大阪東教会主日礼拝説教 エフェソの信徒への手紙5章21~33節「神の愛と夫婦の愛」吉浦玲子牧師
<キリストへの畏れをもって>
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」
仕え合うという言葉は、従順になる、従うという言葉です。キリストがすべてのものの上におられます。キリストは十字架と復活の後、いまは父なる神の右に座しておられ、すべての権威をいただいておられます。そのキリストへの畏れをもって、私たちは互いに尊重し合うのです。仕え合うのです。これが人間関係の基本だと聖書は語るのです。キリストへの畏れのないところには、本当の意味での相手に対する尊重の心は与えられないのです。それは夫婦でもそうですし、親子、そしてまた職場や地域と言ったさまざまな人間関係でもそうです。キリストへの畏れがないところには本当の意味での人間の豊かな関係はなく、キリストへの畏れのないところにあるのは力関係であり、利害関係であり、依存関係なのです。
その関係の中で、今日の聖書箇所では特に夫と妻について語られています。受洗前に聖書の学びをしていたころ、どうも納得できなかった箇所のひとつがこの聖書箇所です。
「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」
今日の男女同権の社会において、夫が妻の頭である、ということはどう感じられますでしょうか?世代や地域によって捉え方はさまざまではないかと思います。私が育った九州は男尊女卑がきつい地域でした。私くらいの世代の男性でも、おそらく他の地域の男性に比べると、だいぶ「おれは男だ!」と男性優位的な感覚の人が多いと感じます。大阪と比べてもそうです。そういう風土で育ったこともあり、個人的には余計、男性上位を肯定しているように感じられるこの箇所には違和感を持ちます。一方、夫に対しては
「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」
と語られています。昔、この箇所についてお話してくださった先生は、「これは夫の方が厳しいことを言われているんですよ」と語られました。キリストが<ご自分をお与えになったように愛する>ということは、つまりは<あなたは相手のために死になさい>ということなのだ、と言われました。夫への要求項目の方が、妻への要求項目より格段に厳しいのだと。そうなりますと逆差別であるようにも感じます。
聖書を学んできて、改めて、この箇所を読んで思うことは、たしかに夫への言葉の方が多くて厳しいのです。妻には夫を頭とせよ、夫を敬えと語られていますが、夫に対しては、キリストのように自分を与えよ、そしてまたさらには自分の体のように妻を愛せと語られています。
時代背景を思う時、当時としては、この言葉はたいへん画期的な言葉であったと思われます。今日より、当時はもっと女性の地位は低かったのです。そもそもモーセの時代の律法には離縁状を書いて夫は妻を離縁すると記されていました。それは、離縁を推奨するのではなく、むしろ夫が身勝手に妻を離縁しないように、せめて離縁状という手続きを踏むようにという弱い立場の女性を保護するためのものでした。福音書を読みますと、夫が妻を離縁することについて問われたイエスさまはさらにモーセの律法より推し進めて、離縁をしてはならない、神が一つにしたものを離してはならないと応えられました。それに対して、弟子たちはそんなに離縁することが難しいのなら最初から結婚しない方がましだと応えます。そのような福音書のやりとりから分かりますことは、新約聖書の時代であっても、男性側からは容易に女性を離縁できたということです。女性は男性の持ち物のようなものでしかなかったのです。
そのような新約聖書の時代に、今日の聖書箇所では、夫は命をかけて妻を愛せと語られています。この言葉は、弱い立場であった女性を保護する言葉であると同時に、まったく新しい夫と妻の関係を求めるものでもありました。夫婦はキリストの下にキリストへの畏れをもって互いに仕え合うのであり、ことに強い立場である夫は、命をかけて自分の体のように妻を愛さねばならない、妻を邪険に扱ってはならないと語られているのです。
<神のもとにある秩序>
今日の聖書箇所に続いて「子と親」「奴隷と主人」への言葉があります。これらを読んで分かりますことは、聖書はあくまでも、現実のこの世の秩序を壊すものではないということです。夫と妻も、親も子も、主人と奴隷も、今日的な単純な意味での平等主義では語られてはいません。それぞれに置かれた立場が異なっていることを明確に示しています。夫と妻は立場と役割は同じではない、親と子も、奴隷と主人も同様です。ただし夫と妻の役割が違うというのは、古い意味での役割分担のことではありません。夫が外で働き、妻が家を守るとか、男性が指導的な立場にあって、女性はアシスタントであるべきということではありません。
しかし、どのような人間関係も、与えられている秩序の中でそれぞれにふるまうべきであることが語られています。そしてそれぞれに違う立場の者が、この世のあり方としては、片方がもう片方の上に立つ場合にあっても、そのすべての関係のさらに上に神がおられるということをわきまえなければならないと語られています。子供の人権というのも近代になるまでは考えられていませんでした。やがて一家の労働力となるまで、父親の良いように子供は扱えたのです。しかし、「子供を怒らせるな」と聖書は語ります。また奴隷の主人に対しても「奴隷を脅すな」と語られています。立場の強い者には相応の態度が求められるのです。そして何より、妻と夫の上にも、子と親の上にも、主人と奴隷の上にも、神がおられることをわきまえ、それぞれに相手も神から愛されている人間であることを覚えつつ、互いに仕え合いながら共に生きねばならないことが語られています。
