7月31日に東京ドームで日本ハムvsソフトバンクの「東京鷹の祭典」を観戦しましたが東京に着いたのは〈ムーンライトながら〉なので5時05分。試合までは半日ありますので高崎線に乗って北上しました。
高崎に来ると以北の電車は211系ばかり。関西本線だったらロングはハズレでセミクロスはアタリですね。セミクロス211系自体殆ど残っていませんがここは勿論ハズレ。乗車すること30分余りで山深くなってきました。
信越本線の終点、横川は行き止まりの駅。初めて来たのは廃止フィーバー真っ只中の1997年7月27日、初めてひとりで飛行機に乗った日なのでよく覚えています。新千歳発8時のJL500便に乗ったら朝食が配られた時代です。最初で最後の在来線での碓氷峠を越えて小海線に乗り換えて中央東線で東京に戻り373系の〈ムーンライトながら〉で西下しました。今の若い子にはあの頃の喧騒など想像できないだろうなあ。駅弁屋が頭を下げて列車を見送ったと言っても信じてもらえないかも。今でも臨時列車とかではしているのだろうか?
こんな小さな駅にかつてはすべての特急列車が停車し、夜行列車も運転停車ではなく客扱いしていたのですから今では考えられない。
周囲の山も険しいです。ここにやって来たのは碓氷峠鉄道文化むらを見学するため。2006年に一度来たことあるんですが、それ以来訪問する機会がありませんでした。
碓氷峠と言えば〈あさま〉、あさまといえば189系ですよね。489系なら白山です。
無骨なデザインですけど、国鉄時代の特急車両は長距離乗車でも体が疲れないんですよね。いまの特急車両は長時間乗車を前提にしていないから、乗った後どうもって感じがします。
運転台は…、座席が傷んでいました。開放している以上、まあ仕方ないことでしょうか。
EF63の運転台を見ているとあとから来た家族連れ。席を譲ろうと立ち上がり、椅子の通り抜けようとすると狭くて抜けれない。それを見ていたオヤジが「通れますか?無理ですか?どうしてそんなに成長したんでしょうねえ?」だと、それって暗に「お前がデブだから通れないんだよ」と言っているのと同じことで、通りすがりに言われる筋合いはない!なんと失礼な奴と思ったが、その家族連れの婆さんが「ハッハッハー」ってわざとらしい笑い。正直気分悪いが、普段からこういう人と言うか家族なんだろうな。怒ったところでどうにもならんだろう。
DD51はトップナンバーの1号機が登場時の旧塗色で。非重連型と言われ運用に制限があったので早い時期に廃車されました。かつてはどこででも見られたDD51も今では稲沢~南四日市でしか定期運用は存在せず、最寄りの富田は三岐鉄道の貨物列車があるので常駐駅。深夜でも必ずDD51が見られますので思えばいい場所に住んでいますね、私って。
動態保存機のEF63の貫通扉が開いていて点検中。電気機関車の扉が開いているのって殆ど見たことないから新鮮だ。
デッキ付き機関車は昔だと客車に乗り切れなかった通勤通学客が手すりにつかまって、毎日のように決死の通い。いつごろまで許されたんでしょうね。
客車だってかつては手動扉で、貫通面に扉が無く鎖だけのオープンデッキ。冬場なら勿論雪が積もります。それがまかり通っていたのも国鉄時代。私の中にある一番古い鉄道乗車は岩見沢から白石まで、旭川発函館行きの122列車に乗ったことです。岩見沢で増結していましたがそれでも乗り切れていないというか、4歳くらいの子供ですから他の客に迷惑かけないと、母親はいつも車掌室の席を選んでいました。確かデッキと客室の間にあって半ボックスの席と手ブレーキがあったように記憶します。使ってない車掌室は戸が開いていて座れたものです。気動車だってキハ40の助士席は自由に座れたものです。そこで手ブレーキのハンドルをキコキコ回して遊んだ記憶があります。回すと言ってもロックかかっているので遊び程度にしか動きませんし、4歳の子の力ですから大したことなく通りすがりの車掌も咎めなかったように記憶します。
関門トンネルと言えばステンレスの機関車でした。漏水に含まれる塩分による錆を防ぐ目的でしたが、いまここを通る電車がそんなことないし、貨物用機関車も然り。もうどうでもよくなったのか?それよりも関門トンネルはいつまで使う気なんだろうかという素朴な疑問。
寝台車は3段寝台でなおかつ幅が無いので寝がえりがうてないほど狭い。しかし10系寝台が導入されたころは画期的だったと聞いております。
洗面台も3つ並び、間には痰壺があるのも懐かしい。こんな懐かしい車両に出あえたりする碓氷峠は夏休み「パパ、どっか連れてって、どっか!」というお子様に大変うってつけですし、未来の鉄ちゃんを要請するのにもうってつけです。
高崎に来ると以北の電車は211系ばかり。関西本線だったらロングはハズレでセミクロスはアタリですね。セミクロス211系自体殆ど残っていませんがここは勿論ハズレ。乗車すること30分余りで山深くなってきました。
信越本線の終点、横川は行き止まりの駅。初めて来たのは廃止フィーバー真っ只中の1997年7月27日、初めてひとりで飛行機に乗った日なのでよく覚えています。新千歳発8時のJL500便に乗ったら朝食が配られた時代です。最初で最後の在来線での碓氷峠を越えて小海線に乗り換えて中央東線で東京に戻り373系の〈ムーンライトながら〉で西下しました。今の若い子にはあの頃の喧騒など想像できないだろうなあ。駅弁屋が頭を下げて列車を見送ったと言っても信じてもらえないかも。今でも臨時列車とかではしているのだろうか?
