2018年5月6日 大阪東教会主日礼拝説教 「救い主と出合う」吉浦玲子
<キリストとの出会い>
ある女性が洗礼をお受けになってキリスト者となられた、その方が最初に教会に行かれたそのきっかけのお話を聞いたときとても驚きました。その方は、当時、小学生だった娘さんと休みの日に二人で買い物に行って、とても荷物が重くなってしまいました。帰り道、とても疲れてしまったそうです。ふうふう言いながら歩いていたら、娘さんがある看板を目にしたのです。その看板には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と書かれていました。ルビもうってあったようです。娘さんは、その看板を休憩所の案内だと思ったそうです。笑い話のようなのですが、娘さんは「ここで休めるみたいよ~」とさっさと中に入って行きました。お母さんはここはキリスト教の教会だと気が付き、勝手に入ってはいけないのではないかと慌てて娘さんの後をついていったら、そこで、ばったり教会の牧師と出会い、どうぞどうぞとお茶を出されて世間話をしてほんとうに休憩をして帰ってきたそうです。それがその教会へ行く最初のきっかけになったそうです。そこからすぐに礼拝に行ったり洗礼をお受けになったわけではなく、紆余曲折はあったようですが、娘さんが「ここで休めるみたいよ~」と勘違いして教会の中に入って行かなければ、そのお母さんはその後、教会につながることはなかったのです。神様の招きの不思議さを思います。
イエス・キリストと出会う、教会に来る、そのきっかけは人それぞれです。劇的なことがあって信仰に入る人もいます。何となく気がつくと教会に来ていた、そういう人もいます。主イエスの最初の弟子たちもそうでした。もともと洗礼者ヨハネの弟子であったアンデレは、その先生であるヨハネの言葉によってイエス・キリストに従う者となりました。そのアンデレの言葉によってペトロはイエスに従うようになりました。ナタナエルもフィリポからの誘いによってキリストに従うようになりました。それに対してナタナエルを誘ったフィリポ自身は誰かからの誘いではなく、主イエスご自身から「わたしに従いなさい」と声をかけられました。
先週、洗礼者ヨハネは、イエス・キリストを指し示す声であった、ということを共に聖書からお読みしました。洗礼者ヨハネ以後も、人それぞれにキリストを指し示す「声」を聞き、それはフィリポのようにキリストご自身の声であることもありますが、それぞれにキリストのもとに行くのです。その声は友人や家族の声であるかもしれませんし、本や映画や音楽から聞こえた「声」かもしれません。私自身は、直接に誰かに教会やキリスト教に誘われたということはありませんでした。しかし、カトリックの教会の多い長崎で生まれ育って、その風土の中で自然に声を聞いていたのかもしれません。そしてまた直接、信仰を勧められたわけではないのですが、家族ぐるみのお付き合いをしていたお世話になった方がクリスチャンであったこと、そういうこともあります。もっとも家族ぐるみでお付き合いしていた方がクリスチャンであることを知ったのはその方の葬儀の時でした。ですから、その方は生前、積極的に伝道をしていたわけではないのです。しかし、それでも私にとってはその方の存在はひとつの声となったのだとも言えます。
さてその声を聞いた者はどうするのでしょうか?
