2020年11月29日大阪東教会主日礼拝説教「」吉浦玲子
【聖書】
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。
天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り
憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。
「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」
主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。
求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」
すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。
畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。
子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。
【説教】
<むなしい言葉>
旧約聖書の時代、王は油を注がれ王座に着きました。油注ぎは、角に特別に調合した油を入れて頭に垂らすという儀式です。神から命じられて、油を注いだのは預言者であったり祭司でした。詩編第2編は「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声を上げるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」と始まります。この地上において神から油注がれた者へ人々が結束して逆らっていると詩人は語ります。宗教改革者のカルヴァンはこの油注がれた王をダビデとして解釈をしています。
ダビデの生涯を振り返りますと、少年と言っていいくらいの幼い時に、預言者サムエルから次の王として油を注がれました。当時、政治的にはサウルが王でした。サウルもかつて預言者サムエルから油を注がれた者でしたが、サウルは神に背き、神から退けられていました。しかし、政治的には依然としてサウルはサウルは王でした。ダビデはそのサウル王の部下として仕えるようになります。しかし、ダビデの功績を妬んだサウルから妬みを買い、恨まれ、ついには命まで狙われるようになります。イスラエル各地をダビデは逃げ回り、サウルから逃れるために、ついには敵国であるペリシテにまで逃げていったのです。少年の頃、油注がれていたダビデですが、実際にイスラエルの王としての実権を握ったのは、サウル王の死後でした。ダビデは40歳になっていました。王になったあとも、ダビデにはさまざまな苦難はあり、神に油注がれた者であったダビデは生涯に渡り、敵との戦いに明け暮れました。
国々は騒ぎ立ちの「騒ぎ立ち」とは共謀するといったニュアンスがあります。「人々はむなしく声を上げる」というのは、無意味なことをしゃべるというのです。神に油注がれた者へ敵対する者たちは、共謀して、無意味なことをしゃべるのです。神に油注がれた者へ敵対するということは、神へ敵対するということです。そして神へ敵対するものは徒党を組んで、むなしいはかりごとをすると詩人は語っていのです。
神に従う者は、ダビデはもとより、ダビデに油注いだサムエルにしても、エリヤ、エリシャといった預言者にしても、一人で立ちます。神の義を帯びて立つのです。しかし、神の義ではなく、自分自身の義によって立つ者は一人では立てません。多くの者が共謀して立つのです。出エジプトの時代、モーセに反逆した人々は250人が徒党を組んでモーセに対抗しました。預言者エリヤの時代、エリヤは一人い対して、異教のバアルに仕える敵は450人もいました。
主イエスを十字架刑にした人々もそうでした。ヘロデやサドカイ派やファリサイ派が結託したのです。もともとはサドカイ派とファリサイ派は仲が悪かったのです。ヘロデとファリサイ派も仲が悪かった。しかし、主イエスを陥れるために共謀したのです。
時代を越えて、そのような愚かな力が吹き荒れる時があります。本来は無意味なむなしいことが力を帯びて、吹き荒れたこともあります。悪しき力が強大化して、人びとや国を荒らすということがあります。今も、コロナの時代、世界にはむなしい言葉が満ちて、私たちは惑わされ、不安に陥っています。
私たちは注意をしないといけません。騒ぎ立つ言葉、むなしい言葉に惑わされないようにしなくてはいけません。テレビにも新聞にもネットにも多くの言葉があふれています。そして特に日本の社会には同調圧力があります。私たちは知らず知らずに、神の義ではなく、神から引き離すむなしい言葉に引かれて行く危険な時代の中にあります。街に流れるクリスマスソングすら、人びとを誘惑する悪しき力になる場合もあります。
<ダビデの弱さ>
ダビデはイスラエルの王の中でも抜きん出た存在でした。何より神への従順を貫いた信仰者でありまし。しかし、やはり弱さを持った人間でもありました。有名なバトシェバとの不倫以外でも親子関係においてもダビデの弱さは現れました。
ダビデは神に愛され、周囲の人々にも愛された人物でした。さきほど申しましたように、サウル王に追われ敵国ペリシテに逃げていた時、庇護を受けたペリシテの有力者にもたいへん気に入られるような人柄でした。実際、彼の周りには優秀な人物がいました。神は油注がれた者ダビデにそういう人々を引き寄せる魅力をお与えになったのです。