<神との関係>
すべての関係は、神の下にあると同時に、その関係自体が、神と人間の関係と相似形になっているとも言えます。夫と妻の関係もそうです。花婿と花嫁は、聖書においては、神と神に愛される人間の関係をあらわすものです。旧約聖書にある雅歌という詩集もそうです。雅歌では、たいへんエロチックな表現で若い恋人たちの姿が描かれています。しかし、その愛し合う恋人たちの姿は、神と私たちの姿でもあります。私たちはただ頭や心や精神だけで神を愛するのではなく、体も霊的なものもすべてをかけて神を愛するのです。よく神の愛はギリシャ語でいうアガペーという見返りを求めない崇高な愛であり、それに対して、ギリシャ語のエロスであらわされる肉体的なことも含めた愛は、愛として劣るように考えられます。しかし、そうではないのです。人間にはアガペーもエロスも、そして一般に友愛と言われますフィレオという愛も必要なのです。それは神ご自身がアガペーにおいてもエロスにおいてもフィレオにおいても人間を愛してくださるからです。しかしまたその愛の激しさという側面から見るとき、雅歌に描かれる愛の狂おしさもまた神の愛の一面なのです。
日本人は良くも悪くもまじめなところがあります。神の愛を崇高で気高いものであると思うあまり、自由に愛し合い喜び合う関係性を自分と神との間に持ちにくいところがあると思います。神はある面、狂おしいほど人間を求め愛されるのです。旧約聖書において「わたしは妬む神である」と神ご自身が語られています。私たちはもっとダイナミックに神の愛をとらえるべきだと思います。
一方で、親と子の関係もまた、教え教えられる関係としての神と人間の姿を表します。神は人間を訓練なさいます。出エジプトした民を40年間、荒れ野で天からのマナを食べさせ、神と共に生きることを訓練されました。私たちもまた神から訓練を受けます。訓練は通常あまり楽しいことではないことが多いです。しかし、親が子供を訓練するように神はあえて試練や誘惑をくぐらせて、私たちを訓練されます。私たちが神と隣人への愛を知るためです。何より神が自分を愛してくださっていることを知るためです。
主人と奴隷の関係もそうです。ここでは夫と妻よりさらに端的に、主人と仕えるものの関係があります。私たちは神に仕えます。神に従順に生きるのです。しかしこれは、なによりキリストが私たちに仕えてくださったことによります。キリストが僕としてー僕というのは奴隷ということですがー私たちに仕えてくださった。弟子たちの足を洗い、私たちの罪を担って十字架にかかってくださった。キリストが私たちの下にあって、仕えてくださった。そのことによって私たちは永遠の命をいただきました。それゆえに今は父なる神の右に座しておられるキリストを私たちは畏れ、仕えるのです。
<教会>
そして夫と妻の関係においては、それはキリストと教会の関係の相似形でもあります。教会はキリストを頭とする、キリストの体です。頭と体は分かちがたく結びついています。夫が頭であり、妻が体である、というのはどちらが上ということ以上に、頭と体は分離しがたいものだということを表します。
そしてまた信仰共同体としての教会において忘れてはならないのはキリストが頭であるということです。頭であるキリストを離れて教会は存在しえないということです。しかし実に多くの教会においてキリストがなおざりにされています。キリストの体であるはずの教会が頭なるキリストを離れて、人間中心のあり方になっています。この世の組織やコミュニティとなんら変わらぬ状態になっています。そこにはキリストへの畏れがなく、最初に申し上げたように、力関係、利害関係、依存関係が中心となり、まことに愛にあって仕え合う関係はありません。
「キリストがそうなさったのは、言葉と共に水で洗うことによって、教会を清めて聖なるものとし、 染みやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、傷のない、栄光に輝く教会を、ご自分の前に立たせるためでした。」
とあります。言葉なる神であるキリストの福音の言葉によって教会は洗われます。洗われるというのですから、洗われる前と後では違いがあるのです。神の言葉によって洗われた時、人間も教会も変わります。変わっていなければ、それは洗われていないのです。キリストが十字架の死をもって人間を贖いとってくださり、教会を立て上げられたことをまことに信じるとき、人間も教会も御言葉による洗いを感謝して受け、変わっていきます。そしてまた水で洗うというのは洗礼を指します。教会はそれ自身、キリストの水によって洗われ、たえず悔い改めていきます。そして新しい信仰者を生み出していきます。
一方で、正確な言葉を確認できなかったのですが、アウグスティヌスは、「染みやしわのない地上の教会はない」というような言葉を残しています。私たちは完全な教会である天の国の教会の礼拝にやがて招かれます。それに対して、この地上にあるすべての教会には染みやしわがあるのです。キリストが血によって贖い、立ててくださったにも関わらず、罪人の集まりである地上のすべての教会には染みやしわがたしかにあります。しかしなお、キリストはその教会の頭として導いてくださいます。体である教会の痛みを誰よりも痛まれるのは頭であるキリストです。人間の体であっても痛みを感じる中枢は脳にあります。キリストは地上の教会の痛みを担いつつ、なお、愛し導かれます。命を与えてくださいます。私たちはそのキリストを畏れつつ従順に歩みます。日々、聖霊によって御言葉を聞きながら、洗われながら歩みます。