大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書第4章1~20節

2022-03-27 16:03:21 | マルコによる福音書

2022年3月27日大阪東教会主日礼拝説教「わが心は石にあらず」吉浦玲子 

<神は大雑把?> 

 今日の聖書箇所は有名な「種を蒔く人」のたとえ話です。種は4種類の場所に蒔かれます。「道端」と「石ころだらけの場所」と「茨の生えたところ」と「良い土地」です。このたとえ話は当時のイスラエルの農業のあり方を良く知っている人々には非常にリアリティのあるものであったと思われます。当時の種まきは、かなり大雑把になされていたのです。適当に種をばらまくので道端に落ちる種もあったり、石や茨のなかに落ちる種も実際にあったのです。もっと効率的に土地を耕して畝を作ったりして種を蒔けばいいではないかと几帳面な日本人なら考えるところです。しかし当時、このたとえ話を聞いた人々は生き生きとそのイメージを思い描くことができたのです。 

 13節からの主イエスご自身による解説を読みますと、種は神のみ言葉であり、土地は私たちの心であると語られます。となりますと、じゃあ自分はどんな土地だろうか?と考えてしまいます。道端でサタンにすぐに種が奪われてしまうような土地だろうか、石だらけで根がはれなくてすぐ枯れてしまうような土地だうか、茨が茂っていて世の誘惑に負けてしまうような土地だろうか、と考えてしまいます。そして多くの人は、自分などは三十倍も六十倍も百倍も実を結ぶような良い土地ではない、ああ良い土地になれるようにがんばらなくては、と思うのです。 

 しかし、このたとえ話は、新共同訳聖書の見出しにもなっていますように、「種を蒔く人」のたとえ話なのです。ポイントは土地の側にはないのです。種を蒔くのは誰でしょうか?それは神ご自身です。主イエス・キリストです。神が豊かに蒔かれるのです。しかし、神は、言ってみれば、人間の感覚で言えば大雑把に蒔かれるのです。私自身がかなり大雑把な人間なのでそうであるなら、少しうれしいですけれども。神は、ここは良い土地だとか石ころだらけだと区別をして蒔かれるわけではないのです。昨年から、教会の庭を整備いただいていますが、労力をかけて苦労して耕し、種を蒔いてもうまくいかなかったことがあると聞いています。ひまわりは芽が出るとすぐに虫に食われますから、わざわざまず植木鉢に種を蒔いて芽が出てから庭に植えましたが、結局、あまりうまくいきませんでした。しかし、皮肉なことに、残っていた種を別の場所に無造作に蒔いたものは、とてつもなく育ちました。植えた土地によって、生育にずいぶん違いました。もちろん園芸の専門家であれば、ここの土地は良く育つとか、ここはダメだというのがあらかじめ分かるでしょう。神もまた、実際のところ、よくよくご存知なのです。ここに御言葉を蒔いても、根が育たず枯れてしまうことを。せっかく芽が出ても茨にふさがれて実を結べない、すぐにこの世の誘惑に負けて成長できなくなってしまうだろうということを。 

 にもかかわらず、惜しげもなく蒔かれるのが神なのです。それが「種を蒔く人」であり、私たちもまたみ言葉を蒔かれた者なのです。私たちが良い土地だから蒔かれたわけではない、むしろまったく耕されていない道端であったり、石がごろごろしていたり、茨が茂っていたりしていたのです。大阪東教会の庭にもしぶとくどくだみが茂っていました。どくだみは土地の栄養を奪い、他の植物が育てなくする性質のようです。あるいは空襲で焼け落ちた旧会堂の残骸が埋まって開墾がむずかしいところがあったと聞きました。土自体が黒く焼けてどうしようもないようなところもあったようです。しかし、どのような土地であろうとも、神は蒔かれるのです。非効率的と思われることを、愚かとも思えることを神はなさるのです。 

<愚かな神の憐れみ> 

 神のなさること、そして、信仰の出来事というのは合理的なことではないのです。合理的に考えようとするとき、むしろ神のなさることは愚かに見えるのです。新約聖書には、愚かとも思える神の姿がたとえ話としてよく描かれています。道楽の限りを尽くして家の財産を失って帰ってきた息子を抱きしめる父親、天文学的な額の借金を帳消しにしてくれる王様等々。普通に考えますと道楽息子を無条件で赦す父親は子供を甘やかすダメな父親ですし、借金を帳消しにした王も統治者として疑問を持ってしまいます。実際、借金を帳消しにされた家来はまったく王に感謝もしていないのです。人間から見たら神は、実に愚かで馬鹿げた存在に見える時があるのです。人間から見て、立派な正しい人間を愛される神であれば理屈は通ります。ちゃんと石を取り除き、茨を取り除いて、耕して、さあ土地を整えましたという人間のところにだけ種を蒔く神の方が理解はしやすいのです。 

