2024年8月18日大阪東教会主日礼拝説教「偽善者よ」吉浦玲子
<裁くとは>
「裁く」という言葉は、クリスチャンの間で、クリスチャン用語のように使われることがあります。大阪東教会の皆さんの間ではあまり使われないかもしれませんが。「あの人は、人を裁くよね」と批判的に使われます。たとえば、Aさんの言動に対して、Bさんが「Aさんの言動は良くない」と言ったとします。そうしたら「BさんはAさんのことを裁いている、けしからん」というような感じで使われたりします。今日の聖書箇所で「人を裁くな」と主イエスはおっしゃっています。ですから、たしかに私たちは人を裁いてはいけないのです。ただ私たちは、裁くということの意味をしっかりとわきまえないといけません。Aさんの言動を批判したBさんは、Aさんのことをほんとうに「裁いた」と言えるのでしょうか?
そもそも「裁く」とか「裁き」とは何でしょうか?聖書において「裁き」は、人間とこの世界の罪に対して、神が最終的な判断をなさる、審判をなさるということです。それは私たちが、毎週告白をしています使徒信条によれば「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」というところになります。今は天におられ父なる神の右に座しておられる主イエスが、ふたたびこの世界に裁きの全権を担って来られ、裁きをくだされるのです。裁きというのは、その後の処遇が決まるということです。聖書で言えば永遠の命に至るのか、滅びに至るのかということです。
たとえば、この世界でも、ごく大雑把な言い方をしたら、犯罪を犯した人は裁判において正式に有罪とされてはじめて罪が確定します。有罪となってはじめて懲役何年とか執行猶予とかその後の処遇が決まります。
神の裁きはさきほども申し上げましたように、主イエスがふたたび来られる終わりの日になされます。その神の裁きに先立って私たちが誰かに対して裁くことは許されませんし、そもそも裁くなんてことはできません。裁くということは最終的な判決を下すということです。この世界の刑事事件であれば、資格をもった裁判官、そしてまた適切な手続きを経た裁判員が裁きます。しかし、あきらかに現行犯で犯罪を犯したことがあきらかな人であったとしても、裁判の前に人間が勝手にその人に対して判断を下すことはできません。
たとえば教会においては「戒規」というものがあります。教会の秩序をはなはだしく乱す者、異端的な考えをする者などにたいして、段階に応じて「訓戒」「陪餐停止」「除名」といったことを行います。「戒規」は懲罰ではなく、あくまでも悔い改めへと導くための訓練としてなされることです。たとえば、その「戒規」で「除名」とされた場合、その人は神の前で退けられるのでしょうか。神から裁かれ神の恵みから切り離されるのでしょうか。そういうことはありません。戒規において除名処分を受けたとしても、それは神の最終的な裁きとは異なります。あくまでもその人が悔い改めへと導かれる手段として戒規はあります。そもそも教会と言えど、誰かを裁くことは出来ません。
<愛ある諭しと裁きは異なる>
そういう意味で冒頭に語った「Aさんのここが悪い」といったBさんはAさんを裁いているわけではないと言えます。もし誰かが愛をもって「あなたのここはこういう風にした方がいい」と助言するとしたら、それは裁きではありません。罪を犯している人にそれは罪です、その罪から離れなさいと諭すことも愛の行いです。さきほどの教会の戒規も愛の行いの一つです。相手の悪いところを指摘したらなんでもかんでも「裁いている」というのは間違っています。
しかしまた一方で、愛をもって相手を諭すというのはとても難しいことです。私たちはそもそも自分の勝手な正義に基づいて、相手を判断するからです。あの人のああいうところは良くないなと思うだけでなく、だからあの人はダメなんだと決めつけたり、ああいうことをするあの人は罪人だと考えてしまう、それは、自分が神のように相手を裁いていることになります。
そもそも私たちはだれ一人として完璧なものではありません。相手の悪いところを見て、それですべてを判断できる者でもありません。主イエスはおっしゃいます。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。」私たちは人の一部分だけを見て、すべて分かった気になって、そしてその人を裁くことがあるのです。それは傲慢な心から出ていることなのです。すべてを分かったような気持で相手を裁くことはむしろ自分が傲慢の罪を犯す罪人になってしまうのです。
<愛と裁き>