しかし、先ほど申しましたようい彼は子供には甘いところがありました。ダビデの三男の妹タマルを異母兄弟である長男が無理やり乱暴をするという出来事がありました。乱暴をした長男に対してダビデははっきりとした罰を下しませんでした。異母兄弟である三男は妹のことを思い、長男と父を恨みます。そのことがきっかけになり、三男は長男を殺します。この長男を殺した三男に対してもダビデは優柔不断な対応をとります。結果的にはやがて三男が父親であるダビデに反旗を翻し戦うことになります。父と子が戦うことになってしまったのです。結局、ダビデが勝利し、三男は戦死してしまいます。するとダビデは死んだ息子のことを身も世もなく嘆き悲しみます。それは人間の情としては当然のことではありますが、武将として、闘った組織の責任者としては不適切なことでした。命をかけてダビデのために戦った部下たちに無礼なことです。側近から「あなたは自分の部下が皆死んで、息子が生きていた方がよかったのか」と諭されます。ダビデは油注がれた者でしたが、独裁者ではありませんでした。そのような人間的な弱さも持っていたダビデに対し、忠告をしたり諭す人物を神は傍らに置かれたのです。いずれにせよ、そういう弱さを抱えたところも、人間として見た場合、完全無欠な人物より魅力的ではあります。信仰者という範疇を越えて、ことに欧米でダビデが人気があるのは、そういう人間的な側面もあるかと思います。
<新しい王の即位>
さて、旧約聖書はさまざまな箇所で、やがて来られる救い主について記しています。この詩編2編もそうです。ヘブライ語で油注がれた者はマシアフと言います。これが救い主であるメシアの語源です。ダビデは確かに神に選ばれ神に油注がれた王でしたが、先ほど申しましたように完全な人間ではありませんでした。しかし、やがて来られる救い主、新しい油注がれた者は完全な王として来られます。「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」とある通りです。この新しい油注がれた者、メシアをギリシャ語でいうとキリストになります。神は新しい王キリストをお立てになりました。
神は、騒ぎ立ちむなしい言葉をあげる者たちに対して、新たな王をお立てになります。それは人間の王ではありません。血筋としてはダビデの子孫ですが、ダビデのような罪や弱さを抱えた人間ではありません。特別に神に油注がれた完全な者です。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」と神ご自身がおっしゃるのです。<お前はわたしの子>と言われるお方こそ、イエス・キリストです。<お前はわたしの子>という言い方は古代における養子の宣言の言い回しにのっとったものです。あなたはわたしに法的に私の子であるというのです。日本人の感覚でいうと血のつながりを重視しますが、イスラエルにおいては法が尊重されます。ですからここで「わたしの子」と宣言されているということは、間違いなく正統的な子供であると宣言をしているのです。「わたしはお前を生んだ」というのは、生物学的に出産したということではなく、キリストは被造物ではないということです。私たちは神に造られたものです。被造物です。しかしキリストは被造物ではありません。神と密接な関係を持つお方です。神が神ご自身を生まれたという神秘の言葉でもあります。
ここで大事なことは、「お前はわたしの子」と神が宣言をされ「今日、わたしはお前を生んだ。」とおっしゃる「今日」は2000年前の最初のクリスマスのことではないということです。人間イエスとして救い主がこの世界に来られたのは2000年前です。しかし、キリストご自身は2000年前に突然、存在されたわけではありません。世の初めの時から父なる神と共におられたのです。創世記の最初の時から、父、子、聖霊なる神は三位一体の神として存在なさっていました。ヨハネによる福音書の1章に「初めに言があった」と記されている、「言」がキリストです。世の初めの時から存在された「言」なる神が救い主であるキリストです。キリストは天地創造にも関与されました。「万物は言によって成った」とは創造の御業はキリストの業であったということです。
そのキリストが人間の肉体をとってこの世界に来られたのが受肉、降誕の出来事でした。ときどき勘違いしている人がいるのです。クリスチャンであっても、神の御子を、なにか父なる神より一段落ちる存在と考えている人がいます。イエス・キリストという存在を神的な力はもっている素晴らしい人だけど神そのものとはちょっと違う、そう考えている人がいます。もちろん地上を人間として歩まれたイエス・キリストは父なる神とは別の位格(ペルソナ)をもっておられました。しかし、何回も繰り返し言いますがキリストは完全に神であり完全に人間であられた存在です。これを否定するということは完全に異端です。実際、キリスト教系の異端宗教、カルト宗教ではそのように考えられています。キリストがどなたかということを誤ると、すべてのことがおかしくなるのです。イエス様が私たちの身代わりに十字架にかかってくださったということも、そのイエス・キリストが初めからおられた神であるという認識がなければ、十字架の重さが分からないのです。本当の贖罪信仰に至らないのです。十字架は人間が神を殺した出来事であることがわからないのです。喜ばしいアドベントの時期に十字架の話をするなと思われるかもしれません。しかし、十字架の贖罪の出来事が分からなければ、神であるキリストがこの世界に来られた降誕の喜びも実際のところは分からないのです。
<今日>
さて、ある方が、「今日、わたしはお前を生んだ」の「今日」について考察されていました。さきほども申しましたように、「今日」は2000年前の降誕のことではありません。ここでいう「今日」とは<神の定められた時>という意味です。西暦何年という人間の時間ではなく神の時間のなかで、神が特別に定められた時です。神がそのご計画をなさるときです。有名な福音書の言葉で「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」というときの「今日」は、少し複雑な言い方になりますが、神の定められたご計画の決定的な時間と、人間の歴史の時間がクロスした今日ということになります。神の時間が人間の世界の時間に突入してきたと言えるのです。降誕の出来事は、まさに神ご自身が人間の歴史に突入して来られた出来事です。
10節に「すべての王よ、今や目覚めよ」とあります。この「今や」は人間にとっての「今」です。神の時間が人間の時間に突入してきた、その「今」私たちは目覚めるのです。私たちがリアルに生きる今この時、私たちは目覚めるのです。まどろむのではないのです。新しい王が来られました。世の初めからおられた神が、私たちの世界に来られました。完全な王、私たちを救い、ふたたび神の時へと導いてくださる方がお越しになりました。だから「今」、私たちはその新しい王、神に従います。