大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書20章23~31節

2020-04-26 11:53:45 | ヨハネによる福音書

2020年大阪東教会主日礼拝説教 「命を受けるために」吉浦玲子

【聖書】

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

【説教】

<手とわき腹の傷跡>

 今日の聖書箇所では、トマスという弟子が出てきます。「疑い深いトマス」として有名な聖書箇所です。そのトマスは、なぜかは分かりませんが、主イエスが復活なさった週の初めの日、他の弟子たちが復活の主イエスと出会った時、その場にいませんでした。トマスは他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」というのを聞くと「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったと記されています。

 手に釘の跡を見て、釘跡に指を入れ、わき腹の傷跡に手を入れなければ信じない、という言葉はかなり生々しい激しい言い方に聞こえます。自分の目で見て、さらには触って確認しなければ信じないとは、たしかに疑い深く聞こえる言い方です。

 しかし、また一方で、主イエスの十字架に打ちつけられたときの手の釘の跡、あるいは槍で突かれたわき腹の傷跡という生々しいものを、つまり復活前のお体と同じであることを主イエスが復活なさったことのしるしとして、トマスが語っていることは印象深いことです。これは、彼自身が、主イエスがお受けになった傷に捉えられているから、とも考えられます。主イエスが復活されたことを確認するのに、たとえば、二人だけで以前交わした会話を確認するなど、他にも方法は考えられるからです。手やわき腹の傷を持ち出すというのは、それだけ、トマスが主イエスの受けられた受難の重さを生々しく考えているということです。大事な先生が大変な苦しみをお受けになった、生身の体に釘を刺され、絶命した後も無残にもお体を槍で突かれた、その裂かれたお体、流された血のイメージがトマスの頭からずっと離れなかったのではないでしょうか?

トマスは、11章で十字架の前、主イエスの逮捕の危険が迫っている頃、主イエスがエルサレムに近いベタニアに向かおうとされたとき、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と語っています。実際、トマスは、エルサレムに近い危険なベタニアに行こうとなさる主イエスに、自分も死を覚悟してついていったのです。また、14章、主イエスが、父なる神の御もとに行くことを語られるのに対して「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」とトマスは聞いています。トマスはどこまでも主イエスと共に行きたかったのです。しかし、その道を分かりませんと悲しみました。トマスは分からないことを正直に語り、素直に聞く人間でもありました。主イエスがどこかに行かれる、そのことへの不安を誰よりも強く感じた人でもありました。主イエスを愛し、共にどこまでも行きたかった、一緒に死のうではないかという彼の言葉に偽りはなかったのです。

 しかし、彼もペトロと同様、主イエスを置いて逃げたのです。主イエスを愛し、どこまでも一緒に行きたかった、でも自分の弱さゆえにそれはできなかった。トマスは自分を責めていたことでしょう。誠実で素直なトマスは誰よりも自分の罪の重さに苦しんでいたのです。彼はまだ主イエスの贖罪については理解していませんでしたが、それでもキリストの裂かれた肉、流された血を思うと、むしろ自分こそが肉を裂かれ、血を流すべき存在ではなかったかと感じていたかもしれません。トマスは自分の弱さを責め、心を閉ざしていたのです。週の初めの日、トマスが仲間たちと一緒にいなかったのは、ひょっとして、あまりの辛さに一人でいたかったからかもしれません。

 災害や事故で、身近な人を亡くした人は、自分を責めることがあります。直接に自分には非がなくても、なぜ自分だけが助かってしまったのかという罪悪感にとらわれ、長くその思いに苦しむことがあります。ましてトマスは、主イエスを見捨ててしまったという罪悪感がありました。罪悪感にがんじがらめに捉えられていたのです。

<八日ののち>

 八日の後、そんなトマスの前に主イエスは現れてくださいました。八日というのは、復活なさった週の初めの日を入れて八日で、つまり日曜日、やはりまた週の初めの日となります。これは主イエスの復活ののち、礼拝を行う日になった週の初めの日ということです。端的に言いますと、主イエスは礼拝の場にお越しになったということです。

 この時も主イエスは「あなたがたに平和があるように」と弟子たちを祝福されました。そしてまっすぐにトマスにむかっておっしゃいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」これはトマスの言葉に対抗して、「疑り深い奴だ、さああなたが言っていたように手を当てて試してみよ、ここにエビデンスがある、検証してみよ」とおっしゃっている言葉に聞こえます。

 そもそも、復活に限らず聖書の出来事は、ある意味、すべて神が私たちに問われることでもあります。海が割れたとか、処女が子供を身ごもったとか、嵐の海が主イエスの一言で静まったとか、それらの奇跡の出来事について、あなたの信じないのか?試してみよと問われているのです。もちろん、海が割れたことも、処女懐妊も、嵐の海も、現代では科学的には検証のしようのないことです。

 しかしまた信仰において、神が私たちに問われ、神に示され、私たちは信じさせていただくのです。それは科学的に検証できたから信じるということとは違うのです。科学的に検証できたということであれば、それは信じる必要はなく、現実として受け入れれば良いだけの話です。目の前にある鉛筆やリンゴを信じる必要はないのと同じように、目に見え手に取れる現実は、現実として認識すれば良いのであって、信じる対象ではありません。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 主イエスはこうおっしゃいました。これは理性的な判断は置いておいてとにかく信じなさい、とか、思考停止してわたしに従いなさいということではありません。盲信しろということではないのです。

