2022年3月27日大阪東教会主日礼拝説教「わが心は石にあらず」吉浦玲子
<神は大雑把?>
今日の聖書箇所は有名な「種を蒔く人」のたとえ話です。種は4種類の場所に蒔かれます。「道端」と「石ころだらけの場所」と「茨の生えたところ」と「良い土地」です。このたとえ話は当時のイスラエルの農業のあり方を良く知っている人々には非常にリアリティのあるものであったと思われます。当時の種まきは、かなり大雑把になされていたのです。適当に種をばらまくので道端に落ちる種もあったり、石や茨のなかに落ちる種も実際にあったのです。もっと効率的に土地を耕して畝を作ったりして種を蒔けばいいではないかと几帳面な日本人なら考えるところです。しかし当時、このたとえ話を聞いた人々は生き生きとそのイメージを思い描くことができたのです。
13節からの主イエスご自身による解説を読みますと、種は神のみ言葉であり、土地は私たちの心であると語られます。となりますと、じゃあ自分はどんな土地だろうか?と考えてしまいます。道端でサタンにすぐに種が奪われてしまうような土地だろうか、石だらけで根がはれなくてすぐ枯れてしまうような土地だうか、茨が茂っていて世の誘惑に負けてしまうような土地だろうか、と考えてしまいます。そして多くの人は、自分などは三十倍も六十倍も百倍も実を結ぶような良い土地ではない、ああ良い土地になれるようにがんばらなくては、と思うのです。
しかし、このたとえ話は、新共同訳聖書の見出しにもなっていますように、「種を蒔く人」のたとえ話なのです。ポイントは土地の側にはないのです。種を蒔くのは誰でしょうか?それは神ご自身です。主イエス・キリストです。神が豊かに蒔かれるのです。しかし、神は、言ってみれば、人間の感覚で言えば大雑把に蒔かれるのです。私自身がかなり大雑把な人間なのでそうであるなら、少しうれしいですけれども。神は、ここは良い土地だとか石ころだらけだと区別をして蒔かれるわけではないのです。昨年から、教会の庭を整備いただいていますが、労力をかけて苦労して耕し、種を蒔いてもうまくいかなかったことがあると聞いています。ひまわりは芽が出るとすぐに虫に食われますから、わざわざまず植木鉢に種を蒔いて芽が出てから庭に植えましたが、結局、あまりうまくいきませんでした。しかし、皮肉なことに、残っていた種を別の場所に無造作に蒔いたものは、とてつもなく育ちました。植えた土地によって、生育にずいぶん違いました。もちろん園芸の専門家であれば、ここの土地は良く育つとか、ここはダメだというのがあらかじめ分かるでしょう。神もまた、実際のところ、よくよくご存知なのです。ここに御言葉を蒔いても、根が育たず枯れてしまうことを。せっかく芽が出ても茨にふさがれて実を結べない、すぐにこの世の誘惑に負けて成長できなくなってしまうだろうということを。
にもかかわらず、惜しげもなく蒔かれるのが神なのです。それが「種を蒔く人」であり、私たちもまたみ言葉を蒔かれた者なのです。私たちが良い土地だから蒔かれたわけではない、むしろまったく耕されていない道端であったり、石がごろごろしていたり、茨が茂っていたりしていたのです。大阪東教会の庭にもしぶとくどくだみが茂っていました。どくだみは土地の栄養を奪い、他の植物が育てなくする性質のようです。あるいは空襲で焼け落ちた旧会堂の残骸が埋まって開墾がむずかしいところがあったと聞きました。土自体が黒く焼けてどうしようもないようなところもあったようです。しかし、どのような土地であろうとも、神は蒔かれるのです。非効率的と思われることを、愚かとも思えることを神はなさるのです。
<愚かな神の憐れみ>
