2020年大阪東教会主日礼拝説教 「命を受けるために」吉浦玲子
【聖書】
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
【説教】
<手とわき腹の傷跡>
今日の聖書箇所では、トマスという弟子が出てきます。「疑い深いトマス」として有名な聖書箇所です。そのトマスは、なぜかは分かりませんが、主イエスが復活なさった週の初めの日、他の弟子たちが復活の主イエスと出会った時、その場にいませんでした。トマスは他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」というのを聞くと「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったと記されています。
手に釘の跡を見て、釘跡に指を入れ、わき腹の傷跡に手を入れなければ信じない、という言葉はかなり生々しい激しい言い方に聞こえます。自分の目で見て、さらには触って確認しなければ信じないとは、たしかに疑い深く聞こえる言い方です。
しかし、また一方で、主イエスの十字架に打ちつけられたときの手の釘の跡、あるいは槍で突かれたわき腹の傷跡という生々しいものを、つまり復活前のお体と同じであることを主イエスが復活なさったことのしるしとして、トマスが語っていることは印象深いことです。これは、彼自身が、主イエスがお受けになった傷に捉えられているから、とも考えられます。主イエスが復活されたことを確認するのに、たとえば、二人だけで以前交わした会話を確認するなど、他にも方法は考えられるからです。手やわき腹の傷を持ち出すというのは、それだけ、トマスが主イエスの受けられた受難の重さを生々しく考えているということです。大事な先生が大変な苦しみをお受けになった、生身の体に釘を刺され、絶命した後も無残にもお体を槍で突かれた、その裂かれたお体、流された血のイメージがトマスの頭からずっと離れなかったのではないでしょうか?
トマスは、11章で十字架の前、主イエスの逮捕の危険が迫っている頃、主イエスがエルサレムに近いベタニアに向かおうとされたとき、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と語っています。実際、トマスは、エルサレムに近い危険なベタニアに行こうとなさる主イエスに、自分も死を覚悟してついていったのです。また、14章、主イエスが、父なる神の御もとに行くことを語られるのに対して「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」とトマスは聞いています。トマスはどこまでも主イエスと共に行きたかったのです。しかし、その道を分かりませんと悲しみました。トマスは分からないことを正直に語り、素直に聞く人間でもありました。主イエスがどこかに行かれる、そのことへの不安を誰よりも強く感じた人でもありました。主イエスを愛し、共にどこまでも行きたかった、一緒に死のうではないかという彼の言葉に偽りはなかったのです。
しかし、彼もペトロと同様、主イエスを置いて逃げたのです。主イエスを愛し、どこまでも一緒に行きたかった、でも自分の弱さゆえにそれはできなかった。トマスは自分を責めていたことでしょう。誠実で素直なトマスは誰よりも自分の罪の重さに苦しんでいたのです。彼はまだ主イエスの贖罪については理解していませんでしたが、それでもキリストの裂かれた肉、流された血を思うと、むしろ自分こそが肉を裂かれ、血を流すべき存在ではなかったかと感じていたかもしれません。トマスは自分の弱さを責め、心を閉ざしていたのです。週の初めの日、トマスが仲間たちと一緒にいなかったのは、ひょっとして、あまりの辛さに一人でいたかったからかもしれません。
災害や事故で、身近な人を亡くした人は、自分を責めることがあります。直接に自分には非がなくても、なぜ自分だけが助かってしまったのかという罪悪感にとらわれ、長くその思いに苦しむことがあります。ましてトマスは、主イエスを見捨ててしまったという罪悪感がありました。罪悪感にがんじがらめに捉えられていたのです。
<八日ののち>
八日の後、そんなトマスの前に主イエスは現れてくださいました。八日というのは、復活なさった週の初めの日を入れて八日で、つまり日曜日、やはりまた週の初めの日となります。これは主イエスの復活ののち、礼拝を行う日になった週の初めの日ということです。端的に言いますと、主イエスは礼拝の場にお越しになったということです。
この時も主イエスは「あなたがたに平和があるように」と弟子たちを祝福されました。そしてまっすぐにトマスにむかっておっしゃいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」これはトマスの言葉に対抗して、「疑り深い奴だ、さああなたが言っていたように手を当てて試してみよ、ここにエビデンスがある、検証してみよ」とおっしゃっている言葉に聞こえます。
そもそも、復活に限らず聖書の出来事は、ある意味、すべて神が私たちに問われることでもあります。海が割れたとか、処女が子供を身ごもったとか、嵐の海が主イエスの一言で静まったとか、それらの奇跡の出来事について、あなたの信じないのか?試してみよと問われているのです。もちろん、海が割れたことも、処女懐妊も、嵐の海も、現代では科学的には検証のしようのないことです。
しかしまた信仰において、神が私たちに問われ、神に示され、私たちは信じさせていただくのです。それは科学的に検証できたから信じるということとは違うのです。科学的に検証できたということであれば、それは信じる必要はなく、現実として受け入れれば良いだけの話です。目の前にある鉛筆やリンゴを信じる必要はないのと同じように、目に見え手に取れる現実は、現実として認識すれば良いのであって、信じる対象ではありません。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
主イエスはこうおっしゃいました。これは理性的な判断は置いておいてとにかく信じなさい、とか、思考停止してわたしに従いなさいということではありません。盲信しろということではないのです。