 トマスは確かに、主イエスの手の傷、わき腹の傷を見せていただきました。しかし、それに触れることはありませんでした。理性的な検証作業はしなかったのです。にもかかわらず、トマスは信じました。そして「わたしの主、わたしの神よ」といいました。これはイエス・キリストへの信仰告白です。キリスト教の信仰の原点は、イエス・キリストをわたしの主であり、神であると告白することにあります。なぜトマスは告白することができたのでしょうか?「疑り深い奴だと」と主イエスからとがめられたからでしょうか?手で触ることはなかったにせよ、目の前に主イエスの傷を見たからでしょうか?そうではありません。それはただ、主イエスが、トマスのために、現れてくださったからです。トマスに向かって、トマスただ一人に向かって語ってくださったからです。主イエスはトマスの苦しみも悲しみもすべてご存知でした。その苦しむトマスにもう苦しまなくて良いと直接現れてくださった、だからトマスは信じることができたのです。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」という言葉は、復活を信じて、あなたのすべての重荷、苦しみから自由になりなさい、ということです。自分の弱さ、失敗、罪の重荷から解放されなさいということです。復活を信じるということは、失敗だと思っていたこと、もう終わりだと思っていたことから解放されることなのです。自分の罪の中で頑なになり、がんじがらめになっていたトマスに対して、もう苦しまなくていいんだと主イエスはおっしゃっているのです。

 昔、ある方が主イエスはなぜ傷の残ったお体で復活をなさったのかという疑問をしきりに語っておられました。それに対して牧師先生はだいぶ説明をされたのですが、その方は納得されませんでした。復活したのだから傷のないきれいなお体で現れられたら良いのにとおっしゃていました。しかし、主イエスが手やわき腹に傷のあるままに蘇られたのはトマスや私たちのためであったと思います。それは十字架の前と同一人物であることを示すためではなく、あえて傷のあるままに現れてくださったのです。あなたの心の傷、あなたの痛み、それはすべて私が担ったのだとトマスに、そして私たちに示すためです。あなたの傷は取り去られた、あなたの悲しみ、痛みはすべて私が十字架につけて取り除いた、そのしるしとして、主イエスの手とわき腹に傷が残ったのです。

 八日ののち、つまり礼拝の場で主イエスと出会うということは、復活の主イエスの手の傷、わき腹の傷を示され、たしかに主イエスが復活をなさったことを信じ、自分の罪から、過去の苦しみから解放されるということです。礼拝は、兄弟姉妹と共に捧げます。今日は、兄弟姉妹と共に会堂で礼拝をお捧げすることはできませんが、場所と時間は異なっても、一つの御言葉に聞くとき、それは共なる礼拝です。その共なる礼拝で、なお、主イエスは、私たち一人一人に個別に「信じる者になりなさい」と語ってくださいます。弟子たちの前に現れた主イエスが、トマスに直接語られたように。

<命を受けるため>

 さて、ヨハネによる福音書はこの20章で終わる形をなっています。21章はエピローグ的な位置づけになります。20章の最後に新共同訳聖書で「本書の目的」と表題のある注意書きのようなものが記されています。この部分はヨハネによる福音書の本編の最後として記されているといえます。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」と記されています。この注意書きは、<主イエスはもっとすごいことをたくさんされた>ということをここで示したかったわけではありません。むしろそれがこの書物の目的に合致しているのだと語っているのです。つまりこの書物が「あなたがたが、イエスが神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるため」のものであって、その命を受けるに十分な内容を記しているのだと語られています。

 トマスは確かに命を受けました。誠実で素直であったトマスが、そのまじめさゆえに、多くのものを抱え込んで苦しんでいたところから解放されました。信じて、心を解放され、罪を赦され、自由に生き生きと生きる命を確かに受けました。罪の過去ではなく、赦しと愛に生きる未来に生きる者とされました。

 命とは、罪を赦されて、キリストと共に生きることです。復活のキリストと出会い、過去ではなく、未来に生きることです。トマスは八日ののち、復活のキリストと出会いました。そのトマスは今日の聖書箇所の冒頭でディディモと呼ばれるトマスと記されています。ディディモとは双子という意味だと言われます。11章でもトマスは「ディディモと呼ばれるトマス」と記されています。ディディモということが強調されています。

 ある方はこうおっしゃいました。双子とは、トマスともう一人がいるということである、もう一人とは誰かというと私たちなのだ、と。たしかに私たちはトマスの双子の兄弟なのです。私たちは罪に捕らわれ、過去に縛られていたトマスの兄弟でした。トマスと同じように、主イエスの傷跡に手を入れなければ信じないと言っていた信じない者でした。

 主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」とおっしゃいました。これは、見て信じたトマスを責める言葉ではなく、トマスの兄弟である私たちへ向けての言葉です。主イエスの昇天ののち、私たちは肉眼で主イエスを見ることはできません。しかしなお、八日ののちトマスに現れてくださったように、主の日に、私たちは礼拝において主イエスと出会います。聖霊によって出会います。礼拝において、私たちは主イエスと出会い、信じる者とされます。主イエスは、トマスの兄弟である私たちを幸いな者とおっしゃってくださっているのです。

 今日この日、礼拝において、御言葉において、私たちは幸いな者として命を受けます。場所は異なっても、そこに教会があります。教会において私たちは主の日、キリストと出会い、命を受けます。新しく生かされます。ここから未来へ歩んでいきます。


ヨハネによる福音書20章11~23節

2020-04-19 12:11:48 | ヨハネによる福音書

2020年4月19日大阪東教会主日礼拝説教「あなたがたに平和があるように」吉浦玲子

【聖書】

詩編126編

都に上る歌。

主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき/私たちは夢を見ている人のようになった。

その時、私たちの口は笑いに/舌は喜びの歌に満ちた。/その時、国々で人々は言った/「主は、この人たちに大きな業を/成し遂げられた」と。

主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。/私たちは喜んだ。

主よ、ネゲブに川が流れるように/私たちの繁栄を再びもたらしてください。

涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。

種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も/穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。

 

ヨハネによる福音書20章11~23節

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

【説教】

<挨拶の言葉>

 復活なさった主イエスは弟子たちに現れて「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。この平和という言葉は、聖書にはギリシャ語で書かれていますが、もともとはヘブライ語のシャローム「平安あれ」から来ている言われる言葉です。一般的にあいさつに用いられる言葉でもあります。「ごきげんよう」そういうニュアンスがあります。死人の内から蘇られたという新約聖書最大の奇跡の場面で主イエスが「ごきげんよう」というごく普通の挨拶の言葉を語られることに少し拍子抜けするような不思議な感じがします。