 ところで、いま、受難節の時を私たちは過ごしています。私たちはこの時、いっそう、神の憐れみに思いを巡らしたいと思います。神の憐れみとは何でしょうか?いろいろな言い方ができますが、一つの言い方として、どうしようもない人間と共に痛んでくださる、それが憐れみです。どうしようもない人間、神から離れている人間を糾弾したり、罰を与えるのではなく、罪ゆえに苦しむ人間と共にその苦しみを共に苦しんでくださる神、それが憐れみ深い神なのです。私たちの苦しみの根源にあるのは私たちの罪です。その罪ゆえに苦しんでいたとしても神は憐れんでくださるお方です。子供が小さなとき、子供が病気になって苦しんでいたら、親であれば、代わってあげたいと思うと思います。神は人間が自分の罪ゆえに苦しみの深みに入っていっても、それを自業自得だとおっしゃるのではなく、その苦しみを共に苦しんでくださるお方なのです。さらには十字架において、自ら代わりに痛みを担ってくださいました。それが神の憐れみです。 

 茨だろうか石ころだろうが、神は見捨てず豊かに蒔いてくださる、太っ腹な神は、同時に、私たちと共に苦しんでくださる神でもあります。ですから、私たちは少しずつ知っていくのです。石ころだろうが茨だろうが、太っ腹に種を蒔いてくださる神だから、私たちは好きに生きてよい、ずっと石ころだらけでいいとは思えなくなるのです。何でも赦してくださる神なのだから安心して罪を重ねてよいなどとは思えないのです。神の憐れみを知る時、私たちはそう思えなくなるのです。 

<神の国のミステリー> 

 さて、今日の聖書箇所のたとえ話とその説き明かしの部分の間に、「たとえを用いて話す理由」と見出しがついた箇所が挟まれています。ここには不思議なことが書かれています。弟子たちにたとえについて聞かれた主イエスは「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」とおっしゃるのです。通常、たとえ話というと、話を分かりやすくするために語られます。しかし、主イエスの語られているたとえ話は「外の人々」に語られるものだとおっしゃるのです。先週の聖書箇所で、イエスの母マリアと兄弟たちが主イエスを連れ戻そうと家の外に立っていたことが描かれていました。それに対して、主イエスは家の中にいてご自身の言葉を聞いている人々こそが自分の家族なのだと語られました。つまり、主イエスのそばにいる人々、主イエスの話を聞いている人々は内側の人々であって、「外の人々」とは主イエスから離れている人々、主イエスの話を聞いていない人々をさします。 

 そもそも、「神の国の秘密」というものは、隠されているものなのです。秘密という言葉は、ギリシャ語でミュステーリオンで、英語のミステリーの語源となっています。謎であり、神秘でもあります。「神の国の秘密」というものはそもそも見て理解して納得するという種類のものではないのです。信じるものです。理性で理解し、納得できるものであれば信じる必要はありません。主イエスの最初の宣教の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。確かに神の国は近づきました。しかしいまそれをはっきりと肉眼で見ることはできません。いまはまだミュステーリオン、なぞで神秘なのです。その神秘を語ったものがたとえ話です。しかしそもそもが、現時点では隠されているものですから、たとえで語られても分からないのです。 

 しかし、内側にいる人々にはその秘密が打ち明けられている、と主イエスはおっしゃるのです。たとえ話でなぞかけのように語られるだけでなく、説き明かしがなされるのだとおっしゃるのです。逆に言えば「内側」に主イエスの側に来なければ分からないのだとおっしゃいます。戸口の外に立っていては分からないのです。そもそも神の国とは、神の支配されるところです。神の支配に従う者にはそこに入ることがゆるされていますが、神の支配に従うつもりない人々にはゆるされていません。神の国のことがすっかり分かって納得できたら神の国の支配に従い神の国に入りますというあり方は信仰のあり方ではありません。まず主イエスに近づくのです。そして神の言葉を聞くのです。 

 教会は受洗をけっして強要はしません。しかし、洗礼を受けることは、神の国の支配に従うということでもあります。神の国のことをすっかり分かったから洗礼を受けるわけではありません。むしろ逆で、主イエスの言葉を近くで聞き、主イエスに従おう、神の句の支配に従おうと決意したとき、さらに神の国の神秘が開かれていくのです。外にいてはけっして分からない神の国の神秘が少しずつ開かれるのです。キリストに聞き、そして従っていくとき、神の国は少しずつ私たちの内に開かれていきます。もちろんこの地上に生きる時、まだ終わりの日が来る前は、けっして完全な形で神の国を私たちは知ることはありません。大伝道者のパウロも「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」と語っています。しかし、外にいてはけっして分からない秘密を、キリストに従って生きる私たちはキリストから知らされるのです。 