<来て、見なさい>
今日の聖書箇所に出てくる最初の二人の弟子は、主イエスから「何を求めているのか」と問われます。あなたは何を求めているのか?聞かれた二人は神を信じるユダヤ人であって、もともと洗礼者ヨハネの弟子でありました。当然、彼らは、救いを求めていたのです。洗礼者ヨハネが語っていた裁きと救い、それを待ち望んでいた。それを成し遂げる救い主を待っていたのです。救い主を求めていたのです。しかし、その弟子たちの答えは不思議なものでした。「ラビ、どこに泊っておられるのですか」当然問われた二人は、その問いが、神のこと、救いに関わることであることは理解していたでしょう。彼らは真剣に求道していたのです。にもかかわらず、イエスの問いに対して宿泊先を聞いているのはおかしな会話のようです。ここで「泊る」と訳されている言葉には「留まる」とか「つながる」という意味があります。ですから、ここで弟子たちが問うた言葉には「あなたは何につながっているのですか?」「どこにとどまっておられるのですか?」というニュアンスが含まれています。それは、とりもなおさず、神と、今、目の前におられるキリストの関係を問うているのです。あなたは神の歴史の中で、神のご支配の中で、どこにとどまっておられるのか、神のどこにつながっておられるのか、そう問うているのです。つまりそれは「あなたは救い主、メシアなのですか」という問いでもあります。
それに対するイエスの答えはあっさりとしたものです。「来なさい。そうすれば分かる。」というものでした。来たらわかる、ただそれだけ答でした。そして実際に彼らはイエス様のところに行きました。「午後四時ごろのことである。」と時間が記されています。きっとイエス様との出会いはとても印象深いものだったのでしょう。ですからわざわざ時間が記されているのです。そしてまたそれがたしかな現実世界での出会いであったこともこの時間の記述からわかります。しかし、また一方で、二人の弟子とイエス様の間でのイエス様の泊っておられる場所での会話や詳細の様子はまったく記述されていません。ですから、福音書の記事はとても不親切なように感じます。
しかしまたイエス様との出会いは、イエス様のところに<来て、わかった>としか書けないようなものでもあると思います。病気が癒された、奇跡的に問題が解決された、そういうことであれば、たしかにああイエス様はすごいと感じることができるでしょう。実際、そのようなイエス様との出会いをしている人々のことも福音書には多く書かれています。しかし、そのようなはっきりと具体的にこれこれこういうことがあって、私はキリストに救われましたというようなキリストとの出会いを経験しない人も多いと思います。もちろん、長い信仰生活を通じて、劇的なことは時としてあるでしょう。しかし、その信仰を得る最初の時点で劇的な経験をする人はそれほど多くはないのではないでしょうか?
この二人の弟子もそうだったのです。しかし劇的ではないけれども、はっきりとイエス様と出会ったのです。イエス様のところへ<来て、分かった>のです。彼らは「そしてその日は、イエスのもとに泊った」とあります。つまりとどまったのです。主イエスに対して「あなたはどこにとどまっているのですか?」と聞いた二人は、今度は自分たちがイエスのもとにとどまり、イエスにつながったのです。
これは今日における礼拝でもあります。毎週の礼拝で、劇的なことはないかもしれません。大きな感動をしたり、驚くような発見をするようなこともないかもしれない。しかし、確かにキリストと出会うのです。そして礼拝において、キリストのもとにとどまりつながっているのです。そしてキリストと出会いキリストのもとにとどまった者は新しく生きる者とされるのです。新しい「声」を持つのです。実際、アンデレは「声」を持ちました。兄弟のペトロに「わたしたちはメシアに出会った」というのです。イエス様のところに来て、留まって、今度は別の人間をイエス様へと招くのです。
フィリポもまた人を招きました。その招かれたナタナエルは、他の弟子たちに比べたら懐疑的なようです。彼とて、救い主を求めていたのです、待っていたのです。でもフィリポが「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」といったことに対し、ナタナエルはその「ナザレ」というところにひっかかってしまいました。たしかにナザレは小さな貧しい村でした。歴史的にも重要なところではありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」ナタナエルはそう答えます。こういうこともまた良くあることです。どうしても人間は理性が勝ってしまうのです。ナタナエルは後のところを読むと、イエス様ご自身から「まことのイスラエル人だ」と言われています。つまり、聖書をしっかりと学び、知識も豊富で熱心な人だったのです。それゆえに、逆にこれまで自分が得ていたもの、先入観にとらわれてしまったのです。
