2021年1月31日大阪東教会主日礼拝説教「翼を広げて上る」吉浦玲子
【聖書】
さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。
アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。
パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。
【説教】
<水の洗礼と聖霊による洗礼>
パウロは二回目の宣教旅行を終えて、いったんシリア州のアンティオキアに戻ったあと、三度目の宣教旅行に旅立ちました。三度目の宣教旅行は、それまでに開拓伝道をした教会を訪問し、指導をするということがメインでした。そのころ、アポロという雄弁家がイエス・キリストを受け入れ宣教を始めました。このアポロはエフェソという現在のトルコの西部に位置する町にいました。やがて、ギリシャ側のコリントへ宣教に向かいます。コリントの信徒への手紙Ⅰの最初にアポロの名前は出てきます。コリントの教会が分裂していて、創立者であるパウロ派とそののちに伝道牧会をしたアポロ派に割れていたようです。それに対してパウロは「わたしは植え、アポロが水を注いだ」とコリントの人々を諫めています。つまりアポロは、パウロの後継としてコリントの教会を引っ張ることのできた力ある宣教者だったのです。
ところで、今日の聖書箇所では少し不思議と言いますか不可解なことが語られています。アポロは最初、主イエスのことを信じ熱心に語っていたにもかかわらず、ヨハネの洗礼しか知らなかったと書かれています。また19章の最初のところでもエフェソの人々が信仰に入ってはいたけれど、聖霊を知らない、やはりヨハネの洗礼しか知らなかったと書かれています。
そもそもヨハネの洗礼とはなんでしょうか?これは福音書に書かれている洗礼者ヨハネが授けた洗礼のことです。洗礼者ヨハネは主イエスが公の活動を始められる前、メシア―救い主-の到来に先立って、人々を導いた人物です。端的にいうと洗礼者ヨハネは人々に「悔い改め」を迫ったのです。救い主が来られるのだから、自分たちのあり方生き方を見直し、神の救いにふさわしく悔い改め、神の方を向こうと語りました。そしてその悔い改めの儀式として洗礼を授けたのです。それはヨハネの洗礼でした。そのヨハネは言いました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」ヨハネはかなり激しい言葉を語ったのです。人々にとって、ヨハネの教えは衝撃的でした。ユダヤの人々はユダヤ人であるということで、当然に神の救いにあずかれると考えていたのです。自分たちは神に選ばれた特別な民だと思っていたからです。しかし、洗礼者ヨハネは、<『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな>つまり、血筋としてアブラハムの子孫だということは救いにとって何の意味もない、血筋としてアブラハムの子孫だからと言って差し迫った神の怒りは免れることはできないと語りました。神の怒りを免れるためには、罪を悔い改めて神の方を向ねばいけないのだと説きました。そしてその言葉を聞いた人々は、心打たれて、ヨハネから悔い改めの洗礼、つまり水の洗礼を受けたのです。
しかし、そのヨハネ自身が、こういうことも語っています。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」つまり洗礼者ヨハネ自身が、自分の洗礼と、やがて後から来られる方の洗礼は違うのだと語っていたのです。あとから来られる方は、もちろんイエス・キリストです。イエス・キリストが「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとヨハネは語っているのです。今日の聖書箇所である使徒言行録で問題になっていることも、ヨハネがいうところの「水の洗礼」と「聖霊と火の洗礼」の違いから来るものです。
<今このときから>
ところで、昨年、大阪東教会では、三人の方が信仰告白をされ、洗礼に授かるというたいへん大きな恵みをいただきました。コロナの禍の中、洗礼式が行われる礼拝に出席できない方も多くおられ残念でした。しかし一方、夏から開始した礼拝のネット配信で、洗礼式をご覧になった方々もおられ、喜びを共にしてくださいました。この会堂でも、またネットを通しても、洗礼式をご覧になった方は覚えておられるでしょう、現代において、教会で持たれる洗礼式で、私たちの目に見えるものは「水」だけです。肉眼で「聖霊と火」は通常は見えないと思います。そういう意味では、現代でも肉眼に見える洗礼のあり方は洗礼者ヨハネの言う「水の洗礼」と変わらぬようにも見えます。しかし、使徒言行録以来、現代のおいても、洗礼はイエス・キリストの名において授けられます。ですから、肉眼には見えなくてもそれは「聖霊と火」による洗礼なのです。肉眼では見えなくても、洗礼の場には聖霊が注がれ、また火という言葉で表される神の力が働くのです。洗礼式のみならず、聖餐も含めた聖礼典には、実際のところ、ダイナミックな聖霊の働き、神の力があります。あまり神秘主義的なことを申し上げるつもりはないのですが、聖礼典の場にはいろんなことが実際起きるのです。今日の聖書箇所では、聖霊が注がれるのが当時の人々には目に見える形で見えたようですが、現代においても、たしかに聖礼典には特別な力が働いています。
そもそもヨハネの洗礼とイエス・キリストの名による洗礼はどう違うのでしょうか?それはひと言でいえば、救いの時間が異なるということです。洗礼者ヨハネの水の洗礼は、来るべき裁きを前に、裁きで滅びないために悔い改め、神に向かって心を向ける洗礼でした。言ってみれば、その洗礼は、未来に向かっての備えでした。譬えとして適当かどうかは分かりませんが、洗礼者ヨハネの洗礼は、未来における裁きからの救いの予約を得るようなものです。