こんな小さな駅にかつてはすべての特急列車が停車し、夜行列車も運転停車ではなく客扱いしていたのですから今では考えられない。
周囲の山も険しいです。ここにやって来たのは碓氷峠鉄道文化むらを見学するため。2006年に一度来たことあるんですが、それ以来訪問する機会がありませんでした。
碓氷峠と言えば〈あさま〉、あさまといえば189系ですよね。489系なら白山です。
無骨なデザインですけど、国鉄時代の特急車両は長距離乗車でも体が疲れないんですよね。いまの特急車両は長時間乗車を前提にしていないから、乗った後どうもって感じがします。
運転台は…、座席が傷んでいました。開放している以上、まあ仕方ないことでしょうか。
EF63の運転台を見ているとあとから来た家族連れ。席を譲ろうと立ち上がり、椅子の通り抜けようとすると狭くて抜けれない。それを見ていたオヤジが「通れますか?無理ですか?どうしてそんなに成長したんでしょうねえ?」だと、それって暗に「お前がデブだから通れないんだよ」と言っているのと同じことで、通りすがりに言われる筋合いはない!なんと失礼な奴と思ったが、その家族連れの婆さんが「ハッハッハー」ってわざとらしい笑い。正直気分悪いが、普段からこういう人と言うか家族なんだろうな。怒ったところでどうにもならんだろう。
DD51はトップナンバーの1号機が登場時の旧塗色で。非重連型と言われ運用に制限があったので早い時期に廃車されました。かつてはどこででも見られたDD51も今では稲沢~南四日市でしか定期運用は存在せず、最寄りの富田は三岐鉄道の貨物列車があるので常駐駅。深夜でも必ずDD51が見られますので思えばいい場所に住んでいますね、私って。
動態保存機のEF63の貫通扉が開いていて点検中。電気機関車の扉が開いているのって殆ど見たことないから新鮮だ。
デッキ付き機関車は昔だと客車に乗り切れなかった通勤通学客が手すりにつかまって、毎日のように決死の通い。いつごろまで許されたんでしょうね。
客車だってかつては手動扉で、貫通面に扉が無く鎖だけのオープンデッキ。冬場なら勿論雪が積もります。それがまかり通っていたのも国鉄時代。私の中にある一番古い鉄道乗車は岩見沢から白石まで、旭川発函館行きの122列車に乗ったことです。岩見沢で増結していましたがそれでも乗り切れていないというか、4歳くらいの子供ですから他の客に迷惑かけないと、母親はいつも車掌室の席を選んでいました。確かデッキと客室の間にあって半ボックスの席と手ブレーキがあったように記憶します。使ってない車掌室は戸が開いていて座れたものです。気動車だってキハ40の助士席は自由に座れたものです。そこで手ブレーキのハンドルをキコキコ回して遊んだ記憶があります。回すと言ってもロックかかっているので遊び程度にしか動きませんし、4歳の子の力ですから大したことなく通りすがりの車掌も咎めなかったように記憶します。
関門トンネルと言えばステンレスの機関車でした。漏水に含まれる塩分による錆を防ぐ目的でしたが、いまここを通る電車がそんなことないし、貨物用機関車も然り。もうどうでもよくなったのか?それよりも関門トンネルはいつまで使う気なんだろうかという素朴な疑問。
寝台車は3段寝台でなおかつ幅が無いので寝がえりがうてないほど狭い。しかし10系寝台が導入されたころは画期的だったと聞いております。
洗面台も3つ並び、間には痰壺があるのも懐かしい。こんな懐かしい車両に出あえたりする碓氷峠は夏休み「パパ、どっか連れてって、どっか!」というお子様に大変うってつけですし、未来の鉄ちゃんを要請するのにもうってつけです。