 マタイによる福音書での復活の記事でも、婦人たちの前に現れられた復活の主イエスは「おはよう」と声をかけられたと記されています。その「おはよう」という言葉は今日の聖書箇所の「平和があるように」とは別のギリシャ語でもともと「喜び」を意味する言葉です。この言葉もまた「おはよう」と訳されているように挨拶の言葉でした。

 復活なさった主イエスの最初の言葉は「ごきげんよう」であったり「おはよう」というような日常の言葉であったのです。復活ということ自体は非日常的な神の出来事だったのに、主イエスは、まるで逮捕から十字架の出来事がなかったかのように、木曜の朝の続きのように日曜日の朝、挨拶をされました。ごく普通に日常のなかで声をかけられました。これはとても印象的なことです。

 ところで、いま、日常ということを考えますと、世界中で、普通の日常が失われています。新型コロナ肺炎の蔓延のために、私たちの生活は一変しました。大阪東教会の前を、朝、多くの会社員の方が出勤していた風景も、子供たちがランドセルを背負って走っていく姿もありません。スーパーの棚には空いたところが目立ちます。スーパーに行くのも、いつもの買い物というより、食糧や必需品をどうにか入手するための<買い出し>に行く感じで、なんともいえない緊迫感があります。夜は、教会の周りの飲食店も休んでいるところが多く、以前は夜遅くでも人通りがありにぎやかだったのに、今は不気味なくらい教会周辺は静まり返っています。知り合いの自営業の方は売り上げが落ち、小さな子供を抱えて途方に暮れておられます。勤めている人たちにも雇用不安があります。

 普通の日常、「おはよう」とか「ごきげんよう」と普通にあいさつを交わす、ごく当たり前の日常、つまり当たり前の人間関係、人と人の間の近しい距離が今失われ、多くの不安、恐れがあります。

<新しい日常>

 翻って、主イエスは、弟子たちからも裏切られ、人間の罪と悪意のゆえに、十字架におかかりなりました。生身の体に釘を打ち込まれ、長時間かけて衰弱させられるやり方で苦しまれ息を引き取られました。肉体的に苦しまれただけではなく、さらし者にされ、罵られ、嘲笑されたのです。しかしなお、復活なさった主は、「平安あれ」「おはよう」と日常的な挨拶の言葉をもって弟子たちの前に現れられました。裁きや怒りの言葉ではなく、「平安あれ」「おはよう」とおっしゃり、弟子たちとごく普通の関係をもってくださったのです。ごく普通の関係というものがどれほどの価値があるのか、私たちは、ここ数週間でいやというほど知らされていますが、十字架と復活の出来事においても、それは鍵となることです。

 ところで、マグダラのマリアは今日の聖書箇所の前半のところで、復活の主イエスと出会っても相手が主イエスだとは最初分からなかったと記されています。墓があった園を管理している園丁だと思ったとあります。復活された主イエスの顔やお姿が以前と変わっておられたわけでもないのに、これは不思議なことです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と声をかけられたその声が変わっていたわけでもありません。しかし、マリアにはそれが主イエスだとは分からなかったのです。

 主イエスが改めて「マリア」と呼びかけられると、はじめてマリアは相手が主であることに気づきます。主イエスが「マリア」という固有の名前をもって、特別に呼ばれたからです。私たちも個別に復活のイエスと出会います。信仰において出会います。信仰において、といってもそれは思い込みとか心の中で出会うというのではなく、主イエスご自身からたしかに一人一人を呼んでいただいて出会うのです。復活の主イエスと出会うということは、一対一の出来事です。一人一人が個別に呼ばれて、個別に出会うのです。

一方で、主イエスは厳しい言葉もおっしゃいます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」これは、主イエスとマリアの関係が以前とは変わったことを示します。マリアにとって「マリア」「先生」と呼び合うかつての日常が回復されたようでありながら、実は、その関係は変わったのです。先生と弟子として過ごした昔の日々がそっくり戻ってきたのではないのです。「平安あれ」「おはよう」交わす言葉は同じでも、一見、同じ日常が戻ってきたようでも、同じではないのです。十字架による罪の贖いの業を終えられ、これから、天に昇り、父の栄光を受けられる主イエスは、ナザレの人と呼ばれたかつての主イエスと違うのです。救い主、裁き主としての栄光を得られるのです。その栄光を受けられる主イエスとの出会いは、出会った者にとって新しい日常へ招かれることでありました。

 そして主イエスはマリアにおっしゃいました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」と。新しい日常とは新しい使命を与えられることでもあります。「平安あれ」「おはよう」という普通のような日常にありながら、私たちは主イエスから新しい使命を与えられるのです。男性の弟子たちもそうでした。弟子たちは、三年半にわたり、主イエスと寝食を共にしてきたのです。宣教がうまくいっている時も、そうでない時も、主イエスにつき従ってきました。語り合い、食事をし、共に歩きました。「平安があるように」といつものように挨拶をされたからといって、これまでの日々がそのまま繰り返されるのではありません。21節で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」そう弟子たちに主イエスはおっしゃいました。弟子たちは遣わされるのです。新しい日常において私たちも遣わされるのです。それはどこか遠いところに行くことでは必ずしもありません。まったく新しい場所へ行くとは限りません。昨日と同じ場所で同じことをするのであったとしても、神に遣わされる時、それは新しい日常になります。出会う人、向かう場所は変わり映えしなくとも、神から使命を与えられるとき、それは新しくされるのです。逆に、まったく違う場所、違う人々との日々が始まる場合であっても、神に遣わされる時、「平和があるように」とおっしゃってくださる主イエスと出会ったものは恐れる必要はないのです。

<教会>

 そしてまた22節で彼らに息を吹きかけて聖霊を受けなさいとおっしゃり、23節で「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」とおっしゃっています。これは罪の赦しと裁きについて語られています。この箇所はヨハネによる福音書におけるペンテコステとも言われています。聖霊を受けて、教会が立ちあがるのです。そしてその教会は、単なる、弟子たちの集まりではありません。聖霊を受けて遣わされる者たちの共同体です。そしてその遣わされる共同体には罪の赦しと裁きの権限が与えられます。