それに対して、イエス・キリストの名による洗礼は、その瞬間から、救いの中に私たちが入れられる洗礼なのです。救いは未来ではなく、今この瞬間に起こるのです。もちろん世界全体の救いの完成は黙示録にあるように将来のことです。しかし、洗礼を受けた一人一人の救いはすでに洗礼の瞬間から始まっているのです。
ヨハネの洗礼がコンサートの予約チケットを手に入れるようなものだとしたら、主イエスの名による洗礼では私たちはすでにコンサート会場に入って音楽を楽しんでいるのです。もちろん主イエスがふたたびこの世界に来られる時、もっと桁違いに盛大なコンサートが開かれ、私たちは素晴らしい音楽を聞きます、しかし、現在でもすでに私たちは音楽を聞き、喜ぶことができるのです。ただ予約チケットだけを手にしてコンサートの日を待っているのはないのです。
<恵みの信仰>
ところで、そもそも、アポロやエフェソの一部の人々がヨハネの洗礼しか受けていないということを、アキラとプリスキラの夫婦やパウロが気づいたのでしょうか?アポロはすでに主イエスのことを熱心に語り正確に教えていたとあります。エフェソの一部の人々もおそらく真面目な信仰生活を送っている人々であったでしょう。しかし、彼らから決定的な喜びが感じられなかったのだと思います。イエス・キリストが救い主であること、十字架と復活のことを知り、信じてはいたけれど、なにかそこに生き生きとしたものを感じなかったのだと思います。そもそも、洗礼、バプテスマの語源は浸す、洗うという意味です。つまり、イエス・キリストの名による洗礼を受けたということは、イエス・キリストに浸された、イエス・キリストによって洗われたということです。
パウロはエフェソの人々に「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と聞いています。さきほど聖礼典には神の力が働くと申し上げましたが、聖霊を受けるというのは、単に何か神秘的な体験をするということではなく、神の恵みを感じるということです。ヨハネの洗礼は悔い改めのしるしでした。言ってみれば人間の側が変わることの証しでした。それに対して、イエス・キリストの名による洗礼は、神からの恵みにあずかるということです。イエス・キリストの祝福にどっぷりと浸される、イエス・キリストの恵みによって洗われるということです。人間はあくまでも受け身であり、ただただ神の恵みの中に新しく生かされるということです。恵みのシャワーを浴びるのです。ですからそこには、一方的な神の恵みを感じる、本当の喜びがあります。自然と神への賛美や感謝がわきあがってくるのです。霊的なあたたかさ、やわらかさが与えられるのです。それに対して、まじめに信仰しているけれど、熱心に奉仕や祈りはしているけれど、そしてそれなりに親切な雰囲気はあるけれど、実際のところはどこかひんやりしている信仰があります。それはイエス・キリストにどっぷりと浸された信仰ではありません。表面的な厳粛さを求めがちな長老教会が時として陥ってしまうのが、そのようなイエス・キリストにどっぷりと浸されていない冷たい信仰、喜びのない信仰です。そしてまた、実際、冷たい信仰、喜びのない信仰はしんどいのです。救われた平安がなく、それどころかもっとまじめにしないと天の国は入れないかのような不安すら沸き起こってくるのです。そしてまた冷たい信仰には罪への後悔やうしろめたさはあっても、本当に意味での悔い改めはないのです。洗礼者ヨハネは恐ろしい終末の裁きを語りました。そのヨハネの洗礼ではなく、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたはずなのに、ヨハネの洗礼にとどまっているかのような信仰、聖霊を受けていない信仰を私たちは持っていないでしょうか?
<聖霊の風を感じよう>
もうずいぶん昔になりますが、マラソンをしていた頃、よく神崎川の川沿いの自転車道を走っていました。神崎川は淀川の支流で、淀川区に住んでいた当時、自宅付近から神崎川の川岸に下りて、川沿いを南東に走っていくと本流である淀川に出ました。神崎川の川沿いには、犬を散歩させている人、トランペットを吹いている人、競技用の自転車で走り去っていく人、魚を釣っている人、さまざまな人がいました。春は桜の咲いている所も見えましたし、バーベキューをしている人たちもいて、いい香りが漂っていました。また神崎川沿いには正露丸を作っている会社もあって、風向きによっては、正露丸の匂いがしてくる場所もありました。当たり前のことですが、神崎川を実際に走らなければ、トランペットの音を聞いたり、正露丸やバーベキューの香りを嗅いだり、桜の花をみることはできません。
信仰もそれと同じで、信仰に生きていなければ、生き生きとした恵みを感じることはできません。信仰もまた体全体で、人生のただなかで感じ取り、味わうものだからです。机上の勉強や論理ではないのです。イエス・キリストの名による洗礼を受けても、信仰生活と自分の実際の日々が断絶していたら、そこには生き生きとした信仰の現実はないのです。日々、神の恵みを感じ取り、感謝が自然とあふれてくる、そのような日々の中で私たちの霊的感性は養われていきます。信仰が頭だけのものであるとき、神が与えてくださる美しい花も見えなければ、良い香りを感じることもありません。もちろん実際、トレーニングでランニングをするときは、楽しいだけではありませんが、良い季節にきれいない景色を見ながらゆったりと自分のペースで走っていくとき、時に口から歌がこぼれます。信仰生活もまたそうです。あたたかな光や風を感じながら、思わず神への賛美があふれてくる、感謝の思いが満ちてくるのです。ここにおられる信仰者は皆、イエス・キリストの名による洗礼を受けられました。すでにイエス・キリストにどっぷりと浸されているのです。恵みをいただいています。シャワーのように浴びているのです。その恵みを体全体で、心全体で感じながら新しい一週間を歩みましょう。