トマスは確かに、主イエスの手の傷、わき腹の傷を見せていただきました。しかし、それに触れることはありませんでした。理性的な検証作業はしなかったのです。にもかかわらず、トマスは信じました。そして「わたしの主、わたしの神よ」といいました。これはイエス・キリストへの信仰告白です。キリスト教の信仰の原点は、イエス・キリストをわたしの主であり、神であると告白することにあります。なぜトマスは告白することができたのでしょうか?「疑り深い奴だと」と主イエスからとがめられたからでしょうか?手で触ることはなかったにせよ、目の前に主イエスの傷を見たからでしょうか?そうではありません。それはただ、主イエスが、トマスのために、現れてくださったからです。トマスに向かって、トマスただ一人に向かって語ってくださったからです。主イエスはトマスの苦しみも悲しみもすべてご存知でした。その苦しむトマスにもう苦しまなくて良いと直接現れてくださった、だからトマスは信じることができたのです。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」という言葉は、復活を信じて、あなたのすべての重荷、苦しみから自由になりなさい、ということです。自分の弱さ、失敗、罪の重荷から解放されなさいということです。復活を信じるということは、失敗だと思っていたこと、もう終わりだと思っていたことから解放されることなのです。自分の罪の中で頑なになり、がんじがらめになっていたトマスに対して、もう苦しまなくていいんだと主イエスはおっしゃっているのです。
昔、ある方が主イエスはなぜ傷の残ったお体で復活をなさったのかという疑問をしきりに語っておられました。それに対して牧師先生はだいぶ説明をされたのですが、その方は納得されませんでした。復活したのだから傷のないきれいなお体で現れられたら良いのにとおっしゃていました。しかし、主イエスが手やわき腹に傷のあるままに蘇られたのはトマスや私たちのためであったと思います。それは十字架の前と同一人物であることを示すためではなく、あえて傷のあるままに現れてくださったのです。あなたの心の傷、あなたの痛み、それはすべて私が担ったのだとトマスに、そして私たちに示すためです。あなたの傷は取り去られた、あなたの悲しみ、痛みはすべて私が十字架につけて取り除いた、そのしるしとして、主イエスの手とわき腹に傷が残ったのです。
八日ののち、つまり礼拝の場で主イエスと出会うということは、復活の主イエスの手の傷、わき腹の傷を示され、たしかに主イエスが復活をなさったことを信じ、自分の罪から、過去の苦しみから解放されるということです。礼拝は、兄弟姉妹と共に捧げます。今日は、兄弟姉妹と共に会堂で礼拝をお捧げすることはできませんが、場所と時間は異なっても、一つの御言葉に聞くとき、それは共なる礼拝です。その共なる礼拝で、なお、主イエスは、私たち一人一人に個別に「信じる者になりなさい」と語ってくださいます。弟子たちの前に現れた主イエスが、トマスに直接語られたように。
<命を受けるため>
さて、ヨハネによる福音書はこの20章で終わる形をなっています。21章はエピローグ的な位置づけになります。20章の最後に新共同訳聖書で「本書の目的」と表題のある注意書きのようなものが記されています。この部分はヨハネによる福音書の本編の最後として記されているといえます。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」と記されています。この注意書きは、<主イエスはもっとすごいことをたくさんされた>ということをここで示したかったわけではありません。むしろそれがこの書物の目的に合致しているのだと語っているのです。つまりこの書物が「あなたがたが、イエスが神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるため」のものであって、その命を受けるに十分な内容を記しているのだと語られています。
トマスは確かに命を受けました。誠実で素直であったトマスが、そのまじめさゆえに、多くのものを抱え込んで苦しんでいたところから解放されました。信じて、心を解放され、罪を赦され、自由に生き生きと生きる命を確かに受けました。罪の過去ではなく、赦しと愛に生きる未来に生きる者とされました。
命とは、罪を赦されて、キリストと共に生きることです。復活のキリストと出会い、過去ではなく、未来に生きることです。トマスは八日ののち、復活のキリストと出会いました。そのトマスは今日の聖書箇所の冒頭でディディモと呼ばれるトマスと記されています。ディディモとは双子という意味だと言われます。11章でもトマスは「ディディモと呼ばれるトマス」と記されています。ディディモということが強調されています。
ある方はこうおっしゃいました。双子とは、トマスともう一人がいるということである、もう一人とは誰かというと私たちなのだ、と。たしかに私たちはトマスの双子の兄弟なのです。私たちは罪に捕らわれ、過去に縛られていたトマスの兄弟でした。トマスと同じように、主イエスの傷跡に手を入れなければ信じないと言っていた信じない者でした。
主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」とおっしゃいました。これは、見て信じたトマスを責める言葉ではなく、トマスの兄弟である私たちへ向けての言葉です。主イエスの昇天ののち、私たちは肉眼で主イエスを見ることはできません。しかしなお、八日ののちトマスに現れてくださったように、主の日に、私たちは礼拝において主イエスと出会います。聖霊によって出会います。礼拝において、私たちは主イエスと出会い、信じる者とされます。主イエスは、トマスの兄弟である私たちを幸いな者とおっしゃってくださっているのです。
今日この日、礼拝において、御言葉において、私たちは幸いな者として命を受けます。場所は異なっても、そこに教会があります。教会において私たちは主の日、キリストと出会い、命を受けます。新しく生かされます。ここから未来へ歩んでいきます。