この言葉が、昭和26年西暦1951年、東西冷戦時代まっただ中の言葉であることに、驚かされます。
世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、たえず新しい思想に向って創造発展していく道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史のかなたに埋没してしまうだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義のイデオロギーもいずれ全く変貌してしまうだろう。いずれにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。
このことはやがてロシア人も気付くだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である。
このことはやがてロシア人も気付くだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である。
共産主義はもとより、今世界を支配しているように見える金融資本主義ももう限界であろうと思います。
私たちが昨日まで信じていたものは、私たちの本当の幸せを約束するものではないかもしれません。
本当の敵は、対立する勢力ではなく、向こう側の勢力に対して「戦争するしかない」と思ってしまう、その思考そのものであると言われているのだと思います。
・・・まだ引用したい部分はありますが、今日のところはこの辺で(笑)
全文は、 憲法9条は、日本製「愛のバクダン」を、ゆっくり読んでくださいね。
ところで、先日の報道ステーションの放送に関して、ゴーマニズムなんとかという漫画家の方が、9条の発案は諸説あり、番組は幣原説だけをことさら説明したものである、というようなことをどこかで書かれていたのですが、それは違うと思います。
報道ステ―ションに示されたテープやマッカーサーの書いた文書に加えて、このような資料が存在することも、はっきりとした裏付けであり、やはり、幣原氏が発案したものであるということは、まごうことない事実であると思います。
コメント欄で教えていただきました。
3月14日に出版された、この本の付録で、国会図書館に保管されていた、幣原喜重郎氏の言葉が全文読めます。