この記事の続きです。
■来世を信じる小学生
「来世があるから、自殺してもいい」テレビで小学生がそんなことを言っていました。
私が幼稚園のころ、近所に教会があり、近所のお姉さんといっしょに子どもむけの日曜学校に通っていました。友達と仲良くとか、嘘をついてはいけませんよ、とか、そんな話を聞かされたような気もします。あまり覚えていませんが。
しかし、「来世」のことはひとつも教えてもらったことはありません。
小学校に上がって引越しをしたので、教会も行かなくなりましたが、三つ子の魂なんとやらで、なんとなく寝る前に、「イエス様、今日もありがとう。明日もお守りください」と、唱えてから眠りにつくような子どもでした。(今はキリスト教とは無縁の生活ですけど・・・)
しかし、「来世」のことは、何一つ知りませんでした。もちろん回りの大人からもそんな話は聞いたことがありませんでした。
小学校の3~4年生のころのこと、よく知っていたタレントさんが亡くなったニュースが、私の記憶に残る知っている人の最初の「死」です。それ以前にもあったのですが、幼すぎて記憶にありません。このあいだまでいた人がもう2度と会えなくなる、目の前からいなくなってしまう・・・その事実に子ども心に、強い衝撃を受けました。
そして、「死ぬ」ということが、誰にも避けられないこと、自分の大切な家族もいつかいなくなってしまうのだ・・・私はそれに気づいた数日間、こわくて眠れなくなってしまったこともあります。
だから、今の小学生が普通に「来世」という言葉を口にするのを、一種不思議な気持ちで聞きました。そういう時代になったんだなあとも思います。
人は輪廻転生する・・・古い経典にも、最近のスピリチュアルな書物にもいろいろとそのようなことが書かれていますが、実感がなければ、言葉ではなかなか信じられないものです。砂糖を知らない人にその甘さを言葉を尽くして語っても、本当には伝えられません。なめてみれば一瞬で、すぐわかることだけれど。
だから、人に生まれ変わりがあると感じたのは、私の個人的な見解や体感からで、この考えを否定する人に押し付ける気持ちはありません。むしろ「来世がある」と、普通にいえる子どもたちがうらやましいのと同時に、実際どこまでそれを理解してるのか、あまりに軽いのりで信じているのなら、今の日本では、逆に心配になってしまう・・・こともあります。
今回のように、それだから「自殺してもいい」と言っちゃう人や、それだから「幸せな来世のためにもこの宗教を信じてお金を寄付しなさい」とかいう組織や、その延長でオウムのようなカルトを妄信して犯罪まで犯してしまう人や・・・そういうこともあるからです。
■自殺がいけない理由1
地獄と同じ苦しみ『反省の闇』
で、どうして自殺はいけないのか・・・
先週の堀ちえみさんゲストの回の「オーラの泉」という番組で、美輪明宏さんと江原さんが、スピリチュアルな面からお話をされたようなのです。見た方はご存知とは思いますが、なんと私は、途中からテレビを見たので、その部分を見過ごしてしまいました・・・がくっ。
しかし、私には心のバイブル、飯田史彦さんの「生きがいの創造Ⅰ・Ⅱ」がありますので、ここから抜粋させていただきます。
「生きがいの創造Ⅱ」で、飯田さんが自殺した夫のメッセージを残された奥さんに伝える場面です。
----------------------------
妻 「私が主人を許せば、主人は、暗闇から抜け出せるんですね?」
私 「ええ、より正確に言えば、ご主人は、生前奥様を大切にしなかったことや自分勝手な自殺をしてしまったことに対して、大変深い罪悪感を抱いていらっしゃるんです。そこで大いに反省するために、死後すぐ自らの意志で、『反省の闇』に入られたんですよ。ですから、ご主人が、自分を許せるようになって、『反省の闇』から出る自信がつくためには、まず何よりも、奥様のお許しが必要なんです。」
妻 「主人は自殺したために、地獄に落ちて苦しんでるわけじゃないんですね?」
私 「ええ、地獄というのは、死後大いに反省するときの、心の状態をイメージ化したものなのです。地獄という怖い世界そのものがあるわけではありません。しかし、人間として大きな罪を犯してしまった場合には、そんな怖い地獄に落ちるのと同じくらいに、深く反省することになるんです。その意味では、地獄という世界が実際にあるわけではなくても、地獄と同じくらいの心の苦しみを味わうことになるので、現実的には同じようなものなんですけどね」
----------------------------