神のなさること、そして、信仰の出来事というのは合理的なことではないのです。合理的に考えようとするとき、むしろ神のなさることは愚かに見えるのです。新約聖書には、愚かとも思える神の姿がたとえ話としてよく描かれています。道楽の限りを尽くして家の財産を失って帰ってきた息子を抱きしめる父親、天文学的な額の借金を帳消しにしてくれる王様等々。普通に考えますと道楽息子を無条件で赦す父親は子供を甘やかすダメな父親ですし、借金を帳消しにした王も統治者として疑問を持ってしまいます。実際、借金を帳消しにされた家来はまったく王に感謝もしていないのです。人間から見たら神は、実に愚かで馬鹿げた存在に見える時があるのです。人間から見て、立派な正しい人間を愛される神であれば理屈は通ります。ちゃんと石を取り除き、茨を取り除いて、耕して、さあ土地を整えましたという人間のところにだけ種を蒔く神の方が理解はしやすいのです。
ところで、いま、受難節の時を私たちは過ごしています。私たちはこの時、いっそう、神の憐れみに思いを巡らしたいと思います。神の憐れみとは何でしょうか?いろいろな言い方ができますが、一つの言い方として、どうしようもない人間と共に痛んでくださる、それが憐れみです。どうしようもない人間、神から離れている人間を糾弾したり、罰を与えるのではなく、罪ゆえに苦しむ人間と共にその苦しみを共に苦しんでくださる神、それが憐れみ深い神なのです。私たちの苦しみの根源にあるのは私たちの罪です。その罪ゆえに苦しんでいたとしても神は憐れんでくださるお方です。子供が小さなとき、子供が病気になって苦しんでいたら、親であれば、代わってあげたいと思うと思います。神は人間が自分の罪ゆえに苦しみの深みに入っていっても、それを自業自得だとおっしゃるのではなく、その苦しみを共に苦しんでくださるお方なのです。さらには十字架において、自ら代わりに痛みを担ってくださいました。それが神の憐れみです。
茨だろうか石ころだろうが、神は見捨てず豊かに蒔いてくださる、太っ腹な神は、同時に、私たちと共に苦しんでくださる神でもあります。ですから、私たちは少しずつ知っていくのです。石ころだろうが茨だろうが、太っ腹に種を蒔いてくださる神だから、私たちは好きに生きてよい、ずっと石ころだらけでいいとは思えなくなるのです。何でも赦してくださる神なのだから安心して罪を重ねてよいなどとは思えないのです。神の憐れみを知る時、私たちはそう思えなくなるのです。
<神の国のミステリー>
さて、今日の聖書箇所のたとえ話とその説き明かしの部分の間に、「たとえを用いて話す理由」と見出しがついた箇所が挟まれています。ここには不思議なことが書かれています。弟子たちにたとえについて聞かれた主イエスは「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」とおっしゃるのです。通常、たとえ話というと、話を分かりやすくするために語られます。しかし、主イエスの語られているたとえ話は「外の人々」に語られるものだとおっしゃるのです。先週の聖書箇所で、イエスの母マリアと兄弟たちが主イエスを連れ戻そうと家の外に立っていたことが描かれていました。それに対して、主イエスは家の中にいてご自身の言葉を聞いている人々こそが自分の家族なのだと語られました。つまり、主イエスのそばにいる人々、主イエスの話を聞いている人々は内側の人々であって、「外の人々」とは主イエスから離れている人々、主イエスの話を聞いていない人々をさします。
そもそも、「神の国の秘密」というものは、隠されているものなのです。秘密という言葉は、ギリシャ語でミュステーリオンで、英語のミステリーの語源となっています。謎であり、神秘でもあります。「神の国の秘密」というものはそもそも見て理解して納得するという種類のものではないのです。信じるものです。理性で理解し、納得できるものであれば信じる必要はありません。主イエスの最初の宣教の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。確かに神の国は近づきました。しかしいまそれをはっきりと肉眼で見ることはできません。いまはまだミュステーリオン、なぞで神秘なのです。その神秘を語ったものがたとえ話です。しかしそもそもが、現時点では隠されているものですから、たとえで語られても分からないのです。