<とてつもない実りを期待しよう> 

 さて、種を蒔く人のたとえに戻れば、そもそもこの描かれている土地は、別々の土地ではありません。ひとつの畑を耕す時、良い土地もあれば、石ころのところもあり、茨もあるということです。畑からこぼれて脇の道端にも種が落ちるということです。私たちの心にはさまざまなところがあるということです。そしてまた私たちはまったく変わらない者ではありません。教会の庭の石ころを取り除き、どくだみを抜き、場所によっては何度も何度も労力をかけ手入れして植物が植えられたように、私たちの内なる土地は神によって変えられるものです。最初は石だらけであったても、神が少しずつ石をとり耕してくださるのです。気がつくと、最初は少ししか実っていなかった実が、何十倍にも増えているのです。この何十倍という表現は大げさな言葉ではありません。神の業はそのように実るのです。そして、種まきのたとえからもう一つ示されていることは、実るためには、信仰が育っていくには時間がかかるということです。そして一見無駄と思えることもあるということです。それは私たちの信仰の歩みにおいてもそうですし、教会の伝道についても言えることです。自分ではしっかりやったつもりが寄り道したり、無駄だったと思えることをしたりします。しかし、神において無駄なことは一つもありません。また一方、すぐに自分の信仰が変わったり、今日、頑張って伝道をしたから来年には教会に爆発的に人が増えるということはあまりありません。むしろやってもやっても頭打ちに見えることの方が多いのです。しかし、神が教会を養ってくださるならば、それは必ず実を結ぶのです。それも三十倍にも六十倍にも百倍にも実を結ぶのです。2000年に渡る教会の歴史を見てもそうです。12人の弟子たちから、そしてペンテコステの日に洗礼を受けた三千人から、どれほど多くの実が実ったでしょう。1877年1月24日、シティオブペキン号から日本の地に降り立った米国人宣教師によってはじめられた宣教によって大阪西教会が立てられ、大阪東教会が立てられ、夙川教会が立てられ、森小路教会が立てられました。150年足らずの間にどれほどの実りがあったでしょうか。ここにいる私たち一人一人もまた、神の豊かな実りです。キリストの側にいる時、私たちには神の国の秘密が開かれ、そしてますます良い土地に変えていただきます。私たちは豊かにされていきます。そしてまた私たちからもさらに新しい実りが増え広がっていきます。 

 


マルコによる福音書第3章31~35節

2022-03-27 15:47:46 | マルコによる福音書

2022年3月20日大阪東教会主日礼拝説教「ほんとうの家族」吉浦玲子 

 教会に、かつてその教会にいた牧師の息子や娘、あるいは古くからいる信徒の子弟が牧師として赴任してくることは、なかなか難しいことです。牧師や信徒の子弟でなくても、自分の出身教会に牧師として献身してすぐに赴任するというのは難しい面があるようです。私自身はそのような教会を直接は体験していませんが、信徒時代、一時期在籍した教会の前任牧師が、その教会の昔の牧師の息子さんだったということはありました。私はその前任牧師を直接は知らないのですが、聞くところによると、昔の牧師の息子である前任牧師は、信徒さんから親しまれていたのですが、それは、小さいころから知っている親しさであって、牧師に対しての信頼とか尊敬というものとは違ったようです。信徒さんたちに悪気はなかったのですが、どうしても、御言葉を語り、教会を導いていく存在として、その前任牧師を見ることができなかったようです。あのかわいかった坊ちゃん、大きくなったあの少年というように、その面影で見ていたのです。結局、その前任牧師は比較的短期間で教会を去ったとお聞きしました。 

 聖書を読みますと、主イエスご自身が、身内の人、また地元の人から理解を得られなかったということが記されています。今日の聖書箇所もそうです。少し前の聖書箇所21節と合わせて読みますと、主イエスの母と兄弟は主イエスを取り押さえようとやってきたのです。ごく普通にガリラヤで大工として生活をしていた長男が突然新興宗教の教祖のようになってしまった、さらにあろうことか立派な権威ある学者たちと対立をしているともうわさがあり、さらには「気が変になった」とも聞き及び、驚いて、家に連れ帰ろうとしたのだと思われます。もちろん、そこには血縁の者としての愛情もあったと考えられます。気が変になっている長男を連れ帰って、元の生活に戻そう、そしてまた家族や親族が変な目で見られないようにという心配もあったでしょう。 

 母と兄弟たちは、「外に立ち」とあります。カファルナウムの主イエスがおられた家は、群衆が押し掛けていて、母や兄弟たちは中に入れなかったようです。いやむしろ家族たちは積極的に入ろうとはしなかったとも言えます。「人をやってイエスを呼ばせた」のです。気が変になったと言われる息子の話を聞いている人々もまた普通の状態ではないと主イエスの家族には思われたかもしれません。なので、その中に入ることに抵抗があったのかもしれません。外に呼び出して、変な集団から主イエスを切り離して、説得して、連れ帰ろうと思ったのでしょう。家族にとって、人々に話をしている主イエスの姿は、別人のようであり、遠い見知らぬ存在に見えたかもしれません。彼らは、自分たちが知っている長男イエスの姿を求めました。 

 そもそも「外に立ち」というときの「外に」というのはエクゾーという言葉です。一方、「気が変になっている」という言葉は「心が外に行っている」「理性から離れている」というエクゼステミーという言葉です。主イエスが気が変になっている、つまり心が外に行っていると思っている家族が「外に」立っている、つまり実際のところ、「心が外に行っている」のはどちらなんだ、むしろ主イエスの母や兄弟の方が「外に」いるのではないかということも暗に示されていると考えられます。 

 その家族に対して主イエスの態度は、冷たいともとれるものです。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と呼びに来た人に対して「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とおっしゃるのです。この言葉が外にいた家族たちに聞こえたのかどうかは分かりません。聞こえたかどうかは別にしても、この後に続く言葉と合わせましても、聞きようによっては、外にいる者たちは家族なんかじゃないよ、とおっしゃっているように聞こえます。主イエスはこの箇所だけでなく、ときどき、ご自身の家族に対して冷たいと感じるような言葉を語られることがあります。ヨハネによる福音書のカナの婚礼の場面では、「ぶどう酒がなくなりました」と知らせる母マリアに対して「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と答えておられます。息子の母に対する言葉としてはとても冷たい感じがします。主イエスだけではありません。弟子のヤコブとヨハネにしても、漁師だったふたりは、父ゼベダイと雇い人たちを舟に残して主イエスに従ったとあります。信仰者は、自分の家族を捨てて、神に従わないといけないのでしょうか。しかし、一方で旧約聖書の十戒には「父母を敬え」という戒めもあります。自分の父母を悲しませて、主イエスに従うことは良いことなのでしょうか。 