 これはマタイによる福音書18章の18節にある「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という主イエスの言葉につながります。教会は、主イエスご自身の権能である罪の赦しと裁きを委託されている共同体です。天につながる教会として教会は赦しと裁きの権能を受けています。洗礼と礼拝において、その権能は執行されます。それは人間が人間の判断や力で、誰かを罪に定めたり、裁いたり、赦すということではありません。聖霊によって権能を与えられた共同体の働きとして、罪の赦し、裁きが執行されるのです。

伝道や宣教ということが教会において言われます。それは単に教会に人を集めるための広報活動ではありません。教会は、仲良くお茶を飲んでおしゃべりするコミュニティを形成するところではありません。教会は聖霊を受けて、罪の赦しと裁きの権能を執行する共同体なのです。その罪の赦しに人を招くこと、赦されて新しく生きる道を示すことが伝道であり宣教です。人間にとって最も重要なことは神の前で、罪を赦され、罪から解放されることです。そこに本当の平安が与えられます。揺るがない喜びが与えられるのです。

<涙と恐れが消える>

 もう一度、今日の聖書箇所を最初から振り返りますと、マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。自分のすべてをかけていた大事な先生が死んでしまった、その亡骸すら盗まれてしまった、すべての希望が潰えたと彼女は思っていたのです。男性の弟子たちはユダヤ人たちを恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。自分たちもまた、主イエスのようにとらえられるのではないかと恐れていたのです。彼らもまた未来の希望が取り去られ恐れに満ちていました。弟子たちはそれぞれに涙と恐れの中にあったのです。これまでの自分たちの日々がすべて否定され、未来が失われてしまったと感じていたのです。

 その弟子たちの前に復活の主イエスは現れてくださいました。「弟子たちは主を見て喜んだ」そう書かれています。これも不思議なことです。死んだ人間がふたたび目の前に現れるということは、通常では単純に喜べることではありません。

 通常、このような場合、相手を幽霊だと思うのが普通です。実際、他の福音書には主イエスを弟子たちが主イエスを亡霊と思ったとも記されています。主イエスはご自身が幽霊みたいなものではないことを示すために「手とわき腹をお見せになった」のです。手とわき腹に残る傷を見せられ、決して自分が幽霊のようなものではないこと、十字架の前と同じように肉体を持っていることを示されました。もちろん鍵をかけた戸の中に入って来られたのですから、十字架の前のお身体とは少し違うようです。しかし、他の福音書には復活の主イエスが食事をとられたということも書かれています。十字架の前とは少し違いながらも、連続性をもった肉体によって蘇られたのです。

一方で、主イエスは幽霊ではないにしても、弟子たちとしては、主イエスに対して負い目がありました。主イエスを裏切ったという負い目です。幽霊ではなくとも、主イエスにお会いするのはばつの悪いことです。主イエスと出会うことは、自分たちの罪と弱さを示されることであり、けっして手放しで喜べることではありません。しかし、弟子たちは喜んだのです。なぜなら彼らの罪はすでに赦されたからです。十字架に彼らの罪もつけられて葬られたからです。復活のイエスと出会ったとき、彼らはそれが分かったのです。「平和があるように」という主イエスの言葉通り、彼らは恐れから平和、平安に移されたのです。

 不条理な出来事や自分のふがいなさのため、私たちは涙を流します。また未来への不安や恐れで胸が閉ざされる時があります。弟子たちのように、家の戸に鍵をかけ、そしてまた心の扉に鍵をかけて閉じこもりたくなるときがあります。逆に外に出たくても出ることのできない、現在のような閉塞感に満ちた日々を送らねばならない時もあります。しかし復活のイエスは「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださいます。重ねておっしゃってくださるのです。「あなたがたに平和があるように」と。

 弟子たちは、この言葉のゆえに、そして聖霊をいただいたゆえに、扉を開いて、新しい使命に生きる者とされました。それからの彼らの人生は、一般的な意味での、「平和」「平安」ではけっしてありませんでした。むしろ、困難な道を彼らは歩んでいったのです。迫害や困窮の中を彼らは歩みました。こののち、彼らは再び涙を流すこともあったでしょう。恐れを感じることもあったでしょう。しかし、もはや復活の主イエスと出会う前の彼らではありませんでした。彼らは知っていたのです。ぬぐわれない涙はないことを。詩編126編の詩人の言葉にあるように、「涙と共に種を撒く人は/喜びの歌と共に借り入れる。」のです。泣きながら出て行った人は喜びの歌を歌いながら帰ってくるのです。弟子たちは知らされました、取りされられない恐れはないことを。私たちは人生の途上、主イエスと出会います。聖霊によって主イエスの言葉を知らされます。そして涙をぬぐわれるのです。恐れを取り去られるのです。明日はどのような日か私たちには分かりません。しかしどのような日であっても、どんな未来がきても、私たちの涙は取り去られ、恐れは平安へと変えられるのです。「あなた方に平安があるように」その主イエスの言葉を繰り返し聞きます。


ヨハネによる福音書20章1~10節

2020-04-12 12:19:23 | ヨハネによる福音書

2020年大阪東教会主日礼拝説教(復活祭説教)「復活の朝」吉浦玲子

【聖書】

新約聖書: ヨハネによる福音書 第20章1〜10節

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

【説教】

<主イエスが奪われた!>

 主イエスの弟子であったマグダラのマリアは週の初めの日、すなわち日曜日に主イエスが葬られた墓に向かいました。他の福音書の記事と照らし合わせますと、主イエスの亡骸に、香油を塗るなどの丁寧な処置をしたかったからであるようです。主イエスの遺体は十字架から引き下ろされたのち、アリマタヤのヨセフとニコデモによって、それなりにきちんと埋葬はなされたのです。上等の亜麻布にくるまれ、没薬と沈香を施されました。園丁がいるような園の中の立派な墓に葬られました。しかしそれは金曜日、過越し祭の特別な安息日が始まる日没前に、大急ぎでやったことでした。大事な先生の亡骸に対して、もっと丁寧な葬りをしたい、そうマグダラのマリアは考えたのです。

 しかし、マグダラのマリアが見たのは、驚くべきことでした。当時一般的だった洞穴式の墓を閉ざしていた巨大な石が取りのけてあったのです。ここでマリアが墓の中を確認したとは書いてありません。しかし、石を取り除かれているのですから墓穴の中の異変にマリアは気づいたのです。

主イエスの遺体がない!