飯田史彦さんもいつも言われているけれど、生きているとき頑固でいやなやつ、といわれたような人も亡くなって魂だけになると、とても謙虚な気持ちになるそうなんです。
ですから、自殺という取り返しのつかない亡くなり方をした人は、自分を責める気持ちが非常に強くなり、自らが作った『反省の闇』の中で、深い罪悪感や後悔から抜け出せなくなり、魂本来の光の姿に戻れなくなってしまうのだそうです。
つまり、自殺がいけないのは、本人が亡くなった後、回りの人はなぜ気づいてあげられなかったのか、助けてあげられなかったのかと悩み苦しみ、あるいは自分のせいで自殺させてしまったのではないかと悩み苦しみ、ただでさえ反省している自殺した本人は、その苦しみを感じてますます後悔の気持ちがわいて『反省の闇』はどんどん増していってしまうからなのだそうです。地獄というものはないけれど、自らが作った地獄と同じ苦しみと書かれていますね。仏教で言うところの「成仏できない」ということのようです。
■自殺がいけない理由2
試練は自分に課した自らの宿題だから、逃げてもまたやり直さなければならない
また、人は生まれる前に魂を成長させるため、あらかじめ、今度の生で自分が乗り越えるべき課題を作ってくるのだそうです。ですから、今起こっていることはたとえつらくても、乗り越えなくてはならない、自分が課した自分への人生の宿題ですから、どんなことがあっても向き合わなければならないのです。死んでしまったらまたその宿題が次の生へと繰越されるだけで、また同じ試練にチャレンジしなくてはならないかもしれません。もうちょっとで乗り越えられたかもしれないのに、また同じことをリセットして繰り返さなければならなかったら、嫌ですよね。
私も、自分のある過去世で失敗したことがあったようで、今でも当時の宿題をやり直している、という気持ちになることがままあります。
生きていれば、「災い転じて福となす」というように、起こった出来事がきっかけで、今まで向かっていた方向と別の方向が開けてくるかもしれません。絶対に自ら選んだこの人生を投げるようなことをしてはいけないのです。
今出ているマキノ出版の「安心」1月号に 飯田史彦さんの
心が晴れ渡り、喜びあふれる言葉と風景
飯田史彦・福島大学教授の 《生きがいの扉》
というグラビアページがありますよ。
思わず、ほおっとなるような美しい写真とメッセージです。本屋さんに行ったらチェックしてみてくださいね。
■来世を信じる小学生
「来世があるから、自殺してもいい」テレビで小学生がそんなことを言っていました。
私が幼稚園のころ、近所に教会があり、近所のお姉さんといっしょに子どもむけの日曜学校に通っていました。友達と仲良くとか、嘘をついてはいけませんよ、とか、そんな話を聞かされたような気もします。あまり覚えていませんが。
しかし、「来世」のことはひとつも教えてもらったことはありません。
小学校に上がって引越しをしたので、教会も行かなくなりましたが、三つ子の魂なんとやらで、なんとなく寝る前に、「イエス様、今日もありがとう。明日もお守りください」と、唱えてから眠りにつくような子どもでした。(今はキリスト教とは無縁の生活ですけど・・・)
しかし、「来世」のことは、何一つ知りませんでした。もちろん回りの大人からもそんな話は聞いたことがありませんでした。
小学校の3~4年生のころのこと、よく知っていたタレントさんが亡くなったニュースが、私の記憶に残る知っている人の最初の「死」です。それ以前にもあったのですが、幼すぎて記憶にありません。このあいだまでいた人がもう2度と会えなくなる、目の前からいなくなってしまう・・・その事実に子ども心に、強い衝撃を受けました。
そして、「死ぬ」ということが、誰にも避けられないこと、自分の大切な家族もいつかいなくなってしまうのだ・・・私はそれに気づいた数日間、こわくて眠れなくなってしまったこともあります。
だから、今の小学生が普通に「来世」という言葉を口にするのを、一種不思議な気持ちで聞きました。そういう時代になったんだなあとも思います。
人は輪廻転生する・・・古い経典にも、最近のスピリチュアルな書物にもいろいろとそのようなことが書かれていますが、実感がなければ、言葉ではなかなか信じられないものです。砂糖を知らない人にその甘さを言葉を尽くして語っても、本当には伝えられません。なめてみれば一瞬で、すぐわかることだけれど。
だから、人に生まれ変わりがあると感じたのは、私の個人的な見解や体感からで、この考えを否定する人に押し付ける気持ちはありません。むしろ「来世がある」と、普通にいえる子どもたちがうらやましいのと同時に、実際どこまでそれを理解してるのか、あまりに軽いのりで信じているのなら、今の日本では、逆に心配になってしまう・・・こともあります。