 もちろん、聖書において、この世の家族、親族のないがしろにしてよいということが語られているのではありません。信仰者たるもの、家族を捨てて神に従うのだというのではありません。家族より教会を大事にせよということでもありません。主イエスはおっしゃいます。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」主イエスが言われる「ここ」には主イエスの福音を聞きたい人もいたかもしれませんが、多くは主イエスに病気を治してもらいたいとか、悪霊を追い出してもらいたいという人々でした。「外に」立っている家族のみならず、家の中にいた人々も、主イエスがどなたかということは分かっていなかったのです。しかしなお、家の中にいる人々に対して主イエスは「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」とおっしゃるのです。 

 家の中にいた人々は主イエスのことは分かっていなかった、分かっていないということにおいて、家の外にいた母や兄弟たちとそれほど差があったわけではありません。しかし、「わたしの兄弟、姉妹、母」と言われた人々は、家の中にいたのです。主イエスの声が聞こえる周りに、近くにいたのです。よく主イエスという人のことを分かってはいなかったけれど、とにかくそばにいたのです。その人々を主イエスは「わたしの兄弟、姉妹、母」といってくださるのです。今、礼拝において、会堂の中に私たちはいます。あるいはネットを介してキリストの御言葉の近くにおられる方々がいます。そんな私たちに向かって主イエスは「わたしの兄弟、姉妹、母」だとおっしゃってくださるのです。私の家族とは、私の言葉を聞く者たちなのだと主イエスはおっしゃるのです。 

 教会は「神の家族」と言われます。家族なんだから仲良くしましょう、あるいは教会は皆が仲が良いから、支え合っているから家族なんだと思われるかもしれません。もちろん、教会は、皆が仲良く、祈り合い、支え合っていけたら良いとは思います。しかし、家族であるということは、血を分けた家族であっても、自分たちで選べないのが家族です。さきほど言いました十戒の中の「父母を敬え」という言葉は、儒教的な親を敬えという教えとは少し違ったニュアンスがあります。最近、親ガチャなどという言葉が言われますが、実際、親は選べませんし、親から見て子供も選べません。こんな兄弟はいやだと思ってもどうにもなりません。選べないということは神に与えられている関係ということです。教会が神の家族であるということは、神によって与えられた関係性なのだということです。同じ信仰を持っている、志を同じくした集団ということ以上に、神がその関係性を与えられたということです。思想信条を同じくする同志や仕事関係の組織であれば、選択の自由度に差はあっても、原則的には人間の側がその関係性を持つかどうかを選ぶことができます。しかし、家族という関係は、人間の側が選べないのです。神が与えられた関係なのです。世の中にはたしかに毒親といえるような親もいます。親だから絶対に従えということではなく、しかし神に与えられた関係として、それもこの世における最初の関係として尊重をするということが「父母を敬え」の意味です。 

 ですから「神の家族」としての教会という共同体も、神から与えられたというところが基本となります。もちろんまったく選択権がないかどうかといいますと、主イエスの側に来るかどうかという点においては人間側の意思が必要となります。その点において、家の外にいた母や兄弟たちは、主イエスのそばにいませんから、血を分けた家族ではありますが、主イエスからご覧になって神の家族とは言えません。 

 そしてまたここで注意しないといけないことがあります。主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃっています。「御心を行う」とはどういうことでしょうか。私たちはいま、主イエスの言葉を聞いています。聞くだけでなく「行い」なさいとおっしゃっているのです。では、私たちは、奉仕をしたり、隣人に親切にしたり、熱心に毎日祈ったりといったことを熱心に行ってはじめて、主イエスから家族と認められるのでしょうか。そうではありません。 

 今日の聖書箇所で主イエスの話を聞いていた人々は、12弟子を含めて、神の御心を行えなかった人々なのです。弟子たちの中には主イエスを銀貨30枚で売った者もいました。イエスなんて知らないと三回も否定した者もいました。十字架のときには弟子たち全員が主イエスを置いて逃げてしまったのです。弟子たち以外で主イエスの話を聞いている者たちの多くは、病気を癒していただいたら主イエスから去っていきました。ことによるとその中には主イエスが逮捕された時、「十字架につけろ」と叫んだ人すらいるかもしれません。 

 そのことを分かったうえで主イエスはなおおっしゃるのです。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。どうせあなたたちは御心は行えないだろうと意地悪でおっしゃっているのではありません。あなたたちは御心を行う人になっていくのだとおっしゃっているのです。今は、ただただ、自分の病を癒してほしいと思っているだけかもしれない。悩みを聞いて欲しいだけかもしれない。自分が理想とするイスラエルを建設したいと思っているだけかもしれない。そして、これから、いくたびも罪を犯し、神を悲しませ、隣人を苦しめ、自分自身も苦しむかもしれない。そんな一人一人を主イエスは「見回して言われた」のです。そこにいる一人一人を見回して、慈しんでおっしゃったのです。すでにあなたたちは私の家族である、と。 