「主が墓から取り去られました」そうマリアはペトロともう一人の弟子のもとにいって告げました。これは<何者かが遺体を墓から持ち去った>という言葉で、つまり遺体が奪われたとマリアは言っているのです。

 主イエスの亡骸がうばわれてしまった。かつて親しく言葉を交わし、さまざまに教えてくださった先生であるお方、なによりこの方こそ、救い主であると信じたお方、言葉にも行いにも不思議な力があったお方、そのお方が非業の死を遂げてしまった。その死の事実は動かしようのないことでした。彼女は主の十字架でのお姿をゴルゴダで最後までつぶさに見たのです。主が釘打たれ、血を流されたそのお姿を見たのです。そして確かに息を引き取られた、そして引き下ろされたすでに息をしておられない遺体を見たのです。

 マリアにとって、主イエスの死は動かしようのない現実でした。その胸を引き裂かれるような現実の中でさらなる理不尽な出来事が起こりました。主イエスの亡骸まで失われてしまった。何者かによって奪われてしまった。主イエスの十字架によって、主イエスに賭けていた希望も未来も砕けたのに、さらにその悲しみの心を整理するために、せめて丁寧に葬りをしたい、そう願ったのに、その願いすら壊されてしまった。

 第二次世界大戦中に、戦争に出兵した家族が戦死をなさったという方からお聞きしたことがあります。戦死の知らせののち、遺骨の箱が家に届きました。箱の中を見ると、骨はなく、紙切れだけが入っていた、と。大事な家族を失った、しかし、遺骨すら戻って来ることなく、空の箱だけを送られてきた。空の箱だけで大事な家族の死を受け止めるというのはとても残酷なことです。故人が確かに生きたという証である亡骸すらないということは残された者にとって痛切なことです。そのようなことがマリアにも起こったのです。

<見て、信じた>

 さて、主イエスの復活の出来事はすべての福音書において、主イエスの墓が空っぽであったという記述から始まります。墓が空虚であった、墓に何もなかった、これはある意味、復活の出来事の記述のあり方として、あまり上手いあり方ではないのではないかとも感じます。キリストが復活をされた、その核心のところが何かぼかされているようにも感じます。そもそも墓が空であったということは、いろいろな詮索を引き寄せてしまうのではないでしょうか。実際のところ、空の墓というものを提示されたとき、人間は、まさにマグダラのマリアが考えたように、何者かが遺体を奪っていった、そう考えるのが一番自然です。

 さて、マリアの言葉を聞いて二人の弟子たちは墓まで走っていきます。そこで見たことは、たしかに主イエスの遺体がない、ということでした。しかし、マリアは石が取りのけてある墓の外から様子を見たと思われるのに対して、ペトロともう一人の弟子は墓の中に入りました。ですから彼らは墓の中の状況を詳細に確認することができました。彼らはその状況を見て、遺体が盗まれたわけではないことを理解しました。彼らは亜麻布が置いてあること、そして主イエスの頭を包んでいた覆いが離れたところに丸めて置いてあることを確認しました。もし、主イエスの遺体が奪い去られたのであれば、亜麻布や頭の覆いごと奪われるはずです。少なくとも、亜麻布や覆いは乱雑に散らばっているはずです。しかし、覆いは丸めて置いてあったのです。泥棒が来て盗んだのであれば、ご丁寧に丸めて置いていくなんてことはするわけがありません。

 泥棒ではない、では何が起こったと彼らは理解したのか?8節から9節を読みますと「それから、先に墓に着いていたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とあります。この箇所はさまざまに解釈されるところです。

 ここで「もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」とある、「信じた」というのは何を信じたのでしょうか?彼らは聖書の言葉をまだ理解していなかったと続きますから、復活ということを信じたわけではないとも解釈できます。あくまでもマリアが「遺体がなくなった」と言ったその言葉を信じたのでしょうか?

 しかし、「見て、信じた」という言葉は特徴的な言い方です。ヨハネによる福音書の20章には、主イエスの復活を信じられなかったトマスの前に主イエスが現れてくださった場面があります。そしてトマスは主イエスの復活を信じたのですが、そのトマスに対して主イエスはおっしゃいます。「わたしを見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである。」と。

 <見て、信じる>これは信仰のあり方を示している言葉と解釈できます。トマスが見て、主イエスの復活を信じたように、この場面で、ヨハネも「見て」、主イエスの復活を「信じた」のです。もちろんそれがまだ、旧約聖書で預言されていた救い主の復活とまでは理解はできていなかったでしょう。しかし、彼は信じたのです。主イエスの遺体が盗まれたのではなく、主イエスが「復活をなさった」ということを。

<死で終わりではない>

 それにしても墓が空であったという聖書の記述は不思議なことです。先ほども申し上げましたように、墓が空であったとあえて記すことは、かえって変な詮索をされる恐れのあることです。しかしなお、聖書は復活の出来事に対して、まず墓が空であったということを記すのです。マルコによる福音書に至っては本文とみなされる最後のところは「空の墓」の記述で終わっているのです。その後の補記として、復活のキリストが現れる場面がありますが、もともとの本文としては、墓が空であったということで福音書は終わっているのです。

 マタイによる福音書を見ますと、主イエスの墓は厳重に見張られていたと記されています。ユダヤの権力者たちは、主イエスが三日目に復活すると言っていたことを覚えていて、そのようなことが広まれば、かえって主イエスへの信仰が再び高まってしまうと恐れたのです。もちろん彼らは本当に主イエスが復活するなどとは思ってはいませんでした。弟子たちが遺体を運び出して復活したと吹聴することを恐れたのです。ですから主イエスの墓は封印をされ、番兵が見張りをしたと書かれています。映画などを見ますと、ものものしく封印がされ、武装した兵が見張っている様子が描かれています。しかし、そのように厳重に警戒されていたにも関わらず、墓の封印は破られました。大きな石は取り除かれました。