今回のように、それだから「自殺してもいい」と言っちゃう人や、それだから「幸せな来世のためにもこの宗教を信じてお金を寄付しなさい」とかいう組織や、その延長でオウムのようなカルトを妄信して犯罪まで犯してしまう人や・・・そういうこともあるからです。
■自殺がいけない理由1
地獄と同じ苦しみ『反省の闇』
で、どうして自殺はいけないのか・・・
先週の堀ちえみさんゲストの回の「オーラの泉」という番組で、美輪明宏さんと江原さんが、スピリチュアルな面からお話をされたようなのです。見た方はご存知とは思いますが、なんと私は、途中からテレビを見たので、その部分を見過ごしてしまいました・・・がくっ。
しかし、私には心のバイブル、飯田史彦さんの「生きがいの創造Ⅰ・Ⅱ」がありますので、ここから抜粋させていただきます。
「生きがいの創造Ⅱ」で、飯田さんが自殺した夫のメッセージを残された奥さんに伝える場面です。
妻 「私が主人を許せば、主人は、暗闇から抜け出せるんですね?」
私 「ええ、より正確に言えば、ご主人は、生前奥様を大切にしなかったことや自分勝手な自殺をしてしまったことに対して、大変深い罪悪感を抱いていらっしゃるんです。そこで大いに反省するために、死後すぐ自らの意志で、『反省の闇』に入られたんですよ。ですから、ご主人が、自分を許せるようになって、『反省の闇』から出る自信がつくためには、まず何よりも、奥様のお許しが必要なんです。」
妻 「主人は自殺したために、地獄に落ちて苦しんでるわけじゃないんですね?」
私 「ええ、地獄というのは、死後大いに反省するときの、心の状態をイメージ化したものなのです。地獄という怖い世界そのものがあるわけではありません。しかし、人間として大きな罪を犯してしまった場合には、そんな怖い地獄に落ちるのと同じくらいに、深く反省することになるんです。その意味では、地獄という世界が実際にあるわけではなくても、地獄と同じくらいの心の苦しみを味わうことになるので、現実的には同じようなものなんですけどね」
飯田史彦さんもいつも言われているけれど、生きているとき頑固でいやなやつ、といわれたような人も亡くなって魂だけになると、とても謙虚な気持ちになるそうなんです。
ですから、自殺という取り返しのつかない亡くなり方をした人は、自分を責める気持ちが非常に強くなり、自らが作った『反省の闇』の中で、深い罪悪感や後悔から抜け出せなくなり、魂本来の光の姿に戻れなくなってしまうのだそうです。
つまり、自殺がいけないのは、本人が亡くなった後、回りの人はなぜ気づいてあげられなかったのか、助けてあげられなかったのかと悩み苦しみ、あるいは自分のせいで自殺させてしまったのではないかと悩み苦しみ、ただでさえ反省している自殺した本人は、その苦しみを感じてますます後悔の気持ちがわいて『反省の闇』はどんどん増していってしまうからなのだそうです。地獄というものはないけれど、自らが作った地獄と同じ苦しみと書かれていますね。仏教で言うところの「成仏できない」ということのようです。
■自殺がいけない理由2
試練は自分に課した自らの宿題だから、逃げてもまたやり直さなければならない
また、人は生まれる前に魂を成長させるため、あらかじめ、今度の生で自分が乗り越えるべき課題を作ってくるのだそうです。ですから、今起こっていることはたとえつらくても、乗り越えなくてはならない、自分が課した自分への人生の宿題ですから、どんなことがあっても向き合わなければならないのです。死んでしまったらまたその宿題が次の生へと繰越されるだけで、また同じ試練にチャレンジしなくてはならないかもしれません。もうちょっとで乗り越えられたかもしれないのに、また同じことをリセットして繰り返さなければならなかったら、嫌ですよね。
私も、自分のある過去世で失敗したことがあったようで、今でも当時の宿題をやり直している、という気持ちになることがままあります。
生きていれば、「災い転じて福となす」というように、起こった出来事がきっかけで、今まで向かっていた方向と別の方向が開けてくるかもしれません。絶対に自ら選んだこの人生を投げるようなことをしてはいけないのです。
今出ているマキノ出版の「安心」1月号に 飯田史彦さんの
心が晴れ渡り、喜びあふれる言葉と風景
飯田史彦・福島大学教授の 《生きがいの扉》
というグラビアページがありますよ。
思わず、ほおっとなるような美しい写真とメッセージです。本屋さんに行ったらチェックしてみてくださいね。