ずっとここまで裁くとか罪とか重いことばかり語ってきて、聞いておられる方も語る私も、少々しんどい気分になります。しかしここで主イエスがおっしゃっていることは、先週、読みました「敵を愛しなさい」と続く話なのです。つまり「愛」ということが語られているのです。
主イエスはおっしゃいます。「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
自分に悪いことをする敵を愛するように、あきらかに間違っていると思う相手をも愛しなさいと主イエスはおっしゃっているのです。もちろん、先ほども言いましたように愛をもって助言したり諭すということも大事です。しかし、それはなにか相手の欠点をあれこれ取り上げて、くどくど追求する様な形での批判であってはならないのです。
よく話をすることで、お聞きになったことのある方も多いと思いますが、私が信徒のころ、お世話になっていた先輩の女性は、口の悪い、一貫、厳しい人でした。割とずばずば相手を叱る人でした。ある日、礼拝に遅刻してきて、さらに、やたらと露出の激しい服を着て来た女性に対して、「何という格好で教会に来るのか」と厳しく叱っておられました。その女性はもともといろいろと困った行動をとって少し周囲から浮いていた方でした。また言われたら言い返す激しい感じの人だったので、なかな直接その人に注意をするはいなかったのです。でもその女性に対しても先輩ははっきり注意をされていました。あるとき、教会全体の修養会があったとき、その女性が修養会の場所から姿を消していました。何十人と出席者がいたので、女性がいなくなっていることに、私もほかの人も気づいていなかったのです。でも先輩の女性は彼女がいないことに気づいて、ひとりで教会の中のあちこち探されました。そして体調を崩して別の部屋で座り込んでいた女性を見つけて介抱されました。私は今でもよくそのことを思い出します。その先輩は、一見、口が悪く厳しい人でしたが、ほんとうに愛の人だったなと思うのです。皆のことをよく見て、心に留めておられました。どちらかというとみんなから距離を置かれていた女性のことも本当に心配して気にかけておられました。先輩は時にきびしく批判はされましたが、裁いてはおられませんでした。いつも相手のことを気にかけて、大事にされていたのです。私自身もその先輩には叱られもしましたが、とても心配もしてくださっていたと思います。
でも私たちはともすれば、愛のない批判に終始してしまうのです。ファリサイ派の人々が、主イエスが安息日に病気を癒すかどうか、律法を破るかどうか、じっと見つめていたように、私たちは人のあらを探しがちになるのです。そのように人を裁くあり方ではなく、安息日に病人を癒された主イエスのように愛を与えるのです。「与えなさい、そうすればあなたがたにも与えられる」とおっしゃいます。愛を失って人の批判ばかりする心は、神の恵みを感じることができないのです。自分の正しさに固執するとき、私たちは神の正しさから離れ、自分中心となり、そして神の愛からも離れます。
<見えるようになるために>
そして今日の聖書箇所の後半では、3つの話が語られています。盲人が盲人を案内すること、弟子は師にまさるものではないこと、そして人の目のおがくずは見えても自分の目の中の丸太は見えないということ。これらは、すべて「しっかりと見えるようになりなさい」という言葉です。私たちは自分がはっきりと物を見て理解しているように見えて、そうではないことが分かっていないのです。私たちはしっかり見えてもいないのに、いや見えていないからこそ、やたらと人のあらが目につくのです。先生にはかなわないのに、弟子が自分の方がえらいように思ったりするように、自分も分かってもいないのに人を導こうとするのです。目の中に丸太があるというのは、かなり大げさな表現だと思います。でも現実的に自分は実際は何も見えていないのに人の目の中の小さなおが屑をとろうとするのです。それを主イエスは偽善者だと厳しく語っておられます。
でも、「だれも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」とも主イエスはおっしゃっています。ものが見えていなかった私たちも見えるようになるのだと主イエスはおっしゃっています。
一般的に弟子が先生を越えるには修行が必要ですが、私たちが本当にものが見えるようになるには修行ではなく、主イエスに従うことが必要です。敵を愛し、罪人を赦してくださった主イエスと共に歩むことが必要です。そのとき少しずつ私たちの目は開けていきます。いままで見えていなかったものが見えてきます。何より自分の罪が見えてきます。アダムとエバが知恵の実を食べて、賢くなろうと思っていたのに、賢くなった彼らが見たの、みじめな自分の裸の姿でした。私たちも最初に見えるのは罪人である自分の姿でしょう。しかしまた、同時に、そんな自分を愛して赦してくださった主イエスの姿も見えてくるのです。