 神の言葉は、発されたときに実現します。光あれとおっしゃったとき光があったように、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と主イエスがおっしゃったとき、そこに主イエスの兄弟、姉妹、母が起こるのです。そしてまた御心を行う人々が起こされるのです。いまは罪の底に沈んでいても、神の御心ができなくても、キリストの言葉を聞いている今このときから、あなたたちは御心を行うことができる人とされていくのだとおっしゃっているのです。いえ、神の御心の第一は、その言葉を聞くことです。ですから、今、主イエスの言葉を聞いている者はすでにみなキリストの家族とされているのです。そして主イエスの言葉を聞く者は変えられていくのです。神が変えてくださるのです。御言葉を聞き続けましょう。そして御言葉をますます行う者に変えられていきましょう。その時、教会もキリストの家族として成長していきます。私たちは一人で成長していくのではないのです。家族と共に成長をしていくのです。教会という神の家族の中で成長していきます。家族ですから、喧嘩もします。その喧嘩は、他人なら自制できることでも、つい言い過ぎたり余計傷つけ合うこともあるかもしれません。しかしその中で私たちは学んでいくのです。愛を学んでいきます。そんな私たちを見まわして主イエスは喜び慈しんでくださいます。 


マルコによる福音書第3章20~30

2022-03-13 14:08:10 | マルコによる福音書

2022年3月13日大阪東教会主日礼拝説教「赦されない罪」吉浦玲子 

 主イエスが家に戻られると、また群衆が集まって来たとあります。この家とはカファルナウムにある家で、おそらく1章29節に出て来たペトロのしゅうとめがいる家ではないかと考えられます。主イエスは、このカファルナウムから伝道を開始されました。そして主イエスはガリラヤ中を回り伝道をなさいました。宣教の合間にこのカファルナウムの家に戻ってこられ休養を取ろうとされたのでしょう。主イエスの宣教において、家に集まって来た群衆のような人々もいれば、けっして主イエスを受け入れない人々もいました。主イエスを受け入れない人々は、主イエスに対して、憎しみを持ち、殺意すら持つようになってきたことが、ここまでの福音書の流れの中に記されていました。人々の主イエスに対する思いはさまざまでありました。さらに今日の聖書箇所では、身内の者が主イエスを取り押さえに来たとも書かれています。この身内の者とは31節以下にある母と兄弟たちではないかと考えられます。つまり主イエスの身内だから主イエスの良き理解者であるとは限らなかったのです。理解はしていなかったですが、身内の人々は主イエスを心配してきたと考えらえます。「あの男は気が変になっている」という言葉を聞き、驚き、どうにかしないといけないと思ってきたのでしょう。 

 そもそも、聖書には主イエスの子供時代の話は描かれていません。赤ん坊のころ、あるいは幼子のころ、羊飼いたちがやってきたとか、占星術の博士たちがやってきたということは描かれていますが、主イエス自身が赤ん坊や幼子の時、特別なことをなさったとは描かれていません。外伝とか偽書といわれるものには、子供時代のイエス様がすごい業をなさったという不思議な物語が描かれていたりしますが、それらは極めて信ぴょう性の低いものです。唯一、ルカによる福音書に少年時代の主イエスがエルサレムの神殿で学者たちと対等に語り合われる場面が描かれています。だからといって、主イエスが特別な神童として成長されたとは福音書には描かれていません。あくまでも洗礼者ヨハネに洗礼をお受けになって、聖霊の力を注がれてその活動を開始されたところから描かれています。まさに神の国が近づいた、その時からのことが福音書には語られています。主イエスの誕生前から主イエスが特別な存在であることを聖霊によって知らされていた両親は、不思議なことがあるとそれを自分の胸に留めて見守っていたのです。しかし、主イエスは基本的にはナザレの村で、貧しい庶民としてごく普通に成長されました。主イエスは大工の仕事をしていたと言われます。特別な学問を修められたわけでもありません。それが、病を癒したり、悪霊を追い出したり、さらには皆が尊敬しているファリサイ派や律法学者と対立しているなどと知ったら、「気が変になっている」という言葉も真に受けてしまうと思います。ごく平凡に普通に生活していた家族がいきなり、新興宗教の教祖になってしまったようなものです。 

 しかし、ここで問題になるのは、主イエスの出自とか背景ではありません。主イエスが公の活動を始められてから、なさったこと、おっしゃっていることを聞いて、さまざまな受け取り方をする人がいるということです。人間の感じ方、考え方は多様です。同じことを見ても、同じ体験をしても、まったく違う思いや考えを持ちます。先週お読みした聖書箇所で12名の弟子が使徒として選ばれましたが、先週もお話ししましたように、その12名はまったく異なる人々でした。政治的にも右から左までいて、通常なら一緒にはいられない人々で互いに敵対しても不思議ではない人々でした。教会もまたそうです。一人一人の抱えている背景や考え方は違います。思想信条も違います。しかし、私たちはキリストにおいて一つとされています。しかし、そのキリストにおいてひとつとされているというとき、そのキリストとはどなたなのか?というところが重要になります。キリストとはどういうお方なのか?イエスという男は何ものなのか?ここの認識が異なっている時、一つにはなれないのです。 