 そもそも私たちにとって、誰にとっても、揺るがしがたい現実は「死」です。仮死状態から蘇生するということはあっても、蘇生した人もまたやがていつか必ず死にます。それが動かしがたい現実です。

 しかしその死の現実が破られたということが、墓が空であるということなのです。私たちの前に、厳しい現実はたしかに立ちはだかります。そして最終的には墓という形で、厳然と現実は立ちはだかるのです。本日は例年ならば、午後に墓前礼拝に行くはずでしたが、今日は墓前礼拝はありません。その墓前礼拝を行う大阪東教会の教会墓地がある服部霊園には、大阪東教会の墓地のみならず、おびただしい数の墓が並んでいます。霊園を一周するにはかなりの時間がかかります。服部霊園だけでも、それだけの死の現実があるのです。墓の一基一基に、多くの人の悲しみ、痛み、慟哭があります。おびただしい数の絶望があるのです。人生に立ちふさがるさまざまな試練に対して人間は抗い、闘います。そしてそれらをどうにか乗り越えたとしても、絶対に乗り越えることができないものがある、それが死です。墓はその絶望、ここで終わり、行き止まりであることの象徴です。

 しかし、聖書は語るのです。その絶望、終わり、行き止まりが取り去られることを。人間のすべての悲しみ、痛み、慟哭が破られる。墓の封印が破られ、墓が空であるということは、新しい現実が、起こったことだと語るのです。死は打ち破られた、動かしようがない現実などどこにもない、そう聖書は語るのです。それがキリストの復活の出来事でした。

 墓に主イエスの亡骸はありませんでした。それは主イエスが肉体を捨てて、霊魂だけになられたということでもありません。復活のお体をもって墓を破られた、死に勝利をなさったということです。

<見て、信じた>

 さて、「見て、信じた」という言葉にもう一度聞いてみたいと思います。私たちは見たから信じることができるでしょうか?むしろ見ても信じない、聞いても信じないということの方が多いのではないでしょうか?こと信仰の事柄については、エビデンスを突きつけられたとしても、そのエビデンスはねつ造だと考えたり、別の解釈をしたりして、信仰の核心のところである復活や奇跡を信じられない、そういうことがあるのではないでしょうか。マリアは、空の墓を見て、遺体が盗まれたと考えました。ペトロは、盗まれたのではないと理解しました。もう一人の弟子はおそらく復活を信じたと考えられます。見ても、それぞれに感じ方は違うのです。

ところで、この場面で、ペトロともう一人の弟子が墓まで走って行って、ペトロよりもう一人の弟子の方が早く墓に着いたと記されています。キリストの復活という、聖書における最大の出来事の場面で、なぜわざわざ二人の走る速さの違いなどを書く必要があったのでしょうか?これもいろいろな解釈があるところですが、ひとつ言えますことは、一人一人、復活を信じることに至る経緯や時間は違うのだということを示しているのです。

 子供のころ、教会学校に行っていた、早くから御言葉を聞いていたけど、中学高校と成長するにつれて教会から離れてしまった。最終的に信仰を得たのは、中年になってからであったという人がおられます。一方で青年期に初めて教会に行ってすぐに信仰を得る方もおられますし、80代、90代で初めて御言葉と接して信仰を得る方もおられます。初めて御言葉に接する年代も違えば、御言葉を聞いてすぐ信じる人もいれば、長く時間をかけて信じる方もおられます。

 しかし、神はすべての人が信じる者となることを望まれて、それぞれに道を備えてくださいます。ペトロよりもう一人の弟子の方が優れているとか、マグダラのマリアはだめだ、などということはないのです。皆、一人一人違う。しかし、一人一人に応じて、信じる者とされる道を備えてくださる、それがキリストの復活の出来事の場面でも描かれているのです。私たちもまたそれぞれに応じたあり方で信じる者として招かれているのです。そこに神の恵みがあります。

<復活のキリストと出会う>

 さて、マグダラのマリアも、ペトロたちも、やがて復活のキリストと出会います。その出会いの前に空の墓がありました。私たちにも空の墓のような、すぐには何が起こったのか理解できないことがあります。復活のキリストがすぐさま声をかけてくださったら良いのに、ただ、しんとした空の墓だけが見えている、そのようなことが信仰の途上でもあります。復活という素晴らしいことがすでに起こっている、しかしそれが見えないときがあります。困難だけが見え、その困難がまるでむなしい墓のように見える時があります。墓だけが見え、まるで神が沈黙なさっているようにすら感じるときがあります。今、新型コロナ肺炎の蔓延の中、このことを通して神が私たちに示されていることを私たちが知ることはできません。ある意味、私たちはいま2020年のこの現実の中で、空の墓の前に立たされているのかもしれません。しかし、静かにその現実の前にたたずみ、そして御言葉に耳をすませる時、やがて私たちは必ず知らされます。墓は破られる、試練の封印は解かれるのだということを。私たちは今も、そしてこれからも復活のキリストと出会うのです。試練の墓は破られ、永遠の希望の光がわたしたちは見ます。

キリストは確かに復活されました。いまそのキリストと共に喜び祝います。

 


ヨハネによる福音書19章38~42節

2020-04-05 12:26:51 | ヨハネによる福音書

2020年4月5日 大阪東教会主日礼拝(棕櫚の主日)説教 「信仰の弱さをも用いられる」吉浦玲子

【聖書】ヨハネによる福音書19章38~42節

 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行ってイエスの遺体を取り降ろした。 前に、夜イエスのもとに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜた物を百リトラばかり持って来た。 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、誰もまだ葬られたことのない新しい墓があった。 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。 