さきほど話をした先輩の女性のことを、実は、私は最初は好きではありませんでした。怖い感じですし、なんだか近寄りたくない人だと思っていました。でもある時、私の未信徒の友人が教会に来られました。教会に来てとても喜んでおられたのです。その後、その友人に深刻なトラブルがあって、教会に来られなくなりました。私はとてもショックをうけて、なぜか私はその先輩に一緒に祈ってほしいと頼みました。そしたら先輩はすぐに一緒に祈ってくださいました。その先輩は自分の直接の友人でもない私の友人のために祈りつつ、涙を流しておられました。私も泣きながら祈りました。その時からその先輩と親しくなりました。それまでわたしの目には、その先輩の本当の姿が見えていなかったのです。クリスチャンのくせに口やかましい、相手にマウント取る人だと思っていたのです。でもそうではない、この人は本当に人のために祈ってくださる愛の人だと思ったのです。
人間と人間の間でも私たちは多くのことが見えていません。親が子供のことを見えているとは限りませんし、気心の知れた長年の友人のことだって実は分かっていないことも多くあります。そのように私たちの目を曇らせるのは、神のことを分かっていない、キリストを見ていないことに原因があります。
主イエスは罪人であった私たちを裁くことなく、ご自身が代わりに十字架におかかりになり、裁きをお受けになりました。罪なきキリストが、罪人のために裁きを受けられたのです。それが十字架の出来事でした。私たちが受けるべき裁きをキリストが受けてくださった、そのキリストの十字架を思う時、私たちは人を裁くことはできない者であることを知らされます。もちろん主イエスはふたたびこの世界に来られる時、たしかに裁き主として来られます。しかし主イエスの十字架と復活を信じる者は裁きを免れます。その大いなる恵みを感謝するとき、私たちの目は開かれていきます。自分の罪の重さと神の恵みの豊かさが見えてきます。その時、私たちは人を裁くことなどできなくなります。そしてキリストのように、十字架を担い歩む者とされます。それぞれに十字架を担い歩むとき、神の愛は私たちの目の中の丸太を砕いてくださいます。そしてその時、私たちの目に見えるのは、神の大いなる愛の光なのです。
<裁くとは>
「裁く」という言葉は、クリスチャンの間で、クリスチャン用語のように使われることがあります。大阪東教会の皆さんの間ではあまり使われないかもしれませんが。「あの人は、人を裁くよね」と批判的に使われます。たとえば、Aさんの言動に対して、Bさんが「Aさんの言動は良くない」と言ったとします。そうしたら「BさんはAさんのことを裁いている、けしからん」というような感じで使われたりします。今日の聖書箇所で「人を裁くな」と主イエスはおっしゃっています。ですから、たしかに私たちは人を裁いてはいけないのです。ただ私たちは、裁くということの意味をしっかりとわきまえないといけません。Aさんの言動を批判したBさんは、Aさんのことをほんとうに「裁いた」と言えるのでしょうか?
そもそも「裁く」とか「裁き」とは何でしょうか?聖書において「裁き」は、人間とこの世界の罪に対して、神が最終的な判断をなさる、審判をなさるということです。それは私たちが、毎週告白をしています使徒信条によれば「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」というところになります。今は天におられ父なる神の右に座しておられる主イエスが、ふたたびこの世界に裁きの全権を担って来られ、裁きをくだされるのです。裁きというのは、その後の処遇が決まるということです。聖書で言えば永遠の命に至るのか、滅びに至るのかということです。
たとえば、この世界でも、ごく大雑把な言い方をしたら、犯罪を犯した人は裁判において正式に有罪とされてはじめて罪が確定します。有罪となってはじめて懲役何年とか執行猶予とかその後の処遇が決まります。
神の裁きはさきほども申し上げましたように、主イエスがふたたび来られる終わりの日になされます。その神の裁きに先立って私たちが誰かに対して裁くことは許されませんし、そもそも裁くなんてことはできません。裁くということは最終的な判決を下すということです。この世界の刑事事件であれば、資格をもった裁判官、そしてまた適切な手続きを経た裁判員が裁きます。しかし、あきらかに現行犯で犯罪を犯したことがあきらかな人であったとしても、裁判の前に人間が勝手にその人に対して判断を下すことはできません。