そのナタナエルにフィリポは言います。「来て、見なさい」。
この言葉はこれはイエス様が39節で「来なさい。そうすれば分かる。」とアンデレたちに応えている言葉と似ています。実際、「分かる」という言葉には原語では「見る」というニュアンスもあるのです。まさにイエス様のところに来てとどまったフィリポは今度はナタナエルに対してイエス様がおっしゃったような言葉でイエス様のもとに来るようにと招いているのです。
<すでに知られている>
そうしてイエス様のもとに向かって来たナタナエルに対して、イエス様は「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」とおっしゃいます。ナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」と驚いて聞き返します。
先週、主イエスは来てくださる神であると聖書から共に読みました。ナタナエルはイエス様のところに来たのです。しかし実際は、すでにイエス様にナタナエルは知られていました。ナタナエルはたしかに「来て、見た」のです。でも、本当は先にイエス様のほうがナタナエルのことをしって、ナタナエルのところへ来られたのです。私たちはたしかに<来て、分かった><来て、見た>という体験をします。しかし、それよりはるか以前から神の方は私たちを知っておられるのです。私たちは人間の声によって招かれ、来て、見ます。しかし、その声の先にすでに一人一人への神の招きがあるのです。
神に知られ、神に招かれた者は、<来て、見ます>。しかし、それは一回きりのものではありません。繰り返し見るのです。生涯に渡って見るのです。最初の弟子たちは、キリストと三年半共に生活をしました。多くのことを弟子たちはキリストのもとにとどまって見たのです。イエス様のなされた多くの奇跡を見ました。十字架を見ました。更に復活のキリストを見たのです。今週の木曜日はキリストの昇天日ですが、天に昇られるキリストの姿も弟子たちは見ました。しかし弟子たちが見たことは、そこにとどまりません。さらに続く多くの奇跡を見ました。彼らは人としてこの世に来られたイエス・キリストとまさに共に泊り生活をしました。しかし、現実のイエス・キリストを知らない多くの信仰者が起こされるという奇跡をも彼らは見たのです。今日の聖書箇所で、アンデレからキリストのもとへ導かれたペトロは、のちに弟子たちの中のリーダー格になりました。そのペトロはキリストとあったことのないキリストの弟子たちが起こされていくことを喜びと驚きを持って語りました。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。」(ペトロの手紙Ⅰ 1:8)このペトロの言葉は、私たちに向けられた言葉でもあります。肉体の目では現実にキリストを見ていない者たちが、それでもキリストのもとに<来て、見て>いる。それは奇跡です。肉体の目ではキリストを見なかった者が、キリストのもとにとどまっている、その現実をペトロは見ました。肉体の目ではキリストを見なかった者たちもまたキリストにすでに知られていたことを最初の弟子たちは見ました。
ある信仰の先輩の女性がおっしゃいました。「奇跡奇跡ってゆうけれど、この自分が信仰を与えられている、それ以上の奇跡はあらへんで。」罪人でありながら、神に逆らう者でありながら、神に知られ神に招かれ神のもとにとどまっている、毎週礼拝に招かれている、それはちっぽけなことではありません。そこには大きな神の奇跡があります。私たちを愛し救われた神の奇跡があります。
しかし、最初の弟子たちも、2000年後に生きる私たちもそこにとどまりません。私たちはキリストのもとにとどまり多くの奇跡をこの生涯において見ます。その奇跡の一つ一つは人から見たらたいしたことではないこともあるかもしれません。偶然だろう思い込みだろうと思われることもあるかもしれません。しかし、キリストのもとにとどまり「見る」とき、その奇跡は「わかる」のです。
「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」旧約聖書でヤコブが旅の途中で、まさに天に達する階段に神の使いたちが上り下りする夢を見ました。その夢は私たちの見る夢でもあります。私たちは、日々の奇跡の中に天が開け、天使たちが昇り降りするのを信仰において見ます。
そしてまた、終わりの日に、まことにキリストが再び来られ、新しい天地が創造されるのを見ます。その時、夢でも幻でもなく、私たちはたしかに見て、分かるのです。神のご計画が分かるのです。その終わりの日までの一歩一歩が神に知られ、祝され、守られていたことが分かるのです。そのときまでなお、私たちはキリストのもとにとどまり歩みます。