説教

<主イエスはたしかに死なれた>

 不正な裁判によって主イエスは十字架刑にかかられ、息を引き取られました。イスカリオテのユダの裏切りに始まり、ユダヤの権力者たちの策略、ローマ兵たちの残忍さ、さらにはペトロの裏切りもありました。十字架で苦しむ人間の下でくじを引いて服を取り合う人間のあさましさなども、聖書に克明に記されています。十字架を取り巻く人間の姿は、醜悪な罪の姿そのものでした。

 私たちはできれば、そのような十字架の場面を読みたくはありません。遠い昔の遠い国の悪い人たちの話として読み飛ばすことができれば良いのですが、神がこれらのことを通して私たちに語られるのは、私たち自身の罪の姿、罪の現実です。

しかし一方で、罪を知らされることは、恵みでもあります。十字架に示された神の愛の光の中でこそ、私たちは私たちの罪を知ることができるからです。私たちの罪が深ければ深いほど、十字架から注がれる神の愛の光のまぶしさを私たちは知らされます。

それでもなお、私たちは十字架の出来事を読む時、やはり痛みと悲しみを覚えざるを得ません。その痛みと悲しみの十字架の出来事ののち、今日の聖書箇所は、少し慰めを覚えるところでもあります。残酷な場面ののちの、悲しい亡骸との対面の場面ではあるのですが、いくつかの意味でここには神の恵みがあふれていると思うのです。その恵みを共に読んでいきたいと思います。

 

 さて、今日の聖書箇所は人間の罪のゆえに肉体の死を迎えられた主イエスの亡骸が墓に納められる場面です。私たちが礼拝の中で信仰告白をしています使徒信条では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と十字架からそののちのことが全体としては短い信仰告白のなかにあって、こまかに告白されています。逆に主イエスの宣教活動などについては触れられていないのに、十字架から陰府に至ることは詳細に語られるのです。

 これはまさに主イエスが肉体において死なれたということがはっきり語られているということです。主イエスは確かに死なれたのです。仮死状態であったわけではない、あるいは、もともと主イエスの肉体は仮のもので、十字架から魂だけが天に昇ったというようなものでもない、ということです。心臓が停止し、脳の働きも停止し、さまざまな肉体の機能も死を迎えたということです。人間としての死を迎えられたということです。

 肉親や近しい方の死に接したとき、もう言葉も発することもない体温を失った亡骸の前で、私たちははっきりと死というものを知らされます。いやというほど知らされるのです。信じたくはないけれども、死が現実だということを知らされます。主イエスの死もまた現実だったのです。今日の聖書箇所は、その現実を表しています。

<二人の人>

この場面では、特に二人の人が主イエスの亡骸と向き合ったことが記されています。一人はアリマタヤ出身のヨセフという人でした。この人は他の福音書を読むと、金持ちであったとか議員であったと記されています。身分の高い人で、公には主イエスの弟子とは言っていなかったようです。主イエスの関係者だと知られると立場上まずいところがある人だったのでしょう。しかし、そのヨセフがピラトに主イエスの遺体を取り下ろしたいと願いました。他の福音書には「勇気を出してピラトのところに行き」とも記されています。自分の立場が不利になるかもしれません、しかし彼は、勇気を出して、覚悟を決めてピラトのもとに行ったのです。本来は、十字架で死んだ罪人の遺体は墓に葬ることはできませんでした。しかし、アリマタヤのヨセフは身分が高い人であったせいでしょうか、彼はピラトから主イエスの遺体を受け取ることを許されたのです。

 同様に、ニコデモという人もやってきました。ニコデモはヨハネによる福音書3章に出てくる人です。この人もまた、身分の高い人で、公には弟子とはならなかったと考えられる人物です。ヨハネによる福音書3章で主イエスを訪ねて来た時も、人目をはばかって夜にやってきた人でした。しかしこの人もまた、アリマタヤのヨセフ同様、主イエスの死に際し、駆けつけて来たのです。

 アリマタヤのヨセフにしてもニコデモにしても、主イエスを信じる信仰者としては、もともとあまりはっきりしない態度をとっていた人です。厳しく言えば、中途半端な信仰姿勢であった人たちとも言えます。もちろん彼らは神の国を求めてはいたのです。ファリサイ派や律法学者、ユダヤの権力者たちの語ることに満足ができませんでした。一方で、力ある言葉を語られた主イエスに特別な思いを抱いていたのです。主イエスの十字架のことについても、自分たちも権力側の人間でありながら、権力者たちに同調はできなかったのです。とはいっても彼らは、一歩を踏み出せなかった人たちでもありました。

当然ながら、彼らは主イエスの復活や贖罪ということはこの時点では分かっていなかったでしょう。彼らの心には「主イエスという人に期待をしたけれど、その期待は果たされなかった」というがっかりした思いもあったことでしょう。そうであっても、彼らはリスクを冒しても、主イエスの遺体を引き取ったのです。そこに彼らの不思議な誠実さがあります。主イエスが存命の頃は発揮できなかった勇気を振り絞って、今となっては、先の希望が無くなったはずの状況の中で主イエスの亡骸のもとにやってきたのです。主イエスと生活を共にし、宣教をしていた弟子たちですらほとんどが逃げ、彼らもまた、希望が潰えたと感じているそのとき、この二人の人たちはやってきたのです。彼らは善良な人間だったのです。勇気を振り絞ってやってきた。しかし、善良だった、それだけではありません。彼らは、彼らの意志を越えて神に選ばれた人々でありました。彼らの、主イエスが存命の頃の信仰姿勢は中途半端なものではありながら、神はこの二人を用いられました。それも大きく用いられました。彼らの誠実さ善良さを越えて彼らには神の力が働いていたのです。

<備えられた葬り>

 この遺体が取り下ろされる場面は、母マリアが主イエスの亡骸を抱く「ピエタ」と呼ばれる彫刻や絵画で有名です。特にミケランジェロのピエタ像は最高傑作と名高いものです。母マリアに抱かれる主イエスの図は、母マリアの深い悲しみと慈愛にあふれたものです。 母マリアが息子の亡骸を抱くということは聖書には記されていませんが、そのようなことはあったであろうということは想像できます。母として、自分より先立ってしまった、それも悲惨な死に方をした息子の亡骸を抱くということは母親の感情としては十分に考えられることです。