 今日の聖書箇所において、主イエスが家におられると聞いて集まって来た群衆は主イエスをすごい人だと思っています。奇跡を為す人だと思っています。一方で、主イエスの身内は「気が変になった」と思っています。さらには、エルサレムから下って来た律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言ったとあります。ベルゼブルとは悪魔の頭であってサタンと同じように使われる言葉でもあります。エルサレムから下ってきたというのは、当時の最高権威者であるということです。その学者が、主イエスがたしかに悪霊を追い出していることは認めたのです。それは認めながら、その業は、神の力ではなくベルゼブル、悪霊の頭の力で行っていると言ったのです。皆が皆、主イエスに対して勝手な見方をしているのです。主イエスは人間の罪を贖うために十字架にかかるために人間となってこの世界に来られた救い主キリストであり、キリストとは十字架におかかりになって復活なさったお方なのです。医者でも社会福祉家でも、さらにいえば、一般的な意味での宗教家でもありませんでした。 

 エルサレムからきた学者が主イエスがベルゼブルに取りつかれていて、その力で悪霊を追い出していることに関して、ここで横浜指路教会の牧師が面白い譬えをされていました。悪霊の力で悪霊を追い出すとは、やくざの親分が、自分の組のチンピラが町の人に迷惑をかけているのに対して「堅気の人に迷惑をかけるな」と叱りつけているようなものだと。 

 一方、ご自分のことをベルゼブルに取りつかれているという人に対して、主イエスは面白い譬えを話して反論なさっています。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう」。家を襲う強盗が、強盗同士で争っていてはその家の略奪はできない、まずその家の一番強い人を縛り上げて略奪をするものだとおっしゃるのです。サタンがサタンを追い出しても、意味はない、人の家に侵入してきたサタンは人間の自由を奪ってその家のものを支配する者なのだ。さきほどの牧師のたとえ話で言えば、親分に叱られたチンピラは去ったとしても、親分がいるかぎり、みかじめ料を取られたり、やくざの支配は続いていて、そこには本当の平和はないのです。本当に人間を自由に平和にするためには親分を取り押さえなければだめなのです。サタンの力でサタンを追い出してもそこには本当のサタンからの解放はないのです。そして、主イエスはご自分を強盗の頭に例えておっしゃっています。その家を支配しようと思ったらまずその家の一番強い者を取り押さえるのだと。主イエスは悪しき者に支配されている人間を解放するために、人間を支配しているもっとも悪しき力を縛り上げるのだとおっしゃっているのです。 

 これは面白い話ではありますが、切実な話でもあります。ものの本質を見ないといけないということです。私たちは教会に来て、神から救いを得て罪の奴隷の立場から解放されました。そこには喜びとか平安があるべきです。しかし、往々にして、私たちはふたたび自分を不自由な方向に持っていく時があるのです。立派な信仰者になるために、こうあるべき、こんなことはしてはいけないという自己規制を課したりします。クリスチャンであることに息苦しい思いを持ったり、教会での人間関係に悩んだりします。そこには大事な本質が抜け落ちているのです。私たちはキリストをベルゼブルに取りつかれているなどとは言いませんが、本質から離れたところで、キリストを見ているのです。キリストは、私たちのために戦ってくださったのです。まさに悪しき霊に縛られていた私たちの家に入って来られ、罪を縛り上げてくださいました。キリストはすでに勝利をしてくださっているのです。 

 いま、ウクライナにおける悲惨な争いについてさまざまな情報が流れています。つい二週間前まではごく普通に生活をしていた人々が家を失い日常を失って、命の危険にさらされている、そのニュース映像には胸がふさがれる思いがします。しかしまた一方で、さまざまなフェイクニュースが流れ、憶測の情報が流れます。事実であることもフェイクだ捏造だと拡散されてしまっているところがあります。戦争という状況では、昔から、敵も味方もさまざまな情報を流し、自分に有利な方向へと導く情報戦がありました。しかしことにネット社会においてはそれが加速され混沌としています。何が真実で、何がフェイクなのかわからなくなるのです。まさに情報の網の目のなかに、ベルゼブルが跋扈しているような状態です。世界中で、あいつがベルゼブルだ、いやこいつがベルゼブルだと言いあっているような時代です。 

 しかし、主イエスはおっしゃるのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」これは怖い言葉です。私たちは主イエスを信じて罪を赦されたと思っています。しかし、赦されない罪があると主イエスはおっしゃるのです。聖霊を冒涜するとはどういうことでしょうか?主イエスの働きは聖霊の働きでありました。聖霊を冒涜するとは、主イエスの働きを汚れた霊の働きとみなすということです。 

 神が人間を愛し、御子を遣わし、人間の罪を赦し、慈しまれる、そのことを汚れた霊の仕業だとみなすということが聖霊を冒涜することです。神の愛を否定するということです。聖霊を冒涜するということは神の働きを否定し、救いを否定するということです。愛し、赦し、慈しんでくださるその神の働きをすべてを否定する時、たしかに人間は神の愛から離れ、赦しを受けず、慈しみから切り離されます。しかし、それは神が断罪されるということではないのです。ほとんどの罪は赦されるけど赦されない罪があるということではないのです。主イエスが戦ってくださり、勝利してくださったことを信じないということです。信じなければ、たしかにその人は救われないのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」主イエスの宣教の初めの言葉は、主イエスが聖霊の力で、私たちを縛る悪しき力に打ち勝ってくださることを信じなさいということでした。ただその一点に立つ時、私たちはベルゼブルが跋扈しているようなこの時代にあっても、守られます。キリストはすでに最も強い悪の頭に勝利されています。私たちはただこのお方だけを見上げて歩みます。それは現実逃避でも、無力なことでもありません。錯綜するさまざまな情報や、人々の思いを越えて、神の真理を知り、まことのただ一つ、私たちの武器をいただいて歩んでいくのです。  