たとえば教会においては「戒規」というものがあります。教会の秩序をはなはだしく乱す者、異端的な考えをする者などにたいして、段階に応じて「訓戒」「陪餐停止」「除名」といったことを行います。「戒規」は懲罰ではなく、あくまでも悔い改めへと導くための訓練としてなされることです。たとえば、その「戒規」で「除名」とされた場合、その人は神の前で退けられるのでしょうか。神から裁かれ神の恵みから切り離されるのでしょうか。そういうことはありません。戒規において除名処分を受けたとしても、それは神の最終的な裁きとは異なります。あくまでもその人が悔い改めへと導かれる手段として戒規はあります。そもそも教会と言えど、誰かを裁くことは出来ません。
<愛ある諭しと裁きは異なる>
そういう意味で冒頭に語った「Aさんのここが悪い」といったBさんはAさんを裁いているわけではないと言えます。もし誰かが愛をもって「あなたのここはこういう風にした方がいい」と助言するとしたら、それは裁きではありません。罪を犯している人にそれは罪です、その罪から離れなさいと諭すことも愛の行いです。さきほどの教会の戒規も愛の行いの一つです。相手の悪いところを指摘したらなんでもかんでも「裁いている」というのは間違っています。
しかしまた一方で、愛をもって相手を諭すというのはとても難しいことです。私たちはそもそも自分の勝手な正義に基づいて、相手を判断するからです。あの人のああいうところは良くないなと思うだけでなく、だからあの人はダメなんだと決めつけたり、ああいうことをするあの人は罪人だと考えてしまう、それは、自分が神のように相手を裁いていることになります。
そもそも私たちはだれ一人として完璧なものではありません。相手の悪いところを見て、それですべてを判断できる者でもありません。主イエスはおっしゃいます。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。」私たちは人の一部分だけを見て、すべて分かった気になって、そしてその人を裁くことがあるのです。それは傲慢な心から出ていることなのです。すべてを分かったような気持で相手を裁くことはむしろ自分が傲慢の罪を犯す罪人になってしまうのです。
<愛と裁き>
ずっとここまで裁くとか罪とか重いことばかり語ってきて、聞いておられる方も語る私も、少々しんどい気分になります。しかしここで主イエスがおっしゃっていることは、先週、読みました「敵を愛しなさい」と続く話なのです。つまり「愛」ということが語られているのです。
主イエスはおっしゃいます。「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
自分に悪いことをする敵を愛するように、あきらかに間違っていると思う相手をも愛しなさいと主イエスはおっしゃっているのです。もちろん、先ほども言いましたように愛をもって助言したり諭すということも大事です。しかし、それはなにか相手の欠点をあれこれ取り上げて、くどくど追求する様な形での批判であってはならないのです。
よく話をすることで、お聞きになったことのある方も多いと思いますが、私が信徒のころ、お世話になっていた先輩の女性は、口の悪い、一貫、厳しい人でした。割とずばずば相手を叱る人でした。ある日、礼拝に遅刻してきて、さらに、やたらと露出の激しい服を着て来た女性に対して、「何という格好で教会に来るのか」と厳しく叱っておられました。その女性はもともといろいろと困った行動をとって少し周囲から浮いていた方でした。また言われたら言い返す激しい感じの人だったので、なかな直接その人に注意をするはいなかったのです。でもその女性に対しても先輩ははっきり注意をされていました。あるとき、教会全体の修養会があったとき、その女性が修養会の場所から姿を消していました。何十人と出席者がいたので、女性がいなくなっていることに、私もほかの人も気づいていなかったのです。でも先輩の女性は彼女がいないことに気づいて、ひとりで教会の中のあちこち探されました。そして体調を崩して別の部屋で座り込んでいた女性を見つけて介抱されました。私は今でもよくそのことを思い出します。その先輩は、一見、口が悪く厳しい人でしたが、ほんとうに愛の人だったなと思うのです。皆のことをよく見て、心に留めておられました。どちらかというとみんなから距離を置かれていた女性のことも本当に心配して気にかけておられました。先輩は時にきびしく批判はされましたが、裁いてはおられませんでした。いつも相手のことを気にかけて、大事にされていたのです。私自身もその先輩には叱られもしましたが、とても心配もしてくださっていたと思います。