 しかし、この場面は、ただそんな死の悲しみに沈んでいるだけではありません。ここにも神の救いの計画が進んでいるのです。なんといっても主イエスの亡骸が取り下ろされたことによって、そのご遺体を墓に葬ることが可能になったのです。復活において墓は特別な意味を持ちます。主イエスの遺体が墓ではなく、埋葬もされずどこかに投げ捨てられたとしたら、復活の出来事は曖昧なことになってしまうのです。

 主イエスの遺体は亜麻布で包まれました。他の福音書によるとこれは高価なものでアリマタヤのヨセフが持ってきたもののようです。そしてまた死者に塗るための没薬と沈香をニコデモは持ってきました。100リトラとありますから、30キロばかりも持ってきたのです。本来は埋葬も許されなかったはずの主イエスの亡骸は、とても丁寧に扱われたのです。そしてまた葬られた墓は新しいものであった、ということも復活の出来事を明確にするために重要なことだったと考えられます。墓には主イエスの亡骸だけが安置されたのです。

 ある方がこの聖書箇所についてこういうことを語っておられます。ニコデモが30キロ余りもの没薬と沈香を持ってきたのは、これはニコデモ自身のためにあらかじめニコデモが用意していたものではなかったのかと。没薬と沈香は混ぜてあったとあります。突然のことで急いできたはずなのに混ぜられていた。ニコデモの年齢ははっきりとは分からないのですが、ヨハネによる福音書3章から、高齢の人とも読めます。ですから、その高齢のニコデモが自分が死んだ時のためにもともと準備をしていたものをここで差し出したのだと説明されます。確かに急にそれだけの没薬と沈香が混ぜた状態で準備できたというのは、むしろ以前から準備されていたものだと考えるとしっくりくることでもあります。

 また、近くに墓があったとありますが、それはアリマタヤのヨセフの持ち物ではなかったのかと推測されます。彼はお金持ちで、園のなかにある立派な墓をもっていたと考えることもできます。その立派な墓もアリマタヤのヨセフ自身のために準備していたものではなかったのではないかと考える人もあります。アリマタヤのヨセフもまた、自分のために準備をしていた立派な墓を、主イエスのために差し出したのだとも考えられます。

かつて、主イエスの誕生の時、東方からの博士たちが、没薬、乳香、黄金を捧げたように、主イエスの死に際して、アリマタヤのヨセフとニコデモが心からなる捧げものをしたのです。ちなみに、占星術をしていた東方の博士たちの贈り物は占星術をするための道具であったとも考えられます。つまり博士たちは自分たちのもっとも大事なものを差し出したのだと説明されます。それと同様に、主イエスの死に際しても、二人の人は、自分自身のための大事なものを差し出したのです。

 没薬と沈香、立派な亜麻布、墓、と主イエスの葬りのためにすべてのものが整えられました。これは二人の人の捧げものであると同時に、神が備えられたものでした。復活に続くべき重要なことが神のご計画のうちに、二人の人を用いられてなされました。不十分な信仰者であり、公に弟子とは言えていなかったような二人が、大きく用いられました。ここに神のご計画と、恵みがあります。

振り返りますと、私たちもどこまでもいっても不十分な信仰者でしかありません。キリストの十字架の前で右に左に逸れるような者でしかありません。しかしなお、神は、そのような弱い信仰者である私たちの上に豊かな恵みを与えてくださるお方なのです。

<新しいことへ向かって>

 さて、アリマタヤのヨセフとニコデモは、主イエスの死に際し、人間として精いっぱいのことをしました。葬りとは、亡くなった方に対して、ある意味、最後の誠実さを示す場でもあります。そしてその死を受け入れていくプロセスでもあります。次週の復活祭の日、本来であれば、墓前礼拝を行い、昨年、天に召された姉妹の遺骨の納骨式を行う予定でした。残念ながら、今年は墓前礼拝を中止しますので、納骨は別途行うことになります。ご遺族の方にとって残念なことであろうと思います。葬儀から納骨という手続きを経て、残された人は、愛する者の死ということに対して、気持ちの区切りをつけます。もちろん実際は区切りなどはつかないのです。悲しみは深く残ります。しかし悲しみは残りながら、そこから自分たちの日常へと戻っていきます。私自身、七年前の春に母の納骨を行いました。たいへん急な死であり、私も家族も動揺しました。しかし、奈良の王子の教区墓地に母の遺骨を納めた時、悲しみや混乱の中から、ようやく、新しい一歩を踏み出せそうな気がしたことを覚えています。

 しかし、聖書は、これから驚くべきことを語ります。人間の側の気持ちの区切りや新しい一歩ということを越えた驚くべきことが起こるのです。主イエスの亡骸が立派なお墓に、高価な亜麻布でくるまれ納められた。人間的にはここで一区切りです。いうなれば墓というのは人間の命の終着点でした。しかし、そうではない、死では終わりではない、ここから新しい物語が始まるのです。もうおしまいだ、最後だ、だれもがそう思っていました。十字架の元にいた母マリアも他の女性たちも、愛する弟子も。そしてアリマタヤのヨセフもニコデモも。最後に、最後だからこそ、彼らは誠実にふるまいました。しかし、それで終わりではなかった。人間の誠実さを越えた神の驚くべき業がすでに始まっています。

 いま新型コロナ肺炎の猛威の中、例年とは異なる形での受難週を迎えています。私たちはこの週、洗足木曜日、最後の晩餐、十字架の出来事を、それぞれの場で振り返りましょう。それは悲しむためではありません。絶望するためでもありません。私たちは死では終わらない希望が与えられている、そのことを確認するためです。次週には洗礼式も予定されています。まさに新しい希望が与えられています。実際のことろ、復活の朝の前、たしかに夜は暗かったのです。どん底に暗かったのです。しかしその暗さを打ち破る希望を私たちは、信じます。死では終わりではない、新しい命へ至る希望をこの受難週に待ち望みましょう。