マルコによる福音書第3章7~19節

2022-03-08 11:16:54 | マルコによる福音書

2022年3月6日大阪東教会主日礼拝説教「なぜ裏切者をそばに置くのか」吉浦玲子 

 「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」とあります。この前の聖書箇所では安息日の会堂で主イエスは手の萎えた人を癒され、そのことで、ファリサイ派を始め権力者たちから憎しみを買い、危険な状況になられました。「立ち去られた」という言葉は「退く」、「リタイアする」という意味があります。会堂で教えることができなくなって、退かれたのです。権力者からは憎まれましたが、一方で、主イエスのまわりにおびただしい数の人々が集まってきました。主イエスの出身地であり宣教を開始された場所であるイスラエル北部のガリラヤの人々のみならず、南部のエルサレムや、さらにはイスラエル外のフェニキアと言われているティルスやシドン、またヨルダン川の東側からも人々がやってきました。病を癒し、悪霊を追い出された主イエスの話を聞き知って、人々はわれもわれもとやってきました。自分や家族の病を癒してほしいと願ってきたのです。それはとても切実な願いでした。長年苦しんできた人々、医者からも匙を投げられた人々にとって、主イエスは唯一の希望、チャンスでした。人々は癒していただこうと、主イエスに触れようとしました。たくさんの人が押すな押すなの状況で、それぞれに必死の思いで、主イエスに迫って来たのです。 

 病気に限らず、何か人生の試練とか行き詰まりが契機となって神の方へ心が向くというのも、神の恵みです。今日の聖書箇所では、病気を治してもらいたい人々が主イエスのもとに殺到しましたが、主イエスはそれを拒まれませんでした。主イエスはもちろん神の国の到来、福音について宣教をしたいとお考えでした。スーパードクターやエクソシストして名をはせたいとは微塵も思っておられませんでした。が、病気を治してもらいたい一心の人々も受け入れられました。癒しの奇跡は、癒された人を神の方へと導くためのしるしとしてなされましたが、実際のところ、病気が癒されたら大部分の人は主イエスのもとを去っていくであろうということは主イエスもご存知の上でした。 

 病の癒しや悪霊を追い出すことは、一人一人の心の窓を神に向かって開くことでありました。私たちも一人一人、神によって窓を開かれた者です。そこからキリストの光が入ってきました。心地の良い聖霊の風が吹き渡りました。神に造られた人間で、神を必要としない人間は実際のところ、一人もいないのです。ですから、どのような理由であろうとも、神のそばに近づく人間を主イエスは受け入れてくださいます。私たちの最初の目的が何であろうとも、そしてまた私たちが立派な信仰者であろうと、怠惰な信仰者であろうと、主は「来なさい」と言ってくださる方です。 

 しかしまた、一方で、主イエスは「舟を用意してほしい」とおっしゃいました。これは主イエスが群衆に押しつぶされないためでありましたが、ここには主イエスの一つの姿勢も見えるのです。たとえばマルコによる福音書の4章にも舟に乗って主イエスが岸辺にいる群衆に語りかけられる場面があります。ここには主イエスと群衆の間に明確な距離があります。最初のところで申し上げましたように主イエスは病を癒してほしいと願う群衆を拒まれませんでしたが、彼らに伝えたかったのは福音でした。ですから、主イエスは、病を癒してほしいと主イエスに触れようとされる群衆と距離を置かれたのです。距離を置いて、御言葉を語られました。これは今日の教会においても同じです。教会に来る理由は何でもいいのです。何らかの求めがあって教会に来た人を教会は拒みません。しかしまた、教会は第一に御言葉を語るべきところなのです。様々な求めのある人を拒みませんが、その求めに応えることだけが教会の役割ではありません。教会は御言葉を語り、教会に来る人は御言葉を聞くのです。御言葉以外の求めに対しては、一定の対応をしたり、相談には乗っても、主イエスが舟に乗って距離を取られたように、距離を置くのです。これは教会にとってきわめて大事な姿勢です。教会は病院でもなければ、社会福祉施設でもありません。ましてや娯楽施設でもありません。一人一人の切実な願いに耳を傾けながら、必要であれば、病院や専門のところと連携をすることもあります。しかし何より御言葉を語るのが教会です。 