お寺の縁日では、地獄絵と極楽絵があって、それこそ地獄絵には閻魔様がいたり、針の山や釜ゆでの有様が描かれてあり、「嘘をつくと舌を抜かれる」のは本当の事だと思っていました。
少し大きくなって、聖書を読む様になると、土から生まれた人間は土に戻るとか、無に帰すとか、ゲヘナの火に投げ入れられるのを見て、恐かったものでした。
生まれ変わりと言うのは、おとぎ話の中だけと思っていましたから、死者の書や丹波哲郎の大霊界で、そんな考えもあるのだと、ちょっとホッとしたのを覚えています。いたずらに恐がらなくても良いなと思いましたが、最近の子供達は楽な方へ転がっていきますね。
自分がこの世に誕生するのは、奇跡の様な確率なのにと思い、大事に生きねばと、私は考えています。
私も、「来世を信じても、自殺はいけない」と思います。
自分が誕生する確率から考えて、生まれてくるだけでも、
偶然と奇跡の賜物だと思います。
そして,現世の出会いもまた偶然と奇跡のようなところが
あります。今、ここに存在することの大切さをかみ締めなければいけないと思っています。
死が、2度とその人と会えないことだと初めて実感したときの衝撃は私も大きかったです。
それを教えてもらったことは、私の人生観を修正するほどの大きい出来事(祖母の死)でした。
だから、努力しても、誰かのために何かすること、そして自分から死を選ばないことが、大切だと思っています。
飯田先生の言葉は、やさしくわかりやすいですね。こういう説明のしかただと、平生、自分は無宗教だと思っていても、納得がいくのではないでしょうか。
>自分がこの世に誕生するのは、奇跡の様な確率なのにと思い、大事に生きねばと、私は考えています。
そうですね。やっと生まれてきたんだから、大事に生きなくては・・・
また、自分を大切に出来る人は、同じように自分以外の人もそれぞれにかけがえのない存在だと、気がつきますよね。
http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm
>こういう説明のしかただと、平生、自分は無宗教だと思っていても、納得がいくのではないでしょうか。
そうなんですよ。しかし『生きがいの創造1』では、飯田さんは学者の目に徹して、常に客観的な姿勢を崩しませんでしたが、8年後に書かれた『生きがいの創造Ⅱ』では、勇気を出して?普通の人にはない能力を持ってらっしゃることをカミングアウトされました。
こういうことを受け入れる土壌が、今の時代に出来てきたのかとも思います。そういうこともまた、「変化の兆しなのかな」という気持ちになるのです。
私も、こんなことを書いてはいますが、実は無宗教なんですよ。あえて言うなら、「お天道様ありがとう教」(笑)
自殺に関する資料のサイトを、教えてくださってありがとうございます。改めて、ショックを受けました。
自殺は、減っているどころか年々増え続けているのですね。そして、原因の70%以上の人が、健康と経済の問題で自殺していること、それを裏ずけるように、中高年の自殺が多いですね。
無職や非雇用者が多いということは、やはり今の新自由主義によるリストラ、過重労働、社会保険の貧困さ、など政府や経済界のよる政策が、国民を追い詰めているということでしょう。
だから、自殺はいけないと日ごろは思っている人でも、正常な判断ができなくなってしまうのでしょう。
本当に、悲しいことです。自殺は、家族にも長く傷になって苦しめるので、どうか個人の家庭の問題だけではなく、国も考えてほしいです。
そうなら、無駄なお金を湯水のように使う『戦争のできる国』つくりなどできないはずです。
私はできれば政治問題なんて口にしたくないのですが、結局政治は、「人が生きる」ということに直結してしまう問題だから、書かずにはいられなくなってしまいます。
命より経済効率優先の政治が、格差や医療問題を生み出していると、常々感じています。
政治の優先順位の1番が『命』であれば、戦争できるための法律を作ったり、企業優先の規制緩和など出来ないはずです。前にも書きましたが、目には見えないけれど電磁波のスモッグが日本中を覆っており、これが今の子どもたちの成長にどんな影響を及ぼすのか・・・人体実験を行ってるんじゃないかと、恐ろしいのです。
基本的に自殺はよくないと思いますが、尊厳死の場合は、非常に難しい問題ですね。その場合の自殺は特例として扱わなければならないと思っています。
ただ、愛をもって愛を知ること。これがこの世に生まれた人たちの共通の目的だから、その意味において愛のある死・・・と言うものも「あり」なのか。
やっぱりそこのところは、難しくてわかりません。