でも私たちはともすれば、愛のない批判に終始してしまうのです。ファリサイ派の人々が、主イエスが安息日に病気を癒すかどうか、律法を破るかどうか、じっと見つめていたように、私たちは人のあらを探しがちになるのです。そのように人を裁くあり方ではなく、安息日に病人を癒された主イエスのように愛を与えるのです。「与えなさい、そうすればあなたがたにも与えられる」とおっしゃいます。愛を失って人の批判ばかりする心は、神の恵みを感じることができないのです。自分の正しさに固執するとき、私たちは神の正しさから離れ、自分中心となり、そして神の愛からも離れます。
<見えるようになるために>
そして今日の聖書箇所の後半では、3つの話が語られています。盲人が盲人を案内すること、弟子は師にまさるものではないこと、そして人の目のおがくずは見えても自分の目の中の丸太は見えないということ。これらは、すべて「しっかりと見えるようになりなさい」という言葉です。私たちは自分がはっきりと物を見て理解しているように見えて、そうではないことが分かっていないのです。私たちはしっかり見えてもいないのに、いや見えていないからこそ、やたらと人のあらが目につくのです。先生にはかなわないのに、弟子が自分の方がえらいように思ったりするように、自分も分かってもいないのに人を導こうとするのです。目の中に丸太があるというのは、かなり大げさな表現だと思います。でも現実的に自分は実際は何も見えていないのに人の目の中の小さなおが屑をとろうとするのです。それを主イエスは偽善者だと厳しく語っておられます。
でも、「だれも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」とも主イエスはおっしゃっています。ものが見えていなかった私たちも見えるようになるのだと主イエスはおっしゃっています。
一般的に弟子が先生を越えるには修行が必要ですが、私たちが本当にものが見えるようになるには修行ではなく、主イエスに従うことが必要です。敵を愛し、罪人を赦してくださった主イエスと共に歩むことが必要です。そのとき少しずつ私たちの目は開けていきます。いままで見えていなかったものが見えてきます。何より自分の罪が見えてきます。アダムとエバが知恵の実を食べて、賢くなろうと思っていたのに、賢くなった彼らが見たの、みじめな自分の裸の姿でした。私たちも最初に見えるのは罪人である自分の姿でしょう。しかしまた、同時に、そんな自分を愛して赦してくださった主イエスの姿も見えてくるのです。
さきほど話をした先輩の女性のことを、実は、私は最初は好きではありませんでした。怖い感じですし、なんだか近寄りたくない人だと思っていました。でもある時、私の未信徒の友人が教会に来られました。教会に来てとても喜んでおられたのです。その後、その友人に深刻なトラブルがあって、教会に来られなくなりました。私はとてもショックをうけて、なぜか私はその先輩に一緒に祈ってほしいと頼みました。そしたら先輩はすぐに一緒に祈ってくださいました。その先輩は自分の直接の友人でもない私の友人のために祈りつつ、涙を流しておられました。私も泣きながら祈りました。その時からその先輩と親しくなりました。それまでわたしの目には、その先輩の本当の姿が見えていなかったのです。クリスチャンのくせに口やかましい、相手にマウント取る人だと思っていたのです。でもそうではない、この人は本当に人のために祈ってくださる愛の人だと思ったのです。
人間と人間の間でも私たちは多くのことが見えていません。親が子供のことを見えているとは限りませんし、気心の知れた長年の友人のことだって実は分かっていないことも多くあります。そのように私たちの目を曇らせるのは、神のことを分かっていない、キリストを見ていないことに原因があります。
主イエスは罪人であった私たちを裁くことなく、ご自身が代わりに十字架におかかりになり、裁きをお受けになりました。罪なきキリストが、罪人のために裁きを受けられたのです。それが十字架の出来事でした。私たちが受けるべき裁きをキリストが受けてくださった、そのキリストの十字架を思う時、私たちは人を裁くことはできない者であることを知らされます。もちろん主イエスはふたたびこの世界に来られる時、たしかに裁き主として来られます。しかし主イエスの十字架と復活を信じる者は裁きを免れます。その大いなる恵みを感謝するとき、私たちの目は開かれていきます。自分の罪の重さと神の恵みの豊かさが見えてきます。その時、私たちは人を裁くことなどできなくなります。そしてキリストのように、十字架を担い歩む者とされます。それぞれに十字架を担い歩むとき、神の愛は私たちの目の中の丸太を砕いてくださいます。そしてその時、私たちの目に見えるのは、神の大いなる愛の光なのです。
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