 さて、また一方で主イエスは、今日の聖書箇所で、12人の弟子たちを特別に使徒として選ばれました。この使徒と呼ばれる人々は、使徒言行録の時代においても教会の中心となる人々でした。これは、弟子のなかに階級があるということではありませんが、キリストに従うことにおいて濃淡があるということです。ちょっと話を聞いてみたいだけの、言ってみれば一見さんのような人もあれば、ペトロのように漁師であった職業を投げ打って従う者もありました。主イエスに積極的に従った者たちの中から、さらに使徒が選ばれました。使徒とは「遣わされる者」という意味です。「これと思う人」を呼び寄せたとあります。これは主イエスが特に目をかけていた、将来有望と思われた弟子たちだったのでしょうか。そうではありません。主イエスが使徒を任命されたのは「山」だと書かれています。湖のほとりからわざわざ山に登られたのです。山に登られたのは祈るためです。他の福音書には使徒を選ぶために主イエスは一晩祈られたと書かれているものもあります。主イエスは祈りのうちに12人を選ばれました。そこには彼らの資質とか能力といったことではなく、ただただ主の祈りの内の選びがあったのです。そしてまた、「任命し」という言葉には「造り出した」という意味があります。使徒たちは主イエスの祈りの中で、使徒として造り出されたのです。使徒にふさわしかったから使徒とされたのではなく、新しく使徒として主イエスによって造り出された人々でした。 

 そして使徒たちに主イエスは特別な権能を与えられました。使徒を選ばれる前、湖の場面で汚れた霊が主イエスが「神の子」であると叫びましたが、主イエスは自分のことを言いふらさないように戒められました。ご自分が神の子であることを伝える者は汚れた霊ではなく、ご自身が祈りのなかで造り出された使徒たちであると考えておられたからです。彼らが遣わされ、ご自身のことを伝えていくことを願っておられました。しかし、いきなり遣わすのではなく「そばに置」かれました。それは先ず主イエスの御言葉を聞き、主イエスのなさることを身て学ぶためです。 

 この使徒と言われた弟子たちが、特に十字架の前においては、はなはだ何もわかっていない人々であったことは福音書を読めばすぐにわかります。そして最終的には、皆、主イエスを置いて逃げてしまった人々でした。この使徒たちの顔ぶれは多彩でした。政治的なところでいうと熱心党のような武力をもってローマを打ち破ろうという右派もいれば、ローマに協力してる徴税人のような左派もいました。性格的に温厚な宗教者らしい人々ばかりというわけでもけっしてなくて、雷の子と主イエスに名付けられたヤコブとヨハネの兄弟もいました。実際、彼らは「ルカによる福音書」を見ると、主イエスを受けれ入れない村に対して「彼らを焼き滅ぼしましょうか」などと言って、主イエスから諫められているのです。あまり宗教者らしくない血気盛んな兄弟だったようです。 

 そして、その12人の中に、イスカリオテのユダもいたと記されています。これは不思議なところです。主イエスはなぜご自分を裏切る者をその12人の中に入れておられたのでしょうか。主イエスが間違って選ばれた、主イエスの見込み違いだったということではないでしょう。実際のところ、ユダが裏切ったゆえに、主イエスは逮捕され、十字架にかかられることになりました。十字架という救いの業の実現のために、イスカリオテのユダは裏切りという役目を果たしたとも言えます。しかしそのためにあらかじめ選ばれていたとするならば、それはユダにとって残酷なことであるとも言えます。一方で、十字架は神の業ですから、ユダがいようがいまいが、実現されたとも考えられます。その中で、なぜわざわざユダが選ばれたのでしょうか。 

 一方で、イスカリオテのユダすら選ばれた主を思う時、私たちは不思議な慰めも感じます。権力者たちは主イエスを殺そうとし、群衆は自分の願いが叶えられることを願いました。結局は誰も彼も自分中心の考えなのです。それが罪の姿です。もちろん人間の苦しみ痛みは切実ではあります。しかし、実際のところ、神に対して、人間は自分に従えと言っているのです。権力者のみならず、主イエスのもとに押し寄せていた群衆もやがて主イエスが自分たちの願いを聞いてくださらないことが分かったら、手のひらを返し十字架につけろと叫びます。イスカリオテのユダ以外の弟子たちも、結局のところ、十字架の時、逃げてしまいました。主イエスを取り巻く人間たちは皆、主イエスに対して、裏切者でした。 

 私たちを振り返る時、ファリサイ派のように教理を振り回して愛のない行為を行っていないと胸をはることができるでしょうか?群衆のように自分の願いばかりを要求して聞かれなければ、神なんて知らないとつぶやいたり、愛のない教会につまずきました、とうそぶかないでしょうか?実際に神の業の為される時、私たちはそれを心から喜ぶ者でしょうか?神の業が為されるということは、人間にとって、いつもいつも心地の良いことではないのです。それを越えて神を信頼し、従っていくことがキリストの弟子のあり方です。しかし、私たちの信仰はとても弱く、いつだって神を裏切り、主イエスを悲しませる者です。今日は教会総会が予定されていますが、私たちはキリストの体なる教会をも自分の好きにしたいのです。 

 しかしなお、そんな私たちに「来なさい」と主はおっしゃってくださるのです。私たちの弱さ、卑怯さ、身勝手さ、そのすべてを主イエスが十字架において担ってくださいました。十字架の上で私たちのために祈ってくださいました。その救いの業は成就しました。だから、今、私たちは弱い自分のままで、神を裏切る卑怯な者のままで、自分中心の愛のない者のままで、主イエスのそばに行くことができます。いえ、私たちが行くのではありません。主イエスが呼んでくださり、今も祈ってくださり、新しくキリストの弟子として造り出されていくのです。今日、私たちはキリストのそばに置かれ、キリストの弟子とされて、新しく愛をかかげて、この世へと遣わされていきます。