しかし、内側にいる人々にはその秘密が打ち明けられている、と主イエスはおっしゃるのです。たとえ話でなぞかけのように語られるだけでなく、説き明かしがなされるのだとおっしゃるのです。逆に言えば「内側」に主イエスの側に来なければ分からないのだとおっしゃいます。戸口の外に立っていては分からないのです。そもそも神の国とは、神の支配されるところです。神の支配に従う者にはそこに入ることがゆるされていますが、神の支配に従うつもりない人々にはゆるされていません。神の国のことがすっかり分かって納得できたら神の国の支配に従い神の国に入りますというあり方は信仰のあり方ではありません。まず主イエスに近づくのです。そして神の言葉を聞くのです。
教会は受洗をけっして強要はしません。しかし、洗礼を受けることは、神の国の支配に従うということでもあります。神の国のことをすっかり分かったから洗礼を受けるわけではありません。むしろ逆で、主イエスの言葉を近くで聞き、主イエスに従おう、神の句の支配に従おうと決意したとき、さらに神の国の神秘が開かれていくのです。外にいてはけっして分からない神の国の神秘が少しずつ開かれるのです。キリストに聞き、そして従っていくとき、神の国は少しずつ私たちの内に開かれていきます。もちろんこの地上に生きる時、まだ終わりの日が来る前は、けっして完全な形で神の国を私たちは知ることはありません。大伝道者のパウロも「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」と語っています。しかし、外にいてはけっして分からない秘密を、キリストに従って生きる私たちはキリストから知らされるのです。
<とてつもない実りを期待しよう>
さて、種を蒔く人のたとえに戻れば、そもそもこの描かれている土地は、別々の土地ではありません。ひとつの畑を耕す時、良い土地もあれば、石ころのところもあり、茨もあるということです。畑からこぼれて脇の道端にも種が落ちるということです。私たちの心にはさまざまなところがあるということです。そしてまた私たちはまったく変わらない者ではありません。教会の庭の石ころを取り除き、どくだみを抜き、場所によっては何度も何度も労力をかけ手入れして植物が植えられたように、私たちの内なる土地は神によって変えられるものです。最初は石だらけであったても、神が少しずつ石をとり耕してくださるのです。気がつくと、最初は少ししか実っていなかった実が、何十倍にも増えているのです。この何十倍という表現は大げさな言葉ではありません。神の業はそのように実るのです。そして、種まきのたとえからもう一つ示されていることは、実るためには、信仰が育っていくには時間がかかるということです。そして一見無駄と思えることもあるということです。それは私たちの信仰の歩みにおいてもそうですし、教会の伝道についても言えることです。自分ではしっかりやったつもりが寄り道したり、無駄だったと思えることをしたりします。しかし、神において無駄なことは一つもありません。また一方、すぐに自分の信仰が変わったり、今日、頑張って伝道をしたから来年には教会に爆発的に人が増えるということはあまりありません。むしろやってもやっても頭打ちに見えることの方が多いのです。しかし、神が教会を養ってくださるならば、それは必ず実を結ぶのです。それも三十倍にも六十倍にも百倍にも実を結ぶのです。2000年に渡る教会の歴史を見てもそうです。12人の弟子たちから、そしてペンテコステの日に洗礼を受けた三千人から、どれほど多くの実が実ったでしょう。1877年1月24日、シティオブペキン号から日本の地に降り立った米国人宣教師によってはじめられた宣教によって大阪西教会が立てられ、大阪東教会が立てられ、夙川教会が立てられ、森小路教会が立てられました。150年足らずの間にどれほどの実りがあったでしょうか。ここにいる私たち一人一人もまた、神の豊かな実りです。キリストの側にいる時、私たちには神の国の秘密が開かれ、そしてますます良い土地に変えていただきます。私たちは豊かにされていきます。そしてまた私たちからもさらに新しい実りが増え